第30回世界大会に参加して 『 宗教間対話の明と暗 』 京都大学大学院 文学研究科 近藤 剛 |
今夏、バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学で開催された第30回IARF世界大会に参加し、宗教間対話の方法について考える機会を得た。そこで経験的に得られた反省材料と宗教間対話に関する今後の展望について、私見を述べてみたい。 華やかな開会式、荘厳なる諸宗教の祈り、和やかなグループ対話、感動を呼ぶ閉会式など、今回も表面的な「明」に彩られたお決まりのパターンを繰り返したように見える。それ故、宗教間対話とは程遠い文化交流のレベルにとどまった印象が残る。議論されるテーマも自由・人権・平和・平等・博愛などの普遍的な、つまり、当たり障りのないものばかりであって、宗教でなくては論じられない独自性とか、宗教が頑なに主張し続けてきた真理性とか、お互いに譲ることのできない信仰の独善性など、緊急に対話しなければならない真の課題は、そこに微塵も感じられない。このような空しい議論に無味乾燥を覚えたのは、決して私一人ではないと思う。宗教間対話という名の下に展開されるのは、単なる国際交流か各教団のPR活動、あるいは握手とフォト・オポチュニティーに象徴される自己満足の栄化ではないのかと疑わざるを得ない。 今後の宗教間対話は、セレモニアルな「明」に満足することなく、むしろ宗教の持つ「暗」、つまり諸宗教間の根深い対立や憎悪を引き起こしてきた相違点にこそ注目して、議論していくべきではないだろうか。そうしなければ、我々の折角の努力も徒労となる恐れがあり、特に宗教原理主義の勢力に対して何ら訴えることなく終わってしまうことになろう。現在の宗教間対話には、本来は避けて通れないはずの論争的性格が、著しく欠落しているように思われる。論争によって問題点を摘出した後で、初めて対話の前提条件となる共通地盤、あるいは交換可能な価値基準を考えることができると思われる。そして、その価値基準は、「普遍性」という特定のイデオロギー内に閉じ込められた「言語」を追求することによってではなく、変化に富むグローバルな課題に対応した「意味」の獲得を目指すことで創造され得ると考えられる。この点について、この度の研究部会でも活発な意見交換がなされたが、その多くは従来の仮説を繰り返すだけであった。そのような中でも注目に値するのは、金光教泉尾教会執行三宅善信師の研究発表であった。三宅師は、「対話のための対話」の必要性を説き、宗教の領域のみならず、政治・経済・文化の領域にまでわたる価値基準の構築について具体的に言及したので、今後の宗教間対話の見通しを鮮明にし、ある種の希望を持たせたと言えよう。会場に居合わせた参加者に共通する願いを代弁すれば、三宅師が宗教間対話の現場において、この論点をさらに展開され、理論化されるよう期待したい、ということになるだろう。 宗教間対話の現実は、楽観的な「明」に映り、真の対話には至っていないように見える。可能性としての「暗」を仮想的に実現させてこそ(それを現実に実現させた結果が宗教戦争である!)、真の対話が開かれよう。これからの宗教間対話は、宗教の持つ「明暗」という緊張状態においてなされるべきであり、その方法論は、パウル・ティリッヒ流に言えば、理論と実践の境界線上で模索されるべきであろう。私自身は、宗教改革時代の神学者ゲオルグ・カリクストゥスの原則:「不可欠なものにおいては統一、不可欠でないものにおいては多様、全体においては愛」を前提としつつ、差し当たり対話の共通基盤を倫理的・規範的な定言命法に置き、対話の方法論を弁証法的(破棄・保持・高揚のプロセス)に展開してみたいと考えている。これらに関しては、他日、詳述されるだろう。 |