★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★


先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より

『願いに生きよ ――氏子あっての神の意味するところ』

 神様の願いを受ける……。
「神様の願いを受ける」ということは、自分の願っている願いを実践していくということである。自分の願いを実現していくこと……。そのことが神様の願いである。
自分の願いを実践・実現していくには、好き候(そうろう)していてはできぬ。寝たいときに寝、起きたいときに起き、したいことをしているようではできぬ。念願を成就するためには、誰でも、容易ならぬ壁を打ち破り、困難な坂を越えてゆかねばならぬ。自分の願いを打ち立てて「ああもしよう」、「こうもしよう」と勇み祈る。そのことを実践・実現していくことが、神様の願いでもある。

 「宵の朝起き」誰でもする。寝る時は、誰しも「明朝、起きよう」と思う。
「よし、明朝からシッカリとやろう!」と言う……思う。朝になってみて、どうも起きられぬ……。人にやいやい言われねば起きぬ。昨夜の決心も祈りも、一夜で消えてしまう。

 起きられぬというだけではない。「その起こし方が悪い」とか、なんとか言って毒づく。「もう起きる気やったのに……」と、そんなことを言って、逆ネジを食わす。これが実態である。

 神様が、助けたいと願い……助かってもらいたい頼み……。
皆様たち、夫婦の間でも、親子の間でも、判るであろうと思う。一方がハリキッて「おかげを受けてもらおう。蒙(こうむ)ってもらおう」と意気込んでも、相手方に受けてもらえぬと、どうにもならぬ。それが悩みにもなる。それが神様のお悩みでもある。
それを、お互いは、「おかげをくれぬ。自分にはおかげは授けてもらえぬ」と言う。自分の受けようとせぬことは言わぬ。自分の勝手気ままな実態を問題にせぬ。それこそ、手のつけられぬ自分であることを判っていぬ。
よく、「そんなことはやれぬ」と言ってしまう人がある。すぐに、お互いは、「そんなことはできぬことである」と、割りきってしまわれる。それは受けられぬ自分の姿である。

 やらせてもらえる……。できなければ、投げてしまわずにもう一度、新しい出直しをしてみる。60歳の人でも、もういっぺん最初の場――ゼロの場――から考え直し、出発してみることである。グンと家計を引き締めてみる。思い切って、すべての格を下げてみる。それくらいの決意で、「ここぞ!」とお仕込みいただく。祈り、行ずる。それでなければ幸せへの道が歩まれぬと思う。おかげは受けられぬと思う。また、お互いの願い――神様の願いでもある――も成就されぬのである。

 受けさせようと願い頼まれる神様……。その願いを受けられぬままに皆さんたちは願いを持っている。その間に立つ取次者の私として、そこをひとつひとつ自分の内容として頼み、願いを受けて、自分のあり方、御用の頂き方、進め方を、日にちに祈って祈って、検討させていただいている。

 神様のお頼み、皆さんの願い実現が、私の願い、私の頼みであり、私のいのちでもある。皆さんたちの難儀・苦難・問題は、そのまま神様の難儀でもあり、私の難儀でもあると同時に、そのことのおかげになる願いが、私のいのちであり……神様の願いでもある。
  
 私のいのち……。それは、皆様方と同じいのちではある。いつかは死ぬ。死なねばならぬという約束の取りつけられているいのち……。けれども、私のいのちは、こういういのちであると共に、今日こんにち、生かされ生きているいのち、助かってもらいたい願いに満つるいのちである……。
その助かりが日にちに実現されていくことを喜び、いよいよ助けられていく運びにならねば、神様も皆さんも私も助からぬのである。

 難儀が難儀のままで困っている……。苦難が苦難のままで悩んでいる……。問題が問題のままで沈んでいてはどうにもならぬ。困って困らぬ道歩み……、悩んで悩まぬ祈り……、沈んで沈まぬ勇みを、祈り出していく道づけをし、そこを実践していかねば助からぬのである。

 そのところは、いくら私が言うても、実際にやってもらわねばどうにもならぬ。言うこと、聞くこと、判ること、行うことが、ひとつになる運びにならねば、助かりの実現にならぬのである。「助かってくれよ」の神様の頼みを受けて、生活全面に勇みをもって共に歩む以外にないのである。

 それが受けてもらえぬから悩む……。ただもう、助かってもらいたいと鬼になって行じぬき、祈りぬき、願いぬいている私である。

 「人が助からねば、助からぬ」とおっしゃる神様に、「どうでも助かってもらおう。助かってもらいたい」という願いで満ちている取次者の私である。それが私の願いであり、私のいのちである。

 私という人間は、形はこういう形をしていても、それは形でなくて、願いである。願いそのものともいえる。
    
 先日、あるご信者の夢を見ました。その夢の姿と現実の私の姿とは違う――矛盾している。夢が醒めて「ああ夢で良かった」と思うた。その夢というのは、解ってもらえぬ、受けてもらえぬ信者を、泣いて鞭を打っている私……。
「そこが受けられねば……、そこを解ってなんでも祈り勇まれねば……、あなたが助からぬ!」と、泣いて鞭打った……。目が醒めて「ああえらいことであった……。夢であってよかった……」と、ホッとするのである。
そんなことを言っても、その人には容易に受けられぬところかも判らぬ……。人間の弱さ、人間の狡(ずる)さがある。
人間とは、そう簡単に受けられるものとは思えぬのである。そのことをよく判りつつ、それが夢に出てくると、そうなる……。よくよく自分が承知しつつも、なお、それが思いつめてか……、今、言うたような夢になる……。
醒めてみて、自分に翻(ひるがえ)して「その人は、もう長生きしてもあと二十年……。その20年の間に、その人を自分がどれだけ祈らせてもらえるのか? その人の改まり、助かり、立ち行きのためになさせてもらえるのか……。この私が……」と考えさせられた。同時に、その人の周囲や、その人の死際(しにぎわ)のこと、死んだ後のこと、いついつまでも、その人のことを、後々(あとあと)万事のことを、祈らせてもらわねばならぬ、この私が必死になって行じ、詫び、足らぬところを足させてもらいゆかねばならぬことを、よくよく分からせてもらったのである。

 たとえ、自分が七転八倒して行じても、その人が受けて下さらねば、七転八倒している私の場がみなゼロになってしまう。どれだけフラフラになるまで行じさせてもらっても、相手がそこを問題にして下さらなければ、これもまた、どうにもならぬことである。そこを、噛みしめ噛みしめ、いよいよシッカリする場が私の場でもある。と共に、常に相手の中に、自分のあるを知り、また、新しくゼロの場から、出直し、祈り直しているのである。それが、私の役前であり、また、教会の働きであると信じている。

 苦を苦とせず、そこから新しいおかげを生み出して行く……。問題の中から、よりよいお育てを頂いてゆく信仰者――おかげ人――となってもらわねばならぬのである。
  その人が死んだ後でも、おかげとなって、後々の人に現れ、その子、その孫の助かりが、その霊様の安心することであるから、いよいよそのことを祈り続けて行くことが、泉尾教会の祈りであり、私の願いである。
  それが教会の働きだと思う。霊祭でも、ただ霊様をお祀りするだけでなしに、その見えぬ世界のもの――霊様――が、見えている現在のもの――子孫――にどう現れるか? 即ち、子供の助かりが霊様の助かりである。そのおかげをどう祈り出し、拝み出すかという祭であり、そこの実現、展開を祈りに祈って仕えさせていただいたことである。
 
                  
 よく、高名だった先生の弟子が集まって、「あの先生は、こんな偉いところがあった。あんな立派なところがあった」と、話し合う。
それも大切だと思う。だが、一番肝心要(かなめ)のところを忘れているのではあるまいか……。
  それは、どれほど人を祈ったのか? どれだけ氏子の難儀と取り組んだか? どれだけ弟子の育てに苦労されたか? という、一番、生きたいのちのところが話し合えておらず、掘り下げられておらずに、称えごとに終わっているように思われる……。
それは言葉で言うたり、聞いたりでは解らぬところかも判らぬが、その先生のお祈り、そのご苦労が、現在どう生き、どう自分に働いているかということが問題である。
神様の氏子を助けたい願いや頼みも、現在の自分にどう頂いているか、今後どう頂き、現していくかに、助かりがあり、いよいよ助けられて行く道があると思う。

 皆様方を救う……。皆様方に助かってもらうには、本当に助かってもらうような線を歩んでいただかねばならぬ。そこのところを神様が頼んでなさるのである。そのことがいかに難しいところでも、助からねば、否、助かってあげなければ、神様が助からぬのであるから、肚(はら)を決めて、今の助かり、今後の助けられていく道を祈りつつ、歩んでいただかねばならぬ。

 広大無辺の神様を現すのはお互いであり、そこにこそ、お互いの助かりがあるのである。「氏子あっての神」と仰せられるところを、よくよく分かり、「神あっての氏子」の道を、日にちに生活の全面に頂ききらねばならぬのである。

 人の難儀を助ける。その実現のために、「天地金乃神を助けてくれい(『立教神伝』)」と仰せられる。それが、この道の有難さである。
  
 人の難儀が「助かりさえすればよい」の神様の願いが教会であり、そのお頼みの実践・実現が教会の働きである。その教会に縋り、助かりを頂くのが皆さんであるから、おかげが頂けるように仕組まれていることを、よくよく分かってお骨折りを続けてもらいたい。この教会では、「親先生を助けてくれい」と言うのも、そこである。そこのところを皆様方めいめいが気付いていただきたい……。

 「自分の助かりに真剣になること。一寸(ちょっと)のこともよい加減にせず、投げず、捨てず、いよいよ取り組み、問題にしてゆき、いよいよおかげを頂いてくれよ」と頼まれている親先生を分かっていただきたいのである……。その事が不十分で、自分自身を掘り下げもせず、愚痴を言い、理屈を言うているから、それでは助からぬ……。そんな助からぬ道歩みをせずに、なにとぞ、助かって下さい。この願い頼みを受けて下さらねば、親先生が助からぬと頼んでいなさるのである。

 相当、年齢(とし)をとって、子供が一人前になって、孫もできて……親の願いが解らず、自分の好き候(そうろう)にしている子夫婦の姿を見て、初めて、そこのところが判って来るのではないか……。気がついたときは、もう手がつけられないのではないか……。なんと困ったことである、これでは先々心配である。「なにとぞ、シャンとしてくれ。親の苦労、親の思いを解ってくれよ」と頼むことになる。でも、その困ったことを頼む親も、頼まれる子も、両方が困ることになるのである。この両方の関係性が判れば、「氏子あっての神、神あっての氏子」の道の立ち行き方も判ると思うのだが……。

 そこを真剣に問題にし、困って困らぬ祈りと勇みを持って取り組んでもらいたい。そこから必ず道が開けてくるのである。
経済でも、「なんでこんなに困るのであろう……」と、他に問題――困りの根――を探すのでなく、自分の足らぬさを掘り下げてもらいたい。「ああ皆、自分である! 自分の足らぬところである」と、生活の一大刷新もし、借金払いだけでなく、天地の借りを返してもらいたい。そのことが、いかに困難であっても、そこから這(は)い上がれる道がついて来ると思う。たとえ、七転びしても、八起きできると思う。

 どうぞ、皆さん。日にちの生活の中に、「幸せになってくれよ」との神様のお願い、お頼みを受けて、幸せへ幸せへと歩み行く。その歩みをば歩み続けて下さい。「この壁がどうにもならぬ……。ちっとも幸せになれぬ……」という時もある。

 「疲れ果てて、もう一歩も行けぬ。歩めぬ……」という時もある。そこを祈って祈って行く。行かせてもらう。神様のお頼みの声、願いを聞きつつ、元気を頂くのですよ。腹が立つこともある。愚痴になることもある。その愚痴を、不足を、一言一言、掘り返し掘り返し、他を咎(とが)めず、自分を育てて、「なんでも!」の一心の祈りの生活を続けて下さい。それが幸せへの道である。

 神様が「助けたい」と思われる。その願いをお互いがよう受けきれぬから、お互いも、神様も悩むことになる。神様の願いとは、特別にあるのでない。お互い、めいめいの幸せ、助かり、立ち行きの中にある。それ、そのままが神様の願いである。そこをお互いが、シッカリと実践していくことである。一寸(ちょっと)でも、一歩でも、歩ませてもらうことを神様が願っておられる。そこを忘れてはならぬ。

 私が助けられること、そのことが神様の助かりである。皆様方の助かりが、そのまま泉尾教会の助かりである。私も、泉尾教会も、そこへ、全てを張って、打ち込んでいるのである。そこを十分に分かって下され、おかげを蒙(こうむ)って下さいませ。

(ある日の教話・昭和37年4月)

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