先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より
信の確立とは、いかなる問題・・
いかなる苦難の中にあっても、祈りと勇みを捨てず、励み続ける生き姿である。 恵まれぬ場にあっても明るさを失わず、祈り続け、果たし続ける生き方である。
信ずるという働きをいきいきさせる・・。そこに己おのれの生き場を持ち続けてゆくということであり、そこに恵まれてゆく道があると信じている。
小さい時から不幸な人というのは恵まれぬ人である。 だが、その恵まれぬ場を鮮あざやかに受けて、自分を鍛きたえぬく人は必ず、ゆくゆくは恵まれる人になれるのである。
しかし、せっかく、そうして頂いた問題の場・・お恵みへ続く場・・でも、不平不足を言い、腐り、悲観し、諦あきらめ、そこに止まってしまえば、もうそれで終わりである。
日にちの生活に信を生かし、いかなることにもめげず、将来の光を見つめつつ、生ききってゆくことが恵まれる道であると思う。
人間というものは一人で生まれ、一人で死ぬもので、いよいよという時はいつも一人である。災害に遭おうても、また、医者に手を放されるような事態になっても、人に頼れず、物に頼れず、金に頼れぬ。たった一人ぼっちの自分であるということである。
その孤・・孤独に徹しきる。その一人の境地・・厳しい寂じゃくの立場・・。それが人間の真しんの姿である。 でも、信のあるものの孤は、一人でなく二人である。一人がハッキリすればするほど・・何ものにも頼れぬ自分であるということがハッキリすればするほど・・神様と二人であることを喜べる。力強い生活のできる神様と同どう行ぎょう二人の境地がある。
神様を自分の暮らしの内容に頂ける営みがハッキリする。 さてという窮地に置かれても・・苦難の中に立たされても・・力強く神様と二人で歩むことができる。
そこに信の働きがあり、信の歩みがある。
私の歩んできた道を考えても、決して幸せだったとは言えなかった。 しかし、それを神様に、ひとつひとつ幸せにしていただいた。それもひとえに、足らないながらにも信の道を歩ませていただいたおかげである。信に生かされ、信に生きてきたからである。
今では、神様がわが心の中に生きてござる゜と言いきれます。 しかも、信というものがどれだけ力強いもの、深いものであるかが、本当に判らせていただけ・・、教えていただけ・・、味わわせていただける自分である。
過去においては、進むに進まれず、さりとて、その場に留まることも許されず、どうしようもなく、手のつけようもない立場に置かれて、ただ祈るのみであった自分が、今では、神様から、どんなことでも思うようにさせていただいており、日にち、どれだけ感謝合掌してもし足らぬ場に置いていただいている。言い換えれば、恵まれ過ぎているほどの自分を有難く、勿もっ体たいなく思うております。
例えば、財に恵まれなかった私が、今ではどんなことでもさせてもらえるように恵まれている。それだけに、今、有難い。有難いと言いつつ、そのお恵みに甘えていては、それこそ親おや辛しん道どう、子こ楽らく、孫まご乞こ食じきの常道になることを恐れるものである。
だから、すべてに祈り、心して自分を改め、清め、励んでいるのである。もうそんなにせんでも・・と、人から言われれば言われるほど、なお、一歩一歩とわが道を・・。神様と二人の道を歩んでいるのであります。信を強めているのである。
例えば、私には今、金だけでなく、どんな小さいものでも拝み、頂き、感謝し、疎かにできません・・。お恵みに慣れて、ご無礼、お粗末が恐ろしいのです。
もし、そんなご無礼・・お粗末なことが積もって来れば、せっかくのお恵みの場から去らねばならぬ。恵まれるという場が消えてしまう。
それだけに、私は布教当初の涙をおかずにして食事をしたことを忘れてはならぬのである。 畳一枚買えず、一番安いゴザを買ってきて、廊下に敷かせていただき、ようも買わせていただいたと御礼を申した布教当初の不自由さの喜びを忘れてはならぬと思っている。
そうしたことも、実際、悩んでみた人でなければ解らぬと思う。 そこを本当に日にち心せねばならぬ。口では有難うございます。勿体ないことでございますと言いつつも、生活の中にそれを生かし、初一念の努力を続ける人が少ない。
極端な言い方かも知れぬが、恵まれていることは、むろん有難い幸せであるが、たとえ、恵まれていぬ立場に立っても、それを合掌して礼拝できる姿こそ、本当の幸せへの場を頂く者の道であると思う。
だから、信心はあくまでも自分の場を人生修行の場・・。己自身を見抜いて見抜き通して合掌し、そして、実に厳しいドン底に、極楽の曼陀羅の世界・・。天女の舞い降りて来るような妙たえなる音楽の聞こえてくる境地・・。と頂かねばならぬ。
そこにこそ、真しんに信心する者の境地があり、恵まれる人の、難しいながらに楽しい道があると信ずる。
よく神様に縋すがれという。縋れと言われて縋ろうと思うのでなく、人生の実態を知り、責任を果たそう・・厳しい世渡りを歩みぬこうと思えば思うほど、縋らずにはいられぬというのが本当のあり方と思う。
恵まれたい。幸せになりたいと願えば願うだけ、縋らずにはおられぬはずである。それは、人間の歩みが進められれば進められるほど、孤の世界・・孤の生活を知らされるものであるから・・。
叶かなわぬときの神頼みでなしに、神様のご念願の中に、お互いが祈りに祈り、いきいきと元気になり、その役前を果たして行くことが大切であります。それでなければ、本当に恵まれる道が歩めません。
たとえ、焼火ひ箸ばしで刺されるような辛いときでも、そこをジッと耐えて、有難うございます。ようもお仕込みのために、大きい灸やいとをすえてくれましたと足らざるを改め、心を清め、明るく果たしぬきましょう。
そこまでの信の確立ができれば・・、そこまでの強い祈りの、縋りの元気な生活をさせていただいてこそ、神様に褒ほめていただける・・。お恵みが授かるものであります。
どうも信じられません。そんな馬鹿なこと・・と言うている間は、孤の生活の中から、いきいきとした歩み、励みが生まれてきません。 われわれは、日ごろから万事一切にお恵みを頂きたし゜全てに幸せであるように・・と念じている。
神様もお互いにどうでもおかげを授けよう・・。幸せにしたいとなさっていられる。だが、どこか受けにくいもの、頂き難いものがお互いの中にある。そこを十分反省し、自分を掘り下げて、祈り改める必要がある。
私は信心して、もう二、三十年経ちますが・・という人でも、アッというような立場に立たされる・・。今でもなお、焼け火箸ひばしでジュジュジュ・ッと手を焼かれるような思いをさせられるときもある。それでも、神様は私を一番可愛い子と思召されて、泣きながらのお仕込みをして下されているのであると、神様の深い愛を・・思おぼ召しめしを悟り、喜び勇み、果たし、お仕込みの御礼の言える信の祈り・・信の生き姿・・御神願に添う生活をしていただきたい。
頭で解る・・信、知っている信でなく、生活の中身にシッカリとした芯になっている信、信の働きの姿の生活であるもの・・日にちの営みが信の働きであることが大切である。
思い上がったものでなく、我が力りょくの勇みでなく、すべての問題苦と取り組み、我がを捨てて捨てて捨てきって、死んで死んで死にきって、只一途、神様への信・・祈りの力・・祈りの生活・・。神様に縋りきっての信、信の生き姿・・。どのような大きな事ができてきても少しも驚くことはならぬぞ・金光教祖御理解・第五十二節との仰おおせのままに、明るく勇みの生活を続ける信゜そこまでの肚はらの据わった生活を推し進めることが大切であり、その上、一寸ちょっとの油断が禁物である。ネジがひとつ弛ゆるんだら、キリキリ舞って墜落をしてしまう・・。それほどの厳しい人生の実態を知りつつ歩むのでなければ、本当のお恵みからお恵みへの道が歩めぬ。
そこまで、自分の肚はらを決めれば決めるほど、お前は一人ぞ。頼るものはないぞ゜との神様の厳しいお声がかかる。一切の甘い言葉に乗らぬように・・。
いつ何時、どんな場に立っても、それはお仕込みの場として喜んで取り組むことが大切である。 しかも、それはその人には苦労の場でなく、お仕込みの有難い場であると頂ける生き方である。そのお仕込みの場を有難く頂き、こなしていくところに恵まれる場が頂けるのである。
それだけに、全身全霊、祈りつつの努力、こなしつつの精進、神様に縋り縋り貴方なしに生きられませぬという信の確立・・。願いの場の中に歩み続けるべきである。
なにとぞ、苦しい、厳しいドン底に立って、本当に微笑まれる神様を頂いてほしいものです。 それが信の確立の歩みである。
死ぬ間際まで、一切の苦を背負って、われ神の御み元もとで働かんと祈れる人・・。信心は日にちであり、一生であり・・、修行も毎日であり、一生である。お仕込みも今日こんにちであり、一生である。
その今日こんにち、日にちの歩み・・一生の歩みを歩み続ける者に、死後の安心、子・孫・まで恵まれる徳が頂ける。 恵まれざる不幸のドン底の中に一人いて、・・迷い・・泣き・・沈むでなく、ジッとその立場に座りきって、難儀な自分を泣いて祈って下されている神様のお姿を、本当に頂かねばならぬ。
そこにこそ、愛そのものの神様が拝める。偉大なる神様が自分の前に後に立って下されていることが判る。そこまでいけば、自分の仇かたきも拝める。仇こそ恩人であると頂ける。
なにとぞ、真に恵まれるために、そこのところをよく分かっていただき、真っしぐらに、信から信への道を歩んで下さいますように・・。
ある日の教話∧昭和三十三年八月