現代日本における呪術とその意味

萬遜樹 E-mail:mansonge@geocities.co.jp

一般には「呪術」というと何とも古めかしく、古俗因習の遺物という響きさえある。野蛮な原始部族が信奉したり、古代日本に行なわれていたらしいオドロオドロシイものというイメージ。また、「呪」という字からも想像できるが、人を呪ったりする黒魔術というイメージ。そんなところだろうか。 

ところがである。なんとこの現代日本においても、呪術はたいへんに盛んなのである。それも若い世代にその傾向が著しい。おそらく、いま日本で呪術を最も信奉しているのは十代の少年少女たちだろう。一見、呪術なんぞというものとは無縁と思われる彼ら彼女らが、なぜ呪術なんかに熱中するのだろうか。

念のために『広辞苑』の釈義を引いておこう。「超自然的存在や神秘的な力に働きかけて種々の目的を達成しようとする意図的な行為。未開・文明を問わずあらゆる社会に見られる」とある。これに、「超自然的存在や神秘的な力の働きを信じ、その影響が現実に及ぶと考える思考のあり方」ということも付け加えておきたい。  

まずは、新世代における現代日本の呪術を概観しよう。彼らの自己紹介には、西洋占星術の星座と正体不明の血液型は不可欠のアイテムだが、これらは超自然的、神秘的な力の働きを信じる立派な呪術である。週刊誌の毎週の星占いは、彼らにはなくてはならぬご神託である。 

さらにズバリ、「おまじない」という呪文を彼らは毎日のように唱えている。たとえば、片思いの彼や彼女に自分の思いが通じ、願いが叶うようにと。しかもきちんと、おまじないの文句の体系まで整っている! そればかりか、怨みを晴らすやり方さえある。これらを呪術と呼ばずして何を呪術と呼ぼうか。 

呪術そのものとは言えないかも知れぬが、その世界に近いものがまだまだある。生まれ変わりの信仰だ。自分がただ、いまの平凡な人間でしかないと思い続けている中学・高校性はむしろ例外だろう。UFOと交信している子どもは多いし、超能力や心霊現象にのっぴきならぬ関係を持っている少年少女も数多い。 

映画「学校の怪談」シリーズが流行っているが、言うまでもなくその前提として、自分の学校や地域に幽霊や怪物が徘徊していることを、心のどこかでは信じているわけだ。「都市伝説」という不可思議なウワサ物語もある。たとえば、著名テレビ番組の最終回がもうすぐ放映され、それとともに世界の終末がやってくるとか、格安のとあるハンバーガーショップは実はネコ肉を使っているのだ、とかいうようなものだ。 

現代日本に、呪術と呪術的世界は間違いなく生きている。ではなぜ彼らは呪術を信奉するのだろうか。人間として未成熟な子どもという一時期にありがちな、一時的な熱病にすぎないと思われるだろうか。 

いままでは、その性向があらわな子どもを挙げて、現代日本における呪術の盛況ぶりを述べてきたが、実は「呪術」とは明白に意識されずに行なわれてきた呪術が多々ある。「呪術」と呼ばれぬ呪術が日本には数多くあるのだ。そしてこちらの方こそが実のところ本丸である。 

日本人すべてと言ってもよいほどの人たちが呪術を信奉している。それが言い過ぎなら、積極的な信奉はせずとも、少しも怪しまずに呪術を受け入れて暮らしているのである。では、今度は大人の世界の呪術を見ていこう。なぜかはその後に考えたい。 

最もポピュラーなのは、「4号室」と「13日の金曜日」だろうか。「4」は「四=死」でわかりやすいが、一方の「13」はご存じのとおり、キリスト教の俗信が起源だ。ここにかえって、日本の呪術の性格がよく表れていると言える。 

若者にとっての星占いと同じようなものに、中国起源の陰陽五行説(日本では陰陽道)がある。干支(えと)や六曜はよくご承知だろう。六曜とは大安とか仏滅とかいうものだ。結婚式を仏滅にする人は増えてきたが、結納を仏滅にしたり葬式を友引きにしたりする人はまずいない。 

年末年始に開運暦を買う人は多いし、土用の丑(うし)の日にはうなぎを食べ、家相で風水を気にする人も多い。易占いや手相見は街にあふれているし、四柱推命で運命を測る人もいる。神社のくじも呪術だ。凶と出たくじは神樹に結び付けるが、ここには呪術的意図が読み取れる。それに地鎮祭や棟上げも呪術だろう。

 もっと日常的には、季節の風物詩である。テレビでは定期的に日本全国の祭りや年中行事などを取り上げる「季節・風物もの」という企画があるが、これらは季節の正常な運行を助ける呪術である。あるいは、抽象的な時間を人間文化的に意味付けようとする呪術である。俳句の歳時記とは、これの体系化、集成にほかならない。

 他ですでに述べてきたことだが、一年の死と再生の正月、人生を段階づける七五三などもそうだ。また、死者を送迎する盆というものもある。伝統文化、民俗文化とは、そういう意味では、すべて呪術だ。起源や素材は、近世・中世・古代、西欧・中国・インドなど様々だが、現代日本にはすべてが流れ込んでいる。 

それから、幽霊は迷信(呪術)だとする大人は多いが、葬式でのお経はなかなか欠かせないだろう。しかしこれも他で述べたように最たる呪文である。また、死や罪に際しての連座のケガレも呪術だ。このケガレは感染するのだ。呪術とはどうやらそういうものらしい。見えない力(モノ)が飛んでゆき、関係者や接触者に確実に付着したり彼らを襲ったりするのだ。 
以上のように現代日本人は、老若男女を問わず、呪術世界に棲んでいる。このことは社会の後進性を示すものでも何でもない。日本人の聖俗秩序観=世界観=人生観を示すものにすぎない(あるいは、同様なことが世界中に満ち満ちていることを思えば、人間の世界とは呪術の世界とも言えようか)。

近代以降、世界は抽象合理的なものとなり、日本人は明治以降、そんな流儀も見習ってしまった。しかし釈迦が説いたような「ニヒリズム」を今さら生きることは難しい(注)。人間は抽象合理だけの世界には棲めないのだ。物理学に「果たして空間は曲がっているか」というテーマがあるが、人間は均質な時空間を曲げて意味を見い出している。聖と俗とはそういうことだ。 

何もなかった「古代」を、そのときの人間の思惟や感情を想像してみたい。自然に制約されるしかなかった古代。喜びも悲しみも他律的であった。人工の明かりのない夜空には、月と星が毎日少しずつ違う相貌を見せていた。すべてが不可思議で、かつ文字どおり神秘的に自律的だった。

 人間とは自然の内にある生物だ。現代においても、この宇宙的、自然的、生物的リズムの内に生きざるを得ない。どんなに現代的生活を過ごそうとも、身体はもう一つの世界を知っているし、実はそこにしか生きることはできない。 私たちは、日々時計に従う、また無機的な月日が並ぶカレンダーで日常を過ごしているが、そんな「ケ」の時空間だけでは満足できないのだ。そうして「ハレ」の瞬間を求めるのだ。 

月の満ち欠けがひと月であった時代、星が季節の運行を告げていた時代が長く続いた。私たちはこれを頭の記憶=経験的には受け継げてはいないが、身体の「記憶」(というより現在的現実)としては覚えている(生きている)。若者たちの呪術志向は、彼らが大人より自然的身体的であることを告げるものであろう。 

だから私は、夜、墓地に行っても幽霊が出ないような精神風土が必ずしもよいものとは思わない。幽霊が本当に出なくなったら、そのときは当然ながら墓地なんぞというものも不要だろう。 

蛇足だが、「呪術」というものの相対化は進めねばならないだろう。伝統とはいつか失われねばならないものだ。すべては過程の中にある。伝統と言えども不易ではない。しかしながら「呪術」はなくならないであろう。 

最後に、警告になるが「呪術」に操られないことだ。操ろうとする「悪人」が必ずいる。地獄には往ってもよいが、突き落とされてゆくものではなく、自ら飛び込んでゆくものでなければならない。(注) ここで言う「ニヒリズム」とは呪術を排する生き方(一つの完結した合理主義)である。「釈迦が説いたような」と表現したのは、「ニヒリズム」という言葉にニーチェの影が伴うからだ。ニーチェのそれは「虚無主義」とされるが、釈迦の説いたものに「虚無」はない。

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