ニッポン的霊性
99年12月15日
萬 遜樹

 「宗教」が話題である。サリンのオウムがようやく下火になった頃合いを見計らったわけでもないだろうが、今度はミイラのライフスペースである。はたまた、金の華、いや法の華三法行である。いやはや喧しい。

 はっきり言おう、日本人は「宗教」が嫌いである。特定の「宗教」を信奉している人々を、言わば「行ってしまった人々」と考える。一方の行ってしまった人々も、よくしたもので(?)ただ向こう側の世間に行っただけの人が多い(私の言う「吉外井戸」の乗り換えだ)。

 日本人にこんな「宗教」が果たしている役割とは何か。神や仏という装飾をはぎ取ってみれば、ある団体(共同体)に第一帰属すること(その人にとっての第一の世間ということだ)にすぎないのではないか。「宗教」に属さない人と属する人(また別の「宗教」に属する人)とでは、住む世間が違うから話が合わない。まただからこそ、教団等に帰属する人は皮肉にも世俗的価値(金品など)をそこへ惜しみなく注入する…。

 しかしこれが「宗教」であろうか。もう一度、よく考え直そう。「宗教」嫌いな人々も、ある「宗教」に行ってしまった人々も、同じ日本人である。ここには「宗教」に関しての日本人全般に共通する解釈なり誤解なりがあると考えざるを得ない。日本人はどうも「宗教」を理解できていないのではないか。

 日本人にとって「宗教」という言葉は、実は二重性をもっている。第一に「宗教」と言挙げする場合は、意識的に自ら選択して帰属するある宗派や教団を指している。では、日本にはこのような「宗教」しかないのか。いや、ある。日本人にほぼ共通する無意識的な宗教意識がある。前者の「宗教」は表層的なだが、後者は深層的だ。そして、だからこそ強固な「宗教」である。

 後者の意味で言えば、日本人ははなはだ「宗教」的な民族であろう。が、日本人は「宗教」という言葉をこれには用いない。「宗教」という言葉はもっぱら前者に用いる。自らの本当の「宗教」には気づいていないとさえ言える。

 「宗教」という言葉は欧米仕込みである。しかし欧米での「宗教」は日本人が考えるようなものとはまた違う。欧米人の「宗教」にもむろん意識・無意識の両面があるが、彼らはその両面においてキリスト教的である。彼らの「宗教」の選択とは、キリスト教のどの宗派や教団を選ぶかということである。少なくとも一般的には、キリスト教か仏教かというような問題ではない。

 一方の私たち日本人は、意識・無意識が分裂している。「意識(表層)は欧米流、無意識(深層)は日本流」(これを「和魂洋才」と言ったりする)をごく当然のこととしているかのようである。この二重構造が、日本人が「宗教」を選択する際の「飛躍」ともなり、また入信後の「変わりなさ」ともなっている。

 思えば、日本宗教としての「神道」は不幸な「宗教」である。戦争絡みで言っているのではない。自然的で民族的な、そういう意味で普遍的な「宗教」とは、無意識的な宗教意識(以降これを「霊性」と言う)が意識的な形式として立ち現れたものである。アメリカ・インディアンの「宗教」をイメージしてもらえれば良いだろうか。霊性と意識が連続した「宗教」である。

 欧米人のキリスト教でも、霊性と意識は連続している。ただし、その成り立ちは自然的民族的ではないが。ともあれ、現在の欧米人が「宗教」的に特に不幸ということはないだろう。ところが、日本人はその霊性に基づく意識的な「宗教」を喪失してしまった。「神道」はその霊性を受け継ぐものであろうが、日本人の「宗教」ではない。 


 鈴木大拙という人が書いた『日本的霊性』という本がある。日本人のもつ霊性の目覚めとその特質を論じたものである。以下、私もニッポン的霊性について述べてみたい。

 本来の「宗教」とは、霊性への目覚めであり霊性との関わりのことである。ある宗派や教団に所属しているとかしていないとかの問題ではない。大拙師によれば、日本人は「宗教」的であるようだ。ただし、師の言う「宗教」とは仏教的なパラドックスを含んだものである。

 飛躍した言い方をしてしまった。仏教的なパラドックス(逆説)とは、自己否定(無我)を経た上で、かえって本来的自己(つまりは仏性=霊性)がよみがえるということだ。こういう構造は、実はキリスト教でも同じだ。罪人としての自己否定を経て、キリスト(精霊)がよみがえる。大きく人類史的に言えば、「死と再生」の神話の教説化である。

 さて、普通の日本人の霊性あるいは「宗教」感覚とはこのようなものであろうか。おそらくそうではなく、日本人が一般的に抱いている霊性のイメージは、いわゆる神道的なものに違いない。神道的霊性にはパラドックスはない(神と人の断絶はキリスト教並みに大きい)。

 たとえば、日本人の神に帰依する姿は、ただひらすらの哀願であり恭順である。これは仏を祭る寺院においても同様である。願いを懸けた水垢離(ごり)やお百度参りというのがあるが、このような超越者への祈りが神仏や「宗教」に対する日本人の典型的な態度である。ここにはパラドックスはない。そしてここまでが日本人が許容する「宗教」感覚である。

 すなわち、これが日本人の無意識的霊性なのである。整理すると、日本人が持っているのは日本的「霊性」であって、いわゆる「宗教」ではない。だから日本人は「宗教」が嫌いなのである。一方の、とある「宗教」に入信した人々も、この日本的「霊性」を維持したまま、ある「宗教」を信奉しているつもりになっているのである。

 では、ニッポン的霊性は以上に尽きるものか。いや、そうではない。これだから話はややこしい。大拙師は鎌倉浄土教と禅にニッポン的霊性は開花したと言う。その「宗教」的理解は上記の通りだが、このパラドックスは日本人にとって案外日常的でもあるのだ。

 まず、ニッポン的霊性の過去を少したどっておきたい。古代、万物は生きていた。そのうち、強力なものはカミやモノ(オニ)と呼ばれた。人も同じである。少数の特別の者たちは、生きながらあるいは死後、神や鬼(祟り神)となった。しかしここには神と人との深い断絶があり、ほとんどの人間は神になれなかったことを確認しておきたい。

 一方、普遍的な霊性が抱く「死と再生」の神話は、この日本にも通底していた。それどころか、日本人はこれによって生き長らえていた。別稿で多く書いているので詳しくはそちらを参照いただきたいが、人間は絶えず「この世」ならぬ所から生エネルギーを得て、つどつど生き返ることで命を長らえていたのだ。

 修験道は、山を「女」「母」「母胎」、つまりは「産まれた所」=「この世ならぬ所」=「生でない死の世界」と見立て、山に入って死に、再生して山を下る秘儀である。これを知っている空海と最澄(それに続く者たち)が、中国から「密教」を持ち帰った。彼らは(「本覚思想」等、ややこしい話は割愛して)結局、日本人に「人はみな仏性をもっている」、つまり誰でも神になれると教えたのだ。

 その後の鎌倉仏教は、私に言わせれば、伝統的な「死と再生」の神話のベースに、人即仏(神)のパラドックスを載せたものだ。その一つの秘儀、しかも万人ができる秘儀が「念仏」である。

 話は一気に現代に飛ぶ。これまた何度も引く例で恐縮だが、「大魔人」は古代的なカミである。善悪はともあれ、人が遠く及ばないパワーをもった存在である。これにお願いをするというのが、今も続く日本人の神への基本的態度である。「仮面ライダー」は空海の申し子のような存在である。即身成仏、人が直ちに「変身」してカミとなる。

 そしてまたしても「ウルトラマン」である。かれこそが、聖徳太子、そして親鸞の化身である。大拙師が説く浄土教あるいは禅の奥義を体現する者こそ、「ウルトラマン」である。人は一度死にカミが人に生きる、一度死んだ人がカミに生かされる。光の国(浄土)に住みながら、地球・日本(穢土)に暮らす者。彌勒であり、「捨身飼虎」の心の聖徳太子、そして聖人にして愚禿の(「宗教」者であり「宗教」を捨てた)親鸞である。

 なぜ「ウルトラマン」は日本に生まれなければならなかったのか(円谷プロも社会精神史の中にある)。答えはもうおわかりだろう。私たちのニッポン的霊性が成せる業にほかならない。


[主な典拠文献]

鈴木大拙『日本的霊性』岩波文庫

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