★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★


先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より

『聞かぬ氏子を助ける取次者の道』

 生活の全面に、特に経済の面に、大みかげを頂かれた皆さんたちに、「おめでとうございます」と申しつつ、私の取り組んでいる問題を聞いていただき、皆さんたちの今年の信心の進め方として申し上げたい。

 取次者として歳月を重ねて34年……。いよいよ取次者(註:氏子の願いを神に取次ぎ、神の願いを氏子に取次ぐ――人の助けられてゆく道を明らかにし、それが実際に氏子の生活に顕れ、現してゆく……。おかげを蒙(こうむ)ってゆく……。人が助けられてゆく働き)の容易ならぬことを判らされ、ただ、祈り……悶(もだ)え……求め……なお、祈り続けている現状である。

 いたらぬ取次者であっても、たくさんの人々が助けられている。「ないいのちを継いでいただいた」と泣いて御礼を申してくださる……。生活の一新を感激して語る氏子がある。「一家全体が明るくいきいきして暮らせるようになった」と御礼を申してくださる……。有難いことである。

 取次者に御礼を申されるが、それは皆、神様のお働きである。でも、百人の内に一人……、千人の内に一人でも、病苦に……、経済に……、家庭苦に悩む人があれば、それが取次者の悩みである。

 「苦」……。問題を願うて来る氏子の中に取次者がある。

 氏子と共に問題を問題として、神に願い縋(すが)り、助けられる道を祈り……求め……語る……取次者。

 氏子は救いを求めるが、問題を十分に問題にしてくれぬ……。願い方も十分でない。話も十分聞いてくれぬ(道を求めてくれぬ)。その実態そのままがまた、取次者の場でもある。

 道を説くだけならば……、歴史を語る(おかげを受けた人の話を語る)だけならば誰でもできる。でも、それだけでよいとは思えぬ。また、その説き方も自分には、不十分である。

 どうしても助けられる道を歩んでもらい、助けられる証人(あかしびと)になってもらわねば、取次の働きがなされたといえぬ。

 そこで悩むのである……祈るのである。足らざるを判らされ……、求めに求め、祈りに祈り、行じに行じて、なお、解ってもらえず、助けられぬ実態に出合い、いよいよ自分の足らなさが、明らかにされてくる自分である。

 昔から、「偉い宗教者が人を助けた」と言う……。むろん、それは事実であるが、たとえ百人に一人か、千人に一人か助けられなかった人があるとすれば……、それをその偉い宗教家がどうされたか。なお、問題多き人々の悩み・問題をどうされたのであろうか。と求め尋ねる自分である。

 縁なき人……、道を聞かぬ人として、捨てておいたのであろうか? そこのところをどうされたのであろうか? そこのところをどう取り組まれ……祈られ、悩まれたかが判りたい。

 しかも、現代は、人類が未だかつて経験せざる問題に出くわしている時代である……。誰もが、そのことは承知しているところである。

 その現代を……その現代に生きる(現代に投げ込まれている)人間の問題を……、どう解明し、助けていけばよいのであろうか。

 宗教は昔のままの教えで良いのであろうか……。悟った(頭で、知で理解した)だけのものを説き語るだけでよいのであろうか。それで今の問題が解決されるのであろうか……。

 経済の素晴らしい発展成長だけで、それで酔うておってよいものであろうか。ただ表面上の都合の良いことを、良いこと――おかげを頂いたこと――として、安住しておってよいのであろうか……。

 おかげを頂けば頂くほど、真剣にそのおかげの内容――おかげの中に内蔵されている幾多の問題――を問題として、なお、祈り求めていく歩みをせねばならぬのではありますまいか……。

 おかげの中に包まれながらも、じっと自分を……家族を……事業を見つめてみる時、容易ならぬ問題のあることを見出すのではあるまいか……。

 今、恵まれているということが、次の瞬間にどうなるのであろうか……。一寸先が闇である……。判らんのである。

 良いことが良いと言いきれず、悪いことが悪いと言いきれぬ。その次に出くわすことによって、良いことが、いよいよ良いことになりもする。また、悪いことにもなる。また、悪いことが良い運びの根になることもある。

 だから、その時のことが、その時のことで決められぬ。次に出遭(あ)うことに良い繋がりとなり、良いものにならねばならぬ……。いかなることに出遭うとも、出遭うことによって、より良きものが生み出されてくることにならねばならぬ。

 助けられるということは、助けられたという、ひとつの事実だけでなく、助けられることが持続してゆくことが、助けられる営みである。

 それを思うと、取次者という場は、いよいよ容易ならぬ場であり、じっとしておられぬのである。特に今年に課せられた世界の、日本の問題から来る個人の問題を思う時、本当にジッとしておられぬ感に迫られるのである。

 ただ、日にちの生活を楽しんでいくというだけでなく、あらゆる問題に真剣に取り組み、その根を掘り下げ、その問題を明らかにし、助けてもらわねばならぬ。

 その問題――人間が生きてあるという問題――いよいよ良い生き方を進めていく問題……。と同時に、表面に現れている問題――米国の新しい外交方針から来る問題。ソ連・中国の躍進と世界政策から来る問題。第三世界諸国の自覚から来る問題と、その諸国を自らの陣営に取り込むためにしている米ソ両大国の経済援助競争から来る問題。これらのすべての問題が日本に及ぼす問題。われわれ個人にも及ぼす問題等に対しての対処――受け止め方――進め方をわれわれ信仰者も問題にしていかねばならぬ年である。

 それを思うと、いよいよ一瞬一瞬に取り組み祈り、恵まれてゆかねば、どうにもならぬ実態! そのことをハッキリと判り、そこへいのちを張ってゆかねばならぬ。そのことが信心であり、信心にいのちを張って行ってこそ、本当に助けられるのである。

 そこのところを十分に解られて、皆さんたちもひとつ、新しい生活――新しい信心の一歩を歩んで下さい。「今までこうしてきたから、今までやれてきたから」という場を改めて、新しく一から出直してもらいたい。

 それは、今申した、表面だけの……一時的な良さ、楽しみ、享楽、その日暮らしの日々でなく、人間の生きてある――生かされてある人間……自分の本当の生き方――生かされ方を常に見つめ、神様の偉大さ、ご慈愛の強さ、深さ……、神様のお守り、お祈りが一瞬一瞬この身を包み下されているを思い、自分の周囲にある人々の問題をも問題として、聞いて聞いて聞きぬき、求めに求めて、ひとつひとつ道を明らかにし、自分を正し清め、人も喜び自分も喜べ、共に共に勇み合える生き方を無条件に進めてもらうことである。

 そこに素晴らしい助かりが展開される……。素晴らしいおかげが拝め、自分が拝める……。すべてが有難い大みかげに包まれることと確信する。

                     (新春教話・昭和36年1月1日)            

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