「日の丸・君が代」問題とは何か
00年04月30日
萬 遜樹
春である。卒業式に入学式、そこでの「日の丸掲揚・君が代斉唱」…。卒業式で、それらに「反対の意思表示」をした中学生を報道する朝日新聞の記事を散見した。いわく「勇気」をもって「自分で考えそれを行動に移す、実行する」ことはすばらしい、と。この「ほめそやす」ような報道の仕方に何かひどく違和を感じるのは筆者独りであろうか。
「日の丸」は「戦争犯罪」の象徴とされている。「犯罪」かどうかはさておき、戦争は理由の如何に関わらず「悪」であろう。それを忌避する気持ちはわかる。しかし「国旗」をイコール「犯罪」旗とする「教育」はいかがなものであろう。
そもそも「戦争犯罪」とは何か。広辞苑によれば「国際条約で定められた戦闘法規を犯す行為。例えば、降伏者の殺傷、無防備都市の無差別攻撃、禁止兵器の使用など。戦時犯罪」のこと。さらに「広義には、第二次大戦以後に生じた犯罪の概念で、侵略戦争や国際法違反の戦争を行い、またはそのため共同の計画・謀議に参加する罪、すなわち平和に対する罪と、一般人民に対し行われた大量殺人、奴隷化、政治上・人種上・宗教上の迫害など、人道に対する罪」だとある。
日本を裁いた極東裁判の実際の有り様、また「戦勝国による敗戦国処断」という見方はひとまず置こう。なぜなら、広辞苑の言う「戦争犯罪」を犯したのは、事実として我が日本ばかりではないことは明白だからだ。では、なぜ星条旗ではなく日の丸が「犯罪旗」となるのか。その論理を解明したい。
不思議と思われるだろうが、ここで「英語第二公用語」問題について少し述べたい。これを持ち出したのは「前」総理小渕氏である。それにしても、何とも哀れなことである。眠っている間に、首相の座を奪われたのだから。ちなみに首相交替の根拠となった「憲法・第70条」には、どこにも「生きている首相を替えてもいい」とは書いていない(もし死んでいるのなら話は別だが。これは例の「脳死」問題とも密接に絡むことなのだが、どの報道機関もそういう問題としては論究しない不思議は何だろうか。これでは「平民」と「貴人」の死の問題を分け隔てしているとしか思えないが)。
英語公用語論とは、英語を「第二公用語」にしようという話だ。日本人にはこの言い方で「誤解」はない。しかし、例えばアメリカ人にはどう聞こえるだろうか。日本には英語しか通じない人々が相当程度いるのだ、というふうに理解するにちがいない。実際、第二、第三の公用語を設けている国々は、異言語の民族を多く抱えて「仕方なく」複数の「公用語」を設けているにすぎないのだ。
然るに、我が日本はどうかは言うまでもないだろう。誰のための英語公用語論なのか。これが何と(外国人にとっては驚きだろうが)日本人自身のための論なのである。第二、第三の公用語は本来、日本語を解しない人々のために設けられるべきものである。でも、日本人は日本人自身の「国際化」(=英語=米国化)のための施策として考えているのだ(アングリ!)。
日本人は「古代ギリシャ人=ヘロス」だ。ヘロスは、異言語人を「バルバロイ」(分からない言葉を話す者たち)として軽蔑した。この自己中心主義が通じている。何もかも自己中心的に物事を捉える。ウチの話ばかりなのだ。
「日の丸・君が代」に戻るが、誰のための何のための「反対」なのか。ウチ向け、日本人にしか意味が通じない話なのである。「国家」とはそういうものである。国家とは相互認証の存在である。その指標の一つが国旗や国歌である。それが証拠に「国際的」なオリンピックのような場でこそ、国旗や国歌が誇示される。国旗や国歌はウチのためのものではない。ソトのためのものである。
「日の丸・君が代」反対論者も不思議なことに、オリンピックやワールドカップサッカーの場では「沈黙」気味だ。ソトではウチの争いを出さないというのでは、かの自民党と同じ穴のムジナである。そう、日本人はそれぞれの「共同体」で同じ穴のムジナなのである。その大げさな例が、ウチとソトを転倒した「英語第二公用語」論である。
日本憎しという外国の人々が確かに存在する。そういう人たちが日の丸を見れば、「犯罪旗」と断罪もしよう(星条旗を見て、米国憎しと思う人もいるように)。しかし、だからと言って国旗をすげ替えたところでどうなのだろう。そういう人たちの日本憎しの気持ちはおそらく何も変わらないだろう。
国旗にどういうデザインを採用するか、また国歌にどんな歌詞やメロディーを採用するかという問題は「第二公用語」同様、ソト(国際関係)のためにあるのではない。これはあくまでウチの問題である(「日の丸・君が代」と先の戦争との関係をどこまで読みとるかを含めて)。それと、国際関係そのものである国旗や国歌概念はまるきり別の話である。
ここには「英語第二公用語」論同様、ウチとソトとの転倒がある。そして「産湯といっしょに赤子を流す」愚かさ、つまり具体(日の丸・君が代)といっしょに抽象(国旗や国歌概念)を捨て去る「教育」や「報道」を危惧する。現実としてどこかの国家に属する限り「国民」である。それをどこか架空の国家にでも住んでいるかのような「教育」をおこなったり、これをことさら「ほめそやす」人々とは、ウチとソトとを区別できない自己満足人でしかないと言わざるを得ないだろう。
戻る