先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より
『聞いて聞いて聞きぬいて』
おかげへの道歩みはどのようにさせてもらえばよいのでしょうか。
どう歩めば、おかげになるのでしょうか。助けられるのでしょうか。どうしたら、本当に人を救わせてもらえるのか、そこを日にちに祈り、悩み続けております。
毎朝ご参拝を続けられることは容易なことではないでありましょう。ただ、習慣的に参拝しておられるのではなく、祈られ、祈り、お話(教話)を聴いておられる……。どこまでも求めておられる。おかげを、幸せを、幸福を願うて、努力されている生き姿の現れであると思います。
おかげを頂きたい。そのおかげが形に現れるもの――生活の全面にわたってのおかげ、あるいは、目に見えぬもの(お育て・徳積み)――と、その人その人で違うが、めいめい一心に願われ、求められていることは確かであると思います。
そのおかげを頂くには、よく聞くことが大切である。とにかく、そば耳を立ててどんなことをも聞き漏らさず、よく聞かせていただくことである。
「たとえ、子守唄でも疎かに聞くな」と言われる。一言葉(ひとことば)の中にも尽きせぬものがある。それを聞き逃してはならぬ。
また、口汚く罵(ののし)る言葉の中にも、じっくり聞かねばならぬことがある。「しょうもない。あんなやつから何が聞けるか!」と言うその人の言葉からも、聞き耳を立てること。必ず、その中には、自分を育てる肥(こえ)(声)がある。
ちょっと、簡単に一言(ひとこと)、二言(ふたこと)、電話で取り交わす言葉の中にも、聞くべきものがある。おかげを頂く道とは、聞いて聞いて聞きぬくことだと言いきってもよいと思います。
金光教の信心は、「話を聞いて助かる道」と言われている。その話というのは、教会でご教話を聞くとか、信心熱心な人の話を聞くということだけでない。
人の話、人間の語る言葉はもちろんのこと、いろいろの物からでも、聞けるものがあるのではありますまいか。
例えば、この(お結界の)机からでも、皆さんの座っていられる畳からでも聞けるような心、それが求める人の姿である。机に聞ける、畳に聞ける……。机や畳、それ自身が無言のように見えるが、一生懸命に物語っているのではありますまいか。
机の上が乱雑であれば「整頓して下さい。きれいにして下さい」と言いかけている。
それをちゃんとすると喜んでくれる。畳も、汚さや破れを訴えている。お互いはその声が聞けぬ。聞く耳がない。気付かぬ。気付いたとしても、そのままに放っておくことが多い。
どんな話でも、どんな出来事をも、何からでもよく聞き、教えられ、自分を育てていかねばおかげが頂けぬ。
そんなら、聞くだけでよいのかというと、それだけでは十分とは言いきれぬ。祈りに祈り、祈りぬかねばならぬものがある。それでなければ、おかげを頂くということにはならぬ。
よく世間では、「努力さえすればよい。努力が足らぬから問題が解決せず、問題が起きるのである」と言われる。むろん、努力は全てに必要ではあるが、努力さえすればよいのでしょうか。説明としては一番判りやすい。筋も通っている。言いやすい。
でも、それだけで十分でしょうか。世渡りは、努力だけでうまく運べるとは言いきれぬと思います。
努力家は全てに恵まれているでしょうか。財に恵まれても、健康を損ねることはないか。また、一番大切な人間関係――特に親子、夫婦関係――がうまく運べるのでしょうか。
「わしが努力している」ということが、かえって人間関係の癌(がん)になるようなことはありますまいか。例えば、財を得ている人が、夫婦の仲が問題になり、子に背(そむ)かれている実例が世間にはたくさんあります。
努力家であればあるほど、祈らずにはいられぬと思います。自分の足らぬ所が判らされて、努力しても届かぬところが判り、努力することによって、祈らずにいられぬものが湧いてくるように思えるのですが……。
前に申しましたように、聞いて聞いてよく聞きぬいていく生き姿の中に、聞けば聞くだけ、自分が――他が判らせて、祈らずにはいられぬようになるのであります。
その上、聞く……。祈る……。それでよいのかというと、未だそれだけでは、しっくりせぬところがある。詫びるということである。
その詫びも、「詫びよ。詫びよ」と言われて詫びるのでなしに、詫びずにいられぬ、その低い姿、「はい」と受けられる謙虚な詫び。それが生活の中身となり、基盤にならなければ、おかげが頂けぬ。真(しん)のお助けが頂けぬと思う。
ここで一言、その詫びの内容について申し添えたい。私は最近、お詫びだけでは未だ済まぬものを感ずるのです。「謝る」……。頭の上がらぬもの、頭の上がらぬ済まなさでなくてはならぬと思う。「こんなに詫びているのに解ってくれぬ」と、頭を上げるようなものでなく、下げきった自分、謝る以外にないというお詫びを解ってほしいのです。
聞いて聞いて聞きぬき、自分が――人が判らされ、祈って祈って――祈りぬきつつ、祈りの足らぬ届かぬ自分、その自分に、願い以上のおかげを下されていることが判らされて、相済まぬというか、詫びるというか、頭の上がらぬ、謝る以外にない自分が判らされる。その詫びの生活者になってもらいたいのです。
その謝りきらなければならぬ自分が、実際にはおかげに包まれていることをしみじみと思うのです……。おかげを受けきっていることが判らされるのです。その謝りきった自分がおかげに包まれていることを、しみじみと思うのです……。おかげを受けきっていることが判らされるのです。
この三つが、生活の中身となり、そこからの生き姿がおかげへの道となると思います。
すべてを素直に受ける。聞く。その中から祈りが湧く。祈れてこそ、なお、よく聞きたくなる……。詫びる、謝る……。いよいよ聞けてき、祈られてくる……。
聞く態度は祈る姿である。詫びるという態度は、祈らずにはいられぬ姿である。
聞こうとすることは、祈るということである。聞いて判らされると、詫びずにはいられぬ自分になり、ますます、祈らずにはいられぬことになる。
よく聞き、詫びの心で受け、強い祈りを持ち続ける歩みこそ、おかげへの唯一の歩みであると信じます。
判りやすいように三つに分けて申しましたが、本当は分けられぬものであるとも思います。聞きぬいてゆく中に詫びがあり、祈りがある。祈りぬいて行く中に、聞かずにいられぬものがあり、詫びがある。
詫びの中に、聞きぬいていく、祈りぬいていかずにはいられぬものがあります……。これらは皆ひとつであるともいえます。
そこを十分、解って下されて、いよいよ、おかげを蒙って下さいませ。
(ある日の教話・昭和三十六年五月)