先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より
『神われと共にありの信念を持て』
ただ今、ご神徳のままに、ご大祭を有難く仕えさせてもらいました。誠に有難いことであります……。われわれは今こうしてご神徳につつまれて感激いたしておりますが、今日、社会全体の実態というものは、どうでありましょうか?
今、この時に、病院は患者で満員でありましょう……。中には、今、臨終……という人もありましょう……。悲しみの涙にくれている人もあるでしょう。また、幾人かの人が交通事故で即死をしているかも知れぬ……。また、幾十人の人が怪我(けが)をしていることでありましょう……。いろいろ雑多な難儀や問題が山積し、展開されているといえましょう。
日本全体から申しますと、今、問題になっているのは、経済の問題である。それも、一寸(ちょっと)表現できぬ不思議な状態……。それが今の日本の経済の姿である。池田(隼人)さんが総理になって直ぐに、「十年後には国民の所得を倍増させる」と宣言された。確かにそれ以来、グングン日本経済は成長してまいった。だが、日本経済が発展成長しているといいながら、昨年秋頃から今日まで、日本経済は非常に不安な姿に置かれている。それが現状なのである。
それから、今日の世界はどうでしょう……。今も、祝詞(のりと)で申し上げたように、キューバの問題が大変なところまで来ている。今にも、核戦争が起こるやどうなるやら判らぬ……。米・ソともに秒読みをしている状態である。
今日、お昼十二時のニュースでは、「未だ米国の艦船がソ連の船とは出遭ってはいぬ。おそらく、七、八隻はどこか中途で止まっているのか、方向を変えたのか。だが、他の十何隻は、依然としてキューバに向かって進行中」と言っているのであるから、事態は急迫しているともいえよう……。
それなら、「問題はキューバだけか」というと、そうではない。ベルリンでもいつ何時、火が点くか判らず、中国とインドとは、今、現に国境紛争を戦っている……。どれひとつみても容易でないのである。
その中に置かれているのが、今日のお互いであるともいえる。
他方、科学技術の上で見てみると、今まで想像もできなかったような有人宇宙船が次々に打ち上げられる……。人の乗った宇宙船が、この地球を幾周りもし、月世界への探検も時間の問題となった今日……。
一方では、世界人類の反対の世論を押し切って、米・ソが核実験をし続けている。そういう場で、このご大祭を頂いたのである。
そのような大変な状況下で、お互いだけ、ご大祭を頂き、「有難うございます」と感謝し、喜びに浸っておってよいのでありましょうか……。何かそこにお互いの使命というものがないものでしょうか? われわれとして、たった今、おかげを頂き、「有難うございます」と申し上げた。そこから、どういう生き方をさせてもらえばよいのか……。現実の厳しいいろいろな問題を脚下に踏まえて、そこを、どう一歩踏み出せばよいのか……。
このご大祭が、皆様方ひとりひとりに何を命じておられるのか……。皆様方だけでない。この私にもである。お互いに「何をどうせい」と、このご大祭が命じていなさるのか……。そういう場から、皆様方に聞いていただきたいと思うのである。
信心……。よく、「信心をするのはよいが、信心凝りをするな」などといわれる。「信心するのはよいけれども、信心凝りはするな」という。何故なのであろうか? そういうことがあり得ることか。あり得るとすれば、その信心は、それでよいのか? 皆様方に解ってもらいたい信心とは……、私は「働くことが信心である」と信じている。
めいめいの場において、めいめいの立場立場でのそれぞれの役前――仕事――がある。それを一生懸命になしていくこと。それが信心であると思う。どうでしょうか……。これなら、凝りすぎて困るでしょうか……。
めいめいの仕事・役前に一生懸命になる……。凝りすぎてもらいたい。また、それより以外に、人が幸せになっていく道はないと思うのである。
日本の国は、今、世界中から注目されている。十七年前の敗戦(昭和二十年)で、木葉微塵にやられた。一億国民が皆、餓死するかというところまで行っていながら、十数年の内に、これほどまでに経済が進歩・発展してきた。世界中の国々が驚歎している。その理由は何であるでしょうか?
それは、ひとつに、日本人は勤勉であったということがある。
あの苦難の中から、今日の繁栄を働き出したのである。それは歴代の総理がなされたのでもなんでもない。政治は実に貧困であった中で、勤勉な日本国民が、この繁栄を働き出したのであると思う。
それなら、神参りをせんでもよい……。めいめいそれぞれが、その立場立場に立って一生懸命に働いてさえすればよい。わざわざ神参りせんでも、自分のいるところからご拝さえすればよい。ということも言える。それでもよいとも言えるが、人間はなかなか、そういうように――思うように――動かぬ……。勇みをもった働きにならぬ。
だから、生き力を頂くために信心をするのである。現に皆さんが、ご参拝され、有難いご大祭を頂き、お話を聴かれている。この中からいきいきとした生き力……新しい働き力を頂いているのである。
お互いが仕事を一生懸命やっていると申しても、そこに、どこか怪しいものがあるのではないでしょうか……。お互い、めいめいの生活の中に、どこか不確かなものが、不安なものが潜んでいるのではないであろうか。
一番にそれを感じさせるものは、現代世界不安から来る脅威である。また、今日の日本の社会状態がそれである。繁栄生活の中での複雑な動きの中での不安定――不安――がそれである。
これほど繁栄している社会……。それに総理は悩んでいる。経済成長でも、ウンと成長したはずであるのに、社会の実態はガタガタである。これはいったいどういう訳であろうか?
金はできても、人間ができなければ、どうにもならぬということが判ってきた。設備投資で工場は整ったのに、働く人がない。働く意欲が欠けてきている。だからといって「働けさえすればよいのや」といって、よい加減であってはならぬ。要は人間の問題である。そこに気付いてきた。だから、池田首相も「人づくり」と言い出してきたのである。
政治家が「人間づくり」というようなことを言うのは、本来おかしいことである。本当に妙なことである。政治家が法律や制度をどうこうするのなら解るが、人間をどうこういうのでは合点(がてん)がいかぬ……。
人間をつくるということは、教育家か宗教家の仕事といえる。それを政治家が言っている……。それが今日の日本の姿である。逆をいうと、それは今日の教育家・宗教家の責任でもあろう。でも仕方がない。今日の急務は人間づくりを第一にすべきである。それなら、どうした人間をつくるのか? 政治家は人間づくりをどう考えているのか。そこにも、難しい問題が残されている。
いずれにしても、どんな施策を推進するにしても、要は、いきいきと働き、そこにいきがいをもって打ち込んでゆく以外にない。
しかも、その働きに何か付け加えねばならぬ。その働きの土台をもっと清めねばならぬ。それも政治家のできぬところである。信仰者のわれわれがそれをなし、示さねばならぬのである。
一生懸命に働いて得た財が、調子に乗って度を越した投資ブームを……、レジャーブームを生み出して背伸びしすぎた。だから、国際収支が悪化し、人心が緩みきってきた……。そのためにピシャッと引き締められた。
その引き締めが今に及んでいることは事実である。相当、お互いの生活の面で苦しくなっている。だが、そのおかげで、昨年に比べて経済面では、今年は非常に変わってきた。でも、人心の緩みは正されておらないから、根本の問題が残されている。
国際収支が立ち直ってきた。だが、まだ国内面は不安定である。だから、まだまだ安心ができず、楽観は許されぬ。基盤の整っていない日本経済は、今こそ真剣になって掘り下げ、努力すべきである。
今、日本人は、どこへ行っても「旅行、旅行」と言っている。観光シーズンには時季はずれであっても「旅行、旅行」と旅行ブームである。夏といわず、秋といわず、冬、春といわず、行楽地は年中、旅行客で一杯である。
何がこうさせるのか……。サラリーマンが金を持っているからである。昨年の暮頃から今年にかけ、どれだけ会社が困っておろうが、サラリーマンだけは、月給が上がっている。
たとえ、事業収益が下降していても、働く人のサラリーは下がっておらぬ。ドンドン上がっているのである。社長はフウフウ言っても、社員たちは楽にやっている…。そこに矛盾がある。
しかも、その上、三万円の月給をもらっている人が六万円の生活をしている。「親先生そんなことありません。三万円しかないのに、何故六万円の暮らしができるのですか?」という。確かに、三万円しかもらっておらぬ。だが、六万円の生活をしていることも事実である。なぜかというと、月賦で買っている……。月賦でテレビを、冷蔵庫を、もうすぐ車を買い出すだろう。月賦生活……。だから、三万円の月給取りが、六万円の生活をしているのと同じである。
消費生活……。消費経済が今日の日本経済を支えているとも言える現状であるが、まだまだ日本の経済は、そこまでは豊かになってはおらぬ。その上、国際収支がたとえ良くなっても、世界情勢(経済情勢や戦争等)の変化によってはどうなるか判らぬ。
自由競争の時代に、真(しん)に日本製品の品質を良くして、世界市場で立派に競争に勝っていかねばならぬ。
そこで解ってもらいたいことは、ただ、利己のため――一時的利益のため――の働きでなく、子孫繁栄、末々まで続く繁昌の根となる働きを打ち立ててもらいたいのである。そのためには、一生懸命に働くと同時に、自分づくり(人づくり)に努力すると共に、神様にお祈りして、全てに恵まれねば、人間の真の幸せが得られぬということを解ってもらいたい。
どうでしょう…。一生懸命働いておっても、十二月の中頃から病気をして入院…。費用も要(い)る。皆が心配する……。それで一年の働きがおしまいだ。一年中の努力、骨折りが消えてしまう。働きは信心である。働きはお互いのいのちである。人間として実に尊いものであると共に、その働きの中で、いよいよ恵まれていかねばならぬ。そうすると、祈りというものが、実に大切だということである。
今、祈りと働きを分けて申しましたが、私は、働きそのものが祈りであり、祈りそのものが働きであると信じている。
祈りと働きが別のものであってはならぬ。働きの中に祈りが、祈りの中に働きがある。そのことを解らせてもらうことが信心である。そのことが頭の中で解るということでなく、そのことを実演していくことが信心である。
一生懸命働いている人は……わしが働くということになって、祈りが消えてくる。一生懸命に祈っている人は……神様に頼りすぎて、つい、働きのほうが鈍ってきがちであるが、そこの難しい兼ね合いのところを、日にち働きつつ人間の力の限度を判らされて、祈り、神様にお縋(すが)りしつつ、自分のできる限りの努力を続けていくことを、日々稽古(けいこ)していくことが信心の歩みであり、その意味での働きに、祈りに徹しきってもらいたいのである。
そのことによって、お恵みが積み重ねられ…、おかげが積み重ねられて、ひとつひとつ幸せを積み重ねていくのである。また、そのことをひとりでも多くの人に判ってもらい、よい社会を作り、立派な国づくりのお役にも立たせていただきましょう…。その使命がお互いにあると思う。
たった今、祝詞(のりと)でも申し上げたように、参拝している人をはじめ、参拝いたしておらぬ人、なお、信心しておらぬ人にも、それぞれ助かってもらいたい。幸せになってもらいたい。「その生活がいきいきしてまいり、いきがいを感ずる楽しい喜びの生活がなされるように」と祈らせていただいたのである。
皆様方も、その願いを十分に生活の全面に受けていただき、明日からの生活を新しくいきいきとしたいきがいをもって働きぬいて下さいますよう……。なお、いかなる難儀に出遭うとも、その難儀にめげず、いよいよ祈り励んで下さい。そこに「神われと共にあり」の信念が頂け、その信念によって、いよいよ明るく強く、働かせてもらえると信じます。
そうした信心生活から、すべてを大みかげにして下されることを祈りつつ、私の話を終わります。
(秋の大祭での教話・昭和37年10月25日)