★ 98年度掲示板内容

日本における宗教の概要
「教師1人あたりの信者数および布教施設1カ所あたりのの教師数の分析:神社神道系」へのコメント(98/02/06)

神職・男性・50代・大阪府在住


私は、今、神主をしています。 神社における神職の皆様は、他の宗教人の考える信者と同じ様に、氏子をとらえているのでしょうか? 全くとらえてはいないでしょう。 

最低1週間に1度は参拝する人が信者の最低必要条件ではないでしょうか。正月、祭りのみの参拝では信者と言えるでしょうか。 

そもそも、神社が宗教的行為を成しているか疑問です。宗教的儀式行為は成していると思うのですが・・・ 深く考えると、宗教法人○○神社は本当に少ないと思います。株式会社○○神社はあると思います。その中には個人経営もあれば、家内工業的等々色々でしょうね。これは一概に神社のみとは言えません。仏教にも然りと思います。 

宗教の私物化が進むと世襲制度を生むわけです。ほとんどの神職は現在3代ないし4代目だと思います。 

神職が祝詞に書かれた文字を朗々と奏上するだけで、どれだけの願いを、悩みを聞き入れて挙げてるでしょうかね。 

私は、儀式に入る迄、儀式が終わった後、この二つの場に於いての参拝者との関わりが大切に思います。 この時に如何に関わるかによって、参拝者の願いを、悩みを神々に託すことが出来るのだと思うのです。 

只単に、氏地に住まいする人を、また正月に、祭り等に来る人を信者数にする事は出来ないと思います。 それをやる神社本庁の真意はおごりとしか言えません。



「神道と柱」・「神社建築とDNA」の論説を読んで (98/06/09)

山本武彦 神戸市在住 65歳

 レルネット主幹三宅善信氏の「神道と柱」・「神社建築とDNA」の論説を読ませていただきました。 私は考古学の知識はありません。青森県の三内丸山遺跡の柱跡は、この論説を見るまで建造物の柱跡と思っていました。それは各メディアがそのように報じていたからです。

(読後感想)

(1)三内丸山遺跡の柱の跡は、「ある種の宗教的意味を持ったもので、単なる建造物の構造を支えるための基礎柱ではなく、わざわざそれを「立てること」自体を目的とした掘っ建て柱にしたのである」という説には驚きましたが、その論調と説得力には胸のトキメキを感ずるような、ある種の興奮と感動を覚えました。

(2)ヒトが四足歩行から二足歩行になり、立上がらなければならなくなった。それ以来、「立上がる」ということ自体に只ならぬパッションを抱くようになり、それが高い柱を立てるということになつてきたと言う説には共感を覚えます。 そして更に、ヒトは「Make it taller than others」を目指すようになってきたものとする説もごもっともと思われます。

(3)高い柱に神を依らしめ、宗教的信仰的対象に作り上げたというところは共感を覚え、快いロマンさえ感じます。

(4)「並んだ柱跡」から、大変立派な建築文化を想像するのは先祖である縄文人を買いかぶり過ぎで、本来はもっと素朴な思いで柱を立てたとする説に共感します。

(5)日本神道の持つ永遠性の精神は日本人のDNAにあるとする説は面白い説だと思います。 素材的には常に変わりながら、情報構造的には同じものを伝えることが出来るというDNAの特殊性によって神道の精神の永遠性が保たれている説、「なるほど」と思います。 DNAの新しいコピーで「永遠」というものを目指す戦略を、ヒトは兼ね備えているとの説、同感です。

(私見)  

人類の「宇宙への進出」は縄文人の「掘っ建て柱」によってすでにシンボライズされていたと思います。即ち、人類の宇宙志向は既に縄文人をも含む古代のヒトの遺伝子に組み込まれていたと思います。これはヒトに代表される生命体が、海→陸→空の順序で、より高度なものへの志向をもともと持つていたからではないでしょうか。 

4億年前に、それまでずっと海の中にいた生物がはじめて陸上に上がるという進化史上、大きな意味を持つ出来事が起きました。近年、それと同じほど大きな意味を持つヒトの「宇宙への進出」が始まっています。この「宇宙への進出」ということ、そのこと自体も生命進化史上、何億年に一度しか起こらないような大きな出来事だと見なければなりません。

 ヒトと言う生命体が陸から空(宇宙)へと志向する原動力をシンボライズしたものが、主幹のいう縄文の「掘っ建て柱」ではないでしょうか。私はこの様に論理を飛躍させて考えてみたいのです10年とか100年とかいうようなスパンで考えると、掘っ建て柱と宇宙は結びつきませんが、進化史という大きなタイムスケールで考えて頂くと、よく理解できると思います。
 


6月9日着信の愛知学院大学からの質問への回答 98/06/16)
               
「レルネット」
1.volhinia
2.podolia

この2つの単語についての意味、まつわる話についてなんでもいいから教えてください。宗教に関する単語と言うことしか分からないのですが...  
調べるのが遅くなりました。貴殿に回答しようと思ったのですが、連絡先が掲載されておりませんでしたので、掲示板に添付します。今後は、ご連絡先を明記ください。


まず、宗教関係の辞典にあたってみたのですが、かなり大きなものでもヒットしませんでした。 
では、と英英大辞典へ移りますと、volhyn'iaで、載っておりました。 podoliaはそのままで記載があり、二単語の意味に関連性も見つけられたのでおそらく以下にお知らせするもので良いのではと思うのですが。


volhyn'ia
A former government of the Russian empire, now in Poland and Ukraine.


podolia
A province in Western Ukraine Soviet Russia, Europe; 16,224 sq. m. ; chief town, kamenetz Podolsk (a. & n. Podolian)

 以上のように、京都大学大学院博士課程の永原順子さんが調べてくださいました。あまり,宗教に関係するものではなさそうですね。
今後は、出典や言語も指定してくださると、より分かり易いのですが・・・



「主幹の主観」を読んで (98/08/12)

萬 孫樹 mansonge@geocities.co.jp

不偏不党。いやそうではなく、宗教偏執ではないところがいいですね。いま、「主幹の主観」を念頭においていますが。私の好みに合っています。  

インターネットで、人間、思想、歴史、文化、宗教などを論ずる(おちゃらかに語る場合も含めて)際、スタンスの取り方がむつかしい。これは私の好みですが、「神秘主義」でもなく「合理主義」でもなく語るのがいいですね。結構多いのが「神秘主義」。これは悪いオタクのサークルなどが典型です。 

私は、ある「思想」ジャンルのメーリングリストに入っていますが、閉鎖的な不文律を感じますね。ここにいるなら、あれが見えるよね、という裸の王様状態。「裸じゃんか」とは言ってはいけないルール。麻原彰晃の「信心があれば見える(あるいは、できる)」と同じ。   

もう一つの「合理主義」は薄っぺらい合理主義。表層理解。深層がなく、いま目に見えるものしか認めない(られない)タイプ。反オカルトの大槻義彦教授みたいになったら、宗教価値なぞは語れないでしょうに。  前書きが長くなりました。(エッ、まだあるの?)以下、「主幹の主観」の感想(いや、かこつけての雑談でしょう)などを一筆失礼申し上げます。

■神道と柱■

基本的に賛成です、立柱が第一義だとのお説に。先日、NHKテレビの「堂々日本史」で森浩一教授が、諏訪御柱は山から木を切り出して立てること自体が祭で、立てたあとには何の意味もないと発言されていました。鮮やかですね。 
 
ここで想うのは、エジプトのピラミッド、それに日本古代の巨大古墳建造の様子です。よく「奴隷が多数動員されて云々」と言われますが、果たしてそうだったのでしょうか。古代を想うとき、私たちが第一に改めなければならないのは「宗教」認識でしょう。

 宗教という定義は、宗教を相対化できて始めて生まれたものです。それ以前はいわば「空気」だった。すなわち、当然のごとく吸い、それなくしては生存できない「世界」だったのです。だから、古代エジプト人も古代日本人も「祭」として巨大物の建造に主体的に参加したはずです。それにしても、キイワード「ホモエレクトス」は秀逸です。うまい!


■神社建築とDNA■

 いま実は折口信夫の「古代研究」を読んでいまして、やや信夫ってますが。天皇とは個人ではなく、霊である。この考え方、「何代目何某」っていうのと同じなのですね。本当に生き続けているのは個体人格ではなく、普遍人格である。

 どうも、私たちが知っている同一性や生きている主体は、近代的な定義にすぎないような気がします。もう引き返せない気もしますがね。


■南の島で観た「米製ゴジラ」■

「ゆっくり(大きいものほど動きがゆっくりと見えるという道理に適っている)と動く和製ゴジラの方が気品があるように思う。」同感ですね。とくに「気品」が。とあるサイトでこんなことが書いてありました(うろ覚え)。--日本のゴジラはズン、ズンと、かかとで歩く。これはヒトの歩き方である。ところが、ハリウッドのゴジラは爬虫類らしく(?に決めつけて)つま先で前かがみに歩く。--   これは言い得て妙ではありませんか。ゴジラをどう見るかが歩き方に表現されているわけです。 

 「ユダヤ・キリスト・イスラム教的な文化背景(創造主である「全能」の神から、世界=環境を支配することを委ねられている人間が、非造物である自然=生物に対して何をしても構わないという発想)を持つ欧米人と、アニミズム的な「一切衆生悉有仏性」つまり、石や草木に至るまで人間と共通する精神性を有するという日本的思想が相容れないのは当然である。」同感です。  同じことですが、西洋一神教は神と人との断絶が大きすぎるのです。それに対し、東洋思想は何でも神にしてしまいがちです。どちらもその神観をより自己認識することが必要でしょう。神人関係こそが宗教の本質、ひいては世界認識の無意識(前提、伝統)なのですから。また、そうして始めて、価値中立的=客観的に語れるのだと思います。


■四十にして惑わず? 林住期に突入■

これはもう、奥様にざぶとん10枚ですね。いやいや、参りました。

■遺体と遺伝子■

加地伸行氏の『儒教とは何か』は、私も読みました。日本の仏教、特に葬儀は「儒教」だとは納得しましたね。三宅さんの「遺」については、すでに私なりに翻案させていただきましたとおりです。  
 また、進化とは「新化」だ、はなかなかいいですね。私は以前から、今西錦司の棲み分け説、すなわち進化とは階層-高級化ではなく種の環境-地域的拡がり(多様化)であるとの考えに共感しています。  

さらに最近は、構造主義的進化論という説を唱える池田清彦氏を信奉しています。彼は系統樹的進化を否定します。たいへん面白いので一読を是非お勧めします。「さよならダーウィニズム」(講談社選書メチエ)「構造主義科学論の冒険」(講談社学術文庫)など(ご存知なら不躾お許しください)


■ウルトラマンに観る親鸞思想―「光の国」と「往相還相」■

 やっと、ご指示のウルトラマンにたどり着きました。親鸞はキリスト教的ですね。救いは一に神(阿弥陀仏)からの不可思議な働きにかかっています。神と人の断絶があります。  

私の注目は「日本人の深層心理に訴える中味がないと30年間も同じパターンの番組が継続して視られ続けるはずがない。」ですね。私は「ウルトラマン」を発明したのは親鸞とは思えません。おっしゃるように「日本人の深層心理」にあるのですから、もっと以前でなければならない、と思います。でも残念ながら、論証できる能力はありませんが。

 私がイメージしているのは、日本人は変わっていないのだろうな、ということです。表層なり形は変化しても、精神は「昔」を保っているのではないかということです。ただし、起源や歴史の健忘はありますが。  

日本の文化は、重層的な構造になっており、少なくとも「日本古層-中国旧層-近代新層」から成っているのではないか。日本古層が「ウルトラマン」も育んでいるのでは、と考えています。中国旧層は官制、儒教、仏教、道教などです。  いずれにせよ、三宅さんがウルトラマンの「思想」を真摯に語られる姿勢についてはたいへんシンパシーを感じます。これは上述したとおりです。



「四十にして惑わず? 林住期に突入」を読んで (98/08/1798/08/17)

匿名希望 (65歳)

「四十にして惑わず? 林住期に突入」を読ませていただきました。大変面白い御説と思いますし、共鳴する点も多々あります。四十台が人生の総合的最盛期であると言う点も同感です。しかし、それを具現化できる社会的構造がその説にはなじまないのではないでしょうか。背景となる舞台が四十台にはざんねんながら整っていない。これは社会が悪いのであって四十台の責任ではないと思います。  

例えば、踊りの名手がいくら町の四辻で踊ったとしても、うまい辻芸人でしかないのです。悲しいことですが,国立劇場のような舞台で踊らなければその芸は見とめては貰えないのが現実です。実力はあっても四十台はまだ舞台に出してもらえない時期だと思います。だとすると,本当の活躍期は五十才〜六十才ではないでしょうか。現代の社会に存在するあらゆる組織(会社等も含めて)は多かれ少なかれ権力組織です。私も四十台には、いやというほどその悲哀を味わってきた者です。どんな良い意見でも直属の上司と衝突すれば、その上司のライン上にいる会長・社長にまで至るすべての管理職を敵にまわさなければならなくなり、いわば会社全体を敵にまわさなければならなくなります。自己の発顕の場を完全に失います。それが権力組織たる所以です。I wished I were a wise man ならば、いまごろは準大手の証券会社の社長ぐらいになって、大蔵官僚とノーパンシャブシャブ遊びをやっていたかもわかりません。  

四十台の人々が心置きなく実力を発揮できる社会を作れば、もっと早くダイナミックに世の中は変わるでしょう。逆説的に私はそう願っているのですが現実はそうではないというところから話をしなければなりません。私の人生を通じて四十台に努力を怠りその結果自己実現が出来ず後年苦労したものは何であったか、又最近まで私が接していた職場の四十台の仲間に欠けていたもの何か、それがために四十台にはこれだけは身に付けておくべきものと思われる資質を列挙します。


(1)国際感覚を身につけること   
国際化と言うとすぐ英語力と言う人も多いが、要は英語が話せるかどうかではなく相手と同じ土俵に立って自らの立場や意見をきちんとロジカルに表現できるかと言うことであり、同じく国境や言葉又宗教や習慣等の壁を超えて人間として共感し得るものを持つこと出来るかと言うことであります。


(2)情報収集力を身につけること  
現代は情報過多の時代であります。目的意識を持つて「生きた情報」を、いかに多く有効に集めるかによって、時代を先取り出来るのではないでしょうか。


(3)先見力と洞察力を培うこと   
四十代が社会をリードするためには「先見の明」が必要です。「先走り」ではなくて「先取り」の精神を持たなくてはなりません。同時に物事の全体から部分を捉えてその本質を見極める洞察力を身につけることが必要と思います。  「物は必要な人にとってのみ価値がある」という限界効用説(経済学)というものがあります。人がほしいと思うからこそ、そこに価値が生じるのであって、だからこそ社会の流れが求める物を先取りし、その物の本質を洞察することが必要となります。


(4)企画力(戦略性)を身につけること   
企画と言うのは人生の企画から企業・商売の企画等いろいろあります。四十代にとって大事な企画力とは世の中の流れや変革に合わせて自分の生活のリズムを再編成出来る力のことです。青年期を脱皮した四十代は精神的にも肉体的にも成長し、それに伴って周囲の状況や環境も大きく変化してきます。この初っ端の時期に生活のリズムを、うまく再編成できるか否かがその後の人生を大きく左右します。五十代でも六十代でも環境は絶えず変化していますが、その時、多かれ少なかれ自分の生活のリズムを企画し直さなければならない必要性にせまられます。年寄りが惨めに見える時は、企画力がないためリズムを作れないで戸惑っている時だと思います。  

蝉が幼虫から成虫に変わる時、古い皮を脱いで変化します。これを蛻変(ゼイヘン)と言いますが、人生の四十代はまさにこの蛻変にあたるものと思います。社会や組織の変化に従って旧意識を捨てて脱皮し、動態社会への対応を企画する、即ち、知的武装・理論武装をする時期で本格的活躍はもう少し後ではないでしょうか。勿論、physicalな点では最盛期です、大いに活躍することも動くことも結構ですが、spiritualなもの、例えば、人徳・貫禄・威厳・カリスマ性等のようなものが加わるのが四十代後半ではないでしょうか。  

これは一般論で私のような次元の低い世界(証券会社・警備会社・肉体労働的人材派遣会社)の者がそう思うというだけにことですので割り引いて御読みください。(善信先生のように、私が申しました大部分を既に身につけていらっしゃる方も四十代にはいますので、あくまでも一般論として御読みくだされば幸甚に存じます)




「堕落したウルトラマン」を読んで (99/08/20)

匿名
 「異安心タロウ」さっそく読ませて頂きました。   
今回も仲々鋭い着眼点に唸らされました。三宅さんのおっしゃる様に、第二期、特にエース以降のウルトラシリーズに於ける劇的なまでの質的変化という点には、私も同じ様な感想を持っています。   

ただ第二期の作品に対する評価というのは、幼児期の原体験的作品がどれであるかによって明確に異なる様で、第一期の作品を原体験とする世代では、三宅さんとほぼ同様の意見が主流なのですが、第二期の作品を原体験とする世代では、逆に「タロウ」に対する人気は根強いものがあるのです。   

おそらく、この評価の違いはウルトラマンを人智を超越した神秘的な宇宙人と捉えるのか、身近な遊び相手として見るのか、初めて出会ったウルトラマンの立場がどうであったかによって、大きく異なっている為ではないかと思えるのですが。   

ただいずれにしても、「タロウ」がウルトラシリーズの流れを変える、大きなターニングポイントであった事はまぎれもない事実でありましょう。評価の割れる作品とはいえ、さすがにシリーズ全体の抹消はいささか過激な意見ではありますが…(いやはや…)   

ただ、こういうウルトラシリーズの質的変化というのは、実は案外語られていません。その意味でも「異安心タロウ」は貴重な文章だと思います。  

どうか今後も機会を捉えてこの様な作品をご発表下さい。楽しみにしておりますので。   

最後に訂正を一つ。「ウルトラマンパワード」の着ぐるみには残念がらショー・コスギ氏は入っておられません。彼は日本語版のパワードでパワードの声のみを演じています。  

それでは今後ともよろしくお願い致します。




「正義という不正義」を読んで(98/08/23)
K, Steven 36歳 会社役員
I must agree with the points that you make in regard to the recent cruise missile attacks on the Sudan and Afghanistan. I too am perplexed by the logic being employed by the US government in justifying this action (the arrogance of the US in the post Cold War period is beginning to shine through). I suppose, if one were to grant the benefit of the doubt to the US, there may be some vital pieces of information that they have that has not been communicated to us, the public. Even within the US, senators such as Alren Specter of Pennsylvania have criticised the actions of President Clinton (which is extremely unusual given the standard practice of supporting executive action by the President when US forces are deployed). I also fear that this action will result in retaliation in the form of terrorist incidents all around the globe wherever Americans are located. I think there are many unfortunate parallels between the Vietnam War (where the Vietcong used guerilla tactics against conventional tactics employed by American forces) and the current situation.

「正義という不正義」を読んで(98/08/22)
Y.U.生 団体役員
昨夜、relnetを拝見して、先生の「主幹の主観」に大いに啓発されたところです。  

特に、「正義という不正義」には、快哉を叫びたい思いで拝読しました。あの、口八丁、手八丁、ジッパー八丁のクリントン氏のエゴイズムを見事に指摘してくださっていますね。あんな正義がまかり通るなら、この世にはいかなる不正義も正義にすりかえられてしまうでしょう。  

彼の正義は自分の物差しだけの尺度にあうものだけが、そうであって、もはやレトリックもむちゃくちゃです。例のホワイトハウスでの情事がプライベートなものであるなら、彼の行動のすべてがプライベートな基盤にあることになりましょう。パブリックという公人は存在しないで、アメリカ大統領という名前を許された私人になります。  

そんなことはどこの国でもうけいれらるものではありません。テロは唾棄すべき行為です。それを上回る破廉恥な行為が正当化されてはなりません。パールハーバーを言う人々がヒロシマを正当化したのと同じです。  

先生ほどにはうまく表現できませんが、「主幹の主観」はいつも的を射たご発言であることに感心しています。これからも味読させていただきます。ご健筆を期待しています。




「正義という不正義」への感想(98/08/24)
谷 哲哉  株式会社 シスイン ディー・ディー代表取締役
           
URL: http://member.nifty.ne.jp/sysindd/
e-mail: sysindd1@osk.3web.ne.jp
「主幹の主観」コーナーの「正義という不正義」を拝見させていただきました。 

人間としての素直なご信条を展開されている内容には共感するところが多くマスコミ報道以外にこのような考え方があると言うことをインターネットという手段を利用して世界に広く発信する姿勢には敬意を表します。

 さて、小生のつたない感想を少しだけ述べさせて下さい。  三宅先生は、今回のテロに対する米国の対応を米国国内犯罪に対する米国の国内での対応と比較していらっしゃいますが、これは国家と言う統制可能な、集合体内部の事件とは異なるので、(一般の人々の感情に訴える目的を除外すると)正鵠をえた論理とは言えない様に思います。(アジテイタの論理としては効果的でしょうが) 「民主主義国家における刑法の大前提」に服する意志もなく、制約される考えも無く、倫理的にも思想的にも今回のテロに心の痛みを感じない人間/集団/組織がおこなった事件であると考えます。このような組織に対して、狙われた国家の代表が、その組織の中心人物に対し敬称をつけた呼び方をすることは、大統領として絶対にしてはならないことです。(組み合わせを変えて考えてみると、日本と日本人を標的にしてテロを行った外国のテロリストに対して、日本の首相が相手を敬称付きで呼ぶ様なことがあれば日本国民はその首相を蔑むことは当然のことでしょう) 報復のミサイル攻撃で敵対組織の戦闘員以外の犠牲者が出たことだけを責め立てるのは、反国家的集団のアジテイションの手段としては効 果的な方法であると思います。

 しかしこの原因となったテロで自国の人間に多大な犠牲者を出しており、しかも近い将来にさらなるテロが予測され(それなりの情報収集の結果として)緊急に対応するための効果的な手段としてミサイル攻撃を行った事を感情的な一面だけから批判するのはバランス感覚に疑問を覚えます。(もし日本がテロ攻撃の対象になったときなすすべもなすべき力もない事は問題であると考えますが) 「暴力は何事も解決しない」というような、歴史的にも間違っており・・・・道徳にも反している教訓にしがみついている人間に対しては、ナポレオン・ボナパルトとウェリントン侯爵の亡霊たちを呼び出して討論させてみたらいい。暴力、むき出しの力は、歴史における他のどの要素に比べても、より多くの事件を解決しているのだ。この根本的事実を忘れた種族は、その人命と自由という高価な代償を払わされてきたんだぞ。 

 これはロバート・ハインラインの言葉ですが、一面の真実を述べていると思います。これから先、人類が目指すべき方向としてのあるべき姿(三宅先生が訴えられているお考え)を担保する考えとしては、大声で叫ぶのはためらうものの、無視しては(人類のあるべき姿に)近づくことができないのかもしれません。

 ガンジーの最期はどのようなものだったか・・・・・  今我々は非当事者としてこの問題について意見を述べ、また意見を述べる自由があることを幸せと考えること、また(結果的に)この自由を得るために先の大戦で犠牲となられた大勢の国民の方々への慰霊の気持ちを改めて考えさせていただいた8月となりました。国家として第三者に対して臆するところ無く慰霊ができる国であってほしいと考えております。




「正義」という「不正義」を読んで(98/08/25)

金光教芝教会 宇都木員夫

先生のお書きになった主観について私の意見を少し述べさせていただきます。

私は、基本的には、先生のご意見に賛成です。しかし、今回のアメリカの巡航ミサイル攻撃は、そこまで深く考えて行った軍事行動のようには思えません。 

8月18日ホワイトハウスで行われた、いわゆる「不倫もみ消し疑惑」の宣誓証言において元実習生の女性との関係を「不適切な関係であり妻を含めて国民に誤解を与えたことを深く後悔している。全ての責任は私にある」と証言しております。これは、前回の宣誓証言(今年1月のクリントン氏の別のセクハラ裁判でこの元実習生との性的関係を全面否定している)を翻したことであり、しかも偽証ではないと詭弁を弄したにすぎません。 

アメリカ国民は政治家のウソには寛容ではありませんから、「性的関係」の解釈を巡っての問題であると言い逃れに必死です。一国の宰相が何とも破廉恥なことをやるものだとつい笑ってしまいますが、クリントン氏としては何とかこの問題から自国の国民の目、国際世論の目をそらそうと必死で考えついた結果のミサイル攻撃であったと思います。 

アメリカの国民性は、昔から外に敵がいるときに非常に結束力が高まります。今回もケニア、タンザニアのアメリカ大使館同時爆弾テロについては1200人以上の人々が死傷しています。これに対するアメリカ国民の「早くテロリストを捕まえろ」という世論の高まりは相当のものでした。クリントン氏はこの世論の高まりを利用して自分のスキャンダルから国民と国際世論の目をそらせたにすぎません。その証拠にミサイル攻撃のあとの国民の支持率はぐっと上がっています。 

政治家というものは、どこの国の政治家も同じでしょうが選挙で当選しなければなんの力もないのです。従ってどんなことをしても政治生命を持続させることを考えます。結果として今回の報復は、クリントン氏が「正義の報復」「世界の警察」という名をかたって己の保身を画策した行為であろうと思います。 

戦争とは、どんな美名や正当論のもとに行われる戦争であっても人殺し以外の何ものでもなく、クリントン氏は巡航ミサイルによって多数の人々を虐殺したに他ならないと思います。 

世界の宗教を見てみますと、残念ながら北アイルランドにおけるカトリックとプロテスタントによる宗教戦争など悲惨な争いが数多くあります。金光教と同じ宗教という立場で考えると理解に苦しむことが数多くあります。これも宗教の「正義」という名の下における「人殺し」に他なりません。 

金光教の信奉者の中にも右傾的な考えの人も、左傾的な考えの人もおられますが、戦争というものはどんな美名のもとに行われようが「人殺し」以外の何ものでもないということを再度確認し、どんな戦争にも絶対反対の立場を貫くことが肝心であろうと思います。              
 
四拍手合掌


「正義」という「不正義」への感想(98/08/28) 
野原信一 46歳 会社員

先生の言われた「『正義』こそ最大の『不正義』なのである」については肯くところが多いにありました。ただひとつ言わせてもらえば、今の人にとって「正義」という言葉はもう死語に近いかもしれませんね。「正義」よりも「平和」、「安全」、「人権」、「保障」という言葉等々を人々は求めているような気がします。しかも今の人々はより現実的に考え、行動していると思います。 

最近の私自身のキーワードは「ボーダレス」なんですが、先生の言われる「相対的」という考え方に通じるところがあると思いました。ボーダレス(枠組みの崩壊)が今いろんなところで起こっていますが、これからもますます広がっていくと思います。 

この時代に私が持ち続けたいと思うものは「自分らしさ」、「やさしさ(他の存在を認める)」、「人とのつながり(助け合い)」、といったものです。(そして私が今一番考えている事は、今の子供たちに何を残すことができるのかということです。) 「ここで、私の立場をはっきりと言わしてもらおう。「唯一絶対的な神」なんて論理的にあり得ない。したがって絶対的な真理もありえず、当然ながら、絶対的な正義もあり得ないことになる。・・・・・・」のところは先生ご自身の立場とかをダブらせて、ある種感動を覚えながら読ませていただきました。 

「RELNET」はこれからも時々見させていただきます。そして思ったところを書いてまた送ります。これからもよろしくお願いします。




「予言と確率論」k_nishimura氏へのレルネット主幹からの返事(98/09/18)

私は「確立論」と「予言」とは全く別のものと考えております。確立論は、極めて科学的な根拠に基づくものであって、私はこれを極めて肯定(というより、これほど確かなものはないと信じて)おります。一方、「予言」は、100%否定しております。

たとえば、サイコロを振った時に、「1」の目の出る確率は、0.166・・・(つまり6分の1)です。その意味で、次に出る目の確率に基づく「予想」(どの目でも0.166)はできます。しかし、「予言」というのは、「次に出る目は、○○である」と100%言い切ることですから、その意味では、神といえども次に出る目を「予言」することはできません。

ですから、天気予報は、「雨の確率は○○%です」といった過去のデータの蓄積と現在の状況の分析に基づく、近い将来に起こりうることの「予想」であって、これは「予言」とは言いえません。カードが4枚あったときに、占い師が、「私の予言が当たる確率は25%(4分の1)だ」と言って占うのなら、それは極めて科学的な「占い」になりますが、「私の占いは必ず(よく)当たる」と言ったのなら、その占い師はインチキだ。ということです。しかし、世間の占い師のほとんどは、後者の方だと思われますから、私は「占いや予言はインチキだ」と申し上げたわけです。

それに、ここの占い師が自分の過去の当選率のデータなど公開するはずはありません(インチキがバレるから)し、確率論を論じるほどのデータ量の蓄積があるとも思えません。世間で「よく当たる占い師」という時は、その占い師のトークが上手かったりと、別の原因で、リピーターが多いか、もしくは、前回に偶々当たった人がまた来るだけのことです。外れた人はもう来なくなりますが、世間には何万何十万と人がいますので、新しい客のタネは尽きないというだけです。

 私個人的に言えば、テレビ・ラジオ・新聞等で「占い」を採り上げるのは、全面的に禁止すべきだと思いますが、もし、どうしても採り上げたいのなら、必ず、この前置きを説明してから採り上げるようにプレスコードを改めるべきだと考えております。さもなくば、世間には、確率論に基づく「予想」と、占い等による「予言」の区別がついていない人が多すぎて、いつかきっと大きな問題(被害)を生じると思われるからです。

これからも、レルネットへお立ち寄りの上、ご意見・ご感想をお寄せ下さい。




ペットボトルは塩化ビニルではありません(98/09/17)
オランダ在住 中嶋和昭 研究職 kazun@xs4all.nl

はじめまして。現在オランダに在住している中嶋と申します。Yahoo!の相撲掲示板で、貴ページが紹介されているのを見て、拝見させて頂きました。特に「ウルトラマンに見る親鸞思想」は私も、一連のウルトラマンシリーズを見て育っただけに、面白く拝見させて頂きました。


ところで、「毒物混入事件をきっかけに環境対策を」http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-12.htmの本文中の記述で、1つ気になった点がありましたので指摘させていただきます。同案多数で、他にも同様のメールが届いているかもしれませんが・・・

「ペット(PET)ボトル」のPETは、Poly(EthylenePhthalate)という合成樹脂の略称で、これは塩ビ(PVC)ではありません。したがって、「塩ビで造られているペットボトル」という表現は正しくありません。キャップなどは異なる材質のものが用いられていますが、塩ビではないはずです。 

それともう1つ。現在ゴミ袋の殆どはポリエチレン製です。ダイオキシンの問題もさる事ながら、燃焼時に塩化水素が発生するので焼却炉の寿命が短くなるという問題もあるからです。

念のためお断りしておきますが、当該ページの主張に難癖をつける意図は持っておりません。基本的には賛成です。あとは、ゴミの分別、リサイクルの徹底というのを個人的には重視してます。

 長くなりましたが、この辺で失礼いたします。




中嶋和昭氏への返事(98/09/17)  

この度は、拙HPの「駄文」に対するご指摘、ありがとうございました。

恥ずかしながら、化学的な知識は専門外でして、われわれ素人から見れば、プラスチック製品はどれも十把一絡げでして・・・要するに、「必須」のものはしょうがないが、「十分」に該当するようなもの(ペットボトル等)の使用量は制限(公的制限でなしに、市民的自粛をという意味で)しようというのが主旨です。それにしても、ご指摘は当を得ていますので、拙HPの「掲示板」欄に紹介したい(「対立意見」も紹介する主義ですから)と思いますので、転載の許可をお願いいたします。

それよりも、本日当たりから盛んに報道されている「事件」では、自治体に「ダイオキシン対策」の専門家が少ないことから、ゴミ焼却施設用の大型施設を納入する業者が談合を繰り返し、不当に高い価格で(市民の税金が無駄遣いされるということ)入札が行われている。とのことです。

私が『毒物混入事件で環境対策を』で指摘したとおりです。「比較的低温の在来型焼却炉ではダイオキシンが発生しやすいので、環境庁等が指導して、ダイオキシンの出にくい大型の焼却プラントに造り替える。などということをしたら、またぞろ、役人と業者が癒着するだけだ。しかも、高温で燃焼させるには、それだけ燃料が多く必要になり、地球温暖化の原因物質である二酸化炭素の排出量が増えるだけだ。それよりも、公的規制によるのではなく、プラスチック製品利用の市民的自粛こそが大切だ」と指摘した途端に、今回の事件が明るみに出ました。

今回の「事件」でも、「自治体側にはダイオキシン対策の専門家が少ないので、入札予定価格を決めるのに先だって、入札予定業者の見積もりを参考にした」というような本末転倒の笑い話が報道されておりました。しかも、報道では「自治体にも専門知識を持つ職員の配置を」と締めくくっておりましたが、冗談ではありません。これ以上、役人の数を増やしてどうするのですか? ダイオキシンの検出には、民間の監視団体があるじゃないですか。これを利用すれば、「無料で、厳しい査定結果」を報告してくれます。

この国では、何か問題が起きたら、すぐに「加害者(企業)だけでなく、行政(国・自治体)の監督責任を問う」ということが一般的ですが、とんでもありません。そんなことするなら、国民全員か公務員の共産主義国家にでもならない限り、問題が解決しないではありませんか・・・ とにもかくにも、この国の現状を救うには、行政も企業も個人も「少欲知足」をもっとわきまえることだと思います。



ヤマトタケルの場合はどうなるのですか?(98/11/08)
k_nishimura

権藤大権現のエッセイ、大変面白く読ませていただきました。私も日本人の節操のない宗教観というか、それを許容する精神構造には大変興味を持っています。

というか、私の無神論的宗教観と世俗の宗教観とどう折り合いをつけるか、悩んでいるところもありまして、たとえば葬式とか墓参りとか、儀礼上位牌やお墓に手をあわすのですが、内心馬鹿馬鹿しくてしょうがない。だからといって、周りの人に馬鹿馬鹿しいとは、大人げないから、言いませんが。

その折り合いをつけることを考えるのにこのホームページには大変感謝しております。

貴兄のエッセイ中で、祟り神として「なお、オオクニヌシノミコトに始まって、聖徳太子・菅原道真・平将門・順徳院・後醍醐天皇・西郷隆盛…」とありますが、私が以前から不思議に思っているのは、古事記中のヤマトタケルの扱いで、どうしてこんなに特筆大書されているのだろうかと言うこと。

理由の一つには間違いなく祟り神信仰があると思うのですが、彼をまつる神社や寺院はない。このへんのことについてご教示、あるいは良い本とかありましたらお教えください。



●「アルマゲドン」への感想1(98/11/26)                            
k_nishimura, 研究職,東京都
  
ディープインパクトは見ましたが、アルマゲドンも見てみようと思います。それにしてもCGによるSFXの発達は目覚ましく、最初の本格的CG映画"トロン "に比べると格段の進歩があります。当初の頃はいかにもCGでしたが、このごろのCGはどこまでがCGでどこからが実写かほとんど分かりません。たとえば"タイタニック"の船の破壊と沈没の経過は、船の専門家が実に良くできていると言っておりました。

我々の宇宙も、超知性がコンピュータ内に作り上げたバーチャルな世界ではないかとの妄想が沸き上がります。そうすると、神の奇蹟でも心霊現象でもどんな不合理なことでも超知性の割り込みによってなされたと、合理的に説明できるのです。(冗談で言ってるんですからね。でも間違いだとは否定できないし、正しいと肯定もできない、こういうのを論理学で何とかと言いませんでしたっけ)

最後にたぶん他からも指摘が行っておられると思いますが、ちょっと揚げ足取りです。文中エネルギーの式(運動エネルギー=質量X速度の2乗)を示していますが、正しくは(運動エネルギー=質量X速度の2乗÷2)です。


●「アルマゲドン」への感想2(98/11/26)                 
nanao, 「特撮」研究家
早速、拝見しました。なかなか面白く、エホバのくだりは流石専門家だと敬服しました。<そうか存在しないんですか(^-^; 。
アメリカ映画の根底に見え隠れするアメリカ極上主義は、話のシンプルな勧善徴悪の形式を取る娯楽作の場合に余計に感じますね。日本が同じように娯楽作を作って他のアジアの国々で公開すれば、同じような印象を持たれてしまうのかも知れないですね。なんたって「ボルテスV」に非難が集まるくらいですから。



●「アルマゲドン」への感想(98/11/30)
 
Xinfeng Zhou, アルバータ,カナダ
I wonder why you talked about all the story of Armageddon before most of the people in Japan hadn't even watched it yet. You disclosed all the unexpected plots that would have made people stunned. You even told us that Bruce Willis died in the end of the movie. Almost all the people that read your homepage must have been angry or disappointed. They cannot enjoy the movie as other people do.

I suggest you not mention about all the turning points before the movies are released. Or at least you should warn us beforewards that your comment includes all the story about the movie, and that people who haven't seen the movies might have trouble with it.

 I'm lucky I've already seen Armageddon.


●「アルマゲドン」への感想4(98/12/03)
谷 哲哉, 会社経営, 大阪市
e-mail : sysindd1@osk.3web.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/sysindd/
                              
早速「アルマゲドン: 神から選ばれた国アメリカ」を拝見させていただきました。映画解説としては淀川長治さんも顔負けするぐらいのすばらしい解説になっていますね。この解説をみると是非この映画を見ようと誰もが思うでしょう。

初めて先生にお会いさせていただいたときに感じた最大の事は、「なんと話の上手なかただろう。なんと次から次へととぎれることなく話題がでてきて、その話題が有機的につながっている。これはもって生まれた才能と人並みはずれた努力の賜だろうか?」というものでした。

今回の論文も、「しし座流星群騒動顛末記」から始まって、「現代版「ノアの方舟」の物語」・「ハルマゲドンとエホバ」から「神によって選ばれた国(?)」までのすばらしい映画解説を展開しながら、その中から感じられる問題点を取り出し、先生の世界へとつないで行く展開の上手さには脱帽を通り越して敬服すらいたします。

ご参考までに、同様のテーマを題材にした小説の一つに「悪魔のハンマー/ラリー・ニーブン/早川SF文庫/1977年発表」があります。小生の好きな作家の代表作の1つです。


●「アルマゲドン」への感想5(98/12/04)
廣石一英, 神慈秀明会国際部長, 滋賀県
 『ディープインパクト』、『アルマゲドン』の分析、感服です。あのくじ引きに対する洞察、洞察とは大袈裟な、とおっしゃられるかとも思いますが、絶対神への無意識集合真理をヘブライ・キリスト教観に求める所は、大賛成です。このあたりの理性感覚がが、グレイなどの宇宙人に付け入る隙を与えているのものと思われます。

そして、ユダヤ・ハリウッド映画お得意のユダヤ正当化プログラムの見破りも、痛快です。ユダヤの支配戦略も最近は大胆になってきて、ある意味では、自滅的な破局を望んでいるような状況にも見えます。


● 「アルマゲドン」への感想6(98/12/05)
   
萬遜樹, 会社員, 奈良県 http://www.kcn.or.jp/~tkia/kichi-ido/
 「アメリカという宗教国家」シリーズ・第1弾を拝見しました。楽しく読ませて頂きました。いつもながら筆運びは見事ですね。多彩なご経験と多才な知識と豊かなご知遇で、それだけでいくらでもお話ができてしまいます。

私は映画館にとんと足を運ばなくなって久しく、主幹にこうして最新映画を解説して頂くと、本当に楽しいです。 

さて、結論部の、アメリカは「新しいイスラエル」だ、また核についての恣意性(ダブル・スタンダード)は、全く我が意を得たりです。 

ところで、くじについての私見を一言。私は、くじは神を試すことなので、むしろ日本のような非一神教国の風土のものではないかと思っています。つまり、くがたちなどの神裁は日本などの呪術的風土にこそふさわしい。キリスト教世界では中世に彼ら流の「聖俗分離」を行ない、だからこそその後の西欧流の合理主義が開けたものと考えています。 

主幹の2つの映画解説で、アメリカでくじが重視されているのだと知り、私は欧米社会の中世以前への先祖返りが始まったのだろうか、と思ったほどです。 

それとも、欧米では「ハロウィン」などがさかんですが、このような民間信仰(それはキリスト教以前の異教的民俗)が根強く生きているということは、欧米社会も、多分に二重的社会心理構造があるということでしょうか。そしてそれがくじの土壌になっている? 

欧米社会についての実際の様子を、また学問を広くは知らない浅学の徒の一感想です。


●「アルマゲドン」への感想7(98/12/07)
秋庭 洋, 団体職員, 大阪市
映画を見なくてもこの三宅さんの一文で充分映画の中身が分かります。いかにもアメリカ映画らしい、よくあるパターンの娯楽映画だと思います。 取りあえず、今のアメリカはバブル前の日本に似た景気なのだそうですから、こうしたオプティミスティックな映画が多いのでしょうか? 憎めないなと思いました。ユダヤ・キリスト教文化の深層に迫る評論が継続されることを期待します。

それにしても、文化・・・・民衆の集合的無意識の基層にこうした宗教的な構造があることをいつの間にか日本人は忘れてしまった・・・・否、それを認めることはインテリの資格を疑われることであるかのごとくに思っているのかもしれませんね。

あの日本的な根の浅い・・・つまり、夏目漱石が指摘しているように西洋文明の「表層」だけご都合主義的に取り入れた日本人の啓蒙思想が「宗教は無知蒙昧な民衆の幻想」という、結構今でも通用する基本的偏見のベースになっているのかも・・・・。 

アメリカを良く知ろうとすれば、いや、世界を深く理解」しようとすれば、どうしても宗教理解が必要という、当たり前のことがなかなか日本人には常識化していなくて、それこそ文化現象ばかりに眼を奪われて右往左往しているのかもしれませんね。 

異なった文化を理解するポイントはまさに、その宗教性・・・そして広い意味での精神性なのだと思いました。次回を楽しみにしております。