臓器移植問題の本質は何か
1999.7.1
萬遜樹 E-mail:mansonge@geocities.co.jp
「あなたはもうドナー登録しましたか」、これは一種の強迫ではないか。
テレビや新聞などの論調を見ると、臓器移植は善いことらしい。ドナー登録自体については、しろともするなとも言っていない、言わば保留状態だが、重い心臓病の幼い子どもが日本では移植ができなくて、アメリカに渡り手術を受けた経過であるとか、最近では肺移植の成功とかを、盛んに報道しているところを見るとそうとしか思えない。
ドナー登録者、つまり臓器提供者の不足が、このような患者たちに苦難を強いているのだ。人でなしでないのなら、死んだあとくらい世の中の役に立ったらどうだ、と言わんばかりである。ここには、後で述べるが、すり替えがあるような気がしてならない。
確かに、移植しか生存の道がない人たちにとっては文字どおり死活問題で、その姿には大きく胸を打たれ、心を痛め揺さぶられざるを得ない。しかし、臓器移植は本当に善いことなのだろうか。言うまでもなく、これはたいへん大きな問題である。筆者ごときがもの申すことではないかも知れないが、今回はあえて深い「井戸」にもぐってみたい。
移植問題には、2つのハードルがあると思う。1つは「脳死」、もう1つが「人は死すべきではない」という考え方だ。ともに死に関わることで、逆光のように「では、生とは何か」ということを照らし出す。そこに関連して、安楽死の問題もあるのだと思う。
さて、脳死についてであるが、近頃まで人の死は心臓死しかなかった。いわゆる「脳死」の状態は人工呼吸器の登場とともに生まれた。ふつうなら、脳の死は呼吸機能を停止させ、それによって心臓が酸素不足で動かなくなり心臓も停止する。ところが人工呼吸器は酸素を心臓に送り込み、「脳は死んでいるが心臓が動いている状態」を作り出したのだ。
しかしそれはあくまである状態のことであって、これが人の死であるかどうかはわからない。「脳死」という死は、生体間臓器移植のために要請され作られたものである。脳死は「人が決める(法的な)死」だ。誰かが生き延びるために、この人は死んだことにしよう、という死だ。
合わせて、いわゆる植物状態の生についても一言しておく。植物状態とは脳死ではなく、自分で呼吸しているが意識がない状態だ。このようにただ生きている人は死人か。当然、生きているから死人ではないのだ。しかしこの人を生きていると言えるのだろうか。言わば、生きていることにしている生だ。
このように人が決める「生と死」は時代とともに変わり得るのだが、テクノロジーの進展が、人は何が何でも生き延びるべきだという考え方を支え、蔓延させている。果たしてこれは、私たちにとって本当に幸福なことなのだろうか。
何としても人は生きるべきなのか、生の意味とは何か。私は神や運命を信じるわけではないが、人は生きるべくして生き、死ぬべくして死ぬのだと思う。生の長短に人の価値があるわけではない。
臓器移植を含めた、いまの延命術は中途半端なものである。テクノロジーが現代ほど進んでいないときには放置されていたものが、現在では大金と引き換えに少しばかりの生存が与えられる。この調子でいけばこの先どうなるのだろうか。人は死ねなくなるのではないだろうかと、私なんかは想像してしまう。
人は死ぬべきではないか。もちろん、自殺や早世を勧めているわけではない。しかし、死ぬべきときには死んでもよいのではないだろうか。もしそうでないのなら、天寿を全うする老衰死以外はかならずや誰かの罪となるだろう。医師や医療技術、あるいは家族たちの誠意や金の不足、臓器提供者の不在など、だれかを「殺人犯」とすることになる。
冒頭に、ドナー登録を一種の「強迫」と言ったが、思うに臓器移植問題の本質は臓器「提供」の問題ではないからだ。移植される側すなわち生き延びる側の倫理問題が、「提供」する側の「脳死」という「倫理」問題にすり替えられようとして私ち一人一人、本当はこの2つの問題を同時的に抱えている。すなわち、一方では臓器移植を受けて生き延びる側であるし、他方で脳死して生きている臓器を提供する側でもある。
ある人が自らの生を脳死の時点までと生前に定めて、誰かに臓器を提供すること自体は、聖徳太子が飢える虎に自らの生命と肉体を与えた話にたとえて、梅原猛氏がそれを「菩薩行」と呼んでいるように、たいへんな善行であることに間違いはない。
しかし問題は、誰かの生ける臓器をもらい生き延びる側としての私たちである。この飢えた虎のように、私たちはどうしても生き長らえねばならないのだろうか、ということだ。これは、与える死の問題ではなく、もらう生の倫理問題なのである。
家族は、もちろんその病人を何としても生き延ばせたいだろう。ここでドナー登録を引き合いに出そう。自分の臓器を提供するかどうかを決められるのは、決して家族ではなく本人だけであろう。であれば、同様に生き延びるかどうかを決められるのも本人だけだ。 自分が生き延びるかどうかは、家族の誠意や金銭の問題とするのではなく、本人の倫理問題として位置づけるべきだ。
そこで最後に提案をしておきたい。臓器提供(=脳死受諾)の可否とともに、臓器移植を含めた延命治療(意識のない生も含む)の可否の事前申告をしておくことを。
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