鶏林(ケリム)望見@
-- 韓国人の歴史:「近代」を失い、奪われた「国民国家」--   

01年8月29日
萬 遜樹

(一)序

 「韓国」あるいは「朝鮮」という言葉に、日本人であるあなたは何をまず思い浮かべるであろうか。世間ではご承知の通り、日本の扶桑社制作の歴史教科書をめぐって、韓国や中国で囂々(ごうごう)たる非難が沸き起こり、また小泉首相の靖国神社参拝もあり、何かと喧しい限りである。1988年のソウル・オリンピックのとき、「初めてだけど懐かしい国」という韓国旅行を誘うCMコピーがあったことをご存知だろうか。

 その通りなのである。私は残念ながら実際には渡韓したことはない。しかしながら「ニッポン民俗学」で朝鮮には何度も旅をした。そこで感じてきたことは、まさに「日韓同祖論」であった。とは言っても、短絡した考えを抱いているわけではない。もしたとえそうであったとしても、互いにもう思い出せないくらい昔のことであり、いまは別々の国であり民族であり、いまさら同祖論とはアナクロニズムであることは十分承知している。

 それはともあれ、つい近日までは両国関係の改善を精力的に進めてきていたはずの韓国がなぜこれほどまでに「歴史問題」に固執するのかが、日本人たる私には分からない。私はそれで、かえって「韓国」なり「朝鮮」なりに改めて興味を持った。そこで、韓国人が捉える「朝鮮の歴史」というものをあれこれ考え、読者とともにその理由なり背景なりを探ってみることにしたい。なお、ここでの「朝鮮人」と「韓国人」はほぼ同義で、区別なく用いたい。
▼歴史とは現在を語るものである

 「歴史」とは逆説である。失われた記憶を取り戻すことが回想なら、「民族」=国民(ともに"nation")の記憶を取り戻すことが「国民史」という歴史かも知れない。偉人伝の幼少時代がしばしば将来を示唆するエピソードで彩られているように、私たちの歴史も現在に予定調和するように過去は再構成=「創造」(想像)されている。一番向こうの過去からこちら側に順に積み重なって来ているものが歴史ではない。回想と同じように、現在からはるか過去の方向に向かって伸びているものが歴史である。

 日本や中国の国民史と同様に、韓国あるいは朝鮮のそれもまたそういう歴史である。しかしながら「朝鮮史」という国民史は、1945年8月15日の光復節(注)から48年の南北国家分立までのわずか三年間の幸福な時間のためにあるように、筆者には思える。そんな国民が、自分たちがいかなる「民族」であり、どのような過去を歩んで来たかを存在証明しようという切ない回想が朝鮮史である(少なくとも筆者は、これからそういうものとして述べようとしている)。

(注)大韓民国での祝日名で、日本の植民地支配から解放されたことを祝う日である。朝鮮民主主義人民共和国では「解放記念日」と言う。「8月15日」とはそれほどの日なのである。

 朝鮮史をよくご存じない方にも、そのごく概略だけでも知ってもらおうというつもりでいる。しかし、すべてをバランスよく書くわけにはいかないし、もとより筆者にそれほどの知識も力量もなく、偏ったものに成らざるを得ない。あらかじめご容赦を頂くとともに、ご自分でも眉に唾をつけながら斟酌頂きたい。朝鮮史理解のポイントは、筆者の考えでは、古代史と近代史にある。だから、そこを中心に述べるつもりだが、どうなることやら。いつものことながら、保証の限りではない。

▼近代という「青春時代」を奪われた歴史

 まず、筆者の結論めいたものから述べよう。朝鮮人は日本人によって「自立の時代」を永久に奪われてしまったのだ。人間個人にとって「自立」とは、ふつう自我に目覚める青春期に体験するものだ。現代国家にとっては、「近代国民国家」というものを自ら作ったときがそれに当たる。朝鮮史の近代の開幕は1860年代とされるが、それは1910年の大日本帝国による併呑によって幕を閉じられた。つまり、朝鮮にとっての「明治維新」は日本によってあらかじめ奪われてしまったのだ(中国では1911年に「辛亥革命」として「成人式」が挙行されている)。

 これが根本トラウマである。これは「明治維新」を持つ日本人には理解できない痛みである。日韓併合に至った朝鮮側の未熟さはもちろんあったが、ともあれ永久に「自立の時代」=「朝鮮人による近代国民国家樹立の機会と時間」は奪われてしまったのである。併合の中でも新知識や技術を蓄え、解放後の国家のための準備はそれ相応に出来てはいただろうが、「自分たちの近代」という時代は失われていた。言わば、「青春時代」に自ら大人に成ることを奪われ、気がつけばすでに大人に成っていたようなものである。

 さて、国家が「近代」において見出さなければならないものは「国民」であった。それが朝鮮では「民族」であると規定されている。別稿で何度も述べたように、実は「民族」とは虚構である。しかし、「青年」であった戦前日本、辛い「青春時代」を過ごした中国などと同様に、朝鮮人も「国民」と「民族」とを混同して理解しようとする。そして、現在につながる過去はすべて「民族」すなわち国民(nation)の歴史であったと思おうとし、そのようなものとして、過去の歴史を回想するのである。(注)

(注)「国民国家」から生み出されたのが「民族」概念である。つまり、民族が国民国家を作ったのではなく、国民国家の正統化のために民族概念がある。なお、有名なスターリンの「民族」定義とは、ロシア語「natsiia」(国民)の日本語への翻訳語にすぎない。「民族」とは、日本国民が「日本民族」の歴史的存在証明のために造語した日本製漢語なのである。


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