★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★


先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より

『世界取次をめざす』

 生かされている自分……祈られている自分……。
この有難さ、この勿体(もったい)なさが、いよいよ使うていただき、生かしていただいている中に、しみじみとこの身に感得される。

 泉尾教会という、この教会がいかに有難いか、いかに尊いか……。
私をお使い下されるすばらしいその御祈(みいの)り……。「多くの難儀な人を助けずにはおかぬ」という神様の御祈り……。その御祈りを受けて、「なんでも使うていただこう。足らぬながらに、足して使うていただこう」との祈り、助からずにはおかぬ祈りが、いかに日にちに、この広前に溢(あふ)れ……それが実に大きく、実現されている教会! この事実の証(あかし)が泉尾教会である。いかようなことでもなさせてもらえる教会!

 それは、私がなすのでない。神様がなされるのでもない。信者がするものでもない。信者の真(まこと)がなすことであり、神様の願いがなさしめることであり、足らぬながらに使うていただいているこの私の祈りが、御取次によって、この事実(この素晴らしいおかげ)となって展開されているのである。

 それは、誰がなすというものではない。あいよかけよで、この事実が生み出されるのである。このすばらしい歩みをなす教会から、今度、私が御用を頂いて、外遊をさせてもらうということであります。

 昭和2年1月、この泉尾の地に御用をさせてもらったときに、この六千坪の聖地泉光園を頂くことなど、誰が想像し、誰が判っていたことでありましょうか……。しかも今日、この事実! このご比礼(ひれい)!

 御神願外遊も、戦後、早や3度もさせていただいている。なお、その他にも、いろいろと動き(註:宗教間対話や平和運動など)をさせてもらってきた。社会奉仕活動を通しても、多くの人が助けられてもきた……(註:お話しされている親先生自身感激のご様子に拝察される)。

 この事実! うまく説明できぬがこの事実……。
布教以来の御届帳を繰り、広げてみると、いのちを頂いた者。繁栄のおかげを頂いた者。道のおかげを頂いた人……。幾万もある。しかも、今日、問題となっている個々の救済だけでなしに社会全体の救済、世の中まるごとの救済に対する神様のお働きのすばらしさ、勿体(もったい)なさ……。

 ごく最近では、第2室戸台風被災者に対する神様のお働き、教会の動きも……。あの時も、各地へ救援・慰問と奔走するかたわら、「困っている人は教会へお越し下さい。どんなことでも申し出て下さい。どんなことでもさせていただきます。難儀助けのためにお役に立ちます」と申すことができ……、また、どんなことでも受けられた泉尾教会。させていただいたお教会……。

 神様の偉大さというか、信者の真(まこと)の力というか……。それが、あいよかけよでなされ――取次の働きとして私もなさせていただいたことであるが――どんなことでもなさせてもらえるような教会……。なんという有難い、尊いお教会でしょうか……(語られる親先生が感泣しておられる)。それが、物や金の面だけでなしに、教会信徒挙げての身をもっての被災地復旧のご奉仕活動……。

 しかも、その上に、大阪市の(救援活動支援)要請を「はい」とふたつ返事で受けさせていただいて、やらせてもらえたご奉仕……。

 それも「ただ行った」というだけのものでなしに、「ようもようもこんなことがやらせてもらえたことよ」と言えるほどのもの……。市の係官さえ舌を巻くような働き……。これが泉尾教会の働きとでもいうのか! 働きとか動きとかの言葉で言い表すよりないから、そういうのですが……、この尊さ! この有難さを拝むのであります。

 そういう泉尾教会の働きの中から、祈り出される、拝み出される……。それが私の外遊というものであります。私が行くのでない。泉尾教会が行く! 神様が行きなさる! 全信徒の願いが行くのである。
私は、この有難い、尊いお教会の中でなお、祈られ、守られ、使うていただいている!  
  
 その尊い、有難い足場の上に立って、素晴らしい神様の使者として御用をさせてもらう。それが私の外遊なのであります。

 今日という時代は大変な時代であります。未だかつてなかったと言えるような難儀、問題、危機というか……。そういうものをどう取次がせてもらうのか? 「それを取次ぎ、助けよ。さあ、世界助けに行くのぞ」とのお祈りを頂いて、真っ向からそれと取っ組ませていただく……。それも、私が取り組むのでない。取っ組ませられている。その姿が私であり、また外遊のありのままの姿でもあります。

 外遊に際し、「何か特別な心構えがあるか? 準備はあるのか?」と、よく尋ねられる……。何もない。ただ神様に任せきって祈りの旅をするのみであります。御取次の旅であります。ことに今度の旅(註:日本宗教訪米使節団の団長として、1カ月間かけて全米15都市を巡回し、各地での講演会・懇談会等の集会に参加したアメリカ人の累計は20万人に及んだ)には、大きい使命もあり、代表団一行の責任者の立場でもあるだけに、そこのところをただ、祈りきるのみであります。

 「私のようなものが、やらせてもらって、どういうことができるでありましょうか?」そう神様にお祈り申すと、「やらせてやる。行け!」と神様はおっしゃられる。
それは神様だけでない。全信徒の皆さんのお祈りでもある。

 泉尾教会全体――この有難い、勿体ない教会の願い――が私を祈り出し、拝み出し、しかも、どこに行っても、何をしても確(しっか)と支えて下される。有難いことだと思います。勿体ないことであると、ただ、感泣するのみであります。

 この容易ならぬ有難さ、容易ならぬご使命、お役前とでもいうか……。どうしてこの世界助けの実現が、一歩でも半歩でも歩ませてもらえるのか? そう思うと、感動というか、感激というか、不安というか、言い表せぬ。言葉に出せぬもの……胸に熱いものを感ずる!

「外遊するのに必要な諸準備(註:当時は外貨(米ドル)の持ち出し制限はとても厳しかった)はどうなっているのか?」とよく問われる。私は何も知らぬのです。皆、周囲の人がせっせとやって下されている。関係者というか、これにつながるすべての人や機関がどんどん動いて下される。あらゆる機能が働いて下される。そういう中で、私は日にちの御用、お取次に専念しているのでありますが、呑気(のんき)といえば呑気かも分からぬ。係の者や関係者の人々に済まぬといえば、これほど済まぬことはないが、すべてをお詫びしつつ、私のなせることはただ御取次よりない……。また、(仮に、自力で何かを)しても、ろくなことができぬのですから……。

 繰り返して申しますが、神様が「助けずにはおかぬ」と祈られ、信者は助からずにはおかぬ祈りをもって、真(まこと)から真への道を歩む……。その中で、私は過去34年、使うていただきながら、いったい、どれだけのことをさせていただいたか……。ただ、もう恐ろしい! 相済まぬ! 申し訳ない! と恐れ入っているのです。しかも、これほどの大みかげを頂戴している! この有難い、この尊い事実……。この偉大なるお教会の働き……。動の事実! (合掌しつつ、語られる親先生)

 第1回の御神願外遊(昭和28年、1953年)……。あのローマ教皇ピオ12世に単独謁見した時……。ずっと案内されて、美術品の宝庫ともいえるバチカン宮殿の奥まったところへ連れてもらった時は、「どうなることか」と思っていたが、さて、法王様と面と向かってみると、「世界平和のために、こと宗教人は、今こそ、協力してご奉仕いたしましょう。共にやりましょう……」と、あれほどのことがようも言えたことよと、通訳の神父さんまでが、後から感心するような思い切ったことを言わせてもらった。

 また、今は亡き米国国務長官のJ・F・ダレス氏との会見のときもそうでした。当時の世界政治の立役者ダレス長官を前にして、さしで話し合いをさせてもらった……。およそ想像もつかぬことであった。駐米の日本大使館の人も、「天皇陛下よりも偉いマッカーサー元帥(終戦後は、そんな雰囲気だった)よりもなお偉いダレス長官と、一宗教家の会見なんてとても無理だ」と言われたのに、立派に神様に祈られ、信者の皆さんの祈りによって単独会見させていただいた……。

 不思議というのか奇跡というのか……。神業(かみわざ)でありましょう。
しかも、十分、言うべきことを言わせてもらった。日本のためにも、米国のためにも、世界平和のためにもなることを……。ダレス氏はそれに応えて、「あなたのような宗教人にお会いでき、しかもこのように祈っていただくことは、どれくらい力強い励ましになるかも知れない……。今後もどんどん意見を言って下さい」と感動してくだされたことは実に有難いことであった。

 訪ソの時(昭和32年、1957年)もそうだった。モスクワのクレムリン宮殿の一番奥まった会見室で、時の首相のブルガーニンと核軍縮について卓(テーブル)を叩いて、よくあれだけのことが言えた。祈られ、使うていただいたからこそであった。祈ってくだされ、使うてくだされた神様の……信者の、実に尊く偉大なことでありましょう……。
  
 泉尾教会が、いかにたいしたものであるかということ……。神様が……信者全体が、私の身に、どこへでも付いてくだされ、私の足らぬところを足してくだされている! 祈り支えてくだされている! というこの事実であります。

 今度の訪米でも、ケネディ大統領に会って、どのようなことを言わせてもらえるのか……。なさせてもらえるのか……。また、他の宗教の偉い人と会って、どのような協議、懇談、共同声明を出させてもらえるのか……。

 私個人などは、問題にもならぬ取るに足らないものである。だが、それは、三宅歳雄という個人である。しかし、御用に使うてもらう私は違う! 神様の使者としての私――幾万の信者の方々の祈ってくだされる私――が、どれくらいまでに素晴らしいことをさせていただけるでしょうか……。
  
 また、この尊い教会の働きが、どこまでも私について来てくだされる……。その祈り、お働きによって、ケネディ大統領らにでも、きっと堂々とお話ができ、何かの成果が得られ、現代世界の危機打開についても、必ずやその糸口、端緒を見出させてもらえると確信いたしています。

 世界の難儀助けと取り組み、世界取次が、今こそ、神様にしっかり使うていただき、させていただけると思います。それを思うと、感激にむせぶと共に、いよいよ、ご使命の容易ならぬを痛感しつつ、訪米の祈りの旅に出立する決意であります(お話し終わって、なおしばらく合掌ご祈念していられる親先生……)。

         (第4回御神願外遊壮行式での教話  昭和36年10月26日)

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