(三)統一新羅と高麗王朝、そして再びの朝鮮王朝へ
▼三つの統一王朝と日本の時代区分
新羅による統一以降を整理しておこう。日本史に比べて、朝鮮史の政治区分は明解である。易姓(えきせい:王族の姓がかわる)革命の王朝交替であるからだ。
金氏による統一新羅(676〜935年、259年間) 王都:金城(現慶州)
王氏による高麗(918〜1392年、474年間) 王都:開京(現開城)
李氏による朝鮮(1392〜1910年、518年間。ただし、1897〜1910年は「大韓帝国」の国名) 王都:漢城(現ソウル)
統一新羅の時代は、わが奈良時代と平安初期に相当する。なお、新羅と平行して、旧高句麗の北領部には渤海国(注)があった。新羅と対立しながら、大陸文明の一国として、わが国とも親交浅からぬものがあったことを付言しておく。次の高麗は、平安から鎌倉時代にほぼ相当する。元寇はこの時期のものだった。そして李氏の朝鮮は、何と室町から江戸時代を越え、明治43年に至る王朝である。豊臣秀吉の朝鮮侵攻から日韓併合まで、同一王朝下での出来事なのである。
(注)699年、旧高句麗人(高句麗遺民)と連合した靺鞨(まっかつ)人が唐を押し退けて建国した。当初、震国と称した。むずかしい問題だが、人種的にはともにツングースで、筆者にはその違いはむしろ建設した国家から来ているように思われるのだが。
▼統一新羅の時代
新羅の領域は、実は半島北端には至っておらず、平壌も唐の支配下にあった。現国境線は李氏王朝のときに定まった。新羅の統一以来、朝鮮人の主張はかつて高句麗が領有した南満州までが朝鮮領土だというものだ。王朝国家が言うならまだしも、現代朝鮮人がこう言うのは、結局、檀君の古朝鮮の領域に淵源する幻想である(それは新羅と渤海を合わせた以上のものを望むことだ)。別稿で述べているが、そもそも王国や王朝に「国民」は存在せず、その領土も「国民」のものではない。主権者は各々の王であり、領土はもちろん領民さえもその王たちの私有物である。
それはともかく、勝利者たる新羅は飛躍的に拡張した領土と領民を、骨品という身分位階制度に基づく新羅貴族たちに論功行賞として分け与えた。そして唐王朝にならい、中央集権的に支配しようとする。しかし平和はやがて貴族社会を固定化させ、統一から百年経った八世紀後半からは、中央で王族金氏を中心にした王権を争う殺し合いが始まる。次いで、地方では貴族の収奪に耐え切れなくなった農民たちの暴動が頻発していく。
こうした動きと結び付いて、地方豪族が育っていった。十世紀頃になると、とうとう王を僭称する者が現れる。それが旧百済の故地である武州(現全羅道)地域を制した「後百済」と、旧高句麗南領を制した「後高句麗」である。新羅王権はもはや王都周辺の地方勢力と堕した。これを「後三国時代」と言う。それにしても、豪族たちの命名に注目願いたい。これは単に前の「三国時代」を意識したものだけだとは思えない。統一新羅に溶け込んだかに見えた「百済」や「高句麗」はどっこい生きていたと言うべきだろう。真の統一や融合への道は遠く険しい。
付け加え的で申し訳ないが、新羅の文化について一言。国教とは布告されなかったが、新羅文化の背骨は同時期の日本と同様、仏教である。よく言われることであるが、朝鮮文化は長らく日本文化の兄(注)であった。その一例を挙げておく。日本の華厳宗総本山は東大寺であるが、その華厳宗は新羅華厳宗の流れを汲むものである。かの、お水取り(修二会)も新羅仏教文化の匂いに満ち満ちている。
(注)ただし、親である中国文化を仕入れるための、である。ここに日韓の古代文化理解の齟齬のもとがある。このあたりのことについては、稿を改めて考えてみたいと思っている。
▼高麗の時代---「三国(二族)融和」問題
高麗は、後高句麗(泰封国)下の一豪族であった王建が、918年にそれを乗っ取って建てた国である。後百済を大敗させた高麗に、935年ついに新羅王は投降する。翌年には後百済も滅ぶ。時に936年、統一高麗王朝の始まりである。大陸に直接隣接する半島は、いつも大状況の中に置かれることを強いられている。後三国時代も、大唐の衰退が背景にあったと言えよう。その弛みに満州では契丹人の国が膨張し、渤海はこれに滅ぼされる(注)。中国に侵入した後、彼らは遼と名乗るが、それは高麗にも襲いかかって来た。
(注)渤海人たちは多く高麗に逃げ込んだ。これでもって、高句麗人→渤海人→高麗人という「朝鮮人伝説」がつながったわけだ。
この高麗史こそ、受難の涙史と言ってよい。1000年前後には契丹に王都まで侵略されるがこれを跳ね返して、かえって半島北端まで奪取し、長城を築いている。しかし12世紀に入ると、今後はその遼を滅ぼしながら、女真人(金)が襲う。高麗はこれに服属している。さらにその金を滅ぼして、蒙古人が襲いかかってきた。30年ほどの抗戦の後ち、高麗はついに蒙古の支配に屈する。その強圧的な属国化は約100年に及んだ。
この高麗時代にはいくつかのポイントがある。朝鮮史の曲がり角であったが、内外の困難で曲がり切れずに次の李氏の朝鮮にバトンタッチした感はあるが。まず「高麗」という国名であるが、これはもちろん「後高句麗」を踏まえたものである。ここには明らかに南部の韓族であった征服者・新羅への「高句麗人」としての対抗心がある。中国同様の科挙制が採り入れられるが、これは新羅人以外の貴族に官途を開くためである。その一方で、新羅貴族を取り込み、また新羅諸制度も継承されていた。
この「三国(二族)融和」問題は、朝鮮史を貫き、現在の南北間の齟齬的感情にまで至っているように思える(わが国の東西文化対立もそうだが)。新羅末に中国から本格的な風水思想が入ってくる。この基本は都城地理や古墳玄室内壁画での、東西南北の四神相応などとしてご存知だろう。道教的なものは東アジアで盛んだが、日本では暦の六曜など陰陽道として、朝鮮では霊的地理の風水説として現在も根強く民衆に信じられている。
太祖王建は十ヶ条の遺訓を残したが、その八番目にこの風水説に基づき、現全羅道地域は地形が「背逆」の相にあり人民の心もまたそうだから、そこからは人材を登用してはならない、と説かれてあった。これは風水だけによるものではなく、高麗統一時に、後百済が最後まで抵抗した記憶もあったことだろう。ともあれ、旧百済人末裔たちは以後、地域差別を受け続け、中央官職から排除されてきたことは事実である(注)。朝鮮史を貫く農民暴動も、実はこの全羅道地域を中心に起こることが多く、また最も強盛であった。その「伝統」は、日清戦争を呼び込んだ東学農民戦争までに至る。
(注)それは、当地出身の金大中氏が現大統領に就任するまで続いていたと言ってもよいほどだ。この地域間の感情対立は、選挙時の各候補者への支持地域を見れば一目瞭然である。なお、全羅道差別とは別に、東北部の咸鏡道への地域差別等もあった。両地等への差別は李朝にこそ本格化する。
▼高麗の時代---蒙古の襲来と支配
高麗の項で思わず長くなっているが、もう一つ述べておかなければならないのは、蒙古支配前後によって変化していった政治と思想の流れである。太祖王建の遺訓の第一条には、仏教帰依が説かれている。護国仏教である(わが国との平行現象と言ってよい)。そこに費やされたエネルギーの膨大さは、いまも海印寺にあり世界遺産に指定されている仏典彫板『高麗八万大蔵経』に残されている。この事業は三次にわたっているが、北方からの外敵襲来に見合うものであり、文字通り仏教の功徳(霊力)によって国を護ろうとした営為であった(先述した『三国遺事』もこの頃の成立だ)。
しかし一方で、儒教経典に基づく科挙を始めていることからも分かる通り、早くから儒教も採り入れられており、文武官僚(両班)たちは儒者化していた。1135年には、妙清という僧侶が西京(平壌)で、仏教解釈と風水説から西京への遷都を強く主張して反乱を起こした。これに対して、文官儒者の金富軾らは反対し、翌年ついに武力制圧した。こうして、前代の仏教と次代の儒教との対立が始まった(文官と武官の対立もある)。なお、新羅建国から書き始められる、朝鮮初の史書『三国史記』はこの金富軾によるものであり、自身の新羅金氏の血脈が高麗王族に流れ込んでいることを証明しようとするものであった。
相次ぐ内憂外患は武官の力を高める。ちょうどわが国で武士による鎌倉幕府が開かれたように、同時代の12世紀末には、武官崔氏による政権が誕生する。このまま歴史が進めば、以降の日本のような分封国の時代が訪れたかも知れない。しかしそこに蒙古が襲来する。たまたま今NHKの「大河ドラマ」で「蒙古襲来」が日本初の国家存亡を賭けた大変な戦いとして描かれているが、笑わせてはいけない。日本は対馬や壱岐、北九州沿岸を暫時襲われただけのことである。
1232年、崔氏は王都対岸の江華島に王家と官僚を引き連れて逃げ込んだ。これからが凄い。本土の領民には徹底抗戦を命じ、蒙古軍はこれに応えるかのように数次にわたり半島を南北しながら略奪・殺戮をほしいまま繰り返した。その間、島の中では何が起こっていたか。何と、武官崔氏と文官たちとの党争である(これこそがもの凄い!)。文官が勝利し、1259年に太子(明年、元宗となる)は蒙古に行き、降伏した。
その後の約100年間、高麗王は「宗」の称号ではなく「王」を名乗らされ、かつ蒙古皇帝の娘を王妃とさせられていた。日本侵攻への従軍も、蒙古への完全なる服属下での出来事である。その支配の長さは、鎌倉幕府の滅亡年を越えてある。しかしその苦難のほとんどは領民が背負い込んだ。「事大主義」の高麗貴族は中国王朝となった元へ臣従することで自らの利益を守ろうとする。王も見方を変えれば、皇帝の婿となったのだからと(事実、モンゴル人の血は王族に流れ込んだのである)。
▼朝鮮の時代へ
高麗末期の悲惨さは、両班たちが統治ではなく党争を政治だとして微塵の疑いも持たなかったことだろう(これは次の李朝でも同じだが)。朝鮮は伝統的に中央集権の国である。しかしそれもこの頃には崩れ、すでに大地主化していた寺院とともに貴族たちの私荘園が拡がっていた。結局、どんな世であれ自分の利益になりさえすれば現状維持でよしとする親「元」・仏教派の旧貴族支配層と、ともあれ現状打破を求める親「明」・儒教派の科挙官人や新興層との対立へと収斂していく。
大状況はまたもや流動し始めていた。ようやく元は衰退し始め、中国では白蓮教徒の紅布の乱が膨れて、そこから朱元璋が現れ、モンゴル人を北へ追いやり、1368年に明を建てる。一方、半島では南部沿岸を中心に倭寇による被害が拡がっていた。これに当たり大功を立てていたのが、やがて朝鮮王朝を開くことになる武官・李成桂であった。高麗貴族はこの大状況に対してどうしたのか。元と明のどちらを「大」とするかの「事大主義」党争である。
李成桂は親元派に指示されて、蒙古と連合して明を討つため、鴨緑江まで進軍する。しかし情勢を深く読んだ李成桂はその中州で取って返して、開京へ攻め込み、親元派の王と貴族を追放した。かくして、親明・儒教派の世となり、1392年ついに李成桂は禅譲を受けて、自らの王朝を始める。太祖である。国号の「朝鮮」は、もう一つの候補「和寧」(李成桂の出身地である半島北端部・咸鏡道南端の永興の別称)とから、明皇帝に選んでもらったものである。これは中国と関係の深い「朝鮮」を選び、独立色の強い「和寧」を避けたとも言える。
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