本日、この研究所に所長の幸先生のおかげでお招きいただきましてありがとうございます。私は、日本語の原稿を作れなかったので、簡単な英文の原稿を基にして日本語で話そうと思います。拙い日本語で本当に申し訳ありません。私は宗教学をやっていまして、最初の頃は西行法師のことを勉強したのですが、だんだんと現実の社会と宗教の関わりについて興味が深くなりました。そして、20年前に京都で一年滞在した時、東山の方の水子供養のことを知って、それとアメリカの中絶問題のことをどう比較したらいいかということを考えまして、やっと本を書きました。そしてその後、アメリカではあまり討論されていない脳死・移植問題が日本で大きな問題になりまして、それもちょと比較して研究しようと思いまして、そしてちょうど京都に一年間おりますので、その勉強をできるだけやって本を書こうと思っています。その場合、今日のような会で私の言うことを訂正してくださることが、私の幸いになると思います。
1964年の春にニューヨークで、東京大学医学部の多田富雄教授が作った「無明の井」という現代的な謡曲を観て非常に興味を持ちまして、それと脳死の問題、移植の問題とどう関わりがあるかを考え始めました。そして、日本語で書かれている脳死についての本を読んでみまして、この問題は、私たちアメリカ人が考えているより大きな問題ではないか、と思いました。そして、31年前に日本ではじめての心臓移植をした和田寿郎先生に、私は三年前に東京で面会しました。それで何か、脳死とか移植を賛成する人の考え方を伺いまして、特に和田先生が熱心に移植を奨励する話を聞きましたので、日本における討論の重要性を分かるようになりました。その後、この日本の討論は、私たちアメリカ人の考え方に刺激を与える可能性があるのじゃないかと思いました。そして私は、アメリカ人が脳死とか移植について何を考えているか、ということを勉強しようと思いました。
今日、配りましたプリントは、全部英語で書いてあるのですが、アメリカ人の脳死とか移植についての考え方のご参考のために作りました。今日のお話の中でときどき参考にします。ご存じのように、先月の28日と今月のはじめに、死体から、日本の法律上、初めての臓器移植が行われました。その時、この手術はアメリカでは全体として受けいれられているということが日本の新聞に書いていましたが、私はそれほどではないという印象を受けております。というのは、アメリカの個人の学者や、生命倫理学をやっている人が、脳死は死であるか、そして臓器移植は本当に正しいことであるか、をときどき発言しています。特にユダヤ教のオーソドックス派のある人々が臓器移植に対してかなり抵抗を感じております。それだけではなく、最近の本にも再考する意見は出ています。例えば、1998年に出版された
Bioethics and Society という本に出ている Jeanne Guillemin の論文は、戦後アメリカ人がもう一つの戦いとして先端医学の研究を繰り返して奨励しました。そして私の大学の社会学者
Rene C. Fox と Judith P. Swazey が書いた Spare Parts という本に、ながい共同研究の後、臓器移植のエートスを批判しました(この本の日本語訳は、「臓器移植社会アメリカ」として今年出版されました)。シカゴ大学医学部の
Leon R. Kass は、「脳死の人の臓器を取り出すことは正しくないだろう」と書いています。
歴史的なアイロニーがこの事実に現われているのではないか、という気がします。というのは、アメリカ人が、最近、この技術に対する抵抗を感じ始めましたちょうどこの時、長くこの問題を論議してきた日本社会でやっとこの技術が少しずつ受け入れられていると言われています。それはちょうど逆のコースなんですね。私たちは今までほとんど問題にしなかったことを、今、反省しはじめたのですが、日本の社会が今まで賛成できなかった技術が法律になって、実行に移しています。このアイロニーは第一のポイントであると思います。
さて、今日のトピックは、日本の脳死・臓器移植の論議からアメリカは何を学ぶか、ということです。臓器移植に賛成する人の考え方の重要な三つの点を否定できないことについて最初に話をしようと思います。第一は、個人の立場から見ると、個人の患者が臓器移植によって命が延長される場合に、その方のよろこびと幸福を認めなければならないと思います。トリオジャパン会が編集された「これからの移植医療―
移植者たちからの発信―」という本に出てくる人々の、外国で臓器移植を受けた経験についてを読みますと、その人々の考え方がよくわかると思います。具体的に、この技術を支持することの中に、これは一番重要であると思います。そして第二のポイントは、そういう技術ができる医者たちの考え方。特に死にそうな患者に対する哀れみを示すこと。さっき言ったように、3年前に和田寿郎教授に会った時に一番印象深かったことは、彼によると、死にそうな患者に対する助ける技術は持っている、でも法律でそういう医療はゆるされていない。この場合に、医者の患者に対して哀れみと同情があることは、私たちが否定できないと思います。そして第三のことは、いわゆる愛他主義(Altruism)ということです。上智大学のアルフォンス・デーケン教授が、日本のあちこちで講演して、愛他主義を奨励しているようであります。デーケン神父によると、日本の社会において愛他主義はまだまだ深くなっていません。西洋の社会では、見ず知らずの他者に自分自身の死後の臓器を贈ることは、愛他主義の典型であります。私の印象では、公衆道徳の場合に、日本人よりも、私たち西洋人の方が恥ずかしいはずな
のに、全然知らない他人に対する愛他主義の場合は西洋人の長所であるかもしれません。したがって、いわゆる
Altruism の実際の表現として臓器を贈ることは、この技術の支持者の第三の重要なポイントであると思います。
では、この間の移植ができました時に和田寿郎さんが「この移植のできなかった今までの31年間は無駄になった期間だった」と言ったそうです。しかし、私はそうではないと思います。なぜならその31年間で、アメリカ人より日本人がこの技術について深く研究して、道徳とか倫理的な面も深く考えた気がしています。ですから、技術をやっている人にとってこの時間は無意味といっても、道徳と倫理の面を考えると、その時間に価値のあることが出来上がったと私は考えます。なぜなら、アメリカ人よりその31年間が、日本人の方が死と生、特に医学テクノロジーと生命倫理との関わりについて、私たちよりも深刻に考察したと思います。アメリカ人は、今まで中心のポイントを飛び越えて、一番重要なことを回避していました。しかし、今の状態を見ますと、この重要な問題は間接に現れている気がします。例えば、私のペンシルバニア大学のA・L・Caplan
教授が去年編集した「The Ethics of Organ Transplants 」という本を見ますと、大変おもしろいことがあると思います。
カプランさんの編集した本の一番大切なポイントは、アメリカ社会において臓器ドナーの人数とレシピエントの人数とのずれがますます大きくなってしまったことです。ですから、臓器をほしい人が増えたので、現在の大きな問題は、how
to fill the gap になりました。この不足を補うための提案は、カプランさんが編集した本に出ています。例えば、James
Lindemann Nelson という人の提案は、ドナーカードにサインしなくても、病院で脳死の人の臓器を取ることはよろしい。人が実際にサインしなかった場合、死人が本当に心で寄付したかったと推定されます。これはアメリカではまだ法律になっていないのです。もう一つの提案は、死の定義を変え、脳死じゃなくて脳幹がまだ大丈夫である人の場合、移植のために臓器を取ることを是認しましょう。というのは、植物状態の人は人間としての価値がないものと考えて、その臓器も取ってもいいと提案されています。しかし問題はそういう植物状態の人々は、まだ自分の力で呼吸しているので、死んでしまったと言うのは、ちょっと難しいところです。カプランさんもそれに賛成できません。もう一つの提案は、死者の臓器を寄付する遺族にお金を払うことです。お金を払えばドナーの人数が増えるかもしれませんが、お金を払う場合は愛他主義の意味はなくなります。その上、臓器のためにお金を払うことは何か非常に経済的なことになるんではないか、大変不気味なことであると思います。結局このような色々な提案を考えますと、ただ臓器の不足を補う方法に限られており、この技術の根本の問題を直面し
ていないと私は思います。ですから、日本の31年間の脳死・臓器移植についての論議と比較すれば、アメリカの現在の方法についての討論は、まだ中心の倫理問題を認めず、かなり浅いのであります。
さて、残っている時間で、アメリカ人が日本の討論から何を学ぶかをまとめたいと思います。第一は、私たちが、脳死という問題はまだアメリカの社会で解決されていないと認めることだと思います。アメリカ国民が、今まで医学の発展を何時も近代の奇跡として受け入れるのですが、そのいわゆる奇跡の中にいろいろな危険が残っていることを否定してはいけません。私は、日本の本を読んでから、脳死の人の体の実際の状態をはじめて知りました。脳死といっても、人の体はまだぬくもりがありますね、まだ暖かい。その体はまだ涙と汗が出ます。その体に床ずれがあるので、ときどき看護婦さんが横に向けなければいけません。そして、脳死であっても、妊婦が子供を産むことが出来ます。一人の女性の方が、イギリスで六週間脳死の状態で、妊婦のままで、赤ちゃんを生みました。そういう状態で、人が死んでしまったということがいえるでしょうか。一番難しいことは、アメリカの一般の人がこういうことを全然知っておりません。これは隠されているんでしょうか、私は心配しています。森岡正博教授が、「洗脳としての科学文明」という言葉を作りました。私が気になったことは、アメリカの一般
の社会で、臓器のドナーを増やすために一つの大きなキャンペーンがあります。例えば、ご存じのように、何か運動の場合に、アメリカでは車のバンパーに張り付けてあるメッセージが多いんです。私の大学のすぐ近くで、"Please
don't take your organs to heaven; Heaven knows we need them here"
。 「自分の臓器を天国まで持っていかないでください、天国が、そのものはこの世に必要であることを知っている」。そしてもう一つバンパーに、"Organ
donation - the only cost is a little love"。「臓器の寄付、コストはほんの少しの愛」というのを見ました。しかし、自動車のバンパーまでになった大きな運動は、どうして必要であるかと考えますと、潜んでいる意義があると思われます。私だけの印象ですが、この事実は、アメリカ人の中にも、死体から臓器を取ることに抵抗を感じる人がまだかなりいるのではありませんか。言い換えれば、死体を人間の体として大切にしたい人々が未だ多く残っているようであります。歴史を調べると、死者の身体を尊敬することは、西洋の宗教でも大切にされたのであります。例えば、中世のローマ法皇も、現在の先端的な医学技術で行うこと、特に死体を切ることを禁じました。
Anne Marie Moulin が次のことを書きました。 "Pope Boniface Vlll forbade
the cutting up of remains, evisceration, in short, all the practices that
are now necessary for the transplantation of organs." そして、これに従って、約20年まで、カトリック信者は臓器移植ドナーになってはいけない、と神父に教えられていました。
ですから、キリスト教は古い伝統ではなく、近代化すればするほどこの新しい技術を「近代の奇蹟」として受け入れたのではないか、という気がします。それにしたがって死体への尊敬と亡くなった人々を記念することは消えるようになるのは当然であります。
私は自分の家族の経験として、その変化のプロセスを思い出します。聖書を読みますと、マタイ伝の8:21―
22に、イエスさまと弟子の対話の言葉を引用して、「また弟子の一人が言った。主よ、まず父を葬りに生かせてください。イエスは彼に言われた。私にしたがっていきなさい、そしてその死人を葬ることは死人に任せておけばよい」。これはどういう意味でしょうか。これは私の父の家族で問題になりました。私の子供の時代に、おじいさんとおばあさんがこの聖書の箇所について討論しました。その時までおばあさんの姉妹には亡くなった両親のお墓に花を奉じる習慣があって、年に3、4回墓参りをしていました。しかし、私のおじいさんがそれに反対しました。なぜなら、この聖書のことばから、墓参りということはキリスト教と関係ないので、亡くなった人は亡くなった人、死んでしまった人は死んでしまった人で、私たちと関係ないと言いました。これは、私の家族の中でかなり討論しましたが、結局おじいさんの考えかたの方が強かった。特にお墓参りはヨーロッパのやり方でありましたが、アメリカのキリスト教のやり方は、もっと聖書通りにお墓参りをしましょう、という主張でした。私が今そのことを考えますと、墓参りをやめることは、本当にキリスト教の教えであるのか。そうじゃなく
て、かえって近代的な効率主義の考えではないでしょうか。墓参りということは、時間をつぶして無意味であり、亡くなった親戚は天国に行ってしまったので私とは関係ないということです。
社会の近代化と効率主義との関わりは密接であります。墓参りは大事な時間をつぶすことだと思えば、亡くなった人の死体を利用しなければ勿体ないという考えが出ることは、当然のプロセスであると思います。効率主義の立場で、不用にしてはいけないものの中に人間の死体、そして脳死の人の体もはいることになります。一つであると思われているので、「あなたの愛する人の体を無駄にしないで下さい」とは、集中治療室の外にいるアメリカの遺族によく言われています。ですからこの医学技術に近代的な効率主義が潜んでいるのではないか、日本の倫理学者の批判で現われることは、当たり前だと思います。
さて近代医学、特に近代的な医学テクノロジーに対して、アメリカの宗教団体が尊敬の念を持つことは大変興味深いと思います。特にそういう医学のレトリックに利用された言葉は聖書であり、「他人のために与える」とか、「医の奇跡」、臓器の収穫などは聖書の言葉であります。どうして近代医学にこの言葉は適用されるのですか。私はこの問題に対して考えましたけれども、一つの仮説があります。昔から西洋の宗教はかなり科学に対して反対する立場をとりまして、ご存じのようにルネッサンスのコペルニクスとか、19世紀のダーウィンの進化論に対して反対した立場をとった宗教団体がありました。そういう反対は大抵は間違いでした。そこで今度は今までのと違って、あんまり技術に対して抵抗を感じて反対することはあぶないという考え方が多くなったんです。ある程度までアメリカの宗教団体も、医学に対して反対せず、かえって尊敬の念を持つことになりました。その点で日本はちょっと違って、宗教団体がいろいろの理由で、近代的なテクノロジー、特に医学のテクノロジーに対して注意している立場をとっているみたいです。私の印象ですが、アメリカ人が移植を倫理の問題として取り
扱わずに、その代わりに中絶の問題を大切に扱いました。しかし、中絶は昔からの問題、人間の歴史とともに続いている問題なんで、新しいことではありません。この点では、近代的な技術が大変違って新しい困難な問題を起こしているのです。ですから、アメリカの宗教は新しい問題じゃなくて、昔のままの問題を取り扱っているのです。ある意味において、伝統的な立場に固執しているだけで、現在のことに直面する勇気を示しえていないと思います。
印象深いことは、去年の9月頃、日本のテレビで見ましたことは、一人の日本人の方が自分の夫がアメリカで臓器移植をもらう予約があって手術の機会を待っていました。しかしその婦人は大変複雑な気持ちで、アメリカ人が何かの事故で死ぬことを望んでいるということを自認しました。正直で、彼女は、名前も知らない外国の相手の死を希望していることは、それは一種の利己主義であると認めました。これは非常に複雑なことで、道徳的な面でも問題になるんじゃないか、と私は思います。
さて、次に臓器を貰いたい人の心理と倫理の問題は、アメリカより日本ではっきりと直面されているという気がしています。しかし、このことは臓器を貰いたい人だけではなく、私たち皆、先端的な医学テクノロジーに対する希望はますます強くなり、そして永遠に生きたいという人間としての欲望が激しくなります。結局、ある人が他人の臓器を貰うことは一つの権利になったと思っているのです。ですから、アメリカのようなところでは、寄付される臓器の数が足らなければ、病気のためではなく、ドナーにならない他人の利己心のために、貰いたい人が死ぬと思われているようであります。死にそうな患者の心に、他人に対するこの様ないやな恨みが出るのは、非常に残念なことであります。これほどの恨みを感じなかったことは、昔の人のある幸せの原因であったと思います。
最後に、ハンス・ヨナスの哲学によって、以上の愛他主義、そして欲望の問題について考量を纒めて見たいと思います。ハイデガ−の弟子、ユダヤ系のヨナスは、特にテクノロジーと倫理の問題を取り扱って、ついに「Against
the Stream」(流れに抗して)という論文で死体の臓器移植を、道徳の面で抗しました。私の考えでは、ヨナスの重要なポイントは、「The
Imperative of Responsibility: In Search of an Ethics for the Technological
Age」に出ている「the heuristics of fear」(恐怖の発見力?)という概念であります。
In our search after an ethics of responsibility for distant contingencies,
it is an anticipated distortion of man that helps us detect that in the
normative conception of man which is to be preserved from it. And we need
the threat to the image of man - and rather specific kinds of threat -
to assure ourselves of is true image by the very recoil from these threats......Therefore,
moral philosophy must consult our fears prior to our wishes to learn what
we really cherish.
これによって、ある先端的なテクノロジーに対する我々の心配や恐怖が、我々に大切なことを教えている、とヨナスが指摘しています。我々は、その恐怖を、恥ずかしいことではなく、かえって我々人間の人間性を保護させる助けとして認めなければなりません。ですから、今の西洋人がクローンに対する心配をかけ、そして多くの日本人が、臓器移植に対する抵抗を感じることは、両方ともヨナスが大切にした「恐怖の発見力」の表現ではないかと思います。
この哲学の見方を、今の問題に適用してみれば、次のことになると思います。人間というものは、いつか死ななければならないことを、やむ得ないこととして今まで皆うけとめていましたが、未来死ぬことは技術によって不必要になる希望を持っている人がこのごろ出てきて、特にお金がある個人が、繰り返し臓器を移植して貰うことによってほとんど永遠に生きることを望んでいるそうです。というのは、技術による、今までの人間性を変化させることを期待しているので、いつもの欲望を刺激させるわけになります。それだけではなく、ヨナスによると、もし我々が人間性を変化すれば、その変化の予見でいきない悪い結果を、体験をやむ得ない人々は、我々いま生きている世代ではなくて、将来に生まれる我らの子孫であります。そういう意味で、愛他主義ということは、いま生きている個人に対することだけでなく、いよいよ未来の全ての人々に対することにするべきことであると思います。
脳死体からの臓器移植を賛成すべきか、否定すべきか、ということは、おのおのの社会によって違うかも知れませんが、それにしても医学技術で人間の人間性を変化するプロセスに注意を払って、そしてどこかに停止を強要することは当たり前であると思います。どうも有難うごさいます。
●講演に対しての質疑応答
司会 いろいろなコメントとか、あるいはご意見とか、休憩の後に出していただこうと思いますが、今は講演に対しましての質問がありましたら、二つ三つして、答えていただいて、そして休憩に入りたいと思うんです。直接話の内容に対するご質問がありましたら、出してください。
奥原 大本の奥原と申します。アメリカでは、お墓参りをしないという考え方が出てきたということですけれども、現実的にアメリカの方でですね、全然お墓参りをしない方のパーセンテージといいますか、どのくらいそんな方がいるのですかね。
ラフレール パーセンテージは私は解っていないんですけれども、私の経験では、私の子供の時代におばあさんと一緒にですね、一年間に2回行きまして、しかし、5年前亡くなった父の場合ですね、お墓参りすることは一つもないんです。ですから、そういう考え方はだんだん減っています。アメリカの墓地に入りますと、お墓参りする人は少ないんです。(同じキリスト教でも)カトリックの場合の方が、まだありますけれども。パーセンテージは解っていませんけれども、ずいぶん減ったと思います。
生駒 生駒と申します。先生は先ほどアメリカの宗教団体は近代医療に対して畏敬の念を持ってきたと言われましたが、私は、それはリベラル派、いわゆるメインラインチャーチ(主流派キリスト教)の態度だと思います。今はどちらかというと、ファンダメンタル、保守派の宗派が強いようですが、彼らが同じ考えをしているとは思われないのですが、如何でしょうか。
ラフレール そうですね、私はよく知らないけれども、そんなに変わってないと思います。ある場合は、エホバの証人、それは、輸血とか、そういうことを許されていないんですが、それ以外に医学に対する尊敬もありますね。あるところはですね、in
vitro fertilization とか、体外受精に対して抵抗を感じる教会もありますね。移植とか、臓器移植に反対する教会はほとんどないんです。しかし、個人は違います。これは難しいポイントです。なぜならドナーカードを配っているんで、教会は勧めています。サインすることは教会の信者の道徳義務と言われています。その上、サインすることは非常に簡単であっても、人がやらない。なぜかとサインしない人に質問すれば、「私は忘れた、見落とした」とか。しかし、私の考えではそうではなくて、何となく深いところで抵抗を感じている人が多い。
司会 他に質問よろしいでしょうか。いろいろとお聞きしなければならないことが出てくるんじゃないかと思いますけれども、一応これで、20分ほどコーヒーブレイクということにしたいと思います。その後にですね、皆さんからいろいろとご意見とかコメントを出していただきたいんですが、そのトップバッターをですね、大本さん(大本教)の方にどなたかお願いしたいので、ご準備していただきたいと思います。大本ではドナーカードに記入しない運動ということをはっきりとなさっておりますので、大本の立場では教えから出てきているということですね、6、7分でご説明いただければ。それから、他の宗教の方もここにいらっしゃております、立正佼成会の天谷先生も来ていただいております、大本の後に数分でお話いただいたらと思います。また創価学会の方、それから黄檗宗や浄土真宗、の方にもその後お願いしたいと思いますが、最初は立場をはっきりと出しておられます二つにお願いしようかなと思いますので、よろしく。20分ほど、休憩に入ります。
それから、大本さんのですね、資料とか、創価学会の出されているパンフレットとか等ご持参いただいたもの、そこにおいてあります。他の方でも持ってこられたものありましたら、そこで皆さんに見せていただいたらと思います。
● 宗教者・研究者からの問題提起
司会 それではそろそろ休憩後の会を始めたいと思います。先ほどお願いしておりましたようなことで、いろいろな宗教の方にお話をしていただこうと思います。そのトップバッターを、大本の人類愛善会会長をしておられる広瀬静水先生にお願いいたします。広瀬先生は今日は大本の代表としてこられておりますけれども、日本のいろいろな宗教の集まりの代表などもしておられまして、そういう点も含めてお話ししていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
広瀬 僭越でございますが、ご指名をいただきましたので、最初にお話しさせていただきます、どうぞお許しください。ラフレール先生、とても良いお話をちょうだいいたしまして、心から感謝いたします。今日は脳死・臓器移植が是か非かということではなしに、宗教性、文化性、その他の問題が主となって、と承りますので、それを念頭に置きながら、わずかな時間でございますから、充分なことを申し上げることが出来ませんが、ごく簡単に大きな流れと申しますか、私どもが考えております点にふれさせていただきたいと存じます。一昨年この脳死・臓器移植の法案が衆議院に出まして、圧倒的多数で可決いたしまして、その前後から、もとより脳死臨調で、問題があったんですけれども、だいたい脳死臨調が多数意見として、脳死を人の死として認めるという意見が出されまして、その段階から、早くからでございますけれども、大本はこれに対する見解を述べておりました。他の宗教からも優れたご見解が出ておったわけでございます。衆議院を通過いたしました、ちょうどその年、日本宗教連盟の理事長が私の教派神道連合会へ回ってきまして、4月から理事長に就任いたしました年にこのことが
起こったわけであります。ここにいらっしゃる天谷先生も日本宗教連盟の大事な役員をしておられますので、充分ご承知のことなのですが、この法案が衆議院で可決いたしましたときに、かなりこれは、医師会の状況を言いますと、これも大変、医師会の内部でも疑問や疑義が出ておった問題であります。宗教界も様々な多様な意見がございまして、これをお勧めになっておられるキリスト教の方々をはじめ、また神道、仏教、新宗教の皆様とか、私どもの教派は、土着の宗教と申しますか、日本の中から生まれてきております宗教ですので、それぞれこれに対する意見はございました。けれども、脳死を人の死とすることには、宗教界のほとんどはこれに疑義をもち、もう少しこれを慎重に審議することを強く求めたのでございます。宗教界がこの人間の生死に関わる問題について黙っておることは、よろしくないんじゃないかと言うことで、方々からの意見が出まして、宗教連盟もこれをまとめまして、最大公約数と申しますか、宗教界の願いとしましては、人生観、死生観に関する問題は、宗教の立場からは非常に大事な問題でありますので、これは慎重審議していただきたいと、宗教界や医学界や法曹界や
、各界の意見を聞いて、慎重審議していただきたいということを、衆議院から参議院に送られました段階で、参議院の幹事長はじめ臓器移植委員会の皆様に意見を申し上げました。その時、天谷先生もご一緒でありましたので、ご承知でございますが。当時ご意見を出しておられました各教団の意見書も添えて、慎重審議していただくよう、お願いしたわけであります。その後の経過を詳しく申しておりますと、時間が無くなってしまいますので、慎重審議を承諾されたのでございますけれども、参議院では一転して修正案可決となりまして、6月17日(1997年)可決という運びになったのでございます。
そこで、それぞれ宗教界からのご見解が出ておりますのですが、大本の立場からこの脳死・臓器移植の問題について意見を申しておりますのは、第一番はやはり教義上、宗教上の見解でございます。これの根底になっておりますのは、大本の人間観、死生観、人生観でございますが、それが教えによって示されておる、それが根拠になっているわけでございます。もともとこの法案が出まして、脳死という概念が出てまいりましたのは、移植という問題が起こって、それで死というものの定義が改めて行われるという。従来日本の国では伝統的な死の概念として、やはり心臓死、三兆候死、人間のからだが冷たくなって、そして体が腐敗していく、でも24時間は荼毘にふさないで、蘇生するかもしれんと、そういうこともございまして、そういう死の伝統的な考えが、これは昔からあったのではないか。大げさに言えば、人類一万年来のものであったと思うんですけれども、それが臓器移植の問題から、死の定義というものが改めて法的になされるという、これに対してとまどいを、抵抗を感じたのでございます。大本の場合は、詳しく申し上げることが出来ませんが、一つは、この霊魂上の問題と申しましょ
うか、もとより人間は神様より創り出された尊いかけがえのない存在であって、霊魂と肉体から成って、その霊魂が死にかわり生まれかわりこの世に生まれたり死んだり永遠に生きていくんだという、そういう教えでございます。このことは、人工中絶の問題もございますけれども、生の始まりはどこからか、死はどこからかという、死の定義につきまして、大本の教えから申しますと、この霊魂と肉体から成る人間の、霊肉離脱の瞬間が、死の瞬間になるわけでございますが、それは一つの時間のプロセスがあって、最後に霊魂が肉体から離れるのは、心臓と肺、つまりこの心臓の鼓動と肺の呼吸、こういうものの全き休止によって想念である霊魂が肉体から離れていくという、そういうことが、私どもの教祖である出口王仁三郎が教典「霊界物語」で霊界を探検いたしまして、それを霊視しておるわけでございます。臨死体験とでも申しましょうか、その死は同時に霊界、新しい世界への復活、生を意味するわけですので、死の瞬間、プロセスがとても大事になるわけでございます。そういう意味から、霊魂が、脳死という状況は、まだ心臓が脈打って、暖かい体温が保たれておるということは、脳幹が不可逆
的停止ということを言いますけれども、それは脳幹機能の体温中枢がまだ残っておるんではないかという、それは死の瞬間を、一つで、どの時期が死の瞬間であるかという、決められるはずもございませんので、死の過程はやはり時間の流れがあって、そして死についていくのであります。そして、また、先ほどの伝統観念から申しますと、ちょっと記憶が間違いかもしれませんが、有名な植物学者の牧野富太郎先生なんかは、棺桶から蘇ったという、日本の伝統的な死の観念からお葬儀をして、その棺桶から蘇ったという例もあるように、これはやはり、必ずしも脳死が人の死であるということは決定的にいえない、と私どもは考えておるわけであります。まだ、暖かい体である、したがって生きた体であることについて、ここから心臓や肺をえぐり取ることについて、医師、現場におります医師から言いますと、非常に残酷な問題であると指摘されておるわけであります。
先日、バチカンの科学アカデミーの責任者であられた方とちょっとお話ししました。脳死は人の死ではないとこの方も申しておられまして、これはある意味では、自殺であり、他殺になると。やはりこの死の見解について、私どもは、これは、脳死ということが人の死とは認められない、これが一番大きな問題でございます。そしてまた、人間の体は神様から与えられている、仏教では「天上天下唯我独尊」という言葉がございますが、いろいろ深い意味がございますんでしょうが、一人一人がかけがえのない、その人しかあずからない霊魂や肉体を授かっておって、したがって個々の臓器はその人の個有のものであるという考えが基本的にございますので、それは何よりの証拠は、臓器移植いたしましたときに、拒絶反応が起こってくる。それを抑えるために免疫抑制をして、そのために内なる自然の破壊を、別な表現をいたしますとそうなって、そうしてこの体が、自ら自然ならこの体を守る機能がございますけれども、それを抑制するものですから、種々の感染をしたり、本当に臓器移植がバラ色なのかという。
そしてこの臓器移植は従来の医学でございますと、一人の患者にたいして、医師がその人を最後まで救命する、最後まで力を尽くすという、これが医の本質であったと思われるんですが、一人の医師が二人の患者を、どちらとも生かそうとすれば、この一人を生かして、一人を殺すという論理的に言えば大変矛盾をはらんだ。あるいはレシピエントの関係からしますと、他人の死を待って、自分に臓器が移植される、自分が生を生きながらえていくという。これは医療の本質から、本当のものであろうか。私ども全ての臓器移植を否定しておるものでもございませんし、現代医療の恩恵も与かっておりますので、最大限我々も医療に対する尊敬は持っておる、我々も自らかかっておりますので。でございますけれども、人間の死に至らしめるような臓器移植については、これをやはり承認するべきではないんではないかということを考えておるわけでございます。
こういう医療が、先ほどお金のことをふれられましたけれども、臓器売買などという問題が起こって、人の命が金に換算される、医療資源としてこれが巷に流行するというような、そんな文明というものが実際は今ご承知のように、幾つかの途上国においては売買が非常に盛んになっておる。アメリカではどうか知りませんけれども、臓器が足らないので、そんなことがバックにはあるんではと思いますが。こういうような問題を考えますと、これは、21世紀我々が今後共に共生の道を、みんなが仲良くすばらしい人生を歓喜する、そのような時代を迎えるに当たって、この医療が本当に先端の医療といえるのであろうか。私どもの願いは、今すぐというわけにはまいりませんでしょうから、過渡期の医療としてはやむを得ない面もありましょうが、出来れば移植のない、人工臓器なども含めまして我もよし他人ひともよしという方向へ向くべきではないかという、そういうふうな考えが流れておるわけでございます。時間が無くなりますので、まことに中途半端なものの言い方でございますけれども、そういう意味で脳死は人の死ではないということだけは、やはり真実としてこのように述べていきたい、と
こう願っておるわけでございます。
司会 ありがとうございました。つぎに、立正佼成会の中央学術研究所の責任を持っておられる天谷さんにお願いいたします。ご立場を書いたコピーも会場に配布されたようですが、要点だけでも結構ですのでお話下さい。
天谷 ご紹介いただきました天谷でございます。貴重なお時間でございますので、受付の方に、二枚ほど私どもの機関誌であります佼成新聞を用意いたしました。差し支えなければ、これを読んでいただいて、私どもの考え方の一端だけでもお知りいただければと思います。若干の補足をさせていただきますと、私ども立正佼成会では、この生命倫理問題に関しましては、92年頃から中央学術研究所におきまして研究を行ってまいりました。それで、脳死臨調の中間報告が出された時に、それに対する意見書を出しました。
その後、議員立法の形で法案が出されまして、一時は廃案となりましたけれども、その後、更に衆議院に再提出されまして、先ほど広瀬先生がお話しされましたように一昨年衆議院を可決いたしました。参議院に送られていく過程で、いろいろな出来事が宗教界でもありました。私ども立正佼成会といたしましても、宗教界の皆様方と歩調を合わせて、宗教者の「声明」の形で慎重審議を国会等に呼びかけた経緯がございます。その後もいろいろなコメント等を、あるいは見解書等を発表してまいりました。そうした若干の記事等が、今お配りいたしました新聞の中にございますので、これをお読みいただければと思います。簡単に申しますと、脳死の問題と移植の問題と、基本的には二つあると思っておりますが、脳死に関しましては人の死とは考えないという立場をとっております。限りなく医学的には死に近い状態ということが医学の知見としては認めますけれども、これをもって人の死とすることには承知できないという立場でございます。
ただし、これが臓器移植との関係になりますけれども、自らが脳死状態になった場合、これをもって自分の死と受容する人の意志は否定はしないという立場をとります。そういった点は、大本さんなんかとは見解を異にするかとも思いますが。そういうことで、臓器移植については、絶対反対という立場はとっておりませんが、脳死・臓器移植という医療法自体は、あくまでも普遍的な医療法ではないとの考え方をとっております。緊急避難的な過渡的な医療形態であるというふうに考えて対応すべきではないかと。それについて幾つかの理由が考えられますけれども、三点ほど挙げますと、一つは、臓器の数が絶対的に充たされず、必ず不足という状態が起きてくる。これは先ほどのラフレール先生のお話しの中でも、アメリカでもそういう状態が起きつつあるということを伺って、確信いたしたようなわけです。二つ目には、臓器の分配が公平に行われるということがおそらく難しいであろう、困難であろうという立場でございます。三つ目には、人間の生体自体がもっております、免疫性です。生命そのものにはそれぞれ固有の性質がございまして、他の臓器を拒絶するという個体の特徴がございますので
、このような点から考えて、臓器移植をもってこれを定着させていこうというような考え方には賛成しかねるという立場をとっております。
現実には医学の進歩によってそういう現象が起きておりますので、ある一定の歯止めをかけて、その上で認めるしかないだろう。まあ、このように大変に曖昧なところがあるんですけれども、これは本日も仏教関係の方々も大勢ご出席ですので、仏教がそうだという言い方をいたしますと大変ご無礼があるかとも思いますが、私ども立正佼成会は仏教の法華経という教えを基に成り立っている教団でございますが、私どもではこういった倫理的な問題につきましては、教えがこうであるから、教義がこうであるからということで、これをもって戒律的に信者にそれを強制していくということをなるべくとらない、あまりとらない。若干、仏教には、私どもの考えでは、状況倫理的なところがありまして、こういう曖昧性がどうもあることで、是でもあれば、否でもあるということがありますので、そういう見解になる可能性があると思っております。そういう考え方を基本にいたしまして、現在、会の中では学習を深めつつ、対外的にもこういった考え方をご理解いただくべく努力いたしておるわけです。簡単でございますが。
司会 ありがとうございました。日本の長い歴史の中では、比較的歴史の新しい二つの宗教の方からお話をいただきました。歴史の新しい宗教の場合は、伝統の古い宗教よりも、いくらか内部の意見をまとめやすいという点があるかと思います。その点では伝統の古い宗教の場合には、内部でいろいろあるとお聞きしておりますが、そのようないろいろな様子、あるいはこのような議論がありますよ、というようなご紹介でも結構ですので、真宗大谷派の方からお二人見えておられますが、ちょっと様子を紹介してください。あるいは個人の意見でも結構です。
加来 加来と申します。真宗大谷派教学研究所で研究員をしております。最近生命倫理の研究会を立ち上げて、その運営担当をしております。大谷派では1990年頃から一部の人たちが脳死問題について取り組んでおりまして、真宗ブックレットというような形で出されています。それから後、宗派としては、衆議院で臓器移植法案が可決されたときに、遺憾の意という形で声明を出しております。そして、今回の臓器移植について、見解という形で3月の16日に出しております。ただ、こういった形で、一応は意見が出ているわけですけれども、先ほど先生の方からお話がありましたように、大きな教団ですから内部で統一した意見がまとまっているというわけではございません。私どもの研究会の方も、実は教学研究所の中でかなり遅い段階で、97年の夏ぐらいからの取り組みになります。それで、ここでいろんな方々の意見を伺いながら、ずいぶんつっこんだ議論がされているんだなあと感じているわけです。
この先は個人的意見でしかあり得ないわけですけれども、脳死を人の死とするか否かということ、それから臓器移植についてということですけれども、脳死を人の死とするということにはやはり疑問を感じます。それから臓器移植につきましては、いろいろな、例えば立正佼成会の方が書かれている新聞にあるようなこともあると思うんですが、一つは立場として、先ほどの生老病死ということを人間の事実として立脚地とするということもあると思うんですけれども、なんといいますか、いわゆる生死輪廻ということで表現されているような質の生に執着していくこと、そのこと自身はたぶん仏教全般では否定されていることになっていると思いますね。そのことについての問題をやっていく必要があると同時に、やはり浄土真宗では煩悩具足の凡夫という自覚に立つということがありますから、そういう煩悩をもっている存在、如来から痛まれている存在であるということが大切だと思います。だから単に生命の延長を、生のみを肯定していくだけの医療に疑義があると同時に、私たちはそういう凡夫であるという事実に立ったところから出発してこの問題に取り組んでいきたいなあと、今そう思っておりま
す。
司会 ありがとうございました。今は浄土真宗の大谷派(東本願寺)の加来さんにお話しいただいたのですが、お西の本願寺派(西本願寺)から内藤さん、簡単にようすをお願いします。個人としての意見でも結構です。
内藤 本願寺派(西)教学研究所の専任研究員をやっております内藤と申します。生命という問題に関する研究部会は、西本願寺では比較的早くから設けられておりますけれども、先ほどから何度か指摘がありますように統一見解というものは基本的には出ておりません。天谷さんが新聞に書かれておられますような点に関しましては、脳死を人の死と見なすということは、それをもって「人の死」とすることには誰も賛同はしていない点では皆共通なのです。しかし、臓器移植と兼ね併せて考えるときに種々のケースや種々の大きな問題がはらんでおりますので、研究部会に参加する先生方の統一する見解がなかなか出せないというのが、基本姿勢です。今日は私しか時間がとれなかったので、研究部会の先生が参加していません。ですから、これから後は生命倫理部会に属していない私の個人的な意見です。生死という、先ほど言われた生老病死ですけれども、仏教ではショウジと読んで、セイシと読まないという点がやはり一番基本だろうと思います。ショウジと読むのは、生まれて亡くなるまでというのが人間の生きるということだと基本的には仏教では考えると私自身は思っておりますので、死ぬこと
は生きることの否定であるというような考え方をとるんではなくて、もう少し人間が命を持って生きるということを、生まれて死ぬまでを含んで考えていこうという視点は忘れてはいけないと思います。また、本願寺でやっておりますビハーラ、終末ケアの問題と兼ね併せまして、人間が生きている間にその死をどう受け容れるかという方向の視点を含んだ議論が一番盛んであると思っております。人間の意思を尊重することは仏教の基本であろうと思います。お釈迦様が業を説かれたときに、業の本質は意志であると言われたことが非常に重要だと思います。ですから、ドナーになる方であれ、そうでない方であれ、一人一人の方が持つ人間の意思の尊重をどう捉えていくかということと、うまい言い方が見つからないんですが、生きるということの、死を含めて生きるということを一人一人の人間がどう受け止めていくかというところで考えていこうという姿勢だけは、個々の研究員の見解は異なっていましても、共通しているところだと思っております。
司会 ありがとうございました。禅の方から、黄檗宗の田中先生に来ていただいております。何か一言お願いします。
田中 黄檗の田中です。公式に意見を言うような立場では参加しておりませんので、個人の考えでございます。からだ全体と、部分の臓器の移植の問題で、出来るだけ全体の命の大切さを考えたいわけですけれども、そういう一つの装置といいますか、臓器が取り替えられることによって長く床に伏せられていた方が救済されると。それによって生まれ変わるといいますか、実際私は経験がありませんので、ほかからいただいた臓器がここから中に入っている、どういったものなのか、感じは解らないんですけれども、個人的な経験から申しますと、私も内臓疾患で闘病したことがありますので、そういうものを提供されて生まれ変わるというか、そういうものにすがりたいというような気持ちは理解できるのです。せっかくですので、ラフレール先生にお伺いしたいのですが、アメリカでの移植後の生存率というか、そのような報告はあるんでしょうか。
司会 質問は、アメリカで、脳死による臓器移植をして、長く生きているのか、それともやっぱり長くは生きられなくて死んでいるのか、そういうことが解りますかということです。
ラフレール その技術が始めた頃は生存は短かったんですけれども、だんだん長くなりました。ある人が拒絶と言うことですね、拒絶はある学者によりますと、拒絶(rejection)ということは二つの種類があります。一つはやっぱり体が拒絶。その問題はほとんど解決されたんです。サイクロスプォーリンとか、そういう薬で今の場合はあまり拒絶されていないんですけれども、心は違います。心臓じゃない、心の拒絶(rejection)ですね。それもまだ問題なんですね。例えば最近アメリカで出版された本ですけれども、一人の女性の方が心臓移植をされたんですけれどもね、その人が書いたものによると、不思議に手術後、性質がかわってきたということです。本当かどうか、私は知りませんけれども、本当じゃなくても、これは人がそういうことに対する一つの抵抗の証明じゃないか、と私は思います。
司会 よろしいでしょうか。いろいろな宗教の方が今日は集まっていらして、創価学会、金光教の人の意見も聞きたいのですが、各宗教の話しが続きましたので、ここで、大学で生命倫理とか、あるいはアメリカの宗教のようすとかを扱ってらっしゃる二人の方に、ラフレール先生の話しに対するコメントでもいいですし、ご意見でも結構ですので、少し話していただこうかと思います。奈良大学の大町先生と、京都文教短大の生駒先生にお願いしたいんです。まず大町先生、お願いします。
大町 奈良大学で倫理学を担当しております。「大阪・生と死を考える会」の現在副会長をしておるんですけれども、私自身は、脳死段階での臓器移植というものに関して、積極的に賛成であるというわけにはいかないんですが、日本人全体を考えましても、脳死は人の死であるという考え方にはまだ踏み切れていないし、また、脳死段階での臓器移植に関しても合意は出来ていないと思います。それの理由といいますと、やはりそこには日本人特有の何かがあるというふうに考えざるを得ないわけなんですが、死生観、あるいは遺体観、あるいは、まあ、個人主義的ではない家族愛ですか、そういうようなものがあると思います。デーケン先生も、4、5年前なんですけれどもね、「死への準備教育」の中で、学生たちにですね、アイバンクと腎バンクに自分は登録しているとおっしゃってまして、講義の中で学生たちにも登録してはどうかということをおっしゃるらしいんですね。ですから、若い人たちで、正義感といいますか、私もしますという学生もかなりあるらしいんですが、だいたい家族が反対するとおっしゃっていました。
こういう脳死であるとか臓器移植という生死の問題、生死というきわめて重要な問題の前で、日本人のいわば根本的な感情が出てきたのだろうと思います。いわゆる自然感情を超えた「愛他主義」といわれるようなものが日本にはないのではないか、まあ、良いとか悪いとか、そういう問題ではないんですが、そういう自然感情を超えた「愛他主義」というようなものはないのではないかと思います。私自身も、臓器提供するかというと、なかなか踏み切れませんけれども、さっき言いました日本人のいわゆる自然的な感情ということですが、一方で、臓器提供に踏み切れない、その一方でですね、私のところは小学六年生の一人娘なんですけれども、その子がもし臓器移植でなければ助からないというようなことを医者からいわれましたらですね、親ばかですので、何とかして臓器提供していただいて助かりたいという、そういう感情がおそらく確実に芽生えるだろうというふうに思います。
で、私はやはり子供の問題、今アメリカであるとかオーストラリアであるとか、そういうところで大変ありがたいことに日本人の子供に対しても臓器提供をしていただいている、そういう事情があるわけなんですが、その臓器移植でしか助からない子供の問題をどうするのか、このあたりのところを深く考えることによって、脳死と臓器移植の問題に新たな展開があり得るんじゃないかなと思います。ですから、後でも結構なんですが、そういう日本人の子供がアメリカで臓器提供を受ける、アメリカ自体が臓器不足でありながら、それにも関わらず、していただいているということについてアメリカ人はどのような見方をしているのかというようなことにもお答えいただいたらありがたいと思います。
司会 日本では臓器移植がほとんど出来ない、そのためかなりの子供がアメリカに行って臓器をもらっているといわれているということです。それについて何か。
ラフレール 実はですね、アメリカにおいても臓器不足ですけれども、一般のアメリカ人は、外国から人が来て臓器をもらう事実を知らないんですよ。数はすごく少ないと思いますよ。日本でよくそのことが報道に出るんです。私も3年前ごろに日本のテレビで見たのですが、一人の日本人がインドに行って臓器を売買したんですよ。そして国へ帰りまして、テレビでその人の嬉しさと、何か、腎臓でしょうか、腎臓を売ってしまったインド人の顔もテレビに出ましたね。それは日本人が報道で知っているんですが。他の国はあまり知らないと思います。しかし、まあ、おもしろいことは、今の法律で脳死を受け容れた理由としてこれは一つであった。国の恥ずかしさ。日本人が外国で臓器を受けることは、日本人として恥ずかしいので法律をつくりましょう。そして去年、議会で法律を作った一つの理由ではないかという印象を受けておりますが。
司会 広瀬先生の手があがっています。マイクをあげてください。
広瀬 今のお話で思いました。外国で受けることに日本が恥ずかしいと思ったんじゃないかというご発言でしたが、参議院で宗教界の意見を述べまして、とにかくこの問題はまだ審議充分ではないから、各界の意見を聞いて、生死の問題だから論議してほしいといって、そしてそのことには参議院の臓器移植委員会の諸先生もそれはよくわかると、それは慎重に審議しましょうと。まあ、政治家はうそを言いますので、政策によってころっと変わりますので、先ほどのように継続審議で先送りになっておりましたのが、急に変わったんですけれども、その時に参議院の方がお答えされたのは、皆さんの意見はよくわかった。しかし参議院として、日本の顔として、海外で臓器移植を受けておる人のことについては、日本の立場としてものを考えなければいかんと、これは参議院側の意見だということもおっしゃっておられましたので、そういうようなことを配慮して、法案が出されたと思います。
司会 ありがとうございました。では、次に京都文教大学の生駒先生お願いします。
生駒 京都文教大学で宗教学を担当しております。一つ、皆様方にお尋ねしたいのですが、欧米の人たちが臓器移植について尋ねる場合、恐らく質問されるであろうと思われることがあります。私もここでお聞きしたいと思います。
それは、キリスト教の立場からすると、血液も一種の臓器と考えるのです。世界中の血液を最も買い占めているのが日本です。それをどのようにお考えでしょうか。液体ならば良いが、固体はだめだ、というのは極めて日本的のように思われます。次に、先生のお話についてのコメント、または、質問をしたいと思います。まず、日本の終末期の患者、特にガン患者に対するインフォームドコンセントが低い点です。2年ほど前の医学雑誌によりますと、先進国のほとんどでインフォームドコンセントの割合が90パーセント前後にもなっています。ところが、日本は20数パーセントそこそこです。欧米の評論家には、日本の宗教性の問題があるのではなかろうか、という人もおります。これは、宗教界でも考えてみる必要があるでしょう。また、臓器移植を考えていきますと、必然的に死とは何か、という質問が出てきます。キリスト教やイスラム教では、人間は肉体と霊魂からなっている、という前提があり、死によって霊魂は肉体から離れると説明されます。
ところが、日本の宗教、なかでも仏教では人間ははたして霊魂を持っているか否か、が問題となります。もちろん、宗派によって違います。例えば、真言宗では、はっきりと霊魂は存在する、としています。ところが、他の宗派の場合、やや曖昧です。もっとも、最近は霊魂はある、という宗派が多くなっています。霊魂の有無が話題になるとき、十四無記という立場から説明されることが多いようです。釈迦に対して質問をしても返事がなかったものが十四あったのですが、霊魂の有無もそのうちの一つであった、といわれています。仏教の根本は、諸行無常、諸法無我ですから、変化をしない霊魂の存在を認めることが難しいのです。だが、死とは何か、という問題が出てきますと、どうしても霊魂の有無が問われます。はっきりと霊魂を否定しますと、例えば、浄土教の場合、何が浄土に往生するか、ということになります。往生の主体の問題が出てきます。これは死と深い関係がありますので、しっかりと議論をする必要があるでしょう。
さて、私はアメリカ宗教を専門にしておりますので、その点から一つコメントをしたいと思います。アメリカの宗教、特にキリスト教は、過去数百年間、近代合理主義と対決せざるを得ない状態でした。これは、ヨーロッパも同じです。そのなかで、キリスト教としてはなるべく避けたい問題がありました。それは、イエス・キリストの十字架での死、イエスの贖罪、マリアの処女懐胎、そして、病気の癒しです。このうち、十字架での死はキリスト教の救いと密接な関係がありますから、あらゆる宗派が真剣に取り組みました。ところが、癒しの問題はできるだけ避けるようにしました。その結果として近代医学をそのまま受け入れるようになったのです。ところが、先ほど申しあげましたように、臓器移植あるいは中絶については、リベラルな宗派は近代合理主義を尊重しておりましたから、近代医学をそのまま受け入れたのです。いっぽう、ファンダメンタルな保守派は、病気の癒しを説く宗派が多いですから近代医学と対決せざるを得ない状態におかれているのは確かでしょう。それから、日本のカトリック教会は、このたびの臓器移植についてやや否定的です。これは朝日新聞に出ていました。ところ
が、ローマ法王は臓器移植は愛の実践である、と1990年に述べています。それゆえ、バチカンと日本のカトリック教会とはややズレがあるようです。この点は、カトリックといえども、日本の宗教ということになるのでしょうね。このほかにも申しあげたいことがありますが、時間もないと思いますので、これくらいにしておきます。
司会 ありがとうございます。今、生駒先生に言っていただいたことをいろいろと議論することはとても有益なことだと思いますが、時間がないものですから、宿題ということにしていただこうと思います。創価学会からお二人見えていますが、何か一言ないでしょうか。
秋庭 創価学会の広報担当の秋庭と申します。私はですね、正直申しますと専門外でして、広報担当としてこの問題でマスコミの取材を受けたという経験がございましたので、先生のお話を聞かせていただきまして、勉強させていただきました。創価学会の場合はですね、1986年に生命倫理研究会が結成されまして、お医者さんとか看護婦さんを中心にだいたい二百回ほどの議論がもたれまして、九五年に私どもの教学の機関誌「大白蓮華」と申しますが、そこに何回かにわたって脳死・臓器移植を考える、という研究レポートが掲載されました。ここに、一応小冊子で一部もってまいりましたんですけれども。これをたまたま読んだ読売新聞の宗教担当の記者が取材をしたいということで、95年の6月だったと思うんですけれども私が担当させていただきまして、東京の創価学会の生命倫理研究会が取材を受けました。そして、6月にはじめて創価学会、脳死を容認というタイトルの記事が出たわけですけれども。
その経過を今振り返ってみたときに、やはりジャーナリズムというのはセンセーショナリズムというものに流されやすいなという印象を受けました。教団としてですね、この脳死問題を加速しようというような意図でやったわけではなしにですね、創価学会の会としての結論を出したわけではなくて、その中の生命倫理研究会が会員の皆様に、この医療の問題、脳死の問題について、どういうふうに教義的に考えるのか、あるいは脳死とは何かという基本的な問題、についてですね、仏教的な見地からどう考えることが出来るのかということについてですね、説明するためにこのような小冊子を作ったわけですけれども、そのことが何かしら教団全体としてですね、脳死を容認する方向に大きく動いたかのごとくに報道されたことは、若干自分としては心外とまではいいませんけれども、意外だったなあと。そこにこういう問題についての情報の伝わり方、あるいは情報の形成のされ方に問題があるんじゃないかと思うんですけれども。今回の臓器移植についてもですね、報道のあり方にかなり課題をもっていたんじゃないかと、個人的には思います。だいたいこれまでの経過はこういうことですけれども。後は
私どもの関連研究団体の東洋哲学研究所の研究員が一人来ておりますので。
友岡 今まで創価学会は3回脳死問題に関してまとまったものを出しておりまして。真ん中にあるのが今秋庭さんから話のあったもの。そして今から10年くらい前ですか、池田名誉会長が東洋哲学研究所の、そのころは年に4回出ていたと思うんですけれども「東洋学術研究」に、脳死問題を考えるというのを連載しまして。これがはじめに外に出た、公表された、脳死問題に関する一つの見解というか。ただし、それは基本的なスタンスとしてはそのころの論議されていた問題を整理して、基本的にはまだ時期尚早という、まだまだ議論の詰める余地がたくさんあるというようなものでした。それで、先ほどありましたように、医者とか、ドクターとか、も生命倫理の研究部会があってここが見解を発表した。もう一つ、東洋哲学研究所の中で、生命倫理の研究部会が10年ほど前に発足しまして、どちらかというと、東洋哲学研究所の方は人文系というか、そのような方々も多い、ような感じで、生命倫理の研究部会の方はかなりお医者さんが多い、この二本立てでやっていった。まあその中で中心の者はそのどちらとも兼ねると。で、さきほどの秋庭さんのがあって。で、最近去年の秋だったと思うんで
すが、これも小冊子が出ました。脳死ナントかを考えるという冊子です。創価学会の会館に行けば、会員がいつでもとれるような小冊子で。今の基本的には、まだまだ論議を、一つの議論、今の段階での整理したものを出したんですけれども、まだまだ細かいところは詰める必要がある、脳死の問題というものは。で、布施行としては許されるんじゃないかというのは基本的な考え方、布施っていうのは許されるんじゃないかっていう、それこそ雪山童子とか楽法梵志とかの考え方もあるし、今の他者に対して布施することは許されるんじゃないかということですけれども。その時には少なくとも仏教上は三つの大事な観点がある。三輪清浄の考え方であって、まずもらう人の心にエゴがあっていけないということと、仲介者、真ん中にエゴがあってはいけないということと、与える側にエゴがあってはいけないということと、とにかくその三つにクリアーでなければいけないというのが、一つの大きな枠組みとしてあると。まあ、どこを主と見るかということに関しては、「倶舎論」とかそれは様々な唯識の文献を見ながら、どれを仏教として考えるかということなんですが、これはどこまで行っても結論が出な
いような。この文献ではこういわれているけれども、この文献では違うようにいわれているとか、いうことになりますし。で、海外としては、またいろいろな意見がまたまた。先ほど立正佼成会の天谷先生がいわれたように、布施行としての他者に与えるとかそれを禁止するとかいうことまで、教えでそうじゃないとかいうのはそれはちょっとじゃないかというような、一つのコンセンサスができつつある、今できる課程、まあ、それも前からあるという。で、今の三つに関しては、文献としてはそれをそろえることが出来ると思いますので、またご覧になって、そうです、三つ、かなり時代と共にこの問題が進化しているなというのがよくわかります。この三つを見ていただくと、時間軸を、まあ社会においてもこの問題の移り変わりというものが、と思います。
司会 ありがとうございました。金光教から三宅さん、一言。
三宅 最後のトリで回ってきましたので、皆さんそれぞれのお立場からご意見をおっしゃって、もう言うことがなくなって困りましたので、全く違った観点から申し上げたいと思います。
この問題は、要するに臓器移植医療を進めるために、関係者が殺人罪に問われないために「法律ではここを死としよう」と決めただけのことと思います。この移植医療を実際に進行させるために決めただけということです。逆に、生まれてくるほうも全く法律上のステイタスに過ぎません。法律的には、「おぎゃー」と生まれて初めて「人」になるわけで、流産しても死亡届を出す必要はありません。ですから「脳死」も、法律上のその時点を決めるだけの手続きで、そのことと、宗教上あるいはそれぞれの人の信念の上の「いつからいのちが始まって、いつ終わるか」ということは、全く別の問題だと思います。もし、脳死が一般にいわれるような不可逆なプロセスだというのなら、人はおぎゃーと生まれてからこのかた日々刻々死へと向かっているわけですから、一日たりとも戻ることは出来ないんですから、生まれたときから不可逆だといえば不可逆です。ですから、全くこれは移植医療を進めるための手続きで、それを国会が立法機関として実行しただけなんだというわけでございます。
それで、個々の具体的なことは先生方がおっしゃったんで、重なるので申し上げませんけれど、私どもでは、いのちの全体性とか、連続性の観点、つまり「自我の想いを超えたいのちの働き(無量寿)」というものを考える。それと「いのちの私有化」ということを対立させて考える訳です。これは、先日、真宗大谷派さまが発表されておりましたけれど、そういう言い方(無量寿)をするかどうかは別として、「私のいのち(my
life)」というものが、果たして私が私有化できる(処分可能)ものなのかどうかということ。つまり、よく「遺伝子」ということを言いますけれども、遺伝子の遺と遺体の遺、どちらも「親が子に遺している」というか、「代々伝わっておる」ものという意味です。つまり、現在、私が「預りもの」として私のいのちというものを受け継いでおる。大昔から、何とか原人の頃から、未来の子孫に向って受け継いでおる。その一部分を、私がたまたま今、預っているというふうに考えているわけでして、そういう意味で、この問題(臓器移植)を「いのちの連続性」の中で考えていこうと思います。私ども金光教ですと、親神と氏子という、まさしく親と子との関係が、神と人間との関係という類比(アナロジー)の中で語られているわけですけれども、そういう全体性・連続性ということを考えて、この問題について考えていかなければならないんじゃないか。
移植医療が進んだとしても、必ず、臓器の売買とかの問題が出てきますよ。だって、いくら移植医療がさかんになっても、常に臓器の数が不足しているのですから。あるいは移植コーディネーターが果たして本当に公正な判断をするのか?入学試験ですら裏口入学というのがあるんでしょう。それが自分のいのちがかかっていたら、「裏から金まわして」と考えて当たり前ですわね。それでまた、それを批判しきれない。大町先生がおっしゃったように、「もし自分の子供がそうだったら」と考えてしまう。それは全く「人間の業として」考えてしまいますよ、当然の話ですけれども。ですから、そういうことに関して、一般論として良いだの悪いだのということを、個別の問題として言い難いところがある、と私は思っているわけです。
最後に、ラフレール先生がおっしゃった欧米と日本文化との比較の話ですと、「日本人は死体というもの
― 現在では死体(デッドボディ)と遺体が同義語で使われていますけれども ―
に大変こだわる」とおっしゃいますけれども、不思議なことに、死体が埋葬されるときには、臓器移植がかなり社会的に容認されている欧米が土葬で、日本では「死体を傷つけるのがいやだ」といいながら、死体を焼いてしまう(火葬)わけでしょう。どうせ燃やして焼いちゃうわけですよね。これは私の全く個人的なクエスチョンですが、こだわっているわりに焼いちゃう(日本)のと、こだわってないのに残しておく(欧米)のと、このへんがどんな論理構造になっているのか?これは金光教の教えと全く関係ないですが、最後に質問として、終わらしていただきます。ありがとうございます。
司会 ありがとうございました、今最後に出された問題も、これも議論いたしますとおもしろいと思うのですが、時間がありませんので、宿題を出されたということにしたいと思います。いろいろな宗教の方、また学校で教えられている方、こちらから指名する形でお話しいただいたんですが、もうあまり時間がありませんけれど、どなたか何か、コメントとか、意見とか、質問とか、ありましたら出していただいたらと思います。
斉藤 大本本部からまいりました斉藤と申します、ちょっと今日風邪で聞き難いと思いますけれど、お許しください。私、大本本部の教学研鑚所の資料室主事もしているんですけれども、併せて生命倫理問題対策会議の事務局員もしております。あと様々な活動にも関わらせていただいているんですけれども、ずっとお話を伺わせていただきますと、それぞれの信念を持った教義ですね、み教えというのを議論しても平行線しか得られないところもありますけれども、基本的には、今回の問題は宗教者として共通のテーマである「命」に関わることであるということです。私ども大本の中でも脳死・臓器移植に反対する主張は、いま一丸となってやっておりますけれども、それにも当初はいろいろな反問苦悩があった。例えば、ドナーあるいはレシピエントの立場、そういったことは私たちも感情的にはよくわかるんですけれども、いろいろと専門的な人であるとか、反対派のリーダーであるといわれる多くの人であるとか、大脳生理学の方であるとか、精神医学の方であるとか、心臓内科医の権威の方であるとか、そういう方々のお話を聞くにつけ、これは、まず宗教的な問題もあるんですけれども、それ以前
の問題を含んでいる。それは人の命に関わることであって、ドナーとレシピエントの命に軽重の差が付けられていること。
具体的にいいますと、この31年間、和田心臓移植によって空白の時間があったが、その時間は決して無駄ではなかったとラフレール先生はおっしゃいましたけれども、私もそう思うんです。というのは、この31年間で日本で開発された医療技術で、脳低体温療法というのがあります。日大の板橋病院で開発されたんですが、救急医療をご専門とする林成之先生という方が脳に致命的なダメージをうけた人を救命しようと開発した技術で、今の脳死判定基準だと完全に脳死だと判定されておかしくない人が、蘇生されているという実績があると。脳死・臓器移植が安易に認められなかった日本だからこそ開発された医療技術であるということが実際ございます。この前の高知赤十字病院でなくなった四十四歳の主婦の方、くも膜下出血とも脳内出血ともいろいろな報道がございましたけれども、その方と同じような状態で病院に運ばれた方がその医療技術により救われている実例が少なくない。
臓器移植を受けて救われる方(レシピエント)の生存率のことばかり言われますけれども、臓器移植があるがためにドナーの死亡率が百%であるということがあまり言われない。同じ「命」です。私たちがドナーの側の命の大切さを訴えていかないと、もう際限なく人の命が軽んじられていくんじゃないかと思います。マスコミからの情報も日々あの臓器移植があってからですね、例えば信州大ではこういう状態です、阪大ではこういう状態ですと、受けた側のご健康ばかりが強調されます。本当にすばらしいことだと思うんですけれども、忘れてはならないのは臓器を摘出されたドナーのことです。「脳死判定」前の、まだ法的にも生きておられる状態でですね、みんな虎視眈々と、いつ脳死状態にならないかと待っているような移植ネットワークの人たちの目の色とかですね、実際に生きておられたにも関わらず、脳死を促進するような危険な無呼吸テストがなされた。そういった実体をみるにつけて、やはりどこかで歯止めをかけないといけないんじゃないかと。愛の行為であるとか、菩薩行であるとか、宗教の言葉をかりてですね、移植を推進する人たちがちょっと宗教家の弱いところをついてこられて
いるんじゃないかなと。すべての臓器移植について、大本では教条的に、戒律的に否定するんじゃないんですけれども、どこかで声を出さないと、欧米のいわゆる医療先進国が全ての医療の先端を走っているような錯覚を日本人に与えるんじゃないかと思います。
司会 ありがとうございました。他にありませんか。
友岡 事実は分からないんですが、朝日新聞か、テレビ朝日かにずっとその問題に関係したディレクターがおりまして、確かに脳死からの臓器移植というのは、和田心臓移植、まあそれが脳死であったかというのは別として、二例目なんですけれど。心臓以外、肝臓、まあ肺も。それ以外の臓器は脳死からの摘出者は二百人ほどいるんですね、この30年間に。心臓というすごく象徴的なものに関しては今回が二例目でしたけれども、実は20年間にしょっちゅう取られているわけですね、脳死といわれている人たちから。そのようなことが全然明るみに出ずに。もちろん心臓だからそれは明るみに出て発表されたのであって、しかしそれ以外の方は結構取られている。だから、この問題の明確なところの一つは、情報公開の問題が大きくかみ合っている。常にこういう問題というのは地下に地下に潜っていく。僕は一番ショックだったのは、うちの母親が癌で入院したことがあったんですけれども、病院の入り口のところに腎臓を売りますと書いてある。一個いくらか書いてあるんですね、病院の入り口に。12、3年前、すごくショックだった。だから、そういうふうに地下でいろいろな問題が起こるという
ことに関してもっとクリアーにしていかなきゃ、問題があるなあと。そういう意味でも三輪清浄は絶対崩してはいけない問題だなあと思うんです。
司会 ありがとうございました。5時までということで、終わりの時間が近づいてきておりますが、最後にですね、今日の講師のラフレール先生に、いろいろな方々のお話を聞かれての意見とかコメントとか、聞かせていただいたらと思います。
ラフレール 今日は本当にありがとうございました。皆さんに伺いましたことは本当に、私の研究のいい役に立つと思います。私の心配は、医学技術とか近代的技術において私たちの考え方と、私たちの心は無意識に変化することです。私たち宗教に興味を持っている者は、国や民族による宗教の考え方の差を互いに理解しなければならないと思います。例えば、アメリカ人が今まで臓器移植の問題についてあまり深く考えていないんですが、それと比較して、日本の宗教者はこのように深く考え討論されました。そこで、あなた方が、私たちの不十分な意識に対してこれからも良い刺激を与えることが出来ると思います。先ほど、先生がインフォームドコンセントの問題を出されましたが、私の考えでは、インフォームドコンセントはかなり大切なことだと思います。その比較で私たちは互いに理解できると思います。今日は、皆さんが私の話を聞いていただき、そして大変大切なことをお話してくださったことは、本当にありがとうございました。
司会 カトリックのことで、バチカンでは脳死・臓器移植に積極的なのに、日本のカトリック当局は消極的だということをおっしゃっておられましたけれども、これはプロテスタント側もだいたい似ています。アメリカでもヨーロッパでもだいたい教会として、臓器移植に対して基本的には前向きなんですが、日本ではそうなっておりません。日本に来るとどうして消極的になるのか、それはやはりキリスト教も日本の宗教であるところがある、ということでしょうか。もう一つ、私が思いますのは、医学とか医者、医療システムというものに対する感覚というものが、日本では欧米とだいぶん違うのではないかなあということです。
今日、入り口で配った『キリスト新聞』の切りぬきコピーに私が求められて発言したことが出ております。これは、キリスト教の代表でも何でもありません、一個人として発言を求められたものなんですけれども、これは読んでいただけば解ると思います。私自身は個人的には、少なくとも現段階では、脳死・臓器移植というものに非常にネガティブなんですが、しかし個人としてネガティブでも、法律が出来て実施されていくようになると、自分は反対であると叫ぶことも大切だけれども、法律が出来て実施されていくからには、それの歯止めということも考えなければならないんじゃないかと考えています。そういう点でどういうことが大事かということで、医療倫理の確立。それと、医療システムということがもっと信頼されなければならないというようなことをちょっと発言しました。また皆さんにいろいろなコメントや反論をいただきたいと思います。
それでは、ちょうど予定の時間となりましたし、そろそろ終わりにしようと思います。今日は、多くの方がお集まりくださって、大切な問題について有意義なひとときを持つことが出来まして、主催者として感謝に堪えません。参加の皆さんに心からお礼を申し上げます。最後にもう一度、ラフレール先生に拍手して、先生への感謝の意をあらわしたいと思います。本当にありがとうございました。
**ウィリアム・ラフレール氏***************************
略歴シカゴ大学宗教学科 Ph.D を取得
プリンストン大学助教授、カリフォルニア大学教授をへて1990年より
ペンシルバニア大学教授(日本研究部門)
1998年9月から一年間、フタンフォード大学日本研究京都センターの教授として来日。
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