★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★


先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より

道なきところに道を

 昨夜、夢を見ました。信者のTさんの家が火事……。飛び込んで行って、全身、火達磨ひだるまになりながら、火中でのお祈り……、大火傷やけどをした夢……。

 大火傷をしながら、なお、一心に祈る私……。この火の手を、どこでくい止めていただくか……。「Tさんが、このご試練を、鮮やかなおかげへの足掛かりとして受けて、飛躍して下されるように……」とお願いしている……。

  ところが、当の本人(T氏)は、もう投げている。「仕方がない。手の施しようがない」と……。祈ることも忘れて、呆然自失という恰好である……。

 あらゆる難儀の場に、必死に取り組んでいる私……。しかも、日にち、足らぬ自分をいよいよ深め、悩み続け、祈り続けている私……。

 私の歩みは「神様! 神様!」と祈り、縋り、血みどろになって、あらゆる問題をわが問題として取り組みつつ、どうにもならぬ日にちの歩み……。

 一方、ご信者は、「おかげを頂きたい」と願いながらも、実際は、祈りぬき、悩みぬいての求め方が足らぬように思えるのです。いかがでしょうか? 言うても解ってくれず、頼んでも聞いてもらえず、解ってくれぬ人……。

 その人のために、火達磨になって、キリキリ舞いして「幸さちあれかし。助かってもらいたし」と祈る……。それでも解ってもらえぬ実態……。それは、解ってくれぬその人の問題でなく、解ってもらえぬ自分の不徳の実態である。

 その不徳な自分を祈り、鍛え、磨くことに血みどろであると同時に、なんとしてでも解ってもらわねばならぬ。助かってもらわねばならぬ役前のあることが判らされて、いよいよ容易ならぬことが判り、祈り続けるのみであります。

 聞けぬ。成長の歩みをせぬ。求める気がないという実態……。そこを解ってもらう祈り、そこを道づけてゆく、祈ってゆくのが宗教であると思うております。

 欲というか、我がというのか、慢心、思い上がりに満ちているもの、そのものを助けるという営みが、宗教であるとも思います。

 宗教というのは実に大変な仕事である。耳のあるものに聞かすというのであれば、まだ分かる。だが、耳がない。全然、聞けぬ……。眼が頭の上についている。口が耳のつけ根まで裂けている(怪物のような本性)というようなもの。そのものに解ってもらうことである。聞こうとする耳、正しく見ようとする眼……。人を咬み殺す口を、人のお役に立つ口になってもらう。その働き……。祈りを通して助けていく営みが宗教であると思います。

 宗教というのは、聞ける――聞こうとする……。聞いて、聞いて、聞きぬいてゆく人を作ることであり、そこから助けられる道が明らかになるのである。

 と同時に、むしろ、聞こうとせぬ人――聞かぬ人――に働きかけてゆく祈りであり、努力であるともいえる。

 口が耳まで裂けている。しかも、その周りには血がついている……。慢心しきったものに取り組む。それが宗教であると思う。

 聞かぬ、聞けぬ、改まらぬ。また、改まろうともせぬ人を拝みきってゆく……。それが宗教の使命である。そう思うと、いよいよ容易でないといえる。

 私のような足らぬ者が、どうして、こうしたことができるかと思う……。ハタッと行き詰まる……。けれども、それが私の場……。それが、私のさせていただくべきこと――役割――そこへ、私のいのちを張ってゆくこと……。と、そう頂いております。

 植木に水をやる。水が溜たまる……。水のやりがいのあるところと、なんべんやっても、スッと吸い込むようなところへ――水気のない乾ききった砂のようなところに植えられている木へ――水をやる。なんべん水をかけても吸い込んでしまう。

 ちょっとやそっとで水が浮いて来ぬ、乾ききったところ……。そんなところへこそ、水が要いり用である。その吸い込んでゆくところ、ちょっと目では灌かけたか灌けぬか判らぬところへ、打ち込んでいく……。そのことが宗教の営みであると共に、これほど、容易ならぬことはない。

 だからこそ、いのちを打ち込んでやらせてもらいがいがあるともいえる。そうしたことを祈りつつ続けていくことが信心であると思う。

 聞く耳を持たず、言うて改まらず、我が一杯のものに解ってもらう。する気のないものに、たった今からする気(元気)が出るように祈り込めをしてゆく……。そこに宗教の難しさ、尊さ、有難さ、真の中身があるともいえる。

 「縁なき衆生は度し難し……」と、釈尊は申された。教祖様も、「信心は相縁機縁(『金光教祖御理解』第四十九節)……疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいい(かわいそうな)ものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし(同書第二十節)」と仰せられているが、私は「是非もない。どうしようもない」というところにこそ、宗教があると信ずる。

 本気で、人助けに取り組んでみたら、そこにこそ、真価があると判らされる。
言い過ぎかも判らぬが、「言うて聞かねば、どうしようもない」と、いうのであれば、それは真の宗教でないとも思う。

 皆様方でも、「この人、これだけ言うても解ってくれぬ。もうあかん(ダメだ)。仕方ない。時節を待とう」と、放っておけば、もう信心の働きが止まっている。「これは、未だ私が足らぬのである」と、そこから、祈りに祈って、もうひとつあらためて打ち込んでゆく。それでなければ、祈りでもなく、信心の働きでもない。また、宗教とも言えぬ。

 祈るというのは、祈って、却かえって逆になって表れる。それでも、そこを祈りぬく……。おかげになるまで祈りぬく。それが祈りだと思う。

 改まりでも、改まれぬ……。どうも改まれぬ……。我がの強い自分は、改まりができぬのかと、投げてしまいたいようなところを、なお祈り、改まりに取り組むことが大切である。「改まりなどできるものか。あんたの心は石か瓦である」と言われる中から、「なにとぞ改まらせて下さい」と、祈り、改まってゆく……。そこから、初めて改まりがなされる……。改まりが生まれてくるものであると思う。

 助かりということでも同じである。神様にお願い申して「やはり、えらいものじゃ。おかげになってきた」というような容易なことでは、本当のおかげになるとは思わぬ。一時的なおかげなら、すぐにおかげを見せてもらえることがあるが、真まことの助かりというようなものは、底がないものと言える。おかげからおかげへ……、助かりから助かりへ……と、続いてゆくものであらねばならぬものである。

 「私はもう根気が尽きた。辛抱が尽きた」と言うて、手を上げる(諦あきらめる)のでなく、そこから、あらためて、初めて辛抱の一歩を踏み出さねばならぬものであると思う。助かりへの根気を、もっともっと強く持たねばならぬと思う。

 昨日も、ある婦人が参拝されて言うには、「主人といったら、手もつけられぬ乱暴で無茶な主人で、子供が五人もあるのに、聞いてくれぬ。改まってくれぬ。しかも、私を蹴ける、殴る……」無茶苦茶である。

 「親先生、もう今日こそは辛抱できません。親先生がどのようにおっしゃっても別れます」と言われる。

 よく聞いてみると、無理からぬと思う。「しかし、そこのところを……『どうにもならぬ。もう、これ以上辛抱ができぬ』というところから、あらためて、辛抱の道歩みを、祈って歩み始める。それが信心の歩みであり、信心道ですよ。今まで貴方が『辛抱した』というが、それは未だ本当のものでなかった……。『途中である。これからだ』と思って、お詫びこそすれ、『これ以上は……』というようなことでは助けていただけぬ」と申しましたら……。

 「親先生はそうおっしゃると思うていました。けれども、私、もうこれ以上はよう辛抱できません」と言いますから、私は、そこを合掌しながらお話をした。

 「それでは仕方ない……。もう私も言いますまい……。それならば、こうしましょう。あなたが辛抱できなかったら、そこを私が受けましょう……」、「親先生、私の辛抱を受けて下されるというのは、どういうことですか?」、「あなたが、子を連れて(子供を夫のもとにおいて出れば、子供が可哀想だし、子供らも恐がっている)家を出て、ご実家へ戻れば、親も心配されよう。また、別の問題も起こるでしょう。それでは、皆が助かりません……。祈って、もう一度、辛抱して下さい。

 もし、辛抱できん時は、お教会へ来るのですよ……。今からの辛抱は、あんた一人の辛抱でなく、神様と共に――私と共にするのです。私も今から、あらためて、あなたの辛抱の座から祈らせていただきます。すべてを、神様に引き受けていただきましょう」と、申したら、「そんなら、子供の学校はどうします?」、「教会から行けばよろしい。子供たちには不自由はさせん。教会はあんたの里だもの……、遠慮せんでもよい。あなたの苦労は、私が引き受けたのです。ひとつ、あなたに取り組んでみよう。あなたが助かるか、助からぬか、肚はらを据えてやらせてもらいましょう」と申した。

 そう申したら……、行き詰まりきった場……、死をさえ決意したというその方が、涙を一杯ためた目に光を輝かして「親先生。よく分かりました。私にはもうどうしようもできませんが、親先生に私の辛抱を引き受けていただいて、すべてを神様にお任せして、もう一度辛抱いたします」と……。そこへ私はなお、祈り添えたのです。

 「辛抱しますという辛抱でなく、祈り祈られて辛抱させていただく心であって下さい……。しかも、辛抱する前に、もっともっと真実を尽くして下さい。たとえ、どのようなことに遭あっても――されても――、肚はらを据えて祈って辛抱して下さい。どんなにされても、蹴られても、叩たたかれても、いのちまでは取られはせぬ……。また、『仮りに殺されたとしても、神様と共になら本望でございます。なにとぞ、貴方のお好きなように……』と、グンと度胸を据えておかげをいただくのですよ……。神様と共に、私と共に真実の道――尽くしの道――を、明るく歩んで下さいよ」と申して、帰ってもらいました。

 そう申して帰ってもらったものの、それができるかどうか、私は心配で、ずっと祈り続けました。その後、その方は、実に難しいところをジッと辛抱し、その上に限りのない真実に生ききっておられる――祈りきっておられる――姿を日にちに拝んで有難く思っております。私は、道というものは、そうした人の歩みの中に生まれるものと信じている。

 金光教内でも、学問のある人はよく「道」と言う。それは筋の通った、理屈に合うたもので、言うて解ってもらえるものを「道」と言われる。私の分かってもらいたい――願うている――祈りに祈っている「道」は、言うても解ってもらえぬ、一寸ちょっとやそっとなしてもその効果が現れぬ、理屈や筋の通らぬところを、祈りつつ歩ませていただくところに道がつくものと思うている。

 一寸ばかり信心して、それで助けてもらえるなどと思うことは甘すぎる。そんな甘い歩みが信心ではないと思う。日々の生活がおかげになってゆく――助けられてゆくということは、真剣な、厳しい試合のうちになされてゆくようなものと思う。

 そこから、仕合しあわせが授かる。幸しあわせ――試合しあい――仕合しあう――、恵まれるものではあるが、また、試合をするという、真剣な働きから幸せが授かるものであると思う。

 真剣に祈り、努め、励み、恵まれてゆく厳しい歩みが、助けられてゆく道であり、そのことが続けられて、そこに道がつくものであると思う。

 日にちの生活、日にちの在り方が容易でないのに、よい加減な信心――よい加減な生き方――をしつつ、それでいて恵まれ、おかげだけは十二分に頂いている。

 そこのところを本当に解ってもらいたい。有難いことではあるが、ただ、有難いと、喜んでだけおられぬ。実にそこのところが危ないものであり……、そんなことでよいものでないことを分かり、恐ろしいまでに、深い底知れぬ谷間に立っている自分を自覚、反省してほしいものであります。勿体もったいないお庇かばい、お恵みに感謝すると共に、真剣に、厳しい自己反省の中から、真の第一歩を踏みしめて下さいませ。

(ある日の教話・昭和三十五年九月)

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