和歌あるいは花札としての日本
1999.10.23
萬 遜樹
吉田孝氏の『日本の誕生』(岩波新書)の結論はこうだ。平安前期に「日本」は確立された。天皇を頂点とする代行政治制度、本州・四国・九州の国土、家という社会システム、五母音で漢字仮名交じりの日本語、神仏習合の宗教意識、『古今集』の自然観・美意識などである(以下「日本」はこの平安期に確立された「日本の諸制度・文化」という意味で使う)。
この「日本」はご承知のとおり幕末まで続いた。「近代」明治国家はこれらの時代(平安〜江戸)を「中世」として葬り去り、奈良時代以前の「古代」に範を求めようとした。しかしながら、明治国家はこの「日本」にわずかばかりの継ぎ足しをしただけで、それ以降も現在まで少しも変わらず「日本」は継続しているとも言える。
征夷大将軍にとって替わった内閣総理大臣も何のことはない、立憲と頭に付くが天皇制政治の枠内にある(いまも「象徴」が頭に付く天皇制政治)。国土は旧領土に、アイヌから奪った北海道と琉球から奪った沖縄を加えただけのものだ。家のシステムもきしみながら続いている。日本語は口語・標準語化したが、漢字(平・片)仮名交じりと変わりない。さらに、表面的に見ればダボハゼのような宗教意識も占いやまじないという現代的変態を遂げて、また独特で伝統的な自然観・美意識も環境問題などとは異質なところ(庭や盆栽など)で確実に生き続けている。
一千年に渡るこの日本文化の中心をまっすぐに貫く一本線がある。その名は和歌。『紀』『記』や『万葉集』時代の多様な歌謡は、平安期を迎えると、五・七・五・七・七のリズムに収束する。和歌は「日本」の天皇制とともにある。勅撰和歌集は平安前期の『古今集』に始まり、その伝統はいまの「歌会始め」に至る(和歌には未だに「日本」の文語が使われている)。天皇制の動揺は和歌の命脈も左右する。平安後期の院政は今様という破格を生み、武家時代には連歌、そして俳句が興隆した(それぞれ和歌の亜流であるが)。明治国家は天皇制とともに、和歌も回復した。歴代天皇の第一の執務は御詠作りだということは知られている。
いま私たちが和歌に接する機会と言えば、正月の百人一首くらいだろうか。これはご存知のとおり、上の句と下の句を合わせる歌合わせである。似たような正月の遊びとして、カルタとりがある。こちらにはたいてい絵が描いてある。伝統的な絵ガルタに花札がある。花札は文字どおり、札に花をあしらった花合わせである。これは実は歌のない和歌集である。そこに描き込まれている絵一つ一つが和歌の情景であることはご賢察のとおりである。梅にうぐいす、紅葉に鹿、月にすすき…。
なぜ「百人一首」なのか。これは「日本」の和歌の要覧、今風に言えば「ベスト」であり「定番」である。ここには和歌(言語芸術)による「日本」の感性の達成と領域(限界)が画され刻まれている。ここをはみ出す感性は「日本」ではない。思えば、和歌は統治でもあった。「日本」の確立途上にあった奈良時代の『万葉集』は、未だ叛乱ののろしが漂う東国の東歌やさいはての西国の防人歌を含み、詠み人には貴人ばかりでなく地下(じげ、庶民)まで含む。国土と人民を和歌によって取り込んだ巨大な言語モニュメントが『万葉集』である。
しかし「日本」の確立後(『古今集』以降)は、列島の南北は切り捨てられ、エキゾチックな「鄙」(ひな)となる。鄙は定住すべき処ではなく、時々訪れ、物珍しい物産に触れ、都を懐かしみ、都に土産物を持ち帰る地である。歌物語でもある『源氏物語』で、光源氏が一時住む須磨(現神戸)ですら鄙あつかいである。
「日本」は和歌により気候までを統治する。「四季」がある地こそ畿内でありその中心地が都である。それ以外は鄙である。たとえ雪国と言われるような四季が偏った東国でも、歌人は「百人一首」の感性で詠まねばならない。それが「日本」の決まりである。『古今集』以降の和歌集には四季がいやと言うほど詠み込まれているが、それらはすべて都人が感じた四季の情景をカタログ化したものである。
列島の風景もこうして都人が和歌を詠む「箱庭」となる。「歌枕」とは箱庭の道標である。同じ道を歩み、同じ風景を観ること。芭蕉はこの歌枕の情景を旅したのであり、決して新たな発見の旅をしたわけでなない。時間はくり返す。「今は昔…」の物語に時間はない。各地にある「富士」は代表的な箱庭である。テレビの「水戸黄門」でお馴染みの各地の物産や土産物も、モノの「百人一首」であり「花札」である。「日本」文化とは言わばカタログ文化である。「ビックリマン」も「ポケモン」も正しく「日本」文化を継承する営為なのである。
最後に、和歌の秘密をそっとお教えしておこう。和歌とはトートロジー(同語反復)である。もちろん、意味のない繰り返しではない。しかし、わかる人にはわかり、わからない人には永遠にわからない、説明しても万人(外国人を含む)がわかるものではない、そういうトートロジーなのである。「日本」人が「日本」人に贈るものが和歌である。和歌とはまさに「日本」人としての感性の一つの踏み絵であろう。天皇陛下は今日も御詠をお作りになっているのであろう。
[主な典拠文献]
吉田孝『日本の誕生』岩波新書
吉本隆明・梅原猛・中沢新一『日本人は思想したか』新潮文庫
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