若狭・近江で新羅系神社のフィールドワークを実施

2020年11月27日

2020年11月27日、神社の成立における新羅神の影響を調査するため、神道国際学会では、福井県敦賀市の氣比神宮と滋賀県大津市の園城寺(三井寺)を訪問した。氣比神宮の元々の祭神は「敦賀」の地名の由来となった渡来神の都怒我阿羅斯等ツヌガアラシトであり、天智・天武両帝と縁の深い三井寺の境内には新羅明神が祀られている。

『日本書紀』には、「素戔嗚尊スサノヲノミコト息子五十猛命イタケルノミコトと共に、まず、新羅の曾尸茂梨ソシモリに天下ってから、埴船で海を渡って出雲に着いた」とあるように、長門や出雲や若狭といった日本海に面した地方における神話で「海の向こうから渡来した神」という言説は、すなわち「朝鮮半島(およびその先にある中国大陸)から渡来した」というふうに理解するのが一番自然である。ただし、古代以来「国家」というものはあったが、「国民」という概念は近代国民国家の所産であり、人々は「国境」を越えて自由に行き来しており、弥生時代後期から古墳時代にかけて、朝鮮半島南部にも多くの「倭人」や「越人」が居住していたことは言うまでもない。

日本三大鳥居のひとつ氣比神宮の立派な大鳥居
日本三大鳥居のひとつ氣比神宮の立派な大鳥居

重要文化財に指定された朱塗りの大鳥居が参詣者を迎え入れる氣比神宮は、古来、朝廷からの崇敬も篤く、式内社(明神大社)、越前国一之宮であり、近代社格制度下においても官幣大社に列せられる立派な神社であり、『古事記』においては「氣比大神」、『日本書紀』においては「笥飯大神」と称せられていることから、「」の「」すなわち「食物神」であると解釈されている。

氣比神宮自身の説明では、祭神は、伊奢沙別命イザサワケノミコト・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・日本武尊・玉姫命・武内宿禰命の7柱となっているが、多くの神社が明治の「皇国史観」という宗教政策によって祭神が変更されているので、学術的にはそれを鵜呑みにする訳にはいかない。実際に氣比神宮へ参拝してみると、立派な本殿とはかなり離れた境内地の東端に、都怒我阿羅斯等を祀る「角鹿つぬが神社」という摂社がひっそりと鎮まっている。また、境内の北東の外れで、現在は敦賀小学校の校庭になっているが、「氣比宮古殿地」として、阿羅斯等が最初に降り立ったと伝えられる直径数メートルの「土公」と呼ばれる小山マウンドがあり、その背後には、天筒山と呼ばれる神奈備山がある。

最初に都怒我阿羅斯等が降臨したとされる氣比宮古殿地の土公
最初に都怒我阿羅斯等が降臨したとされる氣比宮古殿地の土公

『日本書紀』によると、「崇神天皇の時、大加羅国(伽耶・任那)の王子で額に角の生えた都怒我阿羅斯等が来朝し、日本海岸沿いに船で穴門(長門)から出雲を経て笥飯浦(敦賀湾)に来着した」とある。また、「阿羅斯等はある女性を追ってきたのであるが、その女性は、摂津国の難波や豊後国の国前(国東)郡の比売語曽ひめこそ社の神になった」とある。よく似た内容の話が『古事記』では、「新羅の王子天之日矛(天日槍)と阿加流比売あかるひめ神の話」として収録されており、いずれにしても、この越前・敦賀の地に、古代以来、多くの朝鮮半島出身者が渡来してきたことは間違いない。

敦賀から一山越えて南下すれば、そこはもう水運に便利な広大な琵琶湖が広がる近江国であり、南端の大津で上陸すれば、「王城の地」山城・大和・摂津はもうすぐ先である。湖西地方には、「和邇わに」や「蓬莱」といったいかにも渡来人由来の地名や「安曇あど」や「志賀」といった海神「和多都美ワタツミ」を祖とする海部族に由来する地名が残っている。湖上の鳥居で有名な高島市の白鬚しらひげ神社も、背後には新羅式の古墳があり、おそらく、元は渡来人の祖廟であった「新羅神社」だったと思われる。

園城寺第164代長吏の福家俊彦先生からお話しを聴く三宅善信神道国際学会理事長
園城寺第164代長吏の福家俊彦先生からお話しを聴く三宅善信神道国際学会理事長

大海人皇子(天武天皇)は、壬申の乱で滅ぼした甥の大友皇子(贈弘文天皇)への滅罪のため、兄帝天智天皇の近江宮(大津京)の故地に勅願寺として園城寺を創建した。一般にこの寺が三井寺と称せられるのは、天智・天武・持統三帝が産湯に使ったと呼ばれる「御井」があるからだそうである。園城寺に着くと、第164代長吏(=住職)の福家俊彦先生が出迎えてくださり、大津京遷都よりもずっと以前から琵琶湖周辺を拠点にしていた新羅系の帰化人たちの歴史や園城寺開山の経緯、壬申の乱、修験と天台教学を納め遣唐使帰国後この寺の長吏となった智証大師円珍の話、当時の東アジアの国際情勢等についていろいろとお話を伺った後、福家先生自ら飛び地境内に鎮座する新羅しんら善神堂(新羅明神)を案内していただいた。

福家俊彦園城寺長吏に新羅善神堂の禁足地を案内される三宅善信神道国際学会理事長
福家俊彦園城寺長吏に新羅善神堂の禁足地を案内される三宅善信神道国際学会理事長

大津市役所のすぐ裏手にあるにもかかわらず、弘文天皇陵の背後のほとんど人が近づかない林の中に鎮座する新羅明神の境内には、神気が充ち満ちている。河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男源義光は、この新羅明神の前で元服したので「新羅三郎」と呼ばれた。長兄は、後三年の役で活躍し、源氏の東国進出の礎を築いた源義家(八幡太郎)、次兄は源義綱(賀茂次郎)である。源氏の血を引く足利尊氏が、南北朝の争乱の中で憤死させてしまうことになった後醍醐天皇への滅罪のために寄進したのが現在の社殿であり、この新羅明神は石清水八幡宮と共に長年、武家からの篤い信仰を集めた。この社殿も、明治の神仏判然令で取り壊されそうになったが、幸い「神像」があったので、「新羅善神堂という仏堂である」ということにして取り壊しの難を免れた。

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