★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★


先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より

本当に価値あるものとは何か

 今の若い人の特徴のひとつに、金の勘定に勝すぐれた点、物の価値に対する鋭い考え方の上では、昔の若い人とは非常に違ったものを持っているといえる。確かに、そういうものが、社会に一本筋が引かれているということは、見逃せぬことである。

 しかし、「これはいくらするのか?」という、物の持つ価格そのものの価値というものを中心に考えていくことも大切であるけれども、それと同様に、大切なことは、価値のないといえるもの、そういうものの大切さも分からねばならぬと私は思う。

 今の時代は、そういうものが、だんだん大切にされないようになってくる傾向にあると思う。

 例えば、紙一枚の大切さ、釘一本の大切さというものは、事実、その紙一枚が無ければどれほど困るか、釘一本が何にもかえられぬ大切なものか。また、釘一本が、時によってはどれにも負けぬくらい大切なものか……。それが、金額で言えば、どれだけ僅かであっても、そのもの自体の価値は大変なものであるといえる。

 いわゆる、そのもの自体の持っている尊さ、そのものこそ「なくてはならぬもの」、そういう考え方が、近頃だんだん忘れられてきていると言える。
これこそ、大変なことであると思う。

 ただ、表面上の価値、これは値段がいくらであるとか、なんぼ儲もうかるとか、損をするかとか、というだけの価値を云々うんぬんするだけでは、本当の物や、財の価値というものが分かってこぬと思う。動いているもの――仮に財なら財、物なら物――の本当の値打ちが把とらえられないと思う。価格からいうと非常に僅かなものであっても、そのものの尊さ、大切さ、かけがえのなさを知って、それをひとつひとつ大切にして行く……。そういうことの価値を分かり、そういうものの集積を財とする人は、それこそたいしたものであろう。

 昔からよく言うことであるが、賭博打ばくちうちや相場師の金は、どれだけ儲けてうまくいっても、結局は手元に残らぬ。コツコツ貯めた、苦労して稼いだ金だけが手元に残る。

 例えば、コツコツ儲けた五千円も、競輪で儲けた五千円も、同じ五千円というが、それは違う。五千円は五千円で通っても、苦労して得たものでなければ、それが手に残らぬ。本当の価値にもならぬ。

 もっと言えば、只ただ(無料)のものといえども、本当にかけがえなき価値のあることを知る。只のものの価値、有難さを分からせてもらう。それを分かることが信心させてもらうものの世界であると思う。

 例えば、目に見えぬ空気……。これこそ只である。これに値をつけて云々する人はない。しかし、空気こそは実に有難いもの……。これなしには、人間のみならず、すべての動物は生きて行けぬ。何にもまして価値あるものである。それでも、「これ(空気)が有難いと思え」と言っても、今の若い人には納得されまいと思う。

  今度は、親の思い……。親から何か物をもらった。だから「有難い」という子は多い。それならば、(親が子のことを)思いに思うて、子を叱しかった。それは「有難い」と、子は言わぬ。

 むしろ、不足(不満)に思う。それでよいのであろうか? その可愛い子を叱る思いこそ、尊いし、有難いものである。その有難さを子が解らねばならぬ。
物をもらうほうがよく価値が判る。思いというような無形のものは、有難いと考えず、むしろ、面倒に思う人が多い。

 真(しん)に思いというものの価値、これが「ああ、本当に勿体もったいない」ということになったら、その子自体の成長はすばらしいと思う。しかし、そんな子は、ほとんど稀(ま)れである。

 そのように、形に表れぬ、例えば、達者(健康)の喜び、思いの有難さ、そうしたものの感謝から、人生を味わったことがあるであろうか……。
そういう意味から、日にち、ただ今の自分の場というものを反省してもらいたい。

   うち(の収入)は、この月は良かった。あるいは、悪かった。とか、いろいろとある。

 家庭的にうまくいったとか、いかぬとか、子供が良いとか、悪いとか、いろいろあろうが、とにかく、その場その場のありのままの姿がおかげである。との喜びが頂けているのであろうか。

 「親先生、一寸(ちょっと)待って下さい。財からいって、この月はこれでよかったとは言えません。何も形に残らず、良いこともございませんでした」と、いう人がある。

 「いくら神様のお恵みだからといっても、嫌なお恵みは別ですよ」と、いう人もある。

 しかし、親でも、わが子が可愛いからといっても、ピシッと叩たたくときもある。可愛いといっても、子供にとっては嫌な表れ方をするときもある。

 むしろ、菓子を与えるとか玩具おもちゃを与えるというときより、叱るときのほうがあるいは、親の思いとしては、強いし、深いとさえ言える。また、大きいと考えられると思う。

 そのことは、子供を持たれている人には、解ってもらえると思う。

 だから、あくまで、いかなることでも、不足や愚痴でなしに、その場その場がおかげの場である。思いの場である。思召しの場であるということを判らせてもらうことこそ、無限の大きい喜びであると思う。

 ということは、一枚の紙の譬たとえでも同じで、たとえ一枚でも粗末にできぬことを悟ることが大事である。

 今の時代は、非常に算盤そろばんがうまくおける(損得勘定がうまい)ようになった。若い者も中年も、すべてが上手になった。けれども、本当の幸せを頂く算盤をおくことは下手になったのではあるまいか……。

  それに、今の時代は「浮いた時代」というのか「争いの時代」というのか、親子でも、夫婦でも、どうもピッタリとは行ってはおらぬ。

 「親先生、うちの主人が悪いから、悪いというんです」と言われる。亭主が悪い。それは、そうかも知れぬ。働きもせず、酒ばかり呑んでいて、確かに、どうしようもない極道者かもしれぬ。

 しかし、その悪い状態のままを、なぜもっと自分がこなせないのか……。

 「親先生、うちの子供、以前は駄目でしたけれども、今はおかげで良くなりました。有難いことでございます」と言う人の喜びと、別に、これといった問題なしに育った子で、「おうちの子供さんは手間がかからなくてよろしいね」、「ええ、本当に……」と、いうのでは、本当は喜びの度合が違うと思う。それこそ、その人の持つ値打ちでもある。その人の頂いている有難さの大きさ、深さ、内容でもあると思う。

 例えば、日にち達者であるという、達者の喜びがあるか……。病気してはじめて、達者の喜びが判る。それと同じことである。

 紙一枚の有難さが判る。それは金で勘定できぬものである。

 これらはすべて同様で、紙なら紙しかどうにもならぬもの、鉛筆なら鉛筆でしかできぬもの……。そういうひとつひとつの尊さ、良さ、有難さがあるのである。

 たとえ、石ころひとつの中でも、そのものしかできぬものがある。

 神様のお恵み、おかげというのか、そういうものが見出せ、それがひとつひとつ判っていき、積み上げられる喜び、感激、それが真のおかげであると思う。

 おかげとは、特別に、何かもらったりすること――経済が良くなる。病気が快くなる――というようなことだけでなく、そのままのものを、ひとつひとつ喜べてくること。喜べるとは、自分がいきいきしてくるということである。

 たとえ、嫌な立場に置かれても、「あなたは、嫌な立場に置かれても元気ですね」と、言ってもらえる感謝が湧いて来ることである。

 口先の元気、酒の上の元気でなしに、真の喜び、感謝の元気、有難さの元気、そうした元気こそ、いきいきするものの姿であり、そうしたものを常に頂き、日にち努力し、骨折っていくことこそ、真のおかげへの道であると言えるのである。

                   (ある日の教話・昭和三十五年四月)

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