★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★


先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より

立教百年のご神意を頂け

 ただ今、教祖大祭ならびに立教百年祭を頂かしてもらいました。いつものお話と違いまして、ご教話をいたします私も、御前(みまえ)にひれ伏して聞かしてもらうつもりで神語かみがたり話をさせていただきます。

 立教百年の祭とは、どういう祭でございましょう?

 百年前(安政6年、1859年)に天地の親神様が教祖金光大神様にお頼みになった「世間になんぼうも難儀な氏子あり。取次ぎ助けてやってくれ(立教神伝)」という祭であります。

 普通の祭とは違うのです。神様の頼み祭なのです。それなら、神様の頼み祭だけなのかというと、それだけではないと思います。

 「氏子あっての神、神あっての氏子(立教神伝)」という道――神様からおっしゃると、「お前たち氏子(人間)がなくては、神は本当の働きができぬ」とおっしゃる。お互い氏子から申しますと、「はい、左様でございますか」というのでなく、「神様がのうては私どもが立ち行きません」ということなのです。

 神様の頼み祭であると同時に、頼みを受けて立つ氏子の祭――頼み、頼まれて立ち上がる祭――が立教百年祭であると思います。

 「難儀な氏子あり。取次ぎ助けてやってくれ」という今日の立教百年祭に、教祖様は、今もなお、祈りきり、行じきっていらっしゃるのではないかと思います。

 この道が立てられ、歩まれて百年……。本当に助けられたものが、どのようにされているのか。学問の上に立っての理屈や、経験のない人の机の上の考えでは人は救えぬ……。そんなものでは道は立たぬ。助かりなどありようがない。それが本当に分かっているのでしょうか。

 「難儀な氏子あり。取次ぎ助けてやってくれ」ということは、「説教せよ」ということではない。「筋道を立てよ」というのでもない。「難儀な氏子に取り組んで、助けてやってくれ!」との神様のお頼みである。「この道で助かった!」というおかげの御証みあかしを確しっかと各々に打ち立てよ! ということであります。

 私は、この立教百年というものを本気で迎えてみて、初めて判ることは、「無力な私、無信心者である私……」ということであり、その私をお恵みくだされている、お守りくだされているということであります。

 いろいろな問題を本気で取り組んでみればみるほど、私というものが無力であり、難儀な氏子、無信心者であることが悟らされる。その無力な私に、勿体もったいなくも神様が「使うてやる。取次ぎ助けてやってくれ」とお頼み下され、その神様のお頼みに感激しつつ、しっかりとその御用に取り組みたいと決心をいたしております。

 立教百年……。私は言いたい。教祖様はご帰幽になっていらっしゃらん! と……。

 教祖様が、今こそ、ここに生まれなければ嘘だと思います。ただ単に、教祖様が死んで76年。道が開かれて百年というのであっては本当でない。ここにあらためて、「今日新しく、世間になんぼうも難儀な氏子あり。取次ぎ助けてやってくれ。神がこの通り頼む」という立教のご神伝が下されねばならぬ。また、その証あかし祭まつりでなければならぬと思うのです。

 皆様たち、ひとりひとりの前に神様が両手をつかれて「なにとぞ、今日限り、我情我欲を離れて真まことの道を悟り、助かりの道を歩んでくれよ。いろいろな難しさや苦難もあり、問題もあると思うが、神に祈り、問題と確しっかと取り組み、助かってくれよ」と、頼んでいらっしゃるとしたら、どうでしょうか。お互い、いったい、それにどうお応えすればよいのでしょう……。「いやどうも。やろうと思うても、やれぬのです……。改まりもできません。しっかり取り組む元気も出ません」と言うてよいのでしょうか? また、そういう祭でしょうか……。

 改まりがいかに難しくとも、「判りました。それほどまでに神様が、この私を助けてやろうとお思い下されていることは実に勿体ないことであります。たった今からやらせていただきます!」と、ハッキリお応え申し、力強く立ち上がり、一新した生活を始めさせていただかねばならぬと思います。そういうものが金光教全体に打ち立てられなければならぬ。それが立教百年祭の意義であると思います。

 この不信心者を、この無力な者を、ようも神の氏子としてお取り立てくだされて、いろいろの大みかげの数々をくださり、いかなることにもめげず、力強く生かしてくださっているというおかげ……。おかげもおかげも驚くようなこの大みかげを蒙こうむらせていただいておるのに、これを十分喜ばせていただいているでしょうか? いのちを助けてもらったおかげ、それもおかげに違いない。経済のおかげを蒙ったということ、それもおかげに違いない。けれども、道のおかげとは、そんな目に見えたことだけのおかげではない。限りない力……、湧き出てくる生き力を頂くことである。

 その本当のおかげを頂いてください。動かぬ「続く本当のおかげ」を頂いてもらいたいのです。どうでしょう。そこまでの肚はらを据えての歩みができているでしょうか? 例えば、教えが解るということでも、教えの言葉を耳だけで聞いてもらっては解らぬ。実際に自分が経験したもので聞いてもらわなければ解らぬ。自分の身を張って難儀と取り組み、苦労の中から解ってもらわねば本当のことが解らぬと思う。

 教えを耳で聞いて覚えるとか、覚えた教えを口で伝えて解ってもらうというようなものでなく、教えの生み出る苦労を味わい、解ってもらわぬと教えが生きて、救いの働きにならぬと思う。

 親が子供に、「なぜそんな性根になった? お前のような者は出て行け!」と言った時に、「はい、出て行きます。親が出て行けと言ったから出て行きます……」それでよいのでしょうか? また、本当に親が子に「出て行け」と言ったのでしょうか。そうでない。本心は「シャンと性根を据えて、親の思いを解ってくれ。わしの跡を立派に継いでくれ」ということなのです。きつい言葉の中に、手を合わして頼んでおられるのではないでしょうか……。

 夫婦喧嘩をする。奥さんが私のところへ来て、「主人が『出て行け!』と言います。私の荷造りまで主人が手伝って、『さあ、出て行け!』と言いますのや。もう見込みがありません。別れる決心です」と奥さんが言う。それは、ご主人が奥さんに「直ぐに今、謝れ!」ということです。本当に「出て行け!」というのなら、そんなことはせん。放っておく。「さあ早くせよ。早く謝れ。ちょっとやそっとの謝りでなく、本当に謝ってくれ。根本的に改まってくれ」ということではないでしょうか。

 教えというものも、その言葉の中身の思い、苦労を解らねば教えが解ったとは言えぬと思います。なんの苦労もせずに、悩まずに、真剣に取り組まずに解るものではない。

 助けよう、解ってもらおうとて苦労して、苦労して、泣いて、泣いて、本当に血のにじむようなものの中からのお頼みのお言葉、その中身……苦労を味わい、悟らせてもらい、そのお思い、ご苦労の線に添わねば、本当の救いへの道が歩めぬと思います。

 教祖様の教えも、百年前の言葉がどうこうでない。その言葉だけを解るだけではどうにもならぬと思う。百年前の教祖様を今日に生かさねばならぬと思う。われわれが悩んでいる中に教祖様がいらっしゃる……。われわれの問題・難儀の中に教祖様が祈って下されている……。その中に、立教のご精神――お祈り、お頼み――があると思うのです。

 今も祝詞のりとで神様に申し上げましたが、いよいよ世の中が複雑になり、難しさが加えられてきた現在いま、ここにこそ! 立教のご神伝を頂き「難儀な氏子あり。取次ぎ助けてやってくれ」というお祈りがお働きになることであると思います。

 立教百年祭とは、神様が、こうしたご悲願のもとに、真しんに頼んでいらっしゃる祭、神様からのそういうお頼みをお受けして、立たしてもらう氏子としてのお互いが、どう決意すべきでしょうか……。また、どうあったらいいのでしょうか……。言葉だけを聞いているのでなしに、この際こそ、お互い自分自身が一新した心で、本当に「教祖様の助けずにおかぬお祈り、ご苦労をいったいどう頂き、自分の身につけさせていただいたらよいのでしょうか」という問題提起をしっかりと頂いてもらいたいのであります。

 苦労の中に、そのド真ん中に神様がいらっしゃるのではないでしょうか。そのド真ん中に金光教があるのではないでしょうか。苦労のド真ん中に教祖様がいられるのではないでしょうか。このあいだも、ある先生が、「教祖様は、すっかりおかげを蒙られて、そして道を開かれた」と言われていた。

 私は、そうではないと思う。教祖様は神上かんあがられる(亡くなられる)まで、否、今もなお、祈って祈って祈り続け、悩んで悩んで悩み続けられていると思います。それでなければ、難儀な氏子が解らぬはず。病気せん者が病気している者の悩み、苦しみが解るでしょうか。その苦しみのド真ん中におってこそ、祈れるのであり、真剣な助かりの道も開いていただけるのであると思います。

 私は、教祖様という人は、常に苦しみのド真ん中に入っておられたと思う。また、今もそうだと思います。今もなお、お互いの中に生きていらっしゃる。この立教百年にあたって、全教の信徒の苦難のド真ん中に立って、新しい力強い祈りを打ち立てていられると思います。

 その教祖様ご自身も、また、無力に悩み続けていらっしゃると思う。教祖金光大神様が教祖様自らを助け、神様を助け、氏子も助かる道を開かれた。その歩みが立教百年の真しんの内容であり、今こそお互いひとりひとりがそのところを十二分に頂かねばならぬところではないでしょうか。

 神様が、教祖様が、われわれ難儀な氏子と別な場所におられるとは思えぬ。こっちは土壇場の苦しみ――財の苦、病気その他生活の上のいろいろな苦しみ――悩みの中におるものを、別の場から救い上げなさるのではない。その苦しみの中に飛び込んで来てくだされて、道をつけてくださるのであると思います。

 私も皆様の難儀のド真ん中におります。私もまた、悩んでおります。悩みも悩みも手がつけられぬほど悩んでいるのです。だから私は有難いのです。このお道が有難いというのは、苦難のドン底から、なお、立ち上がらせてもらい、しかも、そこに教祖様がいらっしゃる。神様もいらっしゃる。そして、「助かってくれ。神を助けてくれ」とおっしゃるようなところ……。それが有難いのであります。いかなる難儀な場でも、無限の力が頂けて立ち上がり、立ち行かせてもらえることが有難いのです。

 「これから後、どのような大きな事ができてきても少しも驚くな(『金光教祖御理解』第五十二節)」とおっしゃる。それは「どのようなことの中にでも、お前さんの側には、わしがおるのぞ! お前さんが苦難から逃げず、苦難の中に勇み、それと取り組み、それをこなし、そのことによって教えられ、道を頂いてくれよ」とおっしゃっていなさる道に信心させてもらっているのであります。

 そのところをハッキリと判れば、「矢でも鉄砲でも持ってこい」と言えるのです。自分が一人シャンとしているのではない。祈り祈られ、守り守られての力強き生き道――いついかなるときも神様、教祖様と共に歩む、なさせていただく有難い道――である。

 世の中は実に厳しい……。底なしの厳しさが実態なのであります。自分の産み落とした子でも、同じ口のものを喰い合いしている者(兄弟姉妹)でも、ひとつ間違ったらどうなのでしょうか。夫婦というような者でも、ひとつ間違ったら、あれほど口汚ないことを言うて争う。どんな秘密でも打ち明け、子までできているのに、さて、ひとつ間違ったら、手のつけようがなくなる。

 そんな世の中なのです。それだからこそ、一番近しい家内・主人というものを、どう扱ったらよいのか、どう扱わしてもらったらよいのか祈ることである。一番近しい人を拝むことが、神様を拝むことではないでしょうか……。神様を拝むことは、日本人はどこへ行っても上手ですが、お互い同士の拝み合いがどうも下手である。少し年齢としをとって、本当に一坂越えた夫婦など、もう本当の夫婦でない。「うちのおばはん」、「うちのおっさん」となってしまいます。

 「マイ・ベター・ハーフ(私のより良い半分)」のはずの夫婦が、これではどうにもならぬ。「ようここまで来た。私の良き半分がこうしてくれたからこそ、やらしていただいたのである。ああ有難いことだ」というような、そういうものがもう無くなっている。

 神様を拝むということは、家内を拝む、主人を拝むことであり、信心はその稽古です。神様は拝んでも黙っていなさる。一方、人間の場合は、拝んでいる自分を「それはなんや!」と文句が出るかも判らない。そのご主人をなお、拝めねばならぬ。「そうだ! 私の拝み方が未だ足らんからこうおっしゃるのだ」と、いっそう自分の足らぬさを掘り下げ、改め、ご主人の良いものを拝み出すまで拝むことである。

 女中さんにしても、子守りをする。「お家のボンボン楽ですねぇ。おとなしいボンボンですなぁ」という楽な女中さんでは褒ほめようがない。「ようあんなところを辛抱なさるな。あのボンボンときたら、ヤンチャでしょうがおまへんやろ」、「ヘェ、そのおかげで私は御用できますねん」という場で、不足ひとつ言わず勇んでいる女中さんなら、ピカッと光ります。難しいことを、「これが私の仕事です。これが有難いのです」と言う女中さんなら「あの子、家の跡継ぎの嫁にもらおうか」となるのではないでしょうか。

 お互い、全ての苦難というものに、真正面からブチ当たり、その苦難があってこそ、私が磨かれ、鍛えられる。私の人間づくりができて有難いのです。苦難を拝んでいく。そのことが身につき、その歩みがなされていけば、自分も光り、恵まれて本当の大みかげを頂けると信じます。

 財産を譲るというようなことでも、そうだと思います。親が一生懸命に努力するのは、子供に何か譲ってやりたいからです。百万円譲る。〇〇の立場を譲る。そんなものの譲り方なら、必ず子供に徒あだになりこそすれ、プラスになるとは思いません。今まで私が見てきた百人が百人とも徒になってきています。

 譲るもの――金、物、地位など――でなく、譲るものを作った苦労を受けてもらう譲り方でなければ、本物のプラスになる譲りにならぬと思う。

 金や物の譲り渡しは簡単であるが、それだけなら、ほとんどの場合、子の徒になる。その苦労を共に受けてもらわねば親の苦労も無になり、子も良いものにならぬと思うのです。

 親の苦労を受けてもらう。それがなかなか難しい。これから、この国はどんどんと金持ち国になります。それをどう受けてもらえるかが、新しい問題になる。だから、子供の人間を作るということは、親にとっては大変なことになるのです。

 もういっぺん、苦労の仕直しをして、子供にその苦労を継いでもらうような、その苦労の受け渡しができるまでは安心ができぬと思います。

 財や立場を積んでなさる人は相当あっても、その苦労を子供に継がせるという人はなかなか少ない。われわれもまた、教祖様の徳の上に安座しているが、教祖様が「もとをとって道を開く者は、あられぬ(あられもない)行ぎょうもするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる(『金光教祖御理解』第91節)」と言われるお言葉をそのまま受け、楽をしておかげが頂けると思うたら、間違いであると思います。お互いもまた、もとをとって道を開く者として、あられもない行をさせてもらってこそ、教祖様の末々安心というものを「よう受け継いでくれた」ということになるのでしょう。

 皆様方、日にちの生活の中に、今日の神様のお頼み祭を真しんに頂き、生活の中身に、それを「はい。承知いたしました」と受けきって、苦労を真正面に取り組んでくだされ……。そこから道をつけ、その苦労を子供に譲り、その苦労の道を切り拓いていくことによって、末々の安心が頂けると思います。

 最近、私は神様のご意志の強いのに驚いています。助けようという神様のご意志――ちょうど、髻たぶさを持ってグーッと引張って、髪の毛が抜けるようにしてまで、私を助けようと引張ってくだされる神様のご意志――私はそれを神様のお仕込みと頂き、日にちの励みに勤いそしんでいます。

 本当に、神様は私のようなこの無学の者、この不信心な者、この無力な者に、「どのようにしてでもおかげを授けてやろう」とて、手を替え品を替えて、お仕込みくださろうとは有難いこと……。真に神様に泣いて、抱きつき、縋すがりつき、お祈りを続けております。

 生神いきがみというのは、教祖様、二代金光四神様、現教主三代金光様だけでない。「ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということ(『金光教祖御理解』第18節)」で、その「神が生まれる」というのは、「もうどうにもならぬ……これ以上は!」というほど、仕込まれて、その中で「ようも私のような者をお見捨てにならずに、お助け下さるために、ここまでお仕込みくだされる。有難うございます」と受けて、神様の御胸にしがみつき、縋りつき、祈って改まらせてもらう。そこに生神が生まれると思うのです。

 どうぞ、今、申しましたことを十分解っていただきまして、たった今から一新した信心をされる決意をされ、皆様たちの心の中に、「助かってくれ」と頼んでなさる神様を頂いて帰ってもらいたいのです。

 頭で解るだけでなしに、しっかりとお腹の中に頂いてください。肚はらを据えてください。こうまで神様とひとつにならしていただいたものを、「何年たっても、私の体から離さんぞ!」と、そういうご信心生活さしてもらうことができる時に、初めて「立教百年ここにあり!」と言えるのです。また、神様が「よくぞ改まってくれた。神は嬉しいぞ!」とおっしゃっていただく祭、神様のご悲願祭を、「はい。承知しました」とお受けする中にこそ、神様は「これ以上の喜びはなし」と言ってくだされるのではありますまいか。どうぞ、相共におかげを頂きましょう。

(立教百年大祭での教話・昭和34年10月25日)

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