京都で神社フィールドワーク

2017年10月4日

2017年10月4日、神道国際学会(マイケル・パイ会長)は、京都洛中の上御霊神社と下鴨神社と八坂神社のフィールドワークを実施した。初めに、上京区の御霊神社(通称:上御霊神社)を訪問し、小栗栖元徳宮司から歓待を受けた。日本の怨霊第一号として恐れられた桓武天皇の弟で平安京遷都に伴う政争で憤死した早良皇子(死後「崇道天皇」の諡を追贈された)以下、八柱の恐ろしい怨霊を鎮めるために創祀された上御霊神社は、伝承によると、もともと上出雲寺のあった場所に鎮座された(下出雲寺の故地には下御霊神社が創祀された)ことからも判るように、山背国(平安京遷都後は「山城国」に改称)には、飛鳥白鳳の時代にはすでに、賀茂氏や秦氏など多くの豪族がその根拠地としていた。

上御霊神社の境内で小栗栖元徳宮司と共に
上御霊神社の境内で小栗栖元徳宮司と共に

この上御霊神社の境内地は、今からちょうど550年前の応仁元年(1467年)に、室町幕府の管領であった畠山家の内紛で、畠山義就軍と畠山政長軍がこの上御霊神社の境内で衝突した。この合戦が応仁の乱開始の契機となり、戦国時代から安土桃山時代、そして、大坂の陣による徳川幕藩体制の確立まで150年間続いた戦乱の時代となった。

次に、左京区の賀茂御祖神社(通称:下鴨神社)を訪問し、新木直人宮司以下、同神社の担当神職から丁寧な説明を受けた。下鴨神社は上賀茂神社(正式名称は「賀茂別雷神社」)と共に、古来より、式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社として、最高位の社格に列せられた神社であり、明治維新後にも官幣大社に叙せられている。平安時代に「祭」と言えば、この賀茂社の「葵祭」のことを指したぐらいである。

下鴨神社の境内で伊原佳直権禰宜から説明を受ける
下鴨神社の境内で伊原佳直権禰宜から説明を受ける

現在でも、都会の中の原始林である「糺の森」に囲まれた下鴨神社の広大な境内であるが、平安京に遷都されるよりずっと以前からこの地に鎮座していた賀茂社の境内は、平安時代には、4km北西に鎮座する上賀茂神社とも連続した広大な社域を持った「ひとつの神社」であったが、「応仁の乱による戦乱で上下二社に分裂した(一説には、その中間に「中賀茂神社」があった時代もある)」そうである。

下鴨神社の社務所で新木直人宮司から歓待を受ける
下鴨神社の社務所で新木直人宮司から歓待を受ける

下鴨神社の最南端部にある「河合神社」は、鴨長明が社家を務めた境内社のひとつであるが、「鴨川デルタ」と呼ばれる地形で、北西の鞍馬山方面から流れ下ってくる加茂川と北東の比叡山方面から流れ下ってくる高野川が合流して「鴨川」となる場所で、まさに「川と川の間=(河合)」であり、ギリシャ語で言えば「メソポタミア」という意味である。

最後の訪問先は、京都市東山区の八坂神社であった。洛中の市街が東山に突き当たる地に鎮座している八坂神社は、朝廷からの崇敬も厚く「二十二社」にも列せられる格式の高い神社であったが、「祇園さん」という通称からも判るように、明治の「神仏判然令」までは、仏教の聖地であるインドの祇園精舎の守護神である牛頭天王を祀る社があり、「祇園感神院」と呼ばれていた。入母屋造り本殿の建築様式も、本殿と拝殿がひとつ屋根の下に収まる仏教寺院の体裁を取っている。牛頭天王は「伝染病除け」の神であるので、794年の平安遷都以来、人口集積による感染症の蔓延に常に悩まされてきた都人にとって、最も重要な神であった。明治以後は、主祭神の牛頭天王は素戔嗚尊に、配偶神の頗梨采女は櫛名田比売に、その子供たちである八王子は八柱御子神と神道式の神々に置き換えられたが、現在でも、本殿の背後の廊下には、祇園感神院時代の厨子や御幣がひっそりと祀られている。

八坂神社の本殿を背景に記念撮影
八坂神社の本殿を背景に記念撮影

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