「助っ人」のニッポン神学
1999.10.11
萬 遜樹
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今年のプロ野球においては、阪神タイガースが好調である。組織にとって指導者というものがいかに重要であるかを実証する好例と言えよう。しかし今回の話はあいにく監督のそれではない。「助っ人」と呼ばれる外国人選手の話である。と言ってもジョンソンやブロワーズ選手がどうこうと言うことでもない。そうではなく、「助っ人」という発想や思考の日本性、さらにその神学性を問うてみたいのである。
「助っ人」とは何か。簡単に言えば、どこからともなく(実はたいてい米国大リーグから)やって来て、チームの苦難を救い、いつの間にか去って行く、あたかもウルトラマンのような存在である。事実、「助っ人」論をウルトラマン論として論じることもできる(ウルトラマンは、ニッポンの現代的段階の神である)。それにしても、「助っ人」とは何か。「訪れる神」か。
いや、そうではない。「招かれた神」である。その「助っ人」の本拠は当地以外の別の所(野球の場合はたいてい米国)にある。にもかかからわず、一時助けてくれるのである。招きに応じて、はるか彼方からやって来るのである。これを日本では何と言うか。「勧請」(かんじょう)と言う。日本では、神々は求めに応じて瞬時にどこにでも現れる。
日本人は、昔から「ガイジン」神を「助っ人」神として使ってきた。八幡神なぞは典型である。その出自は朝鮮だという噂がもっぱらだし、その後も「八幡大菩薩」神と言われたように、その名からして「ガイジン」性をよく表現している。
勧請自体についてもう少し述べれば、これは神の「細胞分裂」である。それによって本体も分裂体も、その本性や威力は少しも劣化しない。今風に言えば、無限分割可能なデジタル・コピーである。たいしたものである。古代的思考と言って差し支えないが、驚嘆すべき思考ではないか。
先の八幡神の本拠は大分の宇佐であるが、まず奈良の東大寺境内に勧請され、手向山八幡宮となる。次に京都に勧請され岩清水八幡宮となり、さらにそれが鎌倉に勧請され、鶴岡八幡宮に「分裂」した。この神を「助っ人」として求める声は鳴り止まず、結果、全国津々浦々に八幡社はある。稲荷社や天神社などもそうして全国に勧請されたのである(神社境内の片隅にある小さな末社は「助っ人」神である。そう考えると、神社とは神々の「チーム」であることがわかる)。
日本の仏教も「ニッポン神学」(ニッポン教、ニッポン的思考)のうちにある。仏教でも「勧請」は盛んである。いや、仏教においてこそ勧請は欠かせない手法となっている。「助っ人」なくしては、多くの仏教行事は成り立たない。野球における「助っ人」に近いのは、むしろ仏教における勧請の方かも知れない。
例えば、「お水取り」で名高い東大寺二月堂における修二会では、法会の結界を守る四天王の勧請に始まり、日本全国の神々が法会の際にだけ一時勧請される。そして法会の終わりとともに、それぞれの本拠に立ち帰ってゆく。まさに「助っ人」的勧請である(阪神タイガースの野村監督にこんな業が使えれば、優勝間違いなしであろう)。以上のように「勧請」には、一時勧請と分割勧請がある。
この無限分割も可能な「勧請」と言う思考は、日本的多神教の圏内にある。一神教にはない発想である。例えば、ユダヤ教の神は絶対に分割できない。それは冒涜であろう。同じ多神教でも、ギリシャ・ローマ神話、インド神話(ヒンドゥー教)、道教とも違う。それらに分社という発想はない。
日本の神には「姿」がない(それは「個性」がないことでもある。ひげなどをたくわえた個性豊かなギリシャの神々を想像されよ)。神像の存在はむしろ、まれである。「偶像」がないのは面白いことに、異端的多神教であるニッポン教と一神教だけである。日本の神はあたかも目に見えぬ「幽霊」のような存在である。だからこそ、瞬間移動と無限分割が可能なのである。
紀記に、神が「隠れた」という記述が多く登場する。これは他界や異界に遠ざかったとも解釈できるが、「現れる」ことを止めて「幽霊」(精霊、霊)に戻ったとも理解できる。つまり、自然に溶け込んだということだ。日本の神の常態は、自然に溶け込んでいるカミ、と考えたらどうだろうか。「木霊」(こだま)というような表現などは、そんなことを示しているように思う。
さて、驚くことに日本の神は、社(やしろ)以外の地にも分割することができる。私たちは神を持ち歩くことさえできるのだ。それがお札であり、お守りという「助っ人」神である。「神は遍在する」、しかしこの言葉の意味は一つの神が世界に満ち満ちているということだ。日本の神はそうではなく、世界に「多在する」のだ。
そしてわがニッポン教徒は節操のないことに、役に立たない「助っ人」神を見限り、より強力だと評判の次なる「助っ人」神のお札やお守りを手に入れるのである。
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