国立民族学博物館助教授
新免 光比呂
5月18日、神徳館国際会議場において、第31回IARF世界大会の関西地区事前学習会が、新免光比呂国立民族学博物館助教授を講師に招いて開催され、この夏、ハンガリーのブダペストで開催される世界大会に参加予定の各教団関係者約30名が参加した。学習会では、東欧の宗教事情を民族と政治史の観点から振り返り、講演とパネルディスカッションを行った。本誌では、そのうちの講演の内容を数回に分けて掲載する。
◆東欧との出会い
ご紹介にあずかりました新免です。よろしくお願いします。「柔らかい(専門的でない)話を」というふうに伺っておりますので、なるべく私自身の体験を含めながらお話していきたいと思います。とはいえ、ダラダラとお話を続けても、後で「今日の話は何だったのか?」となっても困りますので、一応レジュメらしきものをご用意しました。必ずしもこのレジュメ通りにお話はいたしませんけども、こういうことがあるということに触れながらお話していきたいと思います。
まず、私が「ルーマニアに行こう(の研究をしよう)」と思った理由をお話したいと思います。こういう話は延々とやると、本題に入れなくなりますから、私もお喋しゃべりなほうですから、恐いのですけども……。私は学生時代(早稲田大学)に政治学をやっていたんですけども、インドへ行く体験をいたしました。ベナレスというところがございまして、そこで、人が死を待ちながら路上で死んでいく姿や、また、その亡くなった人を普通の人たちがヒョイと飛び越えて歩いていく姿を見て――私はまだ20歳くらいだったんですけども――大変ショックを受けました。人間とは何か、人間の死の尊厳とか、人間の遺体についての畏れとか、これはなんであろうかと、いろいろ思い悩み始めまして、それまでは、政治思想史をやろうと思っていたんですけども、これはひとつ、宗教というもの、人間というものを考えなくてはならないと思いました。そんなわけで、大学院では宗教学を勉強しようと思ったのです。
それじゃあ、何をやろうかと思った時に、宗教学という分野ではミルチア・エリアーデ(Mircea Eliade)という人が大変有名でして、それで、このエリアーデを研究し始めたのですが、この人がルーマニア人だったんですね。エリアーデはインドに留学しまして、そこでヨーガの研鑚を積んだ人で、そこをベースにして宗教というものを広く研究した人なんですが、そのエリアーデの故郷であるルーマニア、これがおもしろそうだなと思って、何も考えずに始めたんですね。
始めてみると、驚いたことに、これがとんでもない独裁国家で、チャウセスク大統領という方がおりましたけれども、このチャウセスク大統領は、1964年頃から権力を掌握しておったんですね。ですから、私が、初めてルーマニアに行ったのが1983年のことですから、当時、既にもう20年くらい独裁体制下にあったわけなんです。そういうところに行って、エリアーデ、それから、その背後のルーマニアの宗教を勉強しようと思ったんですが、これがよく解らない。チャウセスクの共産党政権が宗教を弾圧しているのか、宗教と折り合っているのかが、よく解らなかったんです。皆、教会には行っているし、教会で礼拝もやっているんですけども、どうも、宗教を研究する。あるいは一般の民衆と生活を共にするというのが、なかなかやりづらい。
この国はどうなっているんだろう? という疑問を持ちながら行ったのですけども、どうも、「宗教に深入りするのはヤバそうだ」というので、民族学(folklore)のほうをちょっと研究いたしました。そんなふうに時間が過ぎまして、1989年、先ほど、司会の三宅善信先生がお話になりましたけども、ルーマニアの民主革命がありました。それで、チャウセスク大統領夫妻が公開処刑されて、体制が変わりました。それから、大手を振って宗教のフィールドワークと人々の生活の実態というものが研究できるようになったんですね。
私が東ヨーロッパと関わりを持つようになったのは、こういう経緯があるわけですが、日本では、東ヨーロッパの宗教を研究しようという人は少なくて、現在でも有名な方なんですが、中沢新一さんという著名な研究者がいました。彼は私の大学院(東京大学人文科学研究科)のだいぶん先輩になりますが、その中沢さんが大学院の時代に、ハンガリーをやろうとしたんですけども、そこで彼も、どうも上手くいかないということで、チベットに行ったらしくて、ああいう『チベットのモーツアルト』とか、その後の華々しい道を歩まれることになったわけです。
◆カトリック教会と東方正教会
さて、そろそろ本題に入ってまいりますけれども、まず、とりあえず地理的なことを確認しなくてはいけませんので、地図を見ながらどんな宗教があるのかという話をしていきます。「東ヨーロッパ(東欧)」という言い方自体にも最近では問題が生じてきたんですが、以前は「ロシア以外の社会主義国家圏」を東欧と言えばよかったんですね。ところが社会主義政権が崩壊してから、「じゃあ、東欧とは何か?」という議論が起こってきています。まあ、そういうふうに、東欧というものは、なかなか曖昧な概念でして、どこまでをこれに入れていいのか、どこまでお話していいのかということがあるんですが、とりあえず、この『現在の東欧』と(レジュメの地図に)書かれているところを見ていきたいと思います。
東ヨーロッパの宗教を語るときに、とりあえず二つに色分けしないといけない。それは、ローマ・カトリック教会と東方正教会というものが、東ヨーロッパの中で異なる文明圏を形成しているんですね。そういった意味で、これから申し上げる地域をチェックしていただきたいのですが。まず、ポーランド、これは世界に厳然たるカトリック国家なんですね。現在の教皇ヨハネ・パウロ2世も、そこから出ております。それからチェコもカトリック、オーストリアもそうです。ハンガリーもカトリック、スロバキアもそうですね。ちょっと複雑なところに入っていきますが、(旧ユーゴスラビアの)クロアチアとスロベニアというところもカトリックです。これで、ひとつの「カトリック圏」というまとまりができます。
次に、東方正教会というものがあります。東方正教会とは――私の東方正教会の理解というものは、森安達也先生あたりの著書を読んで、これをほとんど踏襲させていただいているんですが――各民族ごとに独立したそれぞれの教会、個々の教会の緩やかな連合体、これを東方正教会というのですが、それぞれの国に独立した正教会があります。それで南から見ていきますと、ギリシャにはギリシャ正教会、これは、ギリシャの民族的な独立教会です。ブルガリアにブルガリア正教会があります。それから、ルーマニアにもあります。ウクライナにもベラルーシにも、それぞれの正教会があります。そして、最後にロシア正教会というふうになっていきますね。
このローマ・カトリック教会と東方正教会には、二つの大きな違いがあります。まず、儀礼のやり方が違うという大きな問題があります。それと並んで、歴史的・政治的な問題になるんですけれども、カトリックというのは、根本的にバチカンのローマ教皇を信仰の絶対的な中心として認めるひとつの普遍的な世界的共同体なわけです。それに対して、東方正教会というのは、コンスタンティノープル(トルコの現イスタンブール)の総主教を世界総主教(Ecumenical
Patriarch)として名目的に尊重しつつ、各民族の独立の管轄権を持った個別の教会があるわけなんです。
両者は、同じキリスト教の中でも、全然違う色彩を持っているわけですね。その違いはいろいろとあるんでしょうけども、判り易いところで言えば、正教会においては「イコン
(Ikon=聖画)」というものがあります。聖母像とか、イエスとか、聖人とか、そういったイコン崇敬があるのが、東方正教会の特徴であります。ですから、ある教会に入って、どちらの教会だろうと疑問に思ったときには、祭壇を見ればすぐ判るわけです。祭壇のところにイコノスタシスというイコンを飾る聖壁があるのが東方正教会ですね。それに対して、カトリックの場合には受難したイエスの十字架像の姿か、聖母マリア像が置いてあります。東方正教会には、イコノスタシスというイコンをかける壁があるわけです。これが、東ヨーロッパを理解する上でのふたつの大きな軸になります。東方正教会とカトリックですね。
◆イスラムという要素
さらに、イスラムという要素が加わってきます。地図で見ますと、アルバニアとかマケドニア、(ユーゴスラビアの)コソボ自治州の辺りですね。それから、ボスニア・ヘルツェゴビナやブルガリアにもイスラム教徒が少しいます。かつては、ギリシャにもいたんですが、ギリシャとトルコが戦争した時に、住民交換ということで、お互いの国内に住むキリスト教徒とイスラム教徒を交換したんです。エスニック・クレンジング(ethnic
cleansing=民族浄化)ですね。それをやったものですから、ギリシャからはイスラム教徒がだいぶん減ってしまいました。これがイスラム教です。
イスラム教の特徴というのは、8世紀頃、ムハンマド(マホメット)という人物が――この人はアラビア人なんですが――先行宗教であるユダヤ教やキリスト教の伝統を取り入れながら、その頃、彼の暮らしていた都市国家で蔓延はびこっていた多神教崇拝を否定して、アッラーという一神教の神を奉じる宗教を始めたわけです。ちょっと初歩的すぎて申し訳ありませんが……。そのアッラーという神は、ユダヤ教の神エホバ――ヤハウェイとも言います――それから、キリスト教の「父なる神」、これもヤハウェイですね。「そうした神と同じものである」というようにムハンマドは主張しております。
コーランを読みますと、ムハンマドは、最初の頃はユダヤ教・キリスト教というものをかなり尊重していたわけですね。つまり、同じ啓典の神(註=アブラハムやモーゼといった預言者が神から受けた啓示を述した聖書に基づく信仰)を信ずるものとして尊重してたんですけども、彼らが自分に従わないということで、だんだん排除していくようになるわけです。そこで、ムハンマドは自らを「最後の預言者」と呼ぶことによって、それまで連綿と続いてきたユダヤ教における預言者の系譜が――イエス・キリストもひとりの預言者であり、そういう先駈けがあって――私のところに辿たどり着いた。そして、「私は最後の預言者である」ということになっているんですね。ですから、「私の宗教(イスラム)が最も優れているし、総合的なものである」と……。そういうキリスト教・ユダヤ教に対する優越意識、あるいは対抗意識というものを強く持っているのがイスラム教です。
イスラム教の特徴は、「シャリーア」というイスラム法にあります。その「シャリーア」によって生活の全てを規制する。そして「ウンマ」と呼ばれる共同体を作って、普遍的な共同体・信者組織を構成しているわけです。それは、政治と宗教が一体となったものなんですね。イスラム教が東ヨーロッパ社会の中で、(キリスト教社会に)いつも脅威を与えてきたのは、その祭政一致という基本的な性格があるからです。日常生活を「シャリーア」というイスラム法で規制する。そこにおいて、いわゆる「教会と政治の分離」を行った近代ヨーロッパの政教分離の原則とは、かなり違った社会構造というものを持っている。それが、イスラムがヨーロッパ人に危機意識、あるいは嫌悪感をもたらすひとつの原因にもなっています。
▼ビザンツ(東ローマ)帝国
以上が三つの東ヨーロッパの宗教的要因ですが、もうひとつだけ言っておきますと、チェコとかハンガリーにルター派と改革派(カルバン派)のプロテスタントが少しいます。これらが、おおざっぱな東ヨーロッパの宗教的要因なんですね。では、それぞれの宗教がこのように広まっていった要因を挙げてゆきたいと思います。東ヨーロッパの宗教事情がこのようになったのは、やはり政治的要因というものが大きく作用していると思います。その政治的要因というのは、いったい、どのような文明がこの東ヨーロッパを支配してきたのかということです。
最初に東ヨーロッパを支配したのがビザンツ(東ローマ)帝国でした。もちろん、その前にもいろんな文明がありましたが、キリスト教と関連した時代から言いますと、ビザンツ帝国なんですね。ビザンツ帝国とキリスト教。このビザンツのキリスト教というのは、ローマのキリスト教とだいぶん異なった姿を持っているんです。キリスト教自体は、現在のパレスチナから生まれたものですが、パウロの世界伝道によってローマ帝国各地に広まっていきました。そして、そのパウロが帝都ローマで殉教することになるわけですね。ローマは、またイエスの一番弟子でありましたペテロ――このペテロは、イエスより天国の鍵を預かったというふうに伝承されていますが――が殉教した土地でもあり、キリスト教にとってエルサレムと並ぶ最大の聖地となっていくわけですね。そのローマにできた司教区・司教座を中心としてカトリック教会は発展したんですが、(四世紀のゲルマン民族の侵入によって西ローマ帝国が崩壊し)ローマの世俗権力・政治権力が不在になります。そして、ローマ帝国の中心はコンスタンティノープルに移っていきます。現在のイスタンブール(当時はコンスタンティノープル)と中心とする帝国のことをビザンツ帝国、あるいは東ローマ帝国ともいいます。この帝国というのは、皇帝と司教というものが密接な関係にありまして、皇帝が世俗権力を持って、司教の任命を行なったりしていたのです。そういうわけで、皇帝や世俗権力からの影響が大変強い性格を持ったキリスト教会という伝統を持っていた。そのビザンツ帝国のキリスト教がキエフ・ルーシという現在のウクライナで受容されたのが西暦九八八年、これが、スラブ人のキリスト教受容の先駈けというふうになっているわけです。
このビザンツ帝国から順調に布教が行なわれていきました。ルーマニアもブルガリアもセルビアもその辺り一帯が正教会、すなわちビザンツ教会というふうになっていきます。ところが、西の方からゲルマン人(今のドイツ人やオーストリア人)が、カトリック教会と共に東方に進出してくることになりました。それがフランク王国です。地図に矢印を入れてみると解り易いですね。東欧地域に対して、今のトルコの辺りから、南方からビザンツ(正)教会が来ました。そして、西からはフランク王国が来ます。ポーランド、リトアニア、モラヴィア(チェコ)といった辺りの王様は、自分たちの権力の保持のために強大なフランク王国と戦うことを避け、さっさとこのカトリック教会、すなわちフランク王国あるいはその背後にあるローマのキリスト教を受け入れてしまうわけです。それによって、討伐の口実の目を摘むということですね。フランク王国のキリスト教ではなく、ローマからのキリスト教を受け入れることによって、フランク王国からの影響を軽くしようとしました。これは、何故かというと、キリスト教というのは、政治的な管轄区と、宗教的な管轄区というのが一致していました。これは、ローマ帝国の政治制度を引き継いだものです。そうしますと、フランク王国の宗教的管轄を受け入れると、そちらの世俗的な支配も受け入れてしまうことになります。そのためにより遠くの(目の届きにくい)ローマ教会の管轄を受け入れることによって、フランク王国からの政治的圧力を排除しようとしたわけです。このへんのフランク王国の政治制度のことを話すと、また長くなりますので、ちょっと飛ばします。
▼オスマン・トルコ帝国
次に東ヨーロッパを支配したのが、オスマン・トルコ帝国です。これは中世末期に成立しました。オスマン・トルコ帝国というのは、大変優れた政治制度を持っていたとしかここでは申し上げられませんが、ひとつ言えるのはオスマン帝国の特徴としては、民族の区別なく優秀な人材を自由に登用しました。それによって、ボスニア・ヘルツェゴビナやアルバニアやブルガリアでは、イスラム教徒が増えました。特にボスニアあたりの人間は、オスマン帝国の宰相になったり、大変な出世を遂げて、帝国の重要な人的資源になっていました。もちろん、改宗した原因には、人頭税という個人に掛る税金をイスラム教徒になると免除されるという理由もありました。経済的要因ですね。それと政治的要因としての出世の可能性があった。そうした理由から多くの人間が改宗しました。
続いて、さらに近代になって、オスマン・トルコを退ける形で東ヨーロッパに入ってきたのがオーストリアのハプスブルグ帝国です。これは元スイスを出身としまして、ウィーンを中心に発展した多民族の帝国です。このオーストリアの影響のもとで、西欧文化というものが東欧に入ってきます。その西欧文化の強い影響を受けたのがチェコ・スロバキアです。今はチェコとスロバキアの二つの国に別れましたが……。それからハンガリー、スロベニア、クロアチア、ポーランドといったところが、大変強烈な西欧文化の影響を受けていくわけです。
そして、さらに最後の帝国の要因としては、ロシア帝国とロシア正教会があります。ロシア帝国はピョートル大帝、エカチェリーナ女帝、そうした伝統を引き継いで、近代になって強国になっていきます。そこで、ロシア帝国は、南下運動を始め、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアといったところに強い影響力を及ぼすようになっていきます。最初に申し上げておくのを忘れていたのですが、民族的な話をしますと、だいたい東ヨーロッパは、スラブという民族です。北のほうのロシア、ベラルーシ、ウクライナを東スラブと言います。そして、ポーランド、チェコ、スロバキアのことを西スラブというふうに言います。そして、ブルガリア、旧ユーゴスラビア、この辺りのスラブ人のことを南スラブと言います。「ユーゴスラビア」というのは、「南のスラブ人の国」という意味でした。
それに対して、ルーマニアは、最初に三宅先生がご説明下さったように、ラテン系・ローマ系の民族なんですね。それから、ハンガリーだけは、ウゴールフィンと言われる語族に属する全く別の民族なわけです。東欧において、ハンガリーとルーマニアだけがスラブではなくて、ちょうどスラブの一帯のところを、ズサッと南北に切り裂くような形でこの二つの国があります。これが東ヨーロッパの基本的前提ということです。これだけでも、「なんだ?」という感じになるかもしれませんが。こういうふうに複雑に絡まったところなんですね。さて、そういう前提を踏まえた上で、ひとつ話をしていきたいと思いますが。
◆共産主義政権と妥協した教会
ルーマニアの西部地域であるトランシルバニアではどうか? これは、ハプスブルグ帝国支配下で、1701年に教会合同が行われます。この合同の理由というのは、正教徒が(オーストリアの)カトリックとの平等な権利を求めて改宗したということですね。そして、そのカトリックに改宗した人たちが、ルーマニア民族覚醒の先駆的役割を果たしたわけなんです。ルーマニアのコンテキストで言えば、現在のルーマニアと古代のローマ帝国との繋がりを発見したり、(スラブ人の文字である)キリル文字から(ローマ人の文字である)ラテン文字へ替えたりするという、そんなところです。この合同教会も、今度は、共産主義政権下で、大弾圧を受けて壊滅します。そこでは、国民統合の手段として、ルーマニア正教会が利用されたのですね。東方カトリックの信者は、正教会に強制改宗させられ、司祭を投獄し、殺していくわけです。実に多くの人が亡くなった。
ここで、ルーマニア正教会と、トランシルバニア東方カトリックが対立する中で、ルーマニア正教会というのは、「自分たちこそがルーマニア民族の伝統を担う」として、このカトリックに対する弾圧を正当化したんですね。「合同はハプスブルグ帝国(オーストリア)の統治下で強制的に改宗されたんだから、自分たちの母なる教会(正教会)に戻るのは当然である。これは復帰である」というふうに考えたんです。おもしろいことに、共産主義の体制下では、教会というのは多くの場合、社会主義の民族主義化ということもあるのですが、民族的伝統を担うものとして共産党政権と妥協していたんですね。ルーマニアなんかは本当に典型的なんですけれども、ルーマニア正教会というのは、独裁者であるチャウセスクとも妥協して上手くやっていきました。彼の支配を認める代わりに信仰活動をも認めてもらう。しかし、そういう民族統合に属さないバプティストでありますとか、ユニテリアンでありますとか、東方カトリックでありますとか、そういったある意味でマイノリティーに属する民族の宗教とか、ルーマニア正教会から逸脱させるような、そういう宗教勢力というのは徹底的に弾圧しているんですね。
私がルーマニアに行って、最初よく解らなかったのはそこのところのカラクリだったのですね。皆、教会に行っているふうなのに、政府は宗教を弾圧しているという話を聞く。「なんで? 宗教は皆一緒じゃないの?」というふうに思っていたんですけど。結局、時間が経って解ってみれば、政治的に利用できる民族主義化したチャウセスク社会主義政権の民族統合に役立つ教会(正教会)だけは保護した訳です。
それでは、なぜ、チャウセスクが民族主義化したかというと、これは、チャウセスクが権力を掌握していたときの国際情勢に関わっているんですが、チャウセスクはモスクワと対立する形で、常にルーマニアの統合を図ってきたわけです。ですから、中立外交というものを積極的に進めていました。アメリカとも良好な関係を築いていました。そういうふうにロシアからの影響というものを極力排除しようとしていたチャウセスクにとって、スラブ民族と違うルーマニア民族(ラテン系)というものを、しっかり中を固める上で必要なイデオロギーだったわけです。そんな訳で、ルーマニア正教会というものは特殊な役割を与えられたわけです。
その共産主義体制というかチャウセスクの体制が崩壊したせいで、東方カトリックは復権し、教会財産の返還問題というふうになったわけです。ところが、現在の新しい民主主義政権もルーマニア正教会側に付いているんですね。現在の東ヨーロッパの特徴でありますのは、やはり、新しい政権もまた、民族と宗教を統合のために利用しつつ、西側からの援助を受け、資本主義化を進めていく。そういう一般的な傾向があります。
◆人々を結びつけ、分断する宗教の作用
最後に「ナショナリズム・民族文化と宗教」なんですけども、東方カトリックというものを見ているとおもしろいんですね。「信仰の宗教と儀礼の宗教」というふうに二つのパターンの宗教があるというわけです。その日常の儀礼参加というものは、非常に大きなイデオロギー的、教育的、それから、身体に働きかける作用があるわけです。その儀礼に参加するということで、共同体――自分が属しているもの――を明確化するという、そういうものがはっきりとあります。それは、私がトランシルバニアなんかで観察していて思うのですね。その民族ごと、あるいは宗教ごとに礼拝が違います。で、日曜の朝、皆それぞれパーっと別れて行くんですね。隣人同士が別の教会に行って、そこで何時間も過ごして、そこで立ち話をして、関係を温める。
東欧においては信仰型宗教――これは端的に言うと、プロテスタントのことですけども――よりも、儀礼型宗教――カトリックや東方正教会――というのが優勢なんですね。こういう儀礼宗教の場合、個人の内面よりも、集団と行為というものが強調される。その点で、儀礼というものが持っている政治作用とかイデオロギー作用というものが無視できない意味を持ってくるわけです。日常社会の中に亀裂を生んで人々を差異化していく働き。それが日曜日ごとの礼拝であったりするのですね。日常生活の生業――生きる上での暮らし――それは皆一緒にやっているんです。社会的共同作業も一緒にやっているんです。ところが宗教が関わってくる礼拝、それから、宗教的祭日の行い、そういったもので人々は分断されていきます。
ですから、宗教が紛争において利用される。これは政治的な手段として利用されます。ところが、もうひとつ下の基本的なレベルで、もちろん宗教が紛争をもたらすわけではないのですが、人々の自己意識と他者意識というものをそこで育む。そういった働きがあるということを申し上げておきます。
もうひとつは、ナショナリズムと宗教の親近性ということで、これはアンダーソンという人の『想像の共同体』という本の中で触れられていることですけども、共に動員力、人々を促す力というものが大変に強い。死をはじめとする人間の偶然性とか宿命に意味を与える力が大変強い。それから、アンダーソンが使っている「想像の共同体」という言葉ですけども、人間に非常にイマジナティブ(imaginative)な、「共同体と自分が一体である」という、そういう幻想を強く与える。そういう点において、ナショナリズムと宗教というものが共通する要素がある。そういった訳で、東欧における紛争の中で、民族と宗教というものがどういうふうに関わったのかということは、こういう見方もできるのかなというひとつの提示というか、考えです。
ちょうど一時間くらいになりました。本当に東ヨーロッパを説明するというのは、歴史と民族が関わっていまして、いつも上手く説明できない、「スパッと解った」というふうに説明できないもどかしさを覚えるんですが、それは、一にも二にも私の力量不足なのですが、このあたりでお話を終わらせていただいて、後のディスカッションで、個別のことについてお話していきたいと思います。長時間どうもありがとうございました。
(連載終了 文責編集部)