『リング』とケガレ意識---日本の潜在文化としてのケガレ   
1999.10.11
萬 遜樹

いとうせいこう氏の『ノーライフキング』という小説をご存知だろうか。1988年に出版された小説である(その後、映画化もされた)。「ライフキング-4」というテレビゲームが呪われているという噂が子どもたちの間を駆け抜ける。呪われたソフトの名は「ノーライフキング」、すなわち「死の王」だ。ゲームを最後までクリアできなければ、死んでしまうというのだ。

 このようなものが「都市伝説」という呪われたうわさ話だ。横町のあのハンバーガー・ショップはうまくて安いが実はネコ肉を使っているとか、『ドラエモン』の最終回でノビ太が死に世界も終わるとかいうのもこれだ。映画でヒットした「学校の怪談」もこの延長線上にある。

 呪いは現代に満ち満ちている。鈴木光司氏の小説『リング』は皆さんもご存知であろう。映画化、そしてテレビ化された現代ホラーだ。ただし、呪われているのはテレビゲームではなく、ビデオテープだ。それに、趣向が少し違う。

 『ノーライフキング』の場合はソフトを買った人が呪われたが、『リング』では呪われたビデオテープを見た人に死の呪いが感染する。しかも誰かにそのビデオをダビングして一週間以内に見せれば、死の呪いは見せられた人に伝染し、見せた人の呪いは解けるのだ。これは子どもの「遊び」の「エンガチョ」や「幸福(不幸)の手紙」と同じ構造である。

 「エンガチョ」というのは、犬の糞などを踏んだ子どもが「エンガチョ」という「オニ」になり、その子が誰かにタッチすると「エンガチョ」が移るという、ケガレを回し合う「民俗」だ。「エンガチョ」から身を守るためには「エンガチョ切った」とか「カギしめた」とか言って、指でカギを作る。「幸福の手紙」の説明は無用だろうが、これも呪いを回し合っていると言える。

 日本にはケガレの伝統がある。ケガレはたとえば身内の死によって家族に感染する。この場合、死者がケガレの本源である。その家に弔問に訪れた人々にもケガレは感染する。さらにこれらの一次感染者に接触した人々にケガレは伝染する。現代の私たちが犯罪者ばかりではなく、その縁者をすら遠ざけようとする心理がこれである。ケガレの意識は現代にも立派に生き続けている。

 ケガレはいかにして感染し伝染するのか。今の例からもわかるように、接触したらもちろんだが、空気感染もする。さらに共有「コード」(記号)をもつ人々、つまり死者や犯罪者の縁者などのグループ(たとえば「親戚」「学校」「会社」)内にも自動的に感染は拡がる。この感染・伝染のしかたは超能力や幽霊の現れ方のように時間と場所を越えた不思議なものだ。

(前に書いたが、高校野球で野球部ではない生徒が一事件を起こしただけでも、その学校が甲子園出場を辞退するのは、学校中に拡がったケガレを神聖なる甲子園に持ち込まないためだ。)

 『リング』の死の呪いはほとんどケガレである。その呪いは「感染」し「伝染」するのだが、この表現は言うまでもなく病気、特にウイルス性のものに使われる。現代の病気で言うと、不治とされるエイズ・ウイルスの恐怖と似ている。しかしここには倒錯がある。ウイルスに対する恐怖があって、呪いやケガレに対する恐怖があるわけではない。先に呪いやケガレに対する恐怖があって、現代においてウイルスに対する恐怖として現れているのだ。

 実際、ケガレはウイルス性でない。たとえば、ケガレはあるまじないによって避けることができる。霊柩車が通るとき、親指を隠した記憶はないだろうか。この場合、霊柩車がケガレの本源である。親指を隠すことで、「エンガチョ」を切っている(ケガレを封じている)のだ。本物のウイルスにまじないは通じないだろう。

 また、ケガレの感染のしかたで述べたように、ケガレはあるグループに「コード」感染する。誤解されたエイズ情報に「エイズはホモセクシャルの病気だ」というのがあったが、これはまさに「コード」(ホモというグループ)感染であること、つまり非(未)感染者にとっての「エイズ」とは「病気」ではなく「ケガレ」としてあることを証明している。ウイルスは「コード」感染なぞしない。

 ケガレとはやはり「ウイルス」ではなく、ある「モード=意味づけ」である。現代でも日本人にはそういうモードが生きている。だからこそ、『リング』はヒットした。『リング』とは、エイズ・ウイルスをケガレと誤解する日本人にとって「ケガレ・ウイルス」の物語、あるいはその「都市伝説」だったのだ。

 おしまいに、話が少しずれるかも知れないが、ケガレの感染の不思議さに関連して、幽霊の不思議さについて触れておきたい。幽霊はどうして文明の利器を自由自在に使いこなせるのだろうか。たとえば、心霊写真すなわち写真に撮られる幽霊がいる。それに、電話をかける幽霊もいる。電話がない時代には、幽霊たちはどうしていたのだろう。たぶん、出るべき人の前に直接現れていたのだろう。それからもうすでに現れているのかも知れないが、コンピュータ上にも幽霊たちは必ずや出現するであろう。

 素直に考えて、見知らぬ幽霊が自分の前に現れて喜ぶ人はまずいない。すなわち、幽霊の出現も、呪いあるいはケガレである。してみると、呪いやケガレは時代と文明とともに、絶えずアップ・ツゥ・デート(更新、「進化」)するのだ。だからこそ、現代の呪いは「ウイルス」のように立ち現れ、ビデオテープにも宿り、ダビングして伝染することが可能なのだ。これは、呪いやケガレが人間ともに永遠に生き続けることを示している。

 はじめの方で子どもたちの「都市伝説」について触れた。子どもたちは「大人の社会ルール」から逸脱して、いや正しくはそのルールを知らないからこそ「都市伝説」を言わば「本能的」に産み出すのだ。彼ら彼女たちこそ、予期に反してケガレが生きる日本の伝統社会を生きている。大人になるとは、それを潜在意識下に押し込めることであったのだ。

 しかしながら『リング』への世代を越えたある程度の支持は、実は私たち日本人が意識の底辺に常に「ケガレ」の意識を抱えていることを示してはいないだろうか。また、エイズ騒動をはじめ、殺人事件での縁者への蔑視、葬式での清め塩、不幸続きの場合のお祓いなど、「非日常」の際においてのケガレ意識はいくらでもある。いくら潜在意識下に押し込めていても、ケガレ意識はいつ何どき噴出し爆発するかわからないのである。


[主な典拠文献]

いとうせいこう『ノーライフキング』新潮文庫
宮田登「現代都市の怪異」(常光撤編『妖怪変化』ちくま新書に所収)

[参考:バックナンバーから]

■「清め塩」と人間文化の成立
■日本における「ケガレ」という差別(「吉外井戸のある村」に所収)
■現代日本における呪術とその意味

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