宗教教団の教義に見られる「感謝」のテクニックについて
1999.10.27
佐藤進持 Shinji65@msn.com

▼はじめに

 宗教教団は、仏教、神道、キリスト教、イスラム教等、その系統を問わず、そのほとんどの教義で「感謝」の必要性を説いている。各教団は、信者に「自分が愛されていること」を発見させ(もしくは、そのような錯覚を抱かせ)、ひいては回心という名の自己変革をもたらすために、意図的、または無意識的にこの「テクニック」を使っているのではないだろうか。本論では、筆者自身の体験や最近の心理療法等を踏まえて、この点について論じたいと思う。ただし、最初に断っておくが、本論は宗教団体の教義に見られる普遍的な現象を考察することが目的であって、いかなる宗教団体も非難する意図はない。


▼私の至高体験(ピーク・エクスピリエンス)

 今から10年程前の初夏、私は職場の同僚と日光にドライブ旅行をした。その年の春に大学を卒業して、ある官庁に就職した私は、いわゆるお役所仕事になじめず、典型的な5月病になっていたのである。この旅行は、そんな私のことを心配してくれていた職場の先輩が気分転換のために企画してくれたものだった。

 そろそろ旅行の疲れが出始めて来た二日めの午後、我々の車は右手に大きな植樹林が見える道路を通っていた。そこで、数十メートルはあるかと思われる杉の巨木の群を何気なく見ていた私に突然、「この木々は、我々の先祖が我々子孫のために植えて、育ててくれたものではないか!」という考えが浮かんできた。そして、今まで全く意識していなかった先祖たちの我々に対する愛情に気づいた私は、俄かに深い感謝の念で胸が一杯になり、それまで経験したことのなかった、えも言われぬ幸福感に満たされたのである。こんな簡単なきっかけで心理学で言う「至高体験」が現れたのは、自分でも不思議だが、この幸福感はその後も4、5日間続いた。

  この間の体験を説明すると、例えば道ですれ違う人、一人一人が貴重な貴重な存在に見え、一人一人にお礼を言いたい心境だった(法華経に出てくる常不軽菩薩の如く)。また職場では、今まで無意味に思えた仕事にも、責任感を感じて前向きに取り組めるようになり、その結果、仕事の質、量共に向上した。同じくそりの合わず、「早く人事異動で替わってくれ」、と感じていた口うるさい古手の上司も「掛け替えのない存在」に思えてきて、人間関係も改善された。かく言うわけで、精神的な充足によって、仕事を含めた実生活も向上するという副次効果もついたのである。

ただし、このようにして、感謝の日々を送った私だったが、4、5日目に「・・・・・待てよ。先祖だって、食いぶちを減らすために子供を間引きしたりして、自分達のことしか考えなかった人達もいるんじゃないのか?」という考えが突如浮かぶと同時に、憑き物がとれたように、また元の自分に戻ってしまった。


▼各教団の教義に見られる「感謝」

 思うに、ほとんどの宗教団体の教義に、「感謝」の念を持つことの必要性が説かれているのは、各信者に私のような体験を起こさせることが狙いなのではないだろうか。「感謝」の教義は例を上げれば切がない。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教などの啓示宗教では、信者に良いことが起きれば、それは神からの賜物とされ、当然神に感謝することになる。神道で祖先崇敬が説かれているのは、ご先祖さまへの感謝を忘れないためだろう。仏教でも、例えば浄土真宗の念仏は阿弥陀如来に「救われるために」唱えるのではなく、「既に救ってもらったこと」に対する感謝を表明するために唱えるのだ、ということである。また最近の宗教を例に上げると、ある新宗教団体の教義では、「人間は自分で生きているのではなく。周りの人、ものに生かさせてもらっている」のであり、そのため同会の信者が何かをする場合、他人への感謝の念を忘れないように、語尾に「〜させていただく」という使役語+謙譲語をつけるそうである(例えば、「私は朝起きて、ご飯を食べて、仕事に行きました。」を同教団の会員は「私は朝起きさせていただいて、ご飯を食べさせていただいて、仕事に行かせていただきました。」と表現する)。各宗教団体は感謝することによって、信者に至高体験を起こさせ、ひいては宗教的な回心を起こさせるために、意図的(わざと)又は無意識的にこのようなテクニックを採用しているのだろう。


▼「内観」療法に見られる癒しのための感謝のテクニック

 森田療法と並んで、最近世界的にも注目を集めつつある日本独自の心理療法に「内観」がある。内観は浄土真宗の在家信者だった吉本伊信が真宗に伝わる「身調べ」という行法を元に独自に開発した心理療法である。内観を受けるものは、1週間、部屋の中の仕切られた一角に座し、両親を中心に自分が今まで人に「してもらったこと」、「迷惑をかけたこと」、「(以上の2点に対して)して返したこと」を思い出すように指図される。そして、この1週間の集中内観で、自分自身が今まで、いかに人に迷惑をかけていたが、それにもかかわらず、いかに人に色々としてもらっていたか、ということに気づき、自分に対する愛情を再発見するのである。内観を紹介している本によると、内観によって性格が向上すると同時に、心を原因とする心身症状も改善される、ということである。前科何犯の者が、自分に対する愛情に目覚めて改悛したり、子供を虐待していた母親の心が癒され、虐待をやめるようになった、というような例もあるそうである。

 ところで、ここでは、「してもらったこと」、「迷惑をかけたこと」、「して返したこと」を思い出すのが肝要なのであって、これが逆に「して上げたこと」、「迷惑をかけられたこと」、「(それに対して)お返ししてもらったこと」などを考えたら、自分がいかに人の世話をし、また人から迷惑をかけられているのに、それに対する礼はなにもされていない!、という風に、怒りが込み上げてきて、逆効果である。


▼感謝の対象について

 さて、ここで、感謝する対象については、何か「・・・・・でなければならない。」というような限定は、あるのだろうか? 結論から言えば、「まったくなし。」 である。客観的に見て、感謝の対象は何でも良いはずである。「鰯の頭も信心から」と言うが、感謝する対象は例え、鰯の頭でも、それを納得させるだけの教義や信念があれば、なんら差し支えないと思われる。

 私の至高体験の話に戻ると、私が勝手に植樹林だと思っていた林は、ひょっとしてただの自然林だったのかも知れない(私は、樹木に対する知識は皆無である。)。だから、「先祖の子孫に対する愛」などというのは、私の幻想だったのかも知れないのである。それでも、例え錯覚でも植樹林だと確信していたために、至高体験は起こった。

 内観にも「人は両親を始めとした他者に愛されている。」という基本前提(信念)があると思われる。内観では、例えばアル中で酒浸りで、まったく仕事をせず、暴力を振るうような、世間的に見てどうしようもない親でも、必ずなんかしら恩を受けたことがある筈であり、それを思い出させるそうである。結局、内観者は「どうしようもない」親が実は自分を愛していたことに気づき(または、そのような錯覚を起こし)、心の平安を得るのだろう。

だが、本当に親は愛していたのだろうか? 世間には保険金目当てで子を殺す親もいる。そんな親だって、生んだからには世間体もあるし、愛しているような行動を取ったりすることもあるだろう。また、いやしくも自分が生んだ子供だから、時折きまぐれにかわいく見えることがあるかもしれないが、基本的には疎ましく思っていたのかも知れない。内観では、そのような数少ない見せ掛けの愛情行動やきまぐれの愛情行動をも思い出させて、それによって自分は愛されていた、と錯覚させているのかも知れない。愛というのは確認が困難な問題だが、それを信じたものには癒しがもたらされ、信じない者には悩みの人生が続くのだろうか。

 宗教の例に戻ると、「イエスの十字架の死による贖罪」を好例として上げたい。新約聖書の福音書等の歴史的記述部分を読めば、イエスはローマもしくはユダヤ教の主流派によって、十字架刑に処されたのである。ところが、使徒パウロは、「イエスの十字架の死は我々(クリスチャン)の罪の贖(あがない)であり、キリストは我々の罪のために死んでくれた」とし、これが現在に至る正統派キリスト教の教義となった。

だが、これはキリスト教徒以外の者にとっては、まったく理解のできない教義である。しかし、これを信じて、「イエスは自分のために死んでくれた。」と思うものには、回心がもたらされ、そうでないものは、少なくともイエスの救いには与(あずか)れないのである(イエスの十字架の死に対する私見については、レルネット掲示板に掲載されている「キリスト教って不思議です」を参照されたい)。


▼結論:感謝は人のためならず

 我々が誰かに感謝するとき、それはその人から受けた何らかの便宜(モノ、サービス、厚意等)に対するお礼の念であり、これはつまりその人に対する「精神的な報酬」のはずである。ところが、以上に述べたとおり、感謝は相手に対する報酬というよりも、自分に対する精神的報酬(至高体験、回心、癒し等)の方が無視し得ないのである。そもそも、感謝の対象となる神仏、ご先祖等があの世(またはこの世)に存在し、感謝の念を受け止めることができるのかどうかは永遠の謎だが、少なくとも感謝する方には対象の存在の有無にかかわらず、至高体験等がもたらされる。

 以上、結論付ければ、「感謝」というのは、相手に対するものというよりも、自分自身のため、ということであり、このようなテクニックを各宗教団体があまねく教義に盛り込んでいることも納得のいくことである。


▼最後に

 以上、長々と私見を述べさせていただいたが、批判は元より覚悟の上、あえて議論を活発化させる意味で、歯に衣着せず、率直に述べさせていただいた。ご意見、ご反論をお待ちしている。

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