★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★


先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より

人は神の子 ―祈られているを知れ―

 人の救われて行く道は、いったいどう歩ませていただけばよいのでしょうか? どういうあり方であればよいのでしょうか?
そのことを、ズバリと言わせてもらうならば、「われわれは神様の子である」ということを、本当に分からせてもらうということ……。神様の子であるということを、確しっかと信ずることであると思います。

 たとえ、神様(親様)の前では、無茶なおねだり(願い)をいたしたり、泣いて「もうよう辛抱いたしません。なんとかして下さい」と申し上げても、他人様にはご迷惑をかけますまい。また、人前では泣きますまい……。今はどうあろうとも、神様は親様です。神様が「助けてやろう」と仰おおせられる。その思召しに――そのお祈りに――添いきる歩みを続ける……。たとえ、「石にかじりついてもやらせていただくぞ!」と明るく勇み歩む……。それが助けられて行く歩み――あり方――であると思うのです。

 神様が、お互いを、子として愛して――護まもって――庇かばって下されている。お互いを「助けずにはおかぬ」とおっしゃる。その願い――その思召し――その愛は、実に大きく、強く、深く、人間には想像もつかぬほど、たいした素晴しいものであることを、私の今日までの歩みの中で、身にしみじみと頂いております。
神様の子であるということは、泣いたり、愚痴ぐちを言うものでなく、「いかなることにも泣くものか!」という強さと、全てを喜ぶ明るさの生活を日にち進めてゆく姿であると思います。

 お互い人間でありますから、いろいろなことが……問題が起こると思います。それが、いかに困難であっても、複雑であっても、助けて下される神様を信じ、助けずにはおかぬ神様の思召しを悟らせていただいて、どこまでも、いきいき生きぬいてゆく歩み、営みが信心であります。

 神様が、「氏子(人間)を助けてやろう……。思うようにおかげをやろうぞ」と思われても、肝心の氏子の側に、いろいろな問題があり、その問題をようこなさず、おかげになるまで縋すがりついてゆかず、投げてしまう……。「もうこれ以上は……」と腰を折って放ってしまっては、神様も助けられぬ。お互いも助けてもらえぬ……。

 それでは、神様も泣きなさる。神様を泣かしては、お互いも助からぬ。神様の前では、どれだけダダをこね、泣き崩れてしまっても、そこを離れたときには、本当に、いかなる場でもへこたれぬということ……。それこそ、神様の子であるということであり、そこを確しっかと解ってもらいたい。

 お互いは、「目の中に入れても痛くない」という神様の祈り子……。特に私など、すべてに至らぬ……。こんなに足らぬものでも、十二分にお護り下され、お庇い下され、可愛がって下され、おかげで包み切って下されていることは、実に勿体もったいないことであります。

 この有難い神様に縋りつくことです。神様には、いかなることもお願いしましょう……。箸のこけたような小さいことから、ないいのちを継いでいただくような難しいことまで、ひとつも漏らさずに……。日にちの生活がいかような形で現れてこようとも、どんなに難しかろうとも、明るい辛抱、強い歩みを続けて、先を楽しみつつ祈ることです。

 神様も「先を楽しみに、今の辛抱にへこたれずに明るく励めよ」と祈って下されていることを分からねばならぬと思います。

 今に見よ。おかげはきっと神様が示して下さる。自分は力がない。自分はどうにもできぬが、祈りつつ、縋りきりつつ、努力させていただくことによって、今にきっと神様が、ご神徳(おかげ)を顕して下される。

 そう信じて、明るい、力強い、日にちの生活を続けて下さい。

 現に、この泉光園でもその通りです。無力な私に何ができましょうか? 皆、神様のお授かりものです。今日の御祭みまつりひとつでも、そうであります。私は何ひとついたしてもおりませぬ。皆、神様にしていただいているのみです。修行者(註=教会職員)や役員の皆さんがして下さるのです。

 勿体(もったい)ない限りであり、すべてのお恵みに感泣している私であります。それだけに、「これからの私のあり方が問題である」と頂いております。
今朝もお話しいたしたのですが、参拝しておられる方々は、「皆様方」という人ではないと思っています。

 それは、ひとりひとりが持っていなさる悩み、問題……。その悩み、問題が参拝していらっしゃる。その願いが参拝していらっしゃる。「なんでも!」という願いが、それが、ひとつひとつ立派におかげになって、帰ってもらわねばならぬと、私は頂いております。

 今日も、私はしみじみと考えてみました。

 私の今までの歩みの内容は、借りばかりであったことを思うのです。神様からの借り、皆さんからの借りは恐ろしいくらいだと思います。そこを私は、日にち悩み、祈り続けております。

 その借りを私がどう払わせていただくか? 言い換えれば、皆様方の願いを引っさげ、それが立派におかげになるまで、どうさせてもらったらよいのか? それが私の背負う大きい問題なのであり、日にち祈りつつ、真剣に取り組ませていただいているところであります。

 皆様も神様の子、私も神様の子……。本当の兄弟、本当の親子……。
義理でそうなっているのでない。本当に神様に祈り、その思いを判らせていただき、「われ神の御子みこなり」の自覚のもと、いかなる場をも、腐らず、明るく、それを受け止めて、こなしてゆく……。道が開けるのも、そこにあるのであります。

 そのところを、皆様方に本当に解っていただき、皆様も、「わしが」という我を、ひとつひとつ取っていただき、神様の子としての道を、ひとつひとつ習い、改まり、祈り、骨折り続けていただくことができれば、助かりが実現し、本当に有難いことになると思います。

 私は、そこにいのちを張っています。言葉だけでなしに、そういうことのために、私が生かされているを喜び、勇み、そのことが私の生き姿であります。

 そこに私の永生の姿があると信じております……。形の私は死んでも、祈りの私は死なぬつもりであります。

 神様から、「たとえ、今はどんなに苦しくとも辛抱せい。きっと最後には、おかげをやる」と言われていても、お互いは、その辛抱ができぬ。すぐに後ろを向いてしまう。

 その後ろを向いてしまうお互いを、神様はジッと拝んでいて下される。そこを分かって下されて、祈って祈って、明るくおかげの頂けるまで、信心辛抱をして下さいませ。

 なにとぞ、皆様たちの日にちの生活に、いかなることにも「泣くものか」と強く祈り、縋り、そして「なんでも!」と強く明るく、いきいきし、それが自分一代ばかりでなく、子供にも孫にまでもその心が伝わるように、確しっかと祈り、行じてもらいたい。その生きてゆき方を、日にち、骨折って下さい。

 財を頂くことも大切でありますが、財を継ぐより、確しっかとその信心を継いでもらうことであります。「親先生、私は親の代から信心しています。何年も参拝しています」という、ただのお参り信心でなく、その人の生き方の中に、その子供の生き姿の中に、そういう強いものを、持ち続けていくものでなければなりません。

 信者の方が、非常に辛い、どうしようもない立場に立たされ、参拝に来られて、「親先生、助かるでしょうか?」と言われるから、「きっと助かる」と申しますと、「そうですか、本当に助かりますか?」と、また聞かれる。

 「神様の子ですから…。神様があんたを助けたくて、お引き寄せ下されたのだから、キッと助けて下される」と、常に申すのです。「泉光園、ここがあんたの里です…。心の里ですよ」それだけは、ハッキリと言える。

 その人につきまとっている問題は、あるいは、そう簡単にはいかぬかも知らぬが、「心の里泉光園に込められた神様の願いが、あなたの問題を引き受けて下さる。あなたの願いを放っておかれぬはずであります。

 あなたの問題を、今日から私も祈らせてもらおう。あなたも私と同様に神様の子だと判り、腰を折らず、迷わず、一心に祈り縋り、おかげの頂けるまで強く生きて下さい。

 あなたさえ、『神様に縋っておかげを頂くのだ』と肚はらを決めて下されば、たった今からでも、あなたの問題を引き受けることができます。

 それは、あなたの思うようには、今すぐ手のひら返すようにはできぬかも知れぬが、たとえ、どんな問題があろうとも、このお教会が自分の里である。本当に心丈夫の限りである。どんなことが起ころうとも、おかげを頂くためには、『一歩も後ずさりはせぬぞ!』という強い祈り――信念――を持っておれば、引き受けられる。神様が引き受けて下される。「私も祈らせていただきます」と申して帰ってもらったのであります。

 そこから残る問題は、私なのです。安心して、その人は帰られましたが、その人の問題を引っさげて神様に縋り、祈るのです。そこへ、私のいのちをぶち込んでゆかねばならぬのであります。そこに、私のいのちをかけた御用があり、神様がお働き下され、おかげをお示し下さいます。

 難しい時は、「神様、神様! 親先生、親先生!」と言うけれども、都合よくいけば、自分一人でやったように思うていらっしゃる人が多い。神様(親様)の苦労なぞ、なかなか分からぬ。

 親の苦労を本当に分かり、その苦労を本当に受けてもらえば、その子も本当に助かる。その苦労の中に生きてこそ、真の喜びも分かる。親子が喜び合える……。そこのところを歩みぬく人は少ない。

 苦労を苦労とせず、勇み、励み、神様の思召しの中に飛び込めるような人こそ、真しんに神様のお恵みに生かされ、助けていただけるのであります。

 例えば、一貫目(約三・七五キログラム)の石を持ち上げるのには、たいした力はいらぬ。けれども五貫目のものになれば、ちょっと力を入れねばならぬ。もっと重いものなら、相当の力を出さねば持ち上がらぬ。

 力は、重いものを持つことによって与えられる。しかも、重いものを持てば持つほど、次第に力も大きい力が与えられるものである。

 お互いの生き力は、お互いの前にある問題と取り組み、こなしてゆく……。それによってのみ与えられるのです。「あの人はいつも元気で、どんなことにもへこたれぬ。計はかり知れぬ力がある」とか、「あの人は偉大なる徳者である」とか、「あの人は本当に真まことの人である」というのは、それら各々の人々が、それぞれの問題にぶつかって、どれだけいきいきと、そのこと(問題)に取り組み、こなしてきたかということであり、そのことによって与えられるものが力となり、徳となり、真まこととなったのであると思う。

 人生の諸問題のどんな重荷(問題)でも、逃げたり、いい加減にせずに、取り組んでいくところに生き力が授けていただけるものである。

 「可愛い子には旅をさせよ」というが、苦労をさせて子の成長を祈るのが親である。神様も同様に、真しんに助けるために、苦労させなさることもあるが、それは助けたいばっかりの神様の愛の願いであることを分からねばならぬ。

 こと(問題)に遭あえば遭うだけ、さらに、「徳の力を、真まことの力を、人間の生き力を、もっともっと授けてやろう」とおっしゃる神様の思召しであると頂き、神様のよい子としての道を明るく歩んで下さいませ。

 そのことができてこそ、神も助かり、お互いも助かり、共に喜び合えるのであり、その喜び、その決心を新しくさせていただくことが、ご大祭を頂く有難さでありますから、そこを十分、分かって下されて、明日からのおかげへの道として下さいませ。

(月次祭での教話・昭和三十五年四月八日)

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