エヴァンゲリオン・生命の海・祖霊   
1999.10.13
萬 遜樹

 一大ブームを巻き起こした『エヴァンゲリオン』を知らない人はいないだろう。今日はこの『エヴァンゲリオン』の「サード・インパクト」をもとに、東洋的あるいは大乗仏教的な「生命の海」を、さらに日本の「祖霊」あたりを語ってみたい。

 もとより『エヴァンゲリオン』は西欧思想をベースにした物語である。それはあたかも近代西欧哲学のアポリア(二律背反=矛盾)の思想劇とでも言えそうなものであり、その「救い」(=「人類補完計画」)をユダヤ-キリスト教の神秘主義に求めるような代物である。

 このような、一見したところ、東洋や日本とは最も縁遠いと思われるアニメーションが、外ならぬこの日本で制作され、しかもたいへんなブームを巻き起こした。一体全体なぜなのか。それは『エヴァンゲリオン』が映像化された物語の表層とは違い、その深層においては現代日本人の心を語る物語であったからだ。

 まず、『エヴァンゲリオン』自体について少し説明せねばなるまい。『エヴァンゲリオン』(ちなみに「エヴァンゲル」とはキリスト教の「福音」や「福音書」のこと)は、西欧人の文脈における人間の運命の物語である。すなわち、ここには人間の誕生から滅亡(すなわち「終末」だ)までが描かれている。

 「ファースト・インパクト」と呼ばれるが、40億年前に生命体の飛来があり、それが人間を生む。人間は聖書およびに諸歴史書に残されたような歴史を歩み、西暦2000年9月13日(翌年である! ちなみにこの日は金曜ではなく水曜日)に「セカンド・インパクト」を迎える。「セカンド・インパクト」とは、秘密結社ゼーレが来るべき「サード・インパクト」に向けて引き起こした大爆発(同時に大災害)である。そして2015年、ついに「サード・インパクト」=「人類補完計画」が発動される。

 物語では、もう一つの人類である「使徒」と、「エヴァ」との戦いが大きく描き込まれている。「エヴァ」は機械のようで機械ではない。特殊な生命体なのである。「エヴァ」には選ばれた14歳(でなければならない!)の少年少女たちが乗り込む(神戸で例の14歳の少年事件が起こっているが、これは不思議な「シンクロ」だ)。少年少女たちは、言わば「心」として「エヴァ」に搭乗し、「エヴァ」という「体」と「シンクロ」(同期・同調)すること(周波数が一致すること)によって「エヴァ」を「操縦」する。

 正太郎少年がリモコン操縦する鉄人28号とも、ハヤタ隊員が「変身」(受肉)するウルトラマンとも違う。錠シンジ(主人公)たちと「エヴァ」との関係は、「心」と「体」に引き裂かれた現代日本人そのものだ。結局のところ、私たち日本人は西欧流の心身二元論を受け入れることができていないのだ。

 「心」の方が問題であるかのように見える。しかし「エヴァ」という「体」を得た錠シンジたちの活躍ぶりはどうだ。思えば、ウルトラマンにしろ仮面ライダーにせよ、これらは新しい「体」を得る物語ではないのか。そう、私たち日本人は実は「体」を求め続けてきたのだ。「心」、正確には「脳」が肥大化した時代こそ現代である。それに見合う「体」がない。

 さて、「サード・インパクト」すなわち「人類補完計画」である(「セカンド・インパクト」については、正直なところよくわからない)。「人類補完計画」とは、「ATフィールド」と呼ばれる「自我の殻」を壊して、人間の「心」を一つに融合してしてしまおうというものだ。これは「生命の海」だ。実に東洋的なあるいは大乗仏教的な発想ではないか。

 前に「ユダヤ-キリスト教の神秘主義」と書いた。これは流出説と呼ばれるもので、神と人間との同質性や親密性を説く考えである。正統のユダヤ-キリスト教のような、神と人間との間の断絶(人間は神に作られた一存在にすぎない)がない。神と血がつながった子孫が人間というような考えである(万人が「キリスト」)。この流出説では、人間は死んで神という大生命体と融合する。

 『エヴァンゲリオン』は、心と体の相克を語り、そして「個人」はあり得るのかと問う。「人類補完計画」とは、「個人」はあり得ないと考えて「個人」を解消する「自我抹消」プロジェクトである。「補完」という言葉づかいには、人間個人個人を「苦しみ」から救うというニュアンスが隠れている(自我抹消を「無我」とすると、これは仏教の涅槃すなわちニルヴァーナである)。

 日本で作られた『エヴァンゲリオン』は、西欧思想の形をとりながら、知らず識らずのうちに日本を語り出す。そしてそれ以上に観客は日本人として解釈し熱狂する。それが『エヴァンゲリオン』現象である。私たちは、夙に自分たちの言葉を失っており、西欧語(概念)を使って、日本人である自分を語らねばならないのだ(もちろん、このこと自体が現代日本人の自分でもわけのわからないストレスとなっている)。

 仏教の「生命の海」は、輪廻転生の旅を続ける永遠の生命の流れである。生命はその「海」から個体として現世に生まれ、生き、死んでいき、再び「海」に戻る。個体は子孫を残すために生まれ、その役割を終え、この現世から去る「橋」(媒介)である。いつまでもどこまでも次々に延びていく「橋」が生命の大河である。これは、あくまでも「個」(個体、個人)の物語である。

 しかしこの「生命の海」は、悲しいことに日本人にとっては「絶望の海」となる。日本人にとっての「生命の海」は、「あの世」と言ってよい。そこは「この世」に生まれる前にいた世界、そして死んで戻る世界である。日本では、死者をふくめての「家族」が往還する世界が「この世」であり「あの世」である。名前を失った先祖は「祖霊」となる。祖霊とは名前を失った先祖霊の集合体である。

 「個人」では生きて来なかった日本人は、「家族」を失い、肥大した心に見合う体を見つけられずに、自我を「絶望の海」に投じて自棄的な安楽を得ようとする。これこそが「人類補完計画」が現代日本で描かれなければならない理由である。ここには現代日本人の「全体」に溶け込んでしまいたいという密やかな「願い」が表れている。『エヴァンゲリオン』に熱狂した若者たちは、正真正銘、日本人であったわけだ。

 なお、物語ではこの「人類補完計画」は挫折する。主人公・錠シンジが「自我抹消」を拒絶し、あくまで自我を保持した個人として生きる道を選択したからだ。映画の結末としては無難な選択であろう。しかし言うまでもなくこれは私たちの現実を何ら保証するものではない。


[主な典拠文献]

富増章成『空想哲学読本』洋泉社

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