「宗教多元主義とグローバリゼーションの行方」
天理大学おやさと研究所所長
井上昭夫
6月19日、金光教泉尾教会 神徳館国際会議場において、第30回IARF(国際自由宗教連盟)世界大会のための関西地区事前学会が開催され、加盟各教団から世界大会参加予定者約60名が集い、2人の講師から講演を聴いた。
*神よ助けたまえ
"I, Akio Inoue, do solemnly swear that
I will support and defend the Constitution
of the United States against all enemies,
foreign and domestic ; that I will bear true
faith and allegiance to the same ; and that
I will obey the orders of the President of
the United States and the orders of the officers
appointed over me, according to regulations
and the Uniform Code of Military Justice.
So help me God!"
まず、皆さん方にお配りいたしました資料の最後に、グローバリゼーションや多元主義についての代表的な参考文献をリストアップしております。非常に参考になりますけれども、これは理論的に述べたものであります。本日は学会ではありませんので、限られた時間の中で、私なりの違ったアプローチをしようと思っております。具体的、実践的、体験的な局面から、多元主義とグローバリセージョンについてお話していこうと思っております。
そこでまず、日々新聞やニュースを賑わしております「宗教が原因である戦争」のお話を始めるために、私が今、申し上げましたアメリカ兵が入隊するときに宣誓する誓約から入りたいと思います。アメリカの兵隊さんが、コソボでの戦争に参加する時も全部これをやるんですね。日本語で言いますと、「私、井上昭夫は、厳粛に宣誓します。国内外の敵に対して合衆国の憲法を支持し守ることを。真実の信仰と忠誠を保つことを。合衆国大統領の命令と私の上位に任命された上官の命令に、軍事裁判所の法律・法規および規則によって遵うことを…」そして、その次に
"So help me God" です。
この「神よ助けたまえ」という文言はどういう意味なんでしょうね。「神よ助けたまえ」って、「できるだけたくさんの人を殺すことができるように神よ助けたまえ」と言っているのでしょうか? 私の話は、この入隊宣言にあります
"So help me God" と言った時のGodとはどういう神のことか? という話に始まりまして、先日、東京の地下鉄にも現れたというお猿さんのエピソードで終わりたいと思います。その間に、宗教多元主義とグローバリゼーションのお話をいたします。神で始まり猿で終わる(会場笑い)。その間に人間のお話をいたしますのでお楽しみに。
まず、旧約聖書の詩篇第91篇から。第二次世界大戦中、イギリス軍とドイツ軍とが北アフリカで闘いましたが、その戦車隊員たちが全部これをポケットに入れて戦地に赴いているんですね。あまり知られてませんが、そういう事実があります。それを読んでみたいと思います。英語の原文には、『God
a Protector(神は守護者)』とサブタイトルが付いています。この詩篇第91篇を全部読む時間がありませんので、一部分だけ引用いたします。「夜脅かすものも昼飛んでくる矢も怖れることはない」神を信ずれば……、ですね。「暗黒の中を行く疫病も真昼に襲う病魔も、あなたのかたわらに一千の人あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない。あなたは、孜々と毒蛇を踏みにじり、獅子と大蛇を踏んでいく」やはり敵を悪魔に見立てて、この神があなたを救い出してくれる。なぜならば、「いと高き神の下に身を寄せて隠れる。全能の神の影に破る。主に申しあげよ。私の避け所、砦、私の神に頼りたのむから」であり、やっつけるのは、大蛇や毒蛇に象徴される悪魔である。
こういう台詞(せりふ)が聖書に書いてあるんです。これを兵隊さんが覚えてて言う。私、アメリカ人何人かに聞いたんです。すると、ある人は「マリリンモンローとかガールフレンドの写真は入れるけれども、そんなの(聖書)入れていくのかね?」って言うから、アメリカに電話を掛けまして聞きましたら、やはり「入れていかなければならない規則はないけれども、戦地に赴く多くの兵隊はこれを入れて行く」のだそうです。
そこで、この合衆国の入隊宣誓をして兵隊になった元原爆搭載機のパイロットで、アポロ13号の宇宙飛行士になったラッセル・シュワイカートが、(核のボタンを握る)心境を私に告白してくれました。上官から命令が来たならば、原爆を落とすボタンを自分で押さないといけない。その時、自分は押すか押さないか? というところをですね、思策する一節があります。非常に感動的ですので、少しご紹介したいと思います。これは『宇宙からの帰還』という本ですが、40年程前の体験を、僕が13年前に行ったシンポジウム(『コスモス・生命・宗教〜ヒューマニズムを超えて〜』)で、話してくれました。
*誰の決断で核のボタンを押すのか
「私(シュワイカート)はフィリピン群島近郊のアメリカ空軍の若い戦闘機パイロットです。私はF100飛行中隊に配属されていましたが、4週間毎ぐらいに、台湾の空軍基地で核非常待機の順番が回ってきました。その時、われわれは滑走路の末端に4機の爆撃機を待機させ、いずれの飛行機も燃料を満タンに入れ、核爆弾を搭載して、いつでも発進できるようにしておりました」ところが、面白いことに、爆撃機は、飛ばさなければかえって液漏れを起こすというのが飛行機という機械の特徴でして……。一方、核爆弾自体は(半永久的な)耐久性がある。そういうことで、1週間毎に、爆撃機のオーバーホール(点検整備)をやるわけです。
その時に原爆をはずしまして、飛行機をオーバーホールしている間に、彼は、その核爆弾の上に横たわって星を眺める。地上整備員によって核爆弾が飛行機から下ろされ、脇に運ばれます。そうしますと、地上整備員が液漏れしている飛行機を移動させ、最近まで飛んでいた別の飛行機を運んでくる作業を行います。その作業は約20分から30分の作業で、飛行機の出し入れが行われる間、核爆弾は飛行機の横でじっと待機している。自分は核爆弾の上に乗って、仰向けになって星空を眺める。
「私(シュワイカート)は、横たわりながらひとつひとつ順を追って段階的に、私に課せられた役割を思い描いてみます。私はできるかぎりリアルにこれを心に思い描いてみます。と言いますのも、(出撃の)電話が鳴れば、その時は考える暇がないのは判っている」日頃は、彼らは何もすることなく、ジッと待っているのですね。そして、一旦、(出撃命令の)赤い電話が鳴ると、その時に出ようか出まいか会議はしてられないから、「出る(核攻撃する)か? 出ざる(核攻撃しない)べきか?」ということは、暇な時に考えるというのです。それで、電話が鳴れば、封筒の中にある暗号解読表と照合して、ジャケットを着てドアへ走って行く。そして飛行機に乗って……。パイロットですから、ちゃんとそういうプロセスは頭の中に入っているんですね。標的に接近して、最大限にまで加速し、標的の上空に到達すると、時間をピタリと合わせて爆弾を投下する自分の姿をいつも想像する。彼が「核攻撃のボタンを押すことによって、何十万という人びとが死ぬことを知っていて、核爆弾を投下するかどうかは、何に基づいて決めればいいのか? 最終的に決断をする道徳的根拠を知りたい。私が出会うことさえない何千という人びとを殺すという倫理上の重荷に気が付いた」というのです。
それは、最終的には大統領からずっと伝わってくる上官命令なんです。先ほどの軍隊入隊時の宣誓には、「上官の命令を遵守します」と宣誓するわけですから、(自分の判断で上官命令に違反して)核のボタンを押さなかったら、軍法会議に掛けられて、死刑か一生牢獄に入ることは決まっていることですから……。それはまた、自分がボタンを押さないことによって、自分の国が逆にやられてしまうということにもなります。そういういろんなことが選択肢として想像されるわけなんですが、高度に組織された軍隊というシステムの中で、個人的な倫理上、道徳上の決断というのはどういう意味を持っているのか? 上層部の人たちを考えますと、全部いい人だ。悪い人は一人もいない。にもかかわらず、実際には核兵器が使われた。そういうことも自分は知っていた。ところが、自分がパイロットをしている間には、幸運にも原爆を再び落とさずに済んだ。
それから、彼は(昇進して)命令を下す立場になった。その時に、「いかに自分に上がってくる情報が不備なものであるかということに気がついて、非常に恐ろしいと思った。倫理的には難解でまた急を要する決断と、その決断に用いられる情報の質の間に反比例的な相関関係があるのに気が付いた。それで、結局この様に、われわれは個人的に直面しているこうした最も重要な道徳的決断は、上層部の決断に委ねることはできない。と、今でははっきり申し上げます」
ということは、入隊宣言を破らざるを得ないということです。これが
"So help me God" という意味なんですね。この「So」というのは、ちょっと日本語に訳するのは難しいわけですけれども……。「私(シュワイカート)の考えでは、これら個人の道徳的決断が集まって家族の決断、さらに家族の決断が集まって社会の決断や国家の決断になるのだと思う。したがって個人の道徳的決断こそが、人類存続のエッセンスなのだ」ということを言われました。みなさんはいかがでしょうか?
私は1950年代に米国に留学していましたから、自分が大学の4回生の時に、「入隊の招集」が来ました。その時に「私はこれから勉強をしないといけないので、入隊には応じられない」と言ったことがありまして、その時に、その入隊宣誓文を読んだことがあります。四十数年ぶりに目にした文章で、一度、人前で手を挙げて読んでみたいと思って読んだんですね。別に天理教のお祈りではありませんから、ちょっとパフォーマンスをやってみたかったんです。
*イデオロギー戦争から宗教戦争へ
アメリカの軍隊の入隊宣言や、兵隊さんがポケットに入れていくという旧約聖書詩編91にも、「神」という言葉が出てまいります。いずれも、「神さん自分達に味方してほしい」という点で共通しています。実際にそういった宣言をしてベトナム戦時において原爆搭載機に乗っておった、さきほど紹介しましたアポロ9号の宇宙飛行士にあとでなった、シュワイカートの体験というものがあります。私はベトナム戦争は、基本的に一神教の正戦論に基づいたイデオロギー戦争だったと思いますが、そういった状況での個人の決定的な瞬間における倫理的判断というものは、非常に難しいわけすね。考える暇が無い。前もって条件反射的に動けるように、倫理判断の訓練を行っていなければならない。勿論下手な訓練に基づいた判断より、直感的、良心的判断の方が、残念ながら正しかったということもままありますが……。
ところで、先日終わりましたコソボ戦争は、地上戦ではありませんでした。旧約聖書詩編91編をポケットに入れて戦車で戦場へ赴いた第二次大戦ではなくて、現在の戦争はハイテクの空中戦です。コソボを爆撃したB2(ステルス)爆撃機は二人乗りで、米国本土のミゾリーから飛び立ちますね。コソボまで15時間かかるんです。10機編制の内、だいたい3機は給油機なんですね。途中、空中給油をして、15時間で行って帰ってくる。95パーセントがコンピュータによる自動操縦です。パイロットのすることは、目的地に到達してから搭載爆弾の発射ボタンを押すだけ。ボタンを押すと、機体がガクンと揺れる。ただそれだけです。それ以外は機内で快適なBGMが鳴っているという。15時間経ちますと、爆弾全部落として、「Honey、I'm
coming back now」とアメリカの奥さんに電話します。それで、まあ寝ながら、機械に誘導されながらふるさとに帰るわけです。まさにバーチャルな感じですね。「チリソースをつけた熱々のホットドッグを頬張って」と『タイム誌』に書いてある。なんか遠足みたいですね。
しかし、これはまことに恐ろしい遠足です。スリル溢れる観光旅行です。地上の地獄の苦しみが目に見えてないから、そういうことができるのか? あるいは、自分の行いは正当化され得るから、殺しは許されると思っているからなのでしょうか? なぜなら、その行為は神に認められ、護られて、自分は命令に従って善をおこなっていると言うわけなのでしょうね、多分。こういう現実に対して宗教者は何ができるのかということを考えると、私はいつも憂鬱になり、違う意味で「神よ憂鬱なる私をたすけたまえ」と祈らざるを得ないのです。私の心の中が、コソボ戦争になるのです。
そのような状況の下で戦われているいまのコソボ戦争は、民族紛争という宗教戦争ですね。セルビア人の東方正教とアルバニア人のイスラム教、モンテネグロ人のカトリック教と、この三つ巴の戦争には、やはり宗教が政治に利用されているといいますけれども、その紛争の原点に宗教があるということは、疑いのない事実だと思います。旧約聖書詩編91編に出てきます。「自分が助かって、敵が死ぬように」と……。その祈りは恐ろしい祈りですが、これはまた平和を一方で祈る世界宗教が、もう一方でやっている厳然たる祈りであります。そういうわれわれ日本人だって、第二次世界大戦のときは「鬼畜米英。神国日本」などとやっていました。
宗教が戦争の原因になっているということは、痛ましいことであるという反省から、また環境破壊をこれ以上続けることは人類の存続にとって危険であるというところから、「地球憲章」という名のもとに、21世紀の地球倫理をNGOが、この2000年に国連で採択されるように草案を作っています。それは18項目からなっていますが、とにかく私たちは、すべてにおいて、意識改革が必要だというわけであります、神学者で活発に働いているのはハンス・キュングというヨーロッパの神学者です。かつてバチカンの不審を買った先進的な神学者で、「地球倫理」という考え方を提唱しています。キュングは「宗教の協力なくして、地球倫理は構築できない」と言いますけれども、私の目には、どうも倫理ではいかない。いまの世界宗教の現状では無理だという感じがいたします。東洋人の考え方をその中に入れようものなら、また変わったものができたと思います。なかなかいいアディアを提唱しているのですが、私たちの目から見たら、まだまだ一神教的な感じですね。しかしキュングの努力には敬意を払います。どのようなことを言っておるかについては、喋る時間が無いので省略しますが……。
一方、ジョン・ヒックというのは、「宗教多元論」で有名な神学者です。究極の実在は「太陽」のようなものであり、キリスト教も他の宗教と同じように、一個の惑星として、太陽の回りを回っている惑星のひとつであるというわけです。それがまあ、簡単に言えば「宗教(キリスト教)史における、コペルニクス的転回」といわれている考え方です。「自我中心から実在が中心へ」という考え方で……。まあ、これがジョン・ヒックの宗教多元主義のコアになる――これに対してもいろんな批判はありますが。しかしながら、排他的な一神教では「これは駄目だ」と思うような宗教も「小惑星のひとつなんだ」というような立場で、宗教協力をしていく、相互理解をしていく必要があるということを示唆しておるわけです。異なった相互の宗教の存在価値を認めあうということは、一神教的な地盤に住んでいる人たちにとっては、コペルニクス的転回であったかも知れないが、私たちは昔からやっていると思います。つまり、旦那さんたちはお互いの女房の比較や、ケチのつけ合いはやらないという常識の世界ですね。ヒック先生を日本に呼んで私は国際シンポジウムをしたことがあり、先生を尊敬していますが、正直なところ「今さらねえ」という感じで、キリスト教と天理教、ないし東洋の宗教の基本的なセンスのちがいをしみじみ味わった次第であります。
*原理主義との対話
それでは、お手元のレジメをご覧ください。「グローバリゼーションと宗教者の対話」について思うところをお話ししてみたいと思います。これは今日の朝日新聞ですが、ケルン・サミットの共同宣言の記事であります。その中の経済問題のなかに、グローバリゼーションということばが数多く出てまいります。発展途上国の債務取り消し問題について、「経済分野のグローバリゼーションで、貧富の差がますます大きくなって来ている。従って、債務取り消しはやむを得ない」というわけです。「最貧国も経済のグローバリゼーションの恩恵が得られるように各国が約束した」と書かれています。何故でしょうか? それは、いまのままの経済大国による世界の経済制覇が進むと、恐ろしいこと、つまり戦争がおこると感じているからだと思います。このことを欧米大国は一番心配しているのではなかろうか。あきらかに開発の犠牲者である途上国、未開発地域からの反逆、恨みのはらしが怖いのだと思います。グローバリゼーションが進むと、小さいけれども個性ある地方の文化は敗北せざるを得ず、諸文化の画一したマクドナルド化が起こります。
一方、金のある国と金ない国がはっきりしてまいりますと、ファンダメンタリズムが台頭してきます。たとえば、イスラムの原理主義。昨日の『タイム』誌に出ておりますけれども、アフガニスタンに身を隠しているいわゆるテロリストの親分で、昨年、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館を実際に爆破したといわれるオサマ・ビン・ラディン氏が、また宣言をやっておる。「アメリカは回教の敵だ」と……。「徹底的にテロ攻撃を加える」という宣言をテレビでやっておりましたね。堂々とテレビに出演しているのに、いくらFBI(連邦捜査局)などが捕まえようとしても彼を捕らえられない。「リベンジ(恨みを晴らす)というのが根深くある」と『タイム』誌は説明しています。ユネスコが、21世紀は「平和の文化」の世紀にすると張り切っていますけれども、どうも「リベンジの世紀」、「恨みを晴らす」世紀にならねばいいと思うのですが。
1987年に、IARFがスタンフォードで世界大会を開催しました。そこで基調講演された方で、『Faces
of Enemy(敵の顔)』というベストセラーをアメリカで出された方によると、「(戦争の際には)敵は(われわれと同じ)人間ではない。という世論操作をジャーナリズムが先導しながら、人民に敵意を醸成させていく……。これが(戦争の)原因である」と言っています。今週号の『タイム』を見ても、「(NATO軍の空爆によって)コソボからセルビア兵が引き揚げたが、(本当は)どっちが勝ったのか判らん」と書いてある。そこで、ここにコソボから撤退するセルビア兵が、舌を出している写真が載っています。まあ、「僕らはもう戦争をせんでもええ。ざまあみろNATOのやつら!」って感じでしょうね。セルビア軍の撤退に続いて、NATO軍ではなくてロシア軍が先に進駐してしまい、どうなることかと思いましたが、今日は「奇跡的にロシアとアメリカが合意した」ということで、それぞれの占領地域の分担は未定ですけれど、また、今日の夕刊から明日にかけてG7の報告が出ると思うのですが、コソボの問題はロシアも巻込んで、これからずっと続いていくと思います。
私はアフガニスタンの問題を20年前からやっておりまして、難民キャンプへ20トンの毛布を送ったことがありました。当時、1キロ8円の古い毛布をですね、それをパキスタンを通して、陸送してペシャワルまで届けようとすると、8円じゃ届かないんですね。「物を大切にしようとすると、お金が無駄になる。お金を大切にしようとすると、物が無駄になる」という矛盾に10年間悩みまして、10年かかってついに自分のなかにも難民がいる。つまり「あれもほしい、これもほしい、こういう条件であったらいい」といった、こころのなかの常に欲求する精神的な難民ですね。その存在に気づいて、自分は戦うアフガンの難民の姿勢に救われたという体験をえて、問題解決の糸口を掴んだことがあります。その話は今日は時間がないのでいたしませんが……。
そのアフガンゲリラ本部に行った体験は、いまでもまざまざと思い出します。私は、不思議なご縁で、ヒズミイスラミの党首と関係ができました。日本にもその幹部を何度か難民救済を目的に呼んだことがあります。ぺシャワルにあるそのゲリラ本部でのことです。ドンパチと外で戦争が始まっておりましても、お祈りの時間が来ますと、全員いなくなってしまうんですね。それで、本部の中庭でお祈りをやってるんです。こういう時の祈りというのは、「平和の祈り」なんかは多分やらないでしょうね。いのちが間近に迫っておりますから、「敵をやっつけられますように」という戦争の祈りでしょうね。だから、やっぱり宗教では、宗教者の祈りというのも、よくあるじゃないですか。先ほど申し上げました、宗教者平和会議ででもですね、基調講演者が言っていましたね。「あまり平和の祈りを上げてもろたら困る(会場笑い)」と……。「宗教者はもっと正直な声を上げて欲しい」とですね。どういう声が正直な声なのか知りませんが、胸に手を当ててみたら、少しぐらいは自覚できるのではないかと私は感じます。
ところで、このコソボの問題が、宗教者平和会議で問題にならないということがあるとすれば、大変ですね。こんな緊迫した宗教戦争の身近な不幸から眼をそらせて、ただ単なる伝統的な教理の相互理解や祈りのパフォーマンスに終わっているようでは、「平和の祈り」に力は無いと思います。そのために、わざわざ集まる必要はない。これは、心の成人の鈍い私の個人的な意見ですが、大いに宗教者の端くれとして自戒したいと思う次第です。
話は戻りますが、ペシャワルにあるアフガンのゲリラ本部で、孫子(古代中国の兵法家)の『兵法』を英語で幹部に講義したことがあります。1907年に、孫子の『兵法』は英語に訳されてるんですね。ところが、ゲリラたちに笑われました。全然、問題にならない。やはり風土が違うと戦略や戦法が違うんですね。孫子は「飯を食わねば(食糧補給が十分でないと)戦ができない」と言っておりますが、アフガンゲリラでは、全然、逆なんですね。飯ではなくて、「鉄砲がなければ戦はできない」と言う。鉄砲があれば、「相手から食糧は奪って来れる」と言うんですね。だから、兵士であるアフガン難民は、「鉄砲持ってきたか?」とまず私たちに聞く。風土や宗教、文化が異なると、発想が全く逆なんです。こういった話をしますと、いろんな思い出が次から次へと湧き出てきて、だんだん興奮してきますので、この辺で止めておきますが(会場笑い)。
*グローバリゼーションと対話
さて、グローバリゼーションの問題は、いろんな学者が触れております。国際会議でも、どこかにグローバリゼーションというテーマが最近は必ず入っている。私がこのレファレンス(参考文献)に挙げました中で、もし関心のある方がいらっしゃいましたら、レファレンスの5ページですが、『Religion
and Globalization』という、一番上の英語の文献がありますが、これはアマゾン・コム(インターネットの本屋)に申し込んで3日前に届いたんですが、ピーター・ベイヤーという人が書いたものです。この本は非常にいいですね。
5つのケーススタディを上げてグローバリゼーションのなかの世界宗教の葛藤と問題点を分析しています。具体的なケーススタディを通して、グローバリゼーションのプロセスの中の宗教の方向はどうあるべきか? ということを示唆しておるわけです。抽象的でなく、優れたがっちりとした社会学の手法に基づいて書かれた本だと思います。
こんな研究は日本にはないですね。まあだいたい外国の学者の紹介やら引用が多い。そう言いながら、私も同じことをしているのですが、学者でないからお許しください。いずれにしろ、皆さん方がご関心を持っておられるようなテーマについて書かれている文献を一応、挙げておきましたので、これはまた後で目を通してみてください。日本語で書かれている本は、ワレンシュタインをはじめとした2、3の権威者文献からの引用が多く、あまり独創的なものはないですね。このなかでは、ジョージ・リッツァの『マクドナル化する社会』などは優れていると思います。ぜひご一読をお勧めいたします。
しかしながら、日本でも例えば、「グローバル化とアイデンティティ・クライシス」について、先週開かれました「宗教と社会」学会の学術発表論文の中で、若手の学者がすばらしい発表をいたしております。グローバリゼーションの中の伝統的宗教とアイデンティティ・クライシスについてケーススタディですが、それぞれのケーススタディを通して、多元主義の中におけるグローバリゼーションの波をかぶった宗教のあり方、問題点などを社会学的な手法で分析し、方向付けをしております。「教理の交換」や「相互理解」の中からでは出てこない、現実社会に生きる宗教変革の問題を取り扱っています。そういう宗教社会学の方面からの研究者の報告のほうが、従来の宗教学者や神学者、そして国際政治学者の発題・解説より、より適切で、宗教者にとって身に迫ってくるものを提供してくれるのではないかと思います。まあこれはひとつの提案ですが……。
さて、話題を宗教間の対話、平和会議に戻します。先ほど申し上げましたように、戦いの中でも祈りというのは、大変な意味を持っているものです。今日の民博の岸上先生のイヌイットのお話でも判りますように、人類学者というのは、現地に行って調査されてくるから説得力がある。やっぱり、宗教者平和会議というのも、戦争の現場に行って、初めて「平和というのは何か?」ということが解るのではないか。1日3食頂いて、8時間寝てですね、レセプションなどやっていても、平和とはあまり関係ないと私は思うわけですね。いかがでしょうか?
三宅先生は、私から何度もこの話を聞いておられるから「もう慣れてるわ」という顔をしてお聞きになっているようですが……。ともかく個人的にそう考えておるわけです。失礼があればお許し願いたい。先刻、ローマのグレゴリアン大学で、「天理教とキリスト教」というテーマでいわゆる「対話」がありました。私がバチカンの諸宗教対話評議会といったところに行きまして、神父さんと議論をしました。「全くそうですなぁ」ということは、あまりやらない。同意するために、わざわざローマまで行く必要はないと思うのです。
残念ながら、向こうがこちらを知っているより、私のほうが向こうをはるかに知っているからです。したがって、日本の宗教者は、ご意見拝聴より、外国の宗教者にこちらのことを正しく、もっと知ってもらうために、もっと時間を取り、もっと発信すべきだと主張したいのです。
ハンス・キュングが「対話」についていろいろ書いたり、熱心に行動していますが、彼が言いたいことの結論は、次の3つなんですね。まず、第1は「諸国家のための世界倫理がなければ、人類に生命はない」、2番目に「諸宗教間に平和がなければ、国家間に平和はない」、3番目に「諸宗教間に対話がなければ、宗教間に平和はない」。そういうことで、宗教間に平和がなければ人類の生命はないと……。地球倫理を構築していくためには、諸宗教間の対話が必要なのだということを言っているわけなんです。しかし、はたして、地球倫理の前提となる宗教間対話は、効果ある形で具体的な世界平和と地球倫理の構築に役立っているか? 役立っていないとすれば、それは何故かということを、謙虚に反省しなければならないと思います。反省と懺悔は宗教の専売特許みたいなもののはずですから……。
*対話は平和をもたらすか?
とは言っても、原理主義者を前にして私たちアジア人は、少なくとも私は、どうこの問題を越えられるかがなかなか判らないときがあるのです。例えば、ピーター・オンというコロンビア大学の宗教学の教授が――イスラムの専攻の方ですけれども――こういうことを言っております。イスラムにおいては、「攻撃は、許されるばかりか、合意されたコンテクストの中で、大切な行為として道徳的に神聖化されているという事実がある」と……。だから、「戦争をするということは、道徳的に神聖化されている正しいことなんだ」と言うわけですね。イスラム教では、(正しい信仰を守るための戦争を)ジハードといいますね。聖戦ですよね。「戦争で死ななければ、天国へ行けない」と教えます。
しかし、何が聖戦で、何が俗戦であるかは、人間が決めるわけでしょう。多数決で決めるのではないわけですよね。まあ民主的な戦争なんてないと思いますが……。アフガニスタンではもう20年間も戦争が続いています。20年前に生まれた子供は今、20歳です。子供たちは、生まれてから平和なんて知らないんですね。アフガニスタンは、あのアレキサンダー大王が、世界征覇を諦めた場所ですから、民族の誇りがあるんでしょうね。四十数回英国が、カブールを陥そうとして陥せなかった。
ゲリラをムジャヒディーンというのですが、彼等は私にこう言ってました。「アメリカ兵は赤ん坊だ。ロシア人は子供だ。ユダヤ人こそが大人なのだ。あいつらが背後でアメリカやロシアを操っている」と……。私は最初から「この戦争は百年戦争になる」と言っていました。いまやその様相を呈しています。このことがみんな解らないんですね。アフガンのゲリラは最初七派に分かれておりました。現在では、タリバーンがだいたい全土を制圧したと言われていますが、将来どうなるか判ったものではありません。
そのタリバーンが国連仲介の会議に出るんですが……。一応タリバーンは「コンセンサス(停戦合意)」を1度は出します。しかし1週間後に破ります。会議で成立した「コンセンサス」なんて意味がありません。会議に出るのは、仲介者に義理を立てているだけなのです。実際には、強い者が勝つんですから……。戦いが全てであり、仲介は騙し合いと私たちには思われる程です。彼等の話し合いの中身がさっぱり分からない。報道も詳しくされません。「対話」で戦争が終わるなんて、彼等にはそんなアホなことはないですね。アフガンの戦争の歴史を勉強すればそのことはすぐに解るような気がする。
それを、「対話」で平和が来るなんてことは、イスラムの原理主義の人たちから見れば全くのナンセンスではないでしょうか? そういう現実を知った上で、それでは「対話」から平和を導くためにはどうすればよいかというと、「対話の対話」をやらなければならない。僕はそう思いますね。そうすると、「対話の対話」とはどういうことなのかを考える必要があると思いますね。
そういうことで、一方ではグローバリゼーションが浸透してくる。局地戦争よりこちらのほうが実はもっと恐しい。何故かというと、グローバリゼーションは、文化や社会の画一化を合理化という名の下にやってしまうからです。その反発として、民族主義や原理主義が文化・宗教の固有性を護ろうとして、よりその主義主張が頑強になる。国家主義もそれに従う。国際化時代が後退して、第三次世界大戦がより複雑な形で起こりかねない。しかも、それはコソボに見られるようなコンピュータ戦争である。貧しい民族、国民がその被害者となる。そのことに原理主義者は反発しているのです。
先進国がもっとも恐れているのは、この反逆精神が宗教という固い信念に支えられているという事実です。先月の『トリーガー』という科学誌は、グローバリゼーションの特集を組んでいました。「世界のルールは右手に論文、左手に特許」、「特許大革命」、「グローバル時代の特許戦略」という特集がありまして、欧米各国は、国際競争力を強める政策の核に特許を置き、知的財産権の強化を進める方向に一斉に動き出した。「国際市場で生き残りをかけた新たな挑戦の始まりだ。世紀を越えて世界経済が着実な発展を約束するキーワードは、グローバリゼーション、イノベーション(発明)、そしてパテント(特許)だ」というわけです。日本も遅れてはならずと、特許制度の改革を急いでいる。また、司法も変ろうとしている。大学、企業、そして国民の意識も大きく変わらなければ、日本は生き残れないと煽っています。つまり、「最初にグローバリゼーションありき」なのです。経済界では……。宗教界はどうかというと、脳死・臓器移植の問題をとってみてもハッキリしない。脳死とは死のグローバリゼーションそのものだと思うのですが、如何なものでしょうか。
*登る道が違えば大違い
そういったなかで、「宗教はひとつだ」と言われる方もおられます。「登る道はみな違うけれど、山頂はひとつなんだ」ということなんですね。しかしたとえば、神社神道の幹部の方で上田賢治という國學院大学の学長さんが「宗教をひとつにしようとすることなど、どないしても無理である。違うからこそ協力し合える」ということを非常に説得力のある形で述べておられるのです。が、私に言わせれば、逆に言えば、そのことは、「宗教がたくさんあるから戦争が起こる」と言える。違うから協力できるけれど、違うから戦争するんだという現実もある。
違うということと、たくさんあるということ。いろんな異質な宗教が混在しているということは、なかなか調和共存が難しい。だからといって、改宗伝道の延長線は、宗教戦争に繋がりかねない。多元主義というのは、そうなると袋小路に入ってしまう。多元主義の発想それ自体はすばらしくニュートラルだけれども、それをマイナスに発動させるのか、プラスに発動させるのかは、結局、人間の倫理的、宗教的決断であり、自分自身の人類愛に基づいたそれぞれの宗祖、教祖に学ぶ宗教心、信仰心しかないでしょうね。したがって、如何なる時代においても大切なのは、自分が帰依する、自分に最も近い教祖に帰るということではないかと思います。
たとえば、工学博士で浄土真宗の僧職にある方は、「(山頂=究極的な実在への)道がいくつもあるというのは、山を眺めている人だ。自分が通る道はひとつだ」といういいことを言っていますが、その後で、「親鸞の道はみんなに開かれている……」と、ここでトーンダウンるすんですがね。それに、たとえば、仮に「(山頂への)道がたくさんあっても頂点(究極的実在)はひとつだ」という考え方を受け容れ、頂点に到達しても、その人が見てる方向によって景色が違うわけですから、頂上はひとつだと、頂上に行くのが完成ではなくて、そのひとつの頂点に到達すると、また景色がいろんな道をたどりながら見ているよりさらに違ってくるんですよね。
その事実を忘れて「頂点はひとつだが道はいろいろある」などと、アホなことを偉い人が言っている(会場笑い)のを僕は不思議でかなわない。全然、現実に根ざしていない観念的な発言であります。そういうことで、これでは、対話なんてできないと思いますね。
時間の関係で、私が考えてきたことがひとつも言えてなくて……。それでも、神が「そのようにしゃべれ」とおっしゃっているのでしょうから、準備した原稿以外のことを喋りまくって非常に恐縮しております。三宅先生に(講師をするように)命じられて、だいぶ悪戦苦闘して、100冊近い資料を読みましたが、それでも、胸を打つものがひとつもなくて、ただ「情報量が増えた」だけです。自分の決断を左右するものはひとつもない。「本代が損した」と……(会場笑い)。おかげで、本の量だけはたくさん増えましたから、本棚を見せてあげまてもよろしいですが、あまり先生方はお読みにならないほうがいいでしょう。宗教学者の言うことは、あまりためになるようなことはないですね。たまには、(ためになる本が)ありますが、印象に残らない。宗教者平和会議で偉い宗教学者の話を聞きますが、学者の話には、頭を打っても、胸を打つものがない。宗教者の対話は、やはり偉い話や頭脳の話より、胸を打つ話がいい。つまり、実践家の話を聞かれるほうがなおさらいい。人助けをしたことがない人たちの話は、宗教者にとっては有り難くない。
*隠れて祈れ
たとえば、私がシンガポールで布教のまねごとをしていた時の話です。世界宗教者平和会議のアジア版(ACRP)のお手伝いをさせていただきましたが、その会議にマザー・テレサがインドから参加されました。そこで、彼女は「私は貧者の代表として来た」と、スリッパを履いて、質素なワンピースに勿論化粧などはしておられない。失礼ですが、そこらの街で会ったらおばんという格好で来られたのです。彼女が舞台に登場したら、日本の「偉い」宗教の代表者が立派な背広を着て、カメラを持ってバァーと前に走り出てきた。全員彼女の写真撮ってるんですね。シャッターの音でマザー・テレサの話が最初は聞こえなかった。
それを見て、同じ平和を祈る宗教者の中で、「えらいこれは対照的なことが起こってるな」、これが真の宗教者対話かと思ったほどであります(笑い)。「私は貧者の代表として……」というマザー・テレサの言葉、これはほんまもんの宗教者の言葉だと思いましたね。なにしろ愛の説明・解説者ではなく、実践者ですから……。一方、日本の宗教者は、なぜあんなたくさんの写真撮ってるのでしょうかね。そんなフイルム代があれば寄付をしていけばいいのに。普段言っていることと、いまやっていることがまるで違うと、私は自らもはんせいしながら非常に恥ずかしく、また自分にも何故か腹が立ったことを覚えています。いわゆる義憤というやつですね。自分も若かったからでしょうかね。
さて、宗教者の「対話」ということを考える時、蓮如がとった法話の時の「平座」という姿勢が参考になると思います。『蓮如上人御一代聞書』の第一部空善記の解説にあるんですが、蓮如は「上段を避けられ下段と同じものに平座にさせられ候(門徒と平座で法話をされた)」とあります。個人布教活動をもたれた伝道者にとっては、こういった態度は当たり前のことだと思いますが、当時は上段から僧侶が下段で聞く信徒にむけて説教していたのに、蓮如はこれに反発したのだと思われます。そこが蓮如の偉いところで、宗教者の「対話」の姿勢もこのようにあるのが、本来の姿と思われます。
それから、もうひとつ。よく国際的な宗教者会議では各宗教代表による「祈り」を必ずやられますが、「祈り」というのは、そもそもプライベートなものであって、ステージに立って交換するようなパフォーマンスではないと思うんです。コンフィデンシャルな(内密にする)ものだと思います。私が祈っている時に周りから写真をパチパチ撮られたりしたら非常に不愉快です。舞台でやる祈りは、本物の祈りではないと思うのですが、いかがでしょうか。宗教に欠かせない大切な祈りは、その宗教の聖なる領域で勤められるのであって、それ以外の場所で行われる祈りは、あまり御加護がいただけないのではないか。信仰はパフォーマンスであってはならない。
神道の祝詞も神に向かって行われるのであって、お社のない俗なる国際会議場のステージで聴衆にむかって祈りをやっても、どうもしっくり行かないと思います。祈りはそもそも、神に向かってするものですから。したがって聴衆の前に立っての祈りは、基督教では抵抗感はないかも知れませんが、東洋の宗教ではどうなのでしょうかね。少なくとも、私にはそういう習慣がないからとても出来ません。その習慣を変えるのが、宗教の国際化、グローバリゼーションと言われるのなら、それは宗教の個別性を否定した欧米化であると強く反論をしたい。
基督教のバイブル、新訳の『マタイによる福音書』にも「祈るときも、あなた方は偽善者のようであってはならない。偽善者たちは人に見てもらいたいと、街道や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まったあなたの部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたが祈るときには異邦人のように、くどくどと述べてはならない。異邦人たちは、言葉が多ければ聞き入られると思い込んでいる。」と、祈りのあり方について的確に注意をしておられるではないですか。
*うるさい虻になれ
それから、「対話」にしても、これは新約の『使徒言行録第二』の「聖霊が降る」という章の中で、故郷のことは皆が方言でしゃべっていると書かれているんですね。これを引用していると長くなりますから、やめておきますけど、要は「解かる言葉でしゃべれ」というわけです。私は関西弁でしゃべるのが一番しゃべりやすいし、聞くほうもしっくりと伝わってくる。同時通訳の方は困るわけなんですけど、彼らはそれで飯食とんのやろ、わしゃ知らん、そちらはそちらで苦労したらええんかと言うわけです。(会場笑い)
「対話」といえば、私は哲学をかじりましたから、本日の講演のために『ソクラテスの弁明』とかいう、ソクラテスの『対話』編を久しぶりに読んでまいりました。ソクラテスは「自分はアテネの虻だ」ということを言ってますね。アテネという巨大な馬が眠らないように、耳の所でブンブンうなっている。眠ろうとしている馬が喧しいものだから、彼を捕まえて死刑にしちゃうわけですけれど……。自分(井上)は「アテネの虻」でありたいですから、皆さんは、少なくとも日本の宗教者は、世界の平和のためにやってはならんことに対して、ブンブンブンブンうるさく叫ぶ虻であっていただきたい。私はローカルな天理教の「虻」になりたいと思ってやってますので(会場笑い)。
ソクラテスの話を聞くと、皆「痺れちゃう」と言うんですね。「ソクラテスは痺れエイである」というのも『対話』編の中に載っています。今、寝ておられる方も居られますけど、それぞれが教団の「虻」であっていただきたい。相手を痺れさせないと、それぞれの宗祖・教祖に痺れて信仰をさせていただいている私たちは、教祖に対して申し訳ないというように思うわけです。
*『深い河』と「意味のある偶然の一致」
最後に、「宗教多元主義とグローバリゼーションの行方」について、時間が経ってしまいましたので、簡単に申し上げてみたいと思います。レジュメにあります「対話と文学」ということに関して、遠藤周作の『深い河』という作品に注目したいと思います。この作品は宗教の神学に大きな一石を投じた作品であって、宗教間対話の可能性と限界を合わせて提示した作品であります。これは三島由紀夫の『豊穣の海』という四部作のテーマとも比較されますが、遠藤の場合は、作家としてのテーマとの苦しみがより集約して出ておると思います。これは他の言葉で言えば、5人の主人公を通して、異宗教間の対話の可能性と限界を文学的に述べた作品であるとの解釈も可能でしょう。
遠藤は自分の今まで感じていた多元的な価値観の統一という問題。つまり、基督教の絶対性・排他性と、一方、多宗教の個別性とその現実の間の問題を解決するために、『深い河』という作品の主人公を通して自らのさまざまな考え方を語らせています。その中で遠藤は、彼独自のメタファー(隠喩)を使って、キリストを「玉ねぎ」と主人公に言わせます。自分が「玉ねぎ」と表現しているものが、イエス・キリストの愛の塊だと言っているんです。玉ねぎを剥きますと涙が出ますよね。そして剥いているうちに最後には無くなってしまう。仏教の世界に近づいちゃうわけです。そのプロセスは涙だと。これは私の解釈です。
それを英国の神学者ジョン・ヒックは「究極の実在だ」と言って、「実在という太陽の周りをキリスト教を含む諸宗教が、惑星のように回っている」という宗教多元主義的なアナロジー(比喩)を通して、キリスト教の排他性の問題を越えようとしました。遠藤の場合、「実在」が大地から湧いてくるような感じですね。だから「踏絵を踏む足も痛い」ということも言ってます。凄いこと言いますね。僕は彼とは1回しか会ってませんけど、最後まで病の苦しみ、そして一神教の排他性についていかに異宗教との融和を理想的、実践的に昇華しようかというなかで、精神的な苦しみをるる縷縷日記に書いて残しています。彼が一番苦しんだのはこのことです。彼はある日、教会の聖堂に置き忘れられていた、このヒックの『宗教多元主義』という本に全く偶然に出会い、大いに神学的に自説に自信を得たと思われます。
彼はC・G・ユングの「意味のある偶然に一致」について非常に深層心理に関心を持っていました。ある時、哲学者である間瀬教授と門脇神父が――門脇神父は座禅を長い間やっている神学者でもありますが――「イエス論」で激論というか喧嘩をやり始めた。片方はキリスト教の哲学者で、もう片方は神父さんです。この二人が激論を始めたというんです。そのとき外では激しい雨が降り出した。外の物理的雨というのは議論とは関係無いんだけれど、「外は嵐のようだ」と言って、心とモノ、つまり激論と豪雨の共時性を日記では強調している。
(実際に)その時の天気を調べてみれば、あまり激しい雨ではなかったのかもしれない。そこをドラマティックに遠藤は書いているわけですね。「司会者の私(遠藤)は、ヒックの考え方と従来のキリスト論の間で引き裂かれて非常に困惑した」とも書いています。
ユングとフロイトが激論しているときに、引出しの中でスプーンがバンと破裂したという有名な両者決別の話を、ユングを知っている人はかならずここで思い出す。遠藤は晩年、「意味のある偶然の一致」という共時的事象に異常なほど関心を持っていました。話はそれましたが、いずれにしても是非『深い河』という作品は異宗教者間「対話」において、非常に参考になる作品ですから、ご一読いただきたいと思います。
*対話の「対話」の必要性
さて、宗教というのは本来的に「自らの信心の絶対性」を主張しますね。「自分の宗教は世界で3番目だ」とか、「去年は4番目だったけど、今年は2番目だ」なんて絶対に言わない。数量の問題じゃあないんですよね。信者が多いから1番だなんて言わないですよね。本来的に宗教というものは自らの「信心の絶対性」を主張する。どの宗派も信者に向かって、「罪とか煩悩とか執着的な生き方はいかん。利己的であってはいかん」と個々の信者に向かっては説いているわけですが、自分自身の宗教には執着しているという逆説の上に成り立っている。ところが、グローバル化の波の中で、副産物として多元主義的な考え方が大きく出てきた。宗教対話が進んでいくのにしたがって、だんだん自らの信じる絶対的な信心が相対化されて、個別的宗教のアイデンティティーにとっては、ひとつの危機的状況を生み出すわけです。そこでこういった危機的状況が進行する中で、宗教が向かうべき道は二つしかないと私は思います。
まず第一は、相対化に直面する宗教伝統の特殊主義的な再活性化。つまり「原理主義」という方向性がグローバリゼーションの中からアイデンティティー・クライシスを避けるために生まれてくる。これは「サルマン・ラシディ氏事件(註:イスラム教の預言者マハンマドを揶揄した作品『悪魔の詩篇』を刊行した英国在住のインド人作家に対して、イランの宗教的最高指導者ホメイニ師が暗殺指令を出した事件)」を思い出すとよく理解できます。イスラム教が宗教グローバリゼーションに対抗して、さらにそのアイデンティティーを保つために原理主義の方向へ向かう道であります。信仰の相対化は絶対に許さない。グローバライズはしないという道であります。それは逆に、自分の宗教をグローバライズしようとしている道とも言えます。いま進みつつあるグローバライゼーションに対して、反逆するエネルギーがグローバライゼーションによって逆に湧き起こってくる。これが第一のこれからの宗教が向かう方向です。
第二番目に、固有の伝統文化としての宗教がその特殊性という自らの性格を脱却して、グローバル化に対してよりオープンでリベラルな姿勢で対応するという方向性。この方向は、欧米のパラダイム、科学的合理思考に影響されやすい宗教団体に見られます。それがその宗教の本来性を消すようなものになるかどうかは、まだ時間を経ないと分かりません。
その他の折衷タイプは現実に見られますけれど、詳しい様々な例は、先ほど紹介しましたピーター・ベイヤーの『Religion
and Globalization』という本をご参照いただきたいと思います。ベイヤーはその著書で、グローバル化に対する宗教の「内在と超越」「普遍と特殊」というパラドクシカルな同時性とその状況、そしてその性格を明らかにするために、5つのケーススタディーを行なっています。それは「The
New Christian Rights in The U.S.(アメリカ合衆国における新キリスト教右翼)」、「The
Liberation Theological Movement in Latin
America(ラテンアメリカにおける解放の神学)」、「The
Islamic Revolution in Iran(イランにおけるイスラム革命)」、「New
Religious Zionism in Israel(イスラエルにおける新ユダヤ教国家主義)」、「The
Religious Environmentalism(宗教的環境保全主義)」の5つです。
ベイヤーの宗教社会学的な分析は、ヒック等の宗教多元主義的な関心よりさらに具体的、現実的であると思います。ベイヤーの扱った問題こそが、宗教「対話」に導入されるべきだと私は考えます。神学的議論では、現実の問題に切り込んでいくことはできないでしょう。宗教間「対話」がこういった視点をも今後取入れられんことを提案いたしたいと思います。
例えば、現在進行中であるグローバリゼーションの中で、宗教文化が特殊で閉じられたインドでは、インドの女性がミニスカートをはき始めた。それに対してひとつ上のジェネレーションが批判するわけです。しかし、「そうは言っても……」ということで対話が異世代間で始まるわけです。このように実例を通して「対話」をしないと、理念的な「対話」をいくら宣言したって何にもならないと思うわけです。宗教の流動するダイナミズミを抜きにした観念的な「対話」は、その内容において、いま、変革を迫られていると私は思っています。それが何であるかは「対話」者自身が認識して、勇断をもって「対話の対話」に踏み出すべきだと思うわけです。
*サルから学ぶグローバリゼーション
最後に、小話で私の話を終わらせていただきたいと思います。このところ、八王子市あたりのサルが都心(麻布)に迷い込んできたということで、警官が追いかけ回したというニュースが出てましたね。私もサルに関心を持ってますので、それをフォローしたんです。そうすると、昨日(6月18日)の毎日新聞の『余録』に、こういうのが出ていました。「昨日の朝、地下鉄のホームを歩いていると、向こうの柱の蔭でうずくまっている生物がいるのに気がついた。背は低く、毛は茶色。とっさに思った。『サルではないか』16日の朝、東京の真中、西麻布の住宅街でサルが現れ、警察官の追跡を振り切って夕方姿を消したという話があったばかり。地下鉄にサルが現れても不思議がない。そばに寄ったら、サルではなく、うずくまった茶髪の若者だった(会場笑い)」 非常に象徴的な話であります。
最近の「サル学」の進歩は非常に発達しておりまして、私はチンパンジーやオランウータンの研究をされている河合雅雄先生とお話をして、「サルから学ぶことはありますか?」とお聞きしましたら、たくさんあるんですね。例えば、年老いた母サルが残されて群から離れるんです。ところが、若い雌サルがその母サルの面倒を見るために群れから離れて来るんです。その雌に惹かれて若い雄サルがやってきてひとつの新しい群ができちゃうというんです。最近の人間はサルよりも悪い。親が病気になったらどこか病院に放り込んでおけというような案配で。その他にもサルの話はたくさんあるんですが。『サルに学ぶ』という本が出ないかなと思うほどなんであります。「人間から学ぶことは最近あまりない」と……(会場笑い)。
以前は、「ボスザルが群を統率して移動する」と考えられていましたが、最新の学説は違う。「ボスは存在しない」というんです。現在のサル学の成果です。「サルはお互い他のサルの動きを気にしている」というわけです。自分が特に気にしているサルが動くと、それにつられてサルどもは動く。これはまさにグローバリゼーションの一原形じゃないでしょうか。サルのほうが先にグローバリゼーションやっているんです。こうして引きずられながら、動きが次々に波状的に広がっていく。全体としてひとつの流れが形成されると、皆がそれに遅れまいとして、その流れに乗って動いていく。『余録』には、最後の落ちがあるわけです。「まるで今の自自公の政治のようだ(会場笑い)」。ボスは存在しない。互いに他人の動きばかり気にして、流れが出てくるとたちまち飛びつく。サルは永田町に居ると言うわけですね。
さらに言えば、サルは「永田町だけではなくて宗教界、教団にもいるんじゃないかな(会場笑い)」と思うんですよね。皆さんのところは判りませんが……。先日ある人に、「お前、木登れるか?」と言ったら「は? 何ですか?」と言っておりましたけど。そういうことで、サルになる危険性をお互いに意識しながら、宗教の「対話」についての私の暴言は終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
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