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「新年を迎えて祈る」「いずみ」98年1月号より
新年あけましておめでとうございます。お一人お一人が、仕合せな新春を迎えられ、ご祝福いたしますと共に、皆様方のご健康とご一家のご多幸を心からお祈り申し上げます。
私は、今年、九十六歳を迎えました。神様からの元気を頂き、勇んで、日々使うて頂いております。有難うございます。「神様いませばこそ、われあり」とあらためて生かされてある自分に感謝し、お礼を申し上げ"今年も何卒よろしくお役に立たせて下さいませ"とお願い致しております。
ご布教以来、七十一年。私は、このすばらしい聖地、会堂を授かり、一日一日をあかるく勇み御用に使うて頂き、勿体ないことでございます。今年、九十六歳の齢。
その私が毎日、欠かさずにご用に立てる。こんな有難い、勿体ないことはございません。
私には、今、何の不自由もない。有難い御神護神様が私の目になり、耳になって下され、私の御用をお助け下されている。お取次ぎも、神様がさせて下されている。
願いに来る氏子には、一人ひとり、勿体ない程のおかげを下される。
病める者は皆、癒されいき、経済の上でも言葉にいえないお恵みを下さる。皆、神様がなされる業。神様の下されるおかげ。私の力など微塵もない。思えば感謝や感激だけではすまされない。日々わが身のふるえ立つ感動、喜びの湧き出る日々である。
こんなにも、恵まれている者が、私の外にあるのであろうか。九十六歳にもなって、尚、私は毎日、欠かさず、御用の場に立たせてもらっている。難かしい問題の渦中にあって、立派にお役に立たせてもらっている。この有難さ。これから何年、御用に立てるのか。その記録を毎日毎日、今日今日と、更新させて頂いている。こんな喜びや感謝はあるだろうか。勿体ない。有難い。
それだけに、この私は一日一日を、只、まっさらの心で使うて頂いている。まっさらの喜び心で、まっさらの改まりで、まっさらのおつくしで、とすべてをまっさらの御用で生きぬかせてもらっている。
私の口から出る日々の「御神願有難うございます」は、その勿体ない御神願、神様の尊いおはからいへの喜びであり、感謝である。いよいよその神様の御心に添わせてもらい、そのお祈りにしがみついてでも、私はおかげを頂きたい。その一心願の燃えたつ私である。私の命の願い。私の命の雄叫びでもある。
今年こそは、わが命を世と人のために捧げつくしきりたい。わが信心の焔をここに燃やしつくしたい。あざやかに、この身を捨てきりたい。皆様もその心であって頂きたい。それには、お互いめいめいが、今のおかげに甘えてはならぬ。信心をゆるめてはならない。お恵みに安座せず"この私をお使い下さいませ"と只ひたすら打ち込む、その信心がいる。
今日の嶮しい世情−お互いに剣が峰に立つ思い。甘えやゆるみは絶対に許されない。「ちょっとでも油断したら、すぐにお暇ができます」といわれた教祖様であられる。そのご信心を頂き、「今日今日がさら」と日々一新一心。一切を神様の御心のままに、わが身、どうなりましょうとも、只、人が助かりさえすればよし、との教祖様の御心にお答え申すことがいる。
そこの、信心を頂くことによって、改めて、『心配するな。神がすべて引き受けてやる』とお仰せ下さる神様の思召に応えられる。
如何なる難儀の只中にあっても、必ずおかげ頂ける。世間が如何に不況で倒産、倒産といわれるような中であっても信心する者は必ず立ち行かせて下される。不景気の風を吹き飛ばして、立派に乗りきらせていた頂こう。
平成十年、今年こそは、大みかげを頂く年とのつよい信心で、お互いが心あらため、一新信心のおかげを頂き、真剣になって、捨身で世と人の幸いを祈り、われ人ともに助けられる信心の道の歩みのおかげを頂きたい。私はここに新年のご祝福を申し上げると共に、皆様方のいよいよの信心ご精進をお願いする。
只の「新年おめでとう」ではない。充分に覚悟して、肚をすえての「おめでとう」である。それ程、私は今年は未曽有の困難に出会う年と頂いている。
国内の深刻な不況。手のつけ樣なき経済の破綻。財政、金融の不祥事。その上、世界中から経済援助を期待され、国際的な使命を負っての今年である。と共に、私は日本という国には、それだけの力を持っている。そんな自覚のもとに重荷を一人ひとりが背中にして、堂々とおかげを頂きたい。必ずおかげの頂ける年としたい。
「祈りによって助けられいく」 (「いずみ」98年2月号より) 人間には、実に強いところがあり、どんなきびしさにも打ち勝っていく、倒れても倒れても起き上って、立ち向っていく、そんな強い面もあるが、逆に、そんなことでというところで行きづまる、相当な人が、あんな事ぐらいという中で、挫折してしまう、という時もある。こんな弱さと、いうものが実は、皆にもあるように思える。 どんな苦しみのドン底にあっても、或いは、どんな病苦にあえごうとも、生かされて生きていくという人間本来の願いを、もたせてもらおう、それを持ち続けていく、それが信心ではあるまいか。「われなせり」といった人生でなく、「われたらず」「われ未完」という謙虚な立場に立ちつつ、そこで神様に祈り、まかせ、すがり、そこで岩石のような不動のものをもたせてもらう、それが信心ではあるまいか。 人は『かたみとして何か残さん春の花』と、形のものでしるしを少しでも残そうとする。でも、人生の真の安心はそんなものではない。それよりも、、形のないもの、信心というか、心というか、そうした見えざるものを残していく。いよいよ道を求め、求めして、その見えざるものから、誰にでも見えるものを生み出していく。そこが大事なところである。それを徳とでも、いうのでしょうか。 それも人に話したり、語ったりするものではない。聞いてもらうもの、見てもらうもの、事実のあかしとでもいうのでしょうか。ましてや、人に教え伝えるものでもない。 まず自分が、低い心でどなたからでも聞かせてもらい教えられていく。そこで磨かれて磨かれて、いよいよ祈らせてもらう。我も、人もそこでわずかながらも、確かな一歩一歩が歩ませてもらえて来る。私の今日までの道歩みは、そんな歩みだった。 人生は決して人間の考えや計らいのわくの中にあるものではない。人というものは、強くもあり、弱くもある。皆、神様からのお恵みの中で生かされ、生きている。神様から、かばわれ、支えられて、一人ひとりが過分のおかげを頂いている。 そこを自らに問いかけ、問いかけて、求めてさえいけばおかげは無限。それこそ天地いっぱいのおかげが頂け、生かされて生きる喜びが分る。金光大神の教えは、そこにあると私は思う。 問題は各自一人ひとりの信心にあるといえる。その信心について、先輩の偉い先生方から、私はいろいろと教えて頂いた。お話も随分と聞かせてもらった。 だが、私には、そんな皆に教えるものがない。御用をさせてもらい七十一年。一つ一つ信者の皆から教えられたことである。信者のなまの苦しみ、悩み、痛みにふれて、共に苦しみ、悩み、そこで祈らせてもらいながら、そこで信者の苦しみを共にさせて頂きつつ、祈り願い、おかげを頂いて来た。 泣いて頼む信者と一緒に私も泣いて頼んだ。痛いと言えば、その痛みをわが身にもらって、一緒に痛ませてもらった。その中での祈りから、私なりに言葉を伝えた。それを信者も私も聞かせて頂きつつ、共に育てられて来た。助けられて来たと思う。 私には恥かしいながら、教えるものがなかった。教えをする私でもない。信者のナマの問題に教えられ、共に祈り合って助けられる営みの中でめざめさせられた。だから、他の先生がいわれるように、こう教えて、そう助かったということは私にはない。でも事実は皆、おかげを頂き、助けられてナマの難儀の中で人は教えられて、祈り助けられて、育つものだと思わせられた。 問題でも、させて頂けば頂くほど、大きくなる。いよいよそこから、また、問題が新しくなって出て来る。そこを祈り祈り、いよいよ教えられて、ご修行をさせて頂く、そしてますます不十分さを問題にしていくのである。そこで不十分さを問題にしても、また、次の不十分さが生まれるが、でも、その不十分さは、もはや違う不十分さになっているのに気付かされる。そんな歩みの中で、私どもは一歩ずつ前に進ませてもらうのである。 お互いに、そこで少しずつ改まらせて頂き、行じさせてもらえる。また、祈らせてもらえる。さらにそこから、あらためて神様におすがりでき、不十分のお詫びの中で一心に祈らせてもらえるのである。 |
「今日に生きられる人とは」 (「いずみ」98年3月号より) 今日という時代には、自らが「なんでも世のお役にたとう」とする人が要る。そんな人でないと、この激しい時代に生きられぬ。その人こそ、天地に守られ、神様に恵まれ人である。 人間の限界、苦労、苦心、努力、忍耐……に挑戦することがいる。その「挑戦を楽しむ人」になることが必要である。事あるとき、その事に恐れず、堂々と取り組み、事なき時、心緩ませず、事なきことを事として、自らはら肚をくくり、しっかと構えて立って、ものごとをなす人でなければならぬ。 大事業完成への道には、初心の場に立ち切っての努力がいる。物を壊すことは易い。建設には根気づよい努力の蓄積がいる。時間をかけての忍耐がいる。 美辞麗句の上に安座している人が多い。「画に描いた餅」や「腐った鯛」ではどうにもならぬ。 苦労の峠を越えていく実践と、それに向かっての全力疾走が必要である。その人にして始めて、今日を堂々と生きていける。 さらに、ひとつひとつを常に問題にする姿勢を崩してはならぬ。ちょっともよいかげんにせぬ生き方を続けられよ。「どうもうまくいかぬ」と、途中で投げ出してしまってはならぬ。 そこで、あくまで自分を、自分の手もとを問題にして、改めていくことがいる。そこには、一心の祈りがいる。限りなき喜びがいる。真のお詫びがいる。無量の感謝がいる。報恩がいる。問題を問題とする「なんでもの願い」がいる。 「なんでもの願い」には、厳しさの自己反省がいる。鈍物の自覚から、激しい前進への意欲がいる。血みどろの実践がいる。 御神願の自覚から、「ここから!」「そこから!」との勇みがいる。生活の自覚から、生かされて生きる、その自覚から、今日に、今に挑戦することがいる。 「なんでもの願い」とは、苦難を超えていく勇みである。その願いには実践がいる。実動がいる。その持続がいる。 皆、おかげをいただいているが、それはおかば庇いによっていただいている。自分が育っていぬ。子を見て、他を見てそれが解かる。おかげをいただくだけで、育つことを怠っては危ない。怖い。なんとしても育つことがいる。足らぬ自分をしつか確と解かり、そこで信心成長がなされて、始めて、次のおかげが授かるのである。助けられていくのである。 大地を肥やすには、肥まきがいる。大地を肥やさねば、物はできぬ。事の成就のためには、必ず何らかのふせ込みがいる。 人間の幸福も、ふせ込みがあってこそ授けられる。そのふせ込みとは、報い、尽くし、捧げる苦労の蓄積の徳でなければならぬ。 「苦労とはありがたいもの」と、苦労して、初めて苦労がおかげと分かる。その苦労を積み上げることが大事である。 おまかせでも、今までの「我」をこえて、素直になりきって、御神願に生きる。自分を改め、自分が生まれ変わり、すべての心配を神様にまかせ切って、そこから雄々しく生かせていただく。その生き姿になることが信心である。 人間の力には限りがある。皆、非力、無力といってもよい。そして一人では何ひとつできない。只ただ神様におまかせする以外にはない。教祖樣のお言葉にも「天にまかせよ、地にすがれ」とあるではないか。 まかす、まかさぬということでも、人間の生活は自分の思うようにならぬ。精一杯、努力精進して、後はまかす以外にない。人為の及ばぬところ一切、お恵みの授かることがいり通す。そこで初めて人は幸福になり得る。 |
「お話できませいでも」(98年2月13日) 今日、今日生かしていただいて、こうして御用をさせていただく。有り難い。勿体ない。何もできん。本当に何もできん私が、生かしていただいているというだけでも、本当に勿体ない。けれども、二代先生がしっかりと御用されて、私がおりませいでもしっかりやってくださっていることを拝ませていただいて、日にち、二代先生を拝ませてもらっております。有り難い、有り難い、本当に有り難い。ただただ、有り難いというだけでなしに、その感謝をもっと自分に現わさねばならん。そうも思うておりますけれども、それもできませんね……。相済まんことでございます。 おかげをこおむ蒙って、金光教で、教祖様以来、たくさん偉い先生も出てこられた。けれども、こうして九十を過ぎ、九十六歳にもなって、日にち、御用をさせていただく。このことは、本当に、神様教祖様恩師大先生のお祈りあってのことで、これもおそらく毎日同じことを申していると思います。また、それ以外ないんです私に……。有り難い。 そうして、内らの者にも頼んでおるのでございますが、夜中に起きて、それで、やす息ませてもらっている部屋の襖を自分で開けると、そこに内らのご神前があります。そのご神前までほう這うていって、座らしてもらって、お祈りさしてもらう……。お祈りでない、お詫びさしてもらう。お詫びだけではない、感謝させてもらう。そのことさえ、本当に勿体ない。みんなに、厄介になるだけであります。相済まんと思っております。 私が、今日もこうして出さしていただけるのは、二代先生がしっかりやってくださっておりますればこそのことであります。日にちの御用も、この言葉を出させてもらうこのことさえ、もう、不十分ですね……。あるいは、こうさせていただくことすら、これはもう私の話ではなく、祈りですね。有り難いことに、私は本当にいつも申しておりますけれども、二代先生がしっかり御用をしていただいておりますればこそ、なお、それに続いて三代先生もですね、教会人もですね、皆一生懸命やってくださって……。私ひとり何もできません。ただもう、内らに入りましても、内らの神様にお詫びして、感謝して、お祈りする私です。 広前に出てもそうですね。皆さんたちのことをお願いする前に、まず、自分の足らなさをお詫びし、自分の感謝が足らぬことをお詫びし、祈りが足らんこともお詫びお詫びして、そして、皆さんたちのことを祈らせてもらうのであります。と同時に、日にちの話ももうできませんね。言葉がまとまって出ることが難しいんです。許してください。今日もこうして出させていただきましたが、それはみんな、神様のお働き、お徳。教祖様のお祈り。 恩師大先生のみたま御霊様のお祈りがあってのことでして、私でありませんね。なんでも!せめて今日、今日だけ今日、今日……。そう思わせていただきまして、出させていただいております。 しかも、出させてもらってお話させていただきましても、皆さんたち判かっておられると思いますが、お話させていただくそのお話の言葉さえ、不十分でございます。許してください。もし、私が、お話ができんようになりましても、お祈りだけでも、皆さんたちを見さしてもらって、祈りだけでもさせていただきたいとそう思うております。 この聖地――神様のお徳のあかし証、教祖様の祈りの証、この広前もそうでございますね。金で建てた広前でない。神様から戴いた広前。教祖様のお祈りで戴いたこの広前――そこで、今朝もこうしてお話をさしてもらいますが、話もでけん。ただもう、皆さんたちに「相済まんことでございます」とお詫び申すのみでございます。 と同時に、せめて、皆さんたちをこう観さしてもらって、祈らせてもらう。お話でなしに、祈らしてもらう。それだけでもさせていただくことを、今朝もそうですね。有り難うございます。皆さんたちの日参、どうぞ、その日々の参拝を、おかげに甘えずにしっかりと感謝して、感謝して、祈って、おかげを蒙っていただきたいと思います。私も、あるいは、明日、お話できるかできんか判りません。お話できいでも、祈りだけでもさせていただきたいと思っております。 どうぞ、「天地金乃神は天地を一目に見ておるぞ。おかげを平等に授けるが、受けものが悪ければおかげが漏れるぞ」と仰せ下さっておられます。私も「神様有り難うございます。教祖様有り難うございます」その上に、「私の恩師大先生のお祈り有り難うございます」と思っております。このお三方のお祈りとお徳の証が今朝の私であります。 何もできませいでも、教祖様のお説えになられたお道を、一人が一人にでも人に伝えて、人も祈らせていただく。そういう気持ちになっていただきたいと思います。どうぞ、頼みます。人を祈り、人の苦しんでいることのために一回でも多く参拝させていただいて、それで、その人に喜んでいただく……。皆さんたち、信者としても一番大事なことでございます。そのつもりで、どうぞ、努力して、おかげを蒙っていただきますようにお願いしておきます。 |
『人が助かる』(98年6月5日) ありがとうございます。こうしてお話させていただくのですが、私自身が、自分自身の信心の緩みといいますか、慣れといいますか、もっともっと私自身が、自分の足らなさというものをはっきりと打ち出して、そして、その自分の体に鞭を打つようなつもりで、お話をさせてもらったらいいんでございましょうけれども、それさえも今は、できませんね……。 今の気持ちで申しますと、参拝してなさる人、一人ひとりここ(お結界)に来ていただいて、ずっと並んでもらって、それで、その一人ひとりに、私の、どういったら良いか、「祈り」というのか、「思い」というものを頂いて帰っていただきたいんです。話を聴いて、「なるほど」でなしにですね……。 「勿体……」私のことで申しますと、私は神様から、こう、いろいろと教えていただいて、その教えに添って、一日一日、一寸でも神様の思し召しに沿う信心を……。お取次を……。と、そう思っておりますけれども、思うだけで、実際にはできてませんね。私自身ですよ……。 もう、こんなことを言ってもどうにもなりませんが、私の恩師大先生(初代玉水教会長湯川安太郎師)、日本一の大先生に、もっと泣きついて、「大先生、本当に教えて下さい」と、申し上げて教えてもらっておけば良かったと……。今になって、そう思いますね。私の恩師大先生は、そら素晴らしい大先生でしたですね。そして、最後に言われた言葉は、「お前がもっと、自分が死んだと思うて、人のことを思い、祈るんや」と、そうおっしゃいましたが、本当にそうですね。「祈っておっても、祈り方が足らん! お詫びしておっても、自分のお詫びさえお詫びできんのに、人のお詫びなどできるものか!」と、そういう具合いに、こう、恩師大先生が私を叱られるようにしておっしゃった。そら、そのとおりですね。 特に最近の私はですね。今はもう、ほとんど全ての御用は二代先生、三代先生、教会人で、私は何もしてませんのです。また、できんのです。できんというのは何故かというと、自分自身をもっとこう、どういうのか、曝け出してですね。足らんところを曝け出して。それを自分で解剖するようなつもりで、お話させていただいたら良いと思いつつ、やっぱり、自分を庇っていますね。 日々、お話させていただいても、話もそのこともピンとこんのです。受けてもらえんのです。本当は、今日でもそうですね。お結界に来られてですね。私のこの小指を噛み切って、血の付いたのを貰って帰っていただく。そう、そうでなくちゃいかんのですけれども、それができてませんね。 私は昨晩も一晩中、奥のご神前でお詫びし通した。自分の足らなさをですよ……。けれども、この足らん私に神様がおかげを下さって、それで日々御用させていただくだけでなしに、この聖地を守って下さっている神様……。それを思いますと身震いしますね。自分の足らなさ、もっとはっきりと自分の足りなさを、「曝け出して、そうして、お詫びせよ!」と、神様から教えられたんでございますけれども、やっぱりそれはできませんね。してるようなつもりでありましても、まだ、できてませんね……。恩師大先生がおられたら「歳雄、お前まだ自分の賢さを少しは持っている。持っている賢さを捨てよ! 捨ててそのまま神様に飛び込め!」ということも教えていただいたんでございますけれども、それを結局、できなかったのですね。 足らぬ私が「人を助ける」ということは、そらもう容易ならんことですよ。その「人を助ける」あるいは、その人に代わって自分がその人の悩みとか願いを持って、神様にぶち当たらないかんのですけれども、それができていませんね。毎朝思うんですよ。そして、せめてそんなら、今日でも参拝者の中で、二人でも三人でもいい。その人に貰うていただきたい。祈りをですね。思いをですね。そう思うんでございますけれど、それもできてませんね……。 まぁ、みなさんたちも、日々お話を聞いておられるから、分かっておられることでございましょうが、この天地金乃神様は、素晴らしい神様……。「必ず助けてやる」と言い切ってなさる。天地の神様がですよ……。教祖様もそうですね。それに私たちは甘えて、私自身甘えて、「神様よろしゅう頼みます」ぐらいのことを申しておりますけれども、そんなことではいかんのですね。私の身を捨てて、自分というものを本当に「どうなってもいい。なんでも人が助かりさえすればいい」その一念になりきらねばいかんのです。それがなりきっておりません。 昨晩も一晩中、奥のご神前で泣いたんです。そこで、「本当に相済みません。私が足らぬのでございます」と、本当にお詫び申し上げて、夜を明かしたんでございますが、やっぱり、あきませんね……。もっともっと、私自身が本当に神様に、真しんからお詫びし、真から縋り、そして「人が助かりさえすればよい。他には何もいりません」と、そう神様に願い切ってですね。そして縋らなならんのに、それが、一晩中、そのご神前で泣いてお詫びしながら、それができてませんね……。相済まんことです。本当に相済まんことです。 この聖地も神様から授かった聖地です。この広前もそうですね。神様から授かった広前であります。そこで神様にしっかりと教えていただかねばならん。そう思って、それを話もするんでございますけれども、実際はできていませんね……。相済みません。 どうぞ、今朝でも参拝した人、必ず頂いて帰っていただきたいんですよ。私の願い、思い、お詫び、そういうものを頂いて帰っていただきたい。そうしたら、この聖地が生きる。生きてこなきゃいかんのですね……。どうぞ、お頼みします。私が足らんからこそこう申すんです。本当に「みなさんたち一人ひとりに助かっていただきたい」と、そう思えばこそ、「自分の身はどうなってもいい」と、そう思うて、昨晩もお詫びし通して夜を明かしたんでございます。 どうぞ、今朝も参拝して、お結界に来られたら、是非、頂いて帰っていただきたんですよ。私の血の付いている祈りといいますか、「血の付いている」というのは、ちょっと言葉が極端過ぎますか……。人を思い、人を祈り、「そのために自分がどうなっても差し支えございません。神様、どうぞ、いかようにでも私を叱って下さい!」と、そう、申し上げる次第でございますね。どうぞ、そこを解っていただいて、今日でも、参拝したら必ず頂いて帰っていただきたいんです。 最近、毎日それを申しますけれども、自分の身をですね、「本当に自分の身はどうなってもいい。人が助かりさえすればいい」と特に毎日申しますけれども、この聖地は、神様から頂いた聖地。この広前もそうでありますね。そこで、私自身が神様に守っていただいて、生かしていただいているのに、その生かしていただいている私がお詫びも不十分、祈りも不十分であることを、みなさんたちの前で懺悔します。 本当に、本当に、ひとりでも多く、こんな私の、「親先生の血のついた祈りを頂いて帰った」と言っていただけるような結界での働きがしたいんです。本当に、一人ひとりに、その血の付いた、この噛み切ったものを渡したいんです。祈りをですよ。人を思い、人を思い、祈ることは、「自分の身はどうなろうともいい」という気持ちでなければ、「本当に、身を捨てて祈るというようなことできん」と神様は仰せになるんでございます。どうぞそのつもりで、私は今朝そういうつもりですから、お結界に来られたお一人お一人、皆にですね。私の血の付いた祈り、血の付いた――どう申し上げたらいいのかな――修行。それを頂いて帰っていただきたい。それでいっぺん参拝したら、必ず、「その血の付いた、その祈りを頂いて帰るんだ」と、そう思うていただきたいですね。 どうぞ、今朝も参拝している一人ひとりが本当に頂いて帰って下さいよ。そうしたら、必ずおかげを頂ける。また、必ずおかげを頂いて貰もらわなければ、この素晴らしい聖地を、神様に頂いたのにも関わらず、生かしておらんのでありますから、私が神様にお詫びし、お詫びし、「神様お許し下さい。私が足らぬのでございます」とお詫びして、みなさんたち一人ひとりのお取次をさせていただきたい。と、そう思うているのです。 どうぞそのつもりで、しっかりと「一度参拝したら一度、必ずおかげを蒙こうむらしてやる」と、神様教祖様がおっしゃるんですから、どうぞそのつもりで、お結界へ来られましても、是非、そのつもりで頂いて帰って、そしてそれを家へ持って帰って、その徳といいますか、その祈りを生かしていただきたいんです。私の思うところを――思うところというのは祈るところですよ――それを受けて帰っていただいて、おかげを蒙っていただきますよう、お願いしておきます。 |
「今日今日生かされて」(98年9月2日) 今日今日、神様に守られ、生かしていただいて、神様に縋すがりつく私自身であります。「守っていただき、生かしていただく以外にない」と思っております。皆さんたちも同様と思います。神様に生かされ、守っていただく、これ以外にない。ですから、皆さんたちも私も、その意味で、神様に生かしてもらっていることをお礼申し、なお、神様のお力を頂かしていただいて、お生かしいただく、それが信心の中心でございます。ですから、皆さんたちも同様と思いますが、神様に生かしてもらっております。ありがとうございます。どうぞ、なお、今日も生かしていただきますように、そうお願いする私であり、皆さんたちでもあると思います。 日本が不況。日本だけかと思うと世界全体が経済が不況だということが伝えられております。お願い申して、「皆さんの暮らし向きを守っていただくように」と、全体をお願いせねばならんと、そう思っております。 日々の御用をさしていただいておりましても、何というても、神様に守っていただいて、しかもこの聖地全体を神様が守って下さっておる。それをお礼申し、なお、ひとりでも多くの人が安心できて、達者であるように、お願い申して、そのうえに、自分の達者を頂かねばならぬと同時に、皆さんたちの健康を頂かねばならぬ。私は、神様教祖生神金光大神様恩師大先生の霊様のお祈りを頂いて、今朝もこうして出させていただいている。勿体ないことですね。 「生かされている自分」それをしっかりとお礼申し、なお、生かしていただくことを祈るのでありますが、皆さんたちも、同様と思います。「生かされている自分」。けれども、その「生かされている自分」というのを、忘れているといいますか、その感謝をする人が少ない。自分が生きているように思っている。いや、本当に……。特に私など、本当に一日一日、神様に生かしていただいて、使っていただいて、そうして、なお、参拝のひとりひとりのご信者に生かされている。感謝を皆が申していただき、なお、その上に、私自身も皆さんたちのことを祈らせてもらっている日日であります。 「一寸先は闇」と昔からいいますが、いや、そうではない。本当は神様あっての、神様に生かせていただいてこその人間である。それが判ったら、闇でない。神様に生かされている。その神様に縋らしていただくのです。このことしかないと私は思うのであります。 今日今日参拝される皆さんたち、また、その参拝も、生かされているいのちの感謝をし、日々の生活の安心をお願いするのでありますが、共に共に、「生かされている自分」それをしっかり確かめて、お礼申し、感謝し、そしてその感謝の足らん自分を、しっかりと励ましてもらわねばならんと思います。私自分は力がない。しかし、神様にお願い申し、教祖様のお祈りを頂き、特に恩師大先生の霊様のお祈りを頂き、日々、御用さしてもらっておりますが、ただただ感謝し、感謝し。そして自分の足らぬところをお詫びし、お詫びして。今日、生かしてもらっております。皆さんたちも同様と思います。どうぞ、「心配することなく、神一心に願え、神が生かしてやる」そうおっしゃてくださっているような感じがします。いや、そうです。そうに違いございません。特に私などは今日今日、生かしてもらっている。 ですから、生かされている今日今日を感謝して、なお、その上に、「どうぞ明日も生かしてもらえますように」と、お願いする。それが泉尾教会の信心の中心でございますね。けれども「生かされている」という感謝が足らん。皆さんたちも同様と思います。自分で反省してみて、「生かされている」という感謝を本当にお互いにさせていただいて、神様あっての泉尾教会。神様あってのこの聖地。神様あってのこの私でございます。その神様に縋って、しっかりと今日今日を生かしていただく。それが日々の泉尾教会の歩みであります。共に皆さんたちもそのつもりで、自分が生きているというのでなく、生かしてもらっている。神様に、その神様に感謝を申し、なお、この神様にお力を頂いて、今日を元気に使っていただく、それが、教会の信心の中心であります。 どうぞ、皆さんたちもそのつもりで、お結界に来られましても、もっと願っていただきたいですね……。願う人が少ない。それは「生かされている」という喜びといいますか、感謝が足らん証拠であります。私自身もそうであります。けれども私は、神様に生かしてもらって、今日もこうして出させていただいたのでありますが、是非、日々の皆さんたちの日参を、神様に向けていただいて、しっかりとその上に、神様のお力を頂かしてもらう。生かしてもらう。自分が生きていいのでなく、生かしていただく、お力を頂いて帰っていただく。それが、日参でございましょうね。 そして、皆さんたちがお結界へ来られて、お願いされますが、お願いが足りませんね。何も(悪い)ことがない。お願いすることがない。と思っておられますが、「生かしていただいている」という、素晴らしい神様のお働き、お徳の中で日々、私も御用させていただいている。皆さんたちも参拝してなさる。そのことを私も皆さんたちも忘れずに、感謝して、感謝して、その上に、「今日のお力を頂かしていただきますように」と祈らせてもらうのでございます。どうぞ、皆さんたちも、お結界に来られましても、もっともっとお願いしていただきたい。「願いが足らん」と思いますね。いや、「親先生、達者でございます」と言われますが、達者は一番大切でございますが、それは神様に生かしていただいてこそでございますから、それを忘れぬように。本当にお結界で日々、私がひとりひとりの手を握り、私の祈りを直接伝えたいぐらいであります。 ひとりひとり、どうぞ、この聖地に対する素晴らしい天地の神様のお働きを、お徳を、皆共に、私も皆さんたちも感謝して、なお、今日「生かしていただく」と、思うていただきたい。「生かされて、神様に生かされて生きている」。感謝の外にない。その自分が「一寸ちょっとでもお役に立つように」、人の困っているのを見たら、その人のことを祈ってあげるように、また、そうでなくても、近所に困っている人があれば祈ってあげ、祈らせていただいて、その人の助かっていくことを自分の喜びとさしていただく。それが泉尾教会の信心であります。 私もそうであります。皆さんたちと共に、「今日今日、神様どうぞ、私を生かしていただき、有り難うございます」と同時に、参拝の人々にお力を頂き、なお、その周囲におられます人々の困っているのを助けていただきますようにと、祈らせていただく」それが泉尾教会であります。 どうぞ、この聖地で御用できるというのは、ひとりでも多くの人のことを祈らせていただいて、その人の幸せを祈らせていただき、幸せになられることが自分の楽しみである。喜びであると、そう思うと、今日も参拝さしていただくのは、皆さんたちご自身の助かりでありますと同時に、周囲の人々の助かりを祈らせてもらって、人のことも祈らせてもらうことができる。それがありがたいのであります。 そして、自分も助けていただく、人が助かっていただく、家族全体が健康でありますように、それを祈らせていただいて、また、今日新しく、その祈りを増やさせていただいて、共に、共に、おかげを蒙ってまいりますように、お願いしておきます。 |
お結界にしがみつかせていただいて (98年12月7日) この机にしがみつかせていただいて、このお結界に必死に掴つかまらせていただいて、(ご教話の)おかげをいただいてます。ありがたい……。このお結界に、このご神前に座らせていただいて、そして、この机にしがみつかしていただいて、教えをいただく私……。皆さんたちに教えをするわけではなくて、私が教えをいただいて、お話をさせていただきます。 このお結界の机にしがみつかせていだだいての私の御用……。神様がしてくださるのですね。私はたまたま「この身を使わせていただきます」と言って、御用をさせていただいて、この聖地で御用させていただき、この机にしがみつかせていただき、神様にしがみつかせていただいて、それで始めて御用させていただける。ありがとうございます。 何もできない私が、この聖地で、このお結界で、御用をさせていただく。ありがたい……。ありがとうございます。神様。どうぞこの聖地に、人を助ける場〓〓このお結界に〓〓こうしてしがみつかせていただいた途端に、「お話をさせてやる」と、そうおっしゃっていただいて、そして教えを頂いてのお結界であります。 ありがたい。ありがたい。神様。何ひとつできん私が、こうしてこのお結界のお机でお話をさしてくださるとは……。ありがとうございます。人の助かる場〓〓このお結界に、特に、このお机は神様に教えていただくお机です。「どうぞ今日もおかげを蒙らせて下さい」と……。ありがとうございます。本当にありがたい。 この素晴らしいお結界に座らせていただいて、毎朝教えを頂く。私が教えを頂くんですね。どうかおかげを蒙こうむらせて下さいませ……。この素晴らしいお結界が……、特にこのお結界のお机にしがみつかしていただくという私に「神から教えてやる」と、こうおっしゃってくださって、お話させていただいております。 ここに座らせていただきましたら、どんな難しいことをお願いさせていただきましても、「全部おかげを蒙らしてやる」と、こうおっしゃって、神様は「お前でなしに、お前の口を借りて、その神が祈りを話しするのじゃ」とおっしゃってくださる。素晴らしい……。このお結界で、こういうところにしがみつかせていただいて、「どんな願いでもかならず聞いてやる」とおっしゃって下さって、今日まで座らせていただきました。「病気災難不都合不幸せ、なんでもおかげを蒙らしてやる」と、こうおっしゃってくださり、そのお祈りを皆さんにお話しをするということです。ですから、皆さんもどうぞそのつもりで聞いていただきたいのですが、「(親先生は)毎日、毎朝、同じ話をする」とお思いでしょうが、そうです。何もできん私ですから、ただ座らしていただきまして、こう「本日も御用さしてくださいませ」と、そうお願い申し上げて、お話させていただいてます。 この鈍物でございます。しかもこのお机、このお結界に座った途端に、神様が「これこれを話せい」と、そうおっしゃっていただいて、そのとおりお話させてもらう私でござます。「ありがたいお机」といいますか、助かりの場を神様からいちいち与えていただいて、そうして、お話さしてもらってます。「歳雄もっと感謝せよ。もっとお詫びをして、感謝して、お詫びして御用をさせていただけ!」と、そうおっしゃっていただいて、そして、この素晴らしい、なんでも、どんなことでもおかげをくださるこのお結界……。 どうぞ皆さんもそのつもりで、遠慮せずにお結界に来て、なんでもお願いしてくださいませ。そして、何でもおかげを貰もらえるこのお結界のお取次……。ここにおられるご信者のお願いされるすべて、本当にすべてですよ。それぞれにおかげを下さる。ありがとうございます。神様あっての私でございます。このお机に座らしていただいてこそ、おかげを頂ける。「どうぞ神様、信者の一人一人にすべておかげを蒙らして下さいませ」と、そうお願い申し上げ、お縋すがり申し上げ、この机にしがみついてるんですよね。 視力も聴力ももうほとんどなくなったと申してもよい。その私が、このお机に座らせていただいて、お話をさせていただける。ありがたいですね……。どうぞ皆さんたちが、ここに来られて「親先生もお年と齢しやから……」などとご遠慮なさらずに、あらゆる問題をお願い申しあげて、そして、おかげを受けて帰ってもらいたいのです。そうして、みなさんのお願いを受けた私が、神様にそのまま申し上げて……。私ではない、神様ですね。そうして、お結界、このお机に座らしてもらった途端に、お徳を神様より頂く……。 どうぞそのつもりで、遠慮なしにお願いしていただいて、もっともっと本当は信心生活といいますか、日々参拝して、その都度におかげを蒙って帰っていただく場がこの泉尾教会です。そしてまた、話(教話)でなしに、私も祈りをさしていただくんですね。そしておかげを蒙ってもらう。それが、この教会、この泉光園です。皆さんそのつもりで、ご遠慮なさらずにお願いして、おかげを蒙ってもらうところ。そういうところとして、神様が授けて下さった聖地でございます。ですから、皆さんも、そういうところと思うて、お願いし、お縋りし、難を助けて頂いていただきたい。 ここは、そういう場所です。しがみついておる私が、なんにもできない私が、このお机にしがみついた途端に、神様からそのお徳とおかげを頂けるのでございますから、皆さんもご遠慮なしにお願いし、どんどん参拝し、どんどんおかげを蒙って、お徳も頂いて、それがこのお結界でありますから、祈りお詫びし足らんところ、感謝の足らんところを、このお広前でお徳を頂いて帰っていただくことをお祈り申し上げます。 |