鶏林(ケリム)望見A 
-- 韓国人の歴史:「近代」を失い、奪われた「国民国家」--

01年9月01日
萬 遜樹

(二)「民族」の「始まり」について

▼檀君を始祖とする古朝鮮

 では、朝鮮の「始まり」について述べよう。朝鮮史は「檀君(ダングン)神話」から始まることになっている。檀君というのは『広辞苑』によると、「朝鮮の開国神話で、天命によって降臨した、古朝鮮の開祖。名は王倹。檀樹の下に降臨した天帝の子恒雄(ファヌン)と熊女(ウンニョオ)との子。平壌に都し、1500年間統治したという。朝鮮民族の始祖・象徴とされ、檀君を崇拝する民間宗教もある。韓国で一時使用された檀君紀元の元年は西暦紀元前2333年。」とある(「一時」とは、大韓民国の初代大統領・李承晩政権下でのこと)。

 お分かりのように、日本では神武天皇の役割だ。これが韓国の「国定歴史教科書」にちゃんと載せてある。「古朝鮮」というのは、半島に前漢の植民地である楽浪郡など四郡が置かれるまでの時代を言う。紀元前二世紀の終わり頃までである。朝鮮人はしばしば「朝鮮民族は五千年の歴史と文化を持つ」と言うが、その論拠がこの檀君紀元なのである。古朝鮮の領域は、後ちの中国満州のおよそ南半分と現北朝鮮の北半分にほぼ相当すると同教科書には図示されている。

 朝鮮史ではこの古朝鮮がすべての前提である。「朝鮮民族」はかつてこの領域にあり、やがて半島すべてに拡がったというわけだ。だから、高句麗人はもちろん、渤海人もまた、初めから「朝鮮民族」なのである。古朝鮮の記録は、古代日本と同様、中国にしかない。そこでは、周が箕子という殷人を「朝鮮」王に封じた(箕子朝鮮)とあり、次いでその国を衛満という燕(今の北京を都とする分封国)人の武将が襲って奪い、新王朝(衛氏朝鮮)を開いたとある。これを前漢の武帝は倒し、四郡を置いたのだ。

▼「古朝鮮」史を「国民史」と言えるか

 わが紀記の建国神話が本当に古来からの言い伝えではないように、建国神話とは意外にも、歴史と同様、作られたものである。たとえ史実の投影があろうとも、せいぜい成立期のその一昔前程度のものにすぎない。檀君神話が顕在化するのは高麗時代のことで、蒙古来襲の十三世紀に僧侶の一然が著した史書『三国遺事』にその神話は初めて明確に語られる。奇妙なことにそこまでの間には、高句麗・百済・新羅が鼎立した三国時代や約260年間の統一新羅の時代が寡黙に横たわっている。

 韓国教科書の言い分はこうだ。さすがに実在とはしないが、「檀君」に擬せられる王が生まれるほどに朝鮮文明は十分に熟しており、しだいに古朝鮮王朝として成長していったと。だから、中国文献に登場する伝説の「箕子」とは実は朝鮮人であったか、古朝鮮の一部を担った「中国人」(注)であろうと。また、実在と認めてよい衛満は確かに燕に居たが、「民族」的には朝鮮人であったろう。なぜなら、王都(平壌か)へ入場のとき、「朝鮮民族」の風俗をしており、それに「朝鮮」という国名も引き継いだのだから、と述べる。

(注)これも現在から逆算した奇矯な言い方ではある。たとえその「中国人」を「漢民族」だとしても、現在の漢民族ではないのだから。

 「民族」(nation)とは、実は近代国家(nation-state)を前提とした言い方である。まあ、そこまでは言わないまでも、古代人がそのまま現在の国民になったとは言えない。わが日本でも、長らく中央政権に従わなかった関東以東の「毛人」や「蝦夷」は、少なくともその時点では日本「国民」(nation)と呼べないであろう。だから、古代日本史とは正確には日本列島地域史であって、決して日本「国民史」ではないのである。同様に、古代朝鮮史とは朝鮮半島及び満州地域史として理解しなければならない。

 にもかかわらず、朝鮮人はなぜ「檀君」を、そして「古朝鮮」を持ち出すのか。言うまでもなく、「朝鮮」の望ましき「始まり」を語りたいがためである。「朝鮮」は中国文明とは独立にあり、かつ現国土よりも広大な領土を有する「民族」であったと語りたいがためである。揚げ足を取るようで心苦しいが、檀君紀元とは中国の堯舜神話の堯帝即位年から弾き出されたものである(注)。それに、古朝鮮の版図とは「朝鮮民族」ではなくツングース族の拡がりであり、それはかえって「民族」の起源について馬脚を晒してしまっている格好なのである。

(注)全くわが神武紀元と同様、後世の操作によって作られた代物である。そうしなければならなかったことは、「朝鮮」への中国文明の影の深甚さを逆証明する。

▼三国時代から新羅統一まで

 檀君建国−箕子朝鮮−衛氏朝鮮の後ち、前漢による四郡設置である。この植民地が現平壌やソウルあたりの半島主要部を支配・経営している頃、周辺地域では諸族が古代国家に向けて成長していっていた。南満州の扶余(ブヨ)、そこから分立したと言われる高句麗の二国が北にあり、半島東部には沃沮(オクチョ)や東ワイ(トンイェ)があった。そして半島南部には辰(チン)が成長していた。そこからは三韓(馬韓・弁韓・辰韓)が、さらに百済・加羅(駕洛)・新羅が登場する。

 後漢の衰えとともに、特に高句麗の活動が活発になり、燕地−遼西(遼川西域)−遼東(同東域)−朝鮮領を結ぶラインで激突が始まる。後漢末の豪族・公孫氏、それに替わった魏、次いで晋も、楽浪郡南部を帯方郡に再編するなど維持・再建に努めたが、313年ついに高句麗によって中国植民地は滅ぶ。こうして満州東南部から半島北部までを領有することになった高句麗の前に現れたのは、半島南西部の馬韓領域を統一した百済、そして南東部の辰韓領域を統一した新羅であった。この三すくみの情勢を三国時代と言う。

 中国植民地の時代がわが列島では弥生時代におよそ相当する。そしてこの三国時代は古墳時代にほぼ平行してあり、676年の新羅による統一で終結する。当初、最も強大な高句麗が優勢で、倭国は加羅(任那)問題や百済支援などで、渡海して高句麗とも戦ったという。しかし実はこの三国時代は中国の混乱がそれを可能にさせたものであった。強国・高句麗の背後に、ついに統一を成し遂げた隋、さらに唐が迫る。

 結局、半島を制したのは唐と連合と結んだ新羅であった。この情勢を受け、わが国では645年に大化改新が起こり、663年には百済救援のため援軍を送るも、白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫して、とうとう百済は滅亡する。わが国ではさらに672年に壬申の乱と激震が続く。668年には、高句麗も連合軍によってついに滅亡。新羅は植民地再建を画策する唐を果敢に半島から駆逐し、676年に半島を単独統一する。

▼「朝鮮」と「韓」という問題

 ここで「朝鮮」と「韓」ということを考えておきたい。奇しくも、現在の北朝鮮は「朝鮮人民共和国」、そして南朝鮮は「大韓民国」という国名である。「朝鮮」という名は、すでに述べたように実は中国あるいは北方系のものである。それに対して「韓」は「三韓」の通り、朝鮮半島南部に発する名である(現在の南北分断の現実がこの記憶を改めて呼び起している模様で、互いに「韓」あるいは「朝鮮」は禁句であると聞く。例えば、韓国では「朝鮮史」とは言わず「韓国史」と呼ぶ)。

 実はこれは、まさに「朝鮮民族」の生成そのものに関わる構図なのである。「朝鮮民族」とも「韓民族」とも言われるが、どうして北方の「朝鮮」と南方の「韓」がイコールなのであろうか。ひとまずの解答としては、三韓の一国である新羅が半島統一を初めて成し、最長で最後の王朝が李氏の「朝鮮」王朝であったことをあげておこう。しなしながら、問題の本質はそうではない。「朝鮮民族」とは何であるかという問題なのである。

 朝鮮(韓)人も日本人もモンゴロイドである。詳しい出所は不明であるが、日本人は縄文人と弥生人との混血人種であろう。同様に、朝鮮人とはツングース人と韓人との混血人種なのである。つまり、「朝鮮民族」とはいくら早くとも新羅による半島統一以降の融合産物と言わざるを得ない(注1)。そういう意味で、扶余人や高句麗人は、それに渤海人も「朝鮮人」ではない。まだ、北方ツングース人の段階である。もしも強引に彼らを「朝鮮人」と言い張るなら、仇敵であったはずの女真・満州人(注2)も「朝鮮民族」とせざるを得ないと思うがどうだろうか。

(注1)朝鮮語もそういう産物の一つである。朝鮮語は、日本語と同様に「中国」語(漢語)の核と吸引力によって初めて実質的に形成された言語と考えるべきだろう。
(注2)渤海はツングースの靺鞨(まっかつ)人の国で、後ちに女真人と呼ばれたが、彼らが朝鮮に攻め入った金や清の王朝を興した。

 別稿でも述べたのだが、韓人(注)とは華南からやってきた古アジア人である(彼らこそ、列島へ水稲耕作を運んだ弥生人でもある)。少なくとも北方ツングース人とは全くの別族である。北方と南方とのせめぎ合いから「朝鮮民族」は誕生した。これで良いのである。現代の南北の呼称論議は歴史的な問題ではなく、すでに融合して誕生した朝鮮人を反歴史的に解体・分解しようとする実質無効の政治的攪乱(かくらん)であるに過ぎない。

(注)念のために申し添えておけば、百済人、加羅人、統一以前の新羅人もまた、そのままでは「朝鮮人」ではないということだ。


戻る