人間の特権化を進める「こころの教育」の不自然さ
1999.8.17
萬 遜樹

ご承知のとおり、昨今は「こころの教育」の必要性がさかんに説かれている。確かにそう言いたくなるご時世ではある。子どもたちの「こころ」が荒れている。いじめ、不登校、自殺、暴力傷害、殺人、援助交際、等々。しかし「こころの教育」とは、どれほどの射程をもつものであろうか。私には、はなはだバランスを欠いた不自然なもののように思える。

 「こころの教育」を説く背景には、人間は「こころ」であるという哲学がある。「こころ」と書けば、なんだか東洋的日本的な感じがする。しかし「こころ」を「精神」と書き直してみればわかるのだが、それは西欧近代哲学の祖デカルトの言葉そのままなのである。いわく、人間は精神である。そしてそれは人間を自然の中で特権化する思想でもある。

 話は飛躍するようだが、生体間臓器移植もこのデカルト哲学の上でこそ可能となる。なぜなら、人間が精神であれば、身体はその人そのものではないのだから。つまり、身体はモノになる。モノとは「こころ」を持たない道具である。道具とは必要に応じて使い、必要がなくなれば捨てるようなもののことだ。

 日本の伝統にしたがえば、人は「霊」である。霊は「こころ」と同じだと思いがちだ。しかし私たちの感性をよく見つめれば、そうではないことがわかる。霊は第一に身体のそばにある。たとえば、火葬され骨になった「身体」が埋まる墓地にこそ幽霊は出現する。また、その人の身体の一部、たとえば髪の毛一本にもその人の霊がこもり、その人を知る人にとってはそれはその人そのものである。形見とは本来、亡き人のそうした「身体」の一部であろう。

 人とは何か。心身である。不可分の心身である。こころでもからだでもない。記憶や意識こそその人であるのと同程度に、身体の大きさや重さ、それからその生涯の間に刻まれた傷もその人そのものである。場合によっては、身体的な差異やいまも残る傷跡こそ最終的な「個性」だと私なぞは思う。再び幽霊の例を引けば、幽霊は「身体」を持ち、しかもその姿は死の直前のものである。

 戦後を含めて近代日本思想史の一つのテーマは、西欧近代の心身二元論の克服であった。そのことから言えば、心身二元論を前提とする生体間臓器移植の受容は日本の「思想」の敗北を意味する。マルクス主義者の「沈黙」が語られて久しいが、同様に「近代克服論者」も沈黙したままだ。

 ことはついでだ。死刑廃止論にも鉄槌を振り下ろそう。もう言わずもがなであろう。これまた、人間は精神である、という人間論に立脚する。モノである「からだ」には罪はないのである。肉体を殺さず、「こころ」を牢獄につなぐことが終身刑論者の主張だ。刑罰はそもそも、ムチ打ちのように身体に下されるべきものであった。その極みが死刑であった。しかしいつの間にかそれは精神に対しての刑罰に取ってかわられた。「精神」を閉じ込めることが刑罰なのだ。これまた「こころ」の再教育である。

 しかし「こころ」とはそんなに信用がおけるものであろうか。少なくとも私はそうは思わない。幼いころ以来の身体の傷こそが私の「罪と罰」である。身体の「記憶」ほど正直で明白なものはない。それに比べて「こころ」の方はどうだ。昨日の反省も翌日にはたいてい反古であろう。「まあいいか」で、影も形も残らない。

 生命とは精神なのか身体なのか。これは人間だけに許された問いである。動物保護や環境保全等、生態系の維持への議論がさかんだが、そこでは「精神」なぞ問題にならない。もっぱら「身体」的側面だけが問題である。そして自然に人間の手を加えないようにしよう、というのが基本主張である。自然は生まれるべくして生まれ、死ぬべくして死んでいくのが善しとされる。その自然の一部である人間だけが、死ぬべくして死ねない生命なのである。

 現代の人間の死の大半は、不自然死である。病院で手術や投薬などの加療、延命治療されたあげくの死である。なぜ人間だけが自然な死を迎えられないのか。それは人間は「こころ」であるという偏った思想(あるいは「宗教」)のせいである。

 身体はモノではない。「自分」が隅々まで満ちたものである。だからこそ、たとえ手足の末端でも傷つければ「自分」が痛いのである。日本人は実は、モノにも「こころ」と「からだ」を認めてきた。モノにも人間同様の「霊」があると信じてきた。これが供養の発想である。そうした全体感、「こころ」と「からだ」はばらばらのものではなく一つのものであること、また人もモノも大きな自然の一部であること、そういう「思想」を取り戻すことこそが「こころの教育」として位置づけられるべきではないか。

 つまり「こころの教育」とは同時に「からだの教育」でもあるはずだ。そして「社会」を越えた「自然」の中に、人間存在を大きく位置づけ直すことであるはずだ。それは「霊」をもつモノと共通な自然としての「からだ」の中に「こころ」をもったものが人間に他ならないことを知ることである。

 私は「こころの教育」の偏りを正したいだけである。「こころ」さえ教育すればよいという考え方は、「こころ」があたかもそれだけで取り出せるモノとして扱うことになり、ついには人間の不自然な生き方を助長することになることを指摘したいまでである。


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