先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より
『不可能なしの場に立て』
信心させてもらいます者には、不可能はない。「これはできぬ」ということはない。この強い信――一心・祈り・信念――を持たせてもらうことが一番大切である。
でも、事実、世の中には、「これは不可能」、「これは手がつけられぬ」、「これは到底できぬ」ということが相当ある。それに悩み、困り、苦しみ、悶(もだ)えていることも事実でもある。
けれども、お互い信仰者の生活は、人間以上の力――天地を生かしてなさる偉大なる神様、神様のお働き、御力(みちから)――を信じ、それに頼り、縋(すが)り、その働きに、その御力に生かされて生きてゆく生活をさせていただいているのである。
必ず助けて下される。必ず守って下され、必ずよいはこびにしてもらえる……。そのことを本当に信じた生き方――生活の仕方が信心であるから、不可能はあり得ぬ。できぬことのない有難い生活がさせてもらえるのである。
いかなる難儀に出遭うとも、腰を折ったり、困ることがあり得ぬ勇み、生き力を頂くことが信心の姿である。
その明るい生き力を失うことは、縋り方が足らぬのである。打ち込み方が足らぬのである。祈り力が失われているということである。
どうもお互いは、未だ本当に神様の有難さ、偉大さを十分に判っておらず、それを受けて――それを頂いて――のお互いのあり方、生活の進め方が十分になされておらぬように思えるのである。
神様のお働き、お思い、願い……。「なんでも助けたい」、「助けずにはおかぬ」思召しを自分の生活に頂いての進め方……。「なんでも助けていただこう」、「助からずにはおかぬ」という祈りの生活――勇みの生活となって現れておらぬように思える。
例えば、今から二年前でしたか、世界の宗教学者が集まって、日本で国際宗教学会がありました。そのときに、ある学者が、ずーっと日本の宗教を視察されて、「日本にはたくさんの教団がある。神社仏閣も多くあるが、日本ほど信仰のない国はない」と、こういうことを言われたとか……。
これは「日本にはたくさんの宗教施設はあるが、日本人は宗教心が非常に希薄である」ということを言われたのではないかと思うのですが、本当に考えさせられることである。
先に申したように、神様を信ずるということは、宮・寺・社といった形のものでなしに、真(しん)に神様の偉大なお働きを自分の生活に受け止めること……。神の願いを自分の願いとし――自分の願いを神の願いとする生き方……。生かされて、生きてある……。生きてゆく……。いきいきしてゆく……。自分の生活がいきいきと展開されていくこと。そこに初めて神様の偉大さがあり、そのことによって神様の偉大さを解らせてもらえることになる。こうしたいきいきした生き姿の中に神様を信じる営みがあるのである。
神様の偉大さが自分の生活に生かされ、自分の生活が力強くいきいきしてゆく……。その営みの中に縋り、祈り、信念が頂け、強められてゆき、そこに、「不可能なし!」と、全てを受け止められ、鮮やかになしきり、こなし得る道がつき、おかげを頂くことになるのである。
それを、お互いの日にちの生活の中で実践し、実証してゆき、しっかりと自分の生活の中でいよいよ確かめられてゆくことが信心の稽古(けいこ)である。
なんといっても、現代の複雑な難儀に満ちている人間社会の中で、生きているお互い、どんなことに出遭うても、常に「われに不可能なし」と、いきいき生ききっていくことのできる生き力を持たせてもらうことが、幸福な生活を進めていく第一条件であると思う。誰もが生きている。監獄の中でも生きている……。病院の中でも生きているのである。どこでも生きている。だが、その生き方が問題である。
貧しい人もある。また、富める人もある。けれども、貧しさは貧しさで不足があり、富めるは富めるで何か不足不安を持ち、その立場は違っても、助かっておらぬことは事実である。いきいきとしておらず悶々(もんもん)としているところ……、その生き方に問題がある。どんな場においても、いきいきと生きていく……。そうして、自分自身がいきがいを見出して感激の生活を送れるか? 自分の大きな願いを持って、それに生きぬき、いきいき果たしぬけるか? それを、なにとぞ、しっかりと解ってもらいたい。と共に、その信心生活を打ち立ててもらいたい……。
今も熱心に信心されているAご夫婦のことでありますが……。たしか、昭和二十二、三年の入信で、そのときご主人は三十六歳、ご家内は三十二歳、お子さんは八歳でした。夫は鉄工所の職人として働き、ご家内も家で駄菓子店をされ、なりふり構わず、その日暮らしの生活で、お家もたしか六畳一間と店のあばら屋であったと記憶している……。子供さんも病弱で非常な困窮の只中であった。その難儀を助けていただかんものとご家内が入信され、助けられる道は、「難儀の中で沈んでおらずに、一心に神様に祈りつつ、勇みの生き方をされるように」と教えられて、その日から生活の進め方を一変されて、助けられる明るい願いを持っての信心生活を始められた。
すべての難儀をお取次ぎ願い、心配や不安を神様にお任せして、一年間打ち込んだ信心をされた。御教(みおし)えも懸命に聴かれた。おかげでその一年間、これまでは家の誰かが必ず医者にかかるか薬を飲んでおったのが、すっかり医薬と縁切りするほどに皆が丈夫になり、経済にも幾分の余裕を頂け、一年前とガラリと変わった明るい生活が展開されるようになった。
その頃から、子供さんも参拝され、子供会にも入会……。明るい元気な子供になった。ご主人も非常に喜ばれ、ご家内のお道引きで入信……。一家揃って参拝をされるようになり、それから一段と家が明るくなり、生活の勇みが加えられるように変わってきた。ご夫婦揃って御教えを頂き、日にちに、強いお祈りを生活に生かし、取次の願いを受け、いよいよ明るい願いのもとに、一心に勇みの有難い生き方をされ、生計の上にだんだんと余裕を持つことになってまいった。月毎に非常なおかげを頂かれたのである。
ご主人は、願いを立て、取次に縋られ、自分も「なんでも独立のおかげを頂き、小さい工場でも持たせて下さいませ!」と祈られ、一家揃っての打ち込んだ勢信心がここに展開された。そして入信五年目(ご主人が信心を始めて四年目)に、小さいながら家の新築をさせてもらい、二階が二間、階下に工場を作り、そこをおかげの場として夫婦一心になっての一新信心をなされ、いよいよ神様と共に働き……神様の番頭としての信心生活が展開され、有難いことであった。
一職人として働きに出ているときは、ただ自分一人が一生懸命に働いておりさえすれば一定の収入が得られるのであるが、小さいながらも独立して事業を始めるとなると、たとえ一人の職人でも使う難しさと、その仕事を得るのにひと苦労である。
運営面(営業、集金、資金繰り)で大変なことであったが、どんな苦労・難しさの中でも、お取次を願い、祈られ、励まされて、勇みと努力を新たにし、実に拝めるような信心生活が日にちに続けられ、そして入信十年目には職人三人、見習工数名を雇い、工場の方は裏庭へ拡張し、入信当時を思えば天地の差があり、喜びに満ちみち、有難い明るいいきがいをもっての努力が続けられ、来年は入信十五年になるからと、いよいよハリキリ、いっそうの大みかげを頂かんものと、いよいよ祈りを強めつつ、工場を拝み、使用人を拝み、家内を子を拝み、自分を拝んでいきいきと勇み続けている姿こそ、信心のおかげの生き方であると思う。
その一家の十四年の歩みを祈らせていただいた私――取次者としても――誠に感慨無量である。私は無力であり不十分であるが、おかげの証(あかし)……、神様の量(はか)り知れぬお働き……、お取次の偉大さ、有難さ、信心の有難さであることをしみじみと思うのである。いかなる難儀に出遭うとも、明るく取り組み、祈り、励み、いきいきとそのことを処理していくご夫婦の信心……。そこにすばらしいお恵みが頂けたのではないかと思われる。私は、そのご夫婦の今日の有難い生き姿を拝ませていただき、その信心成長を御礼申しているのである。問題は、苦難や難しさでなしに、そのことをどう受け止め、いよいよお取次を願い、頂き、祈り、いきいきと勇み続け、その間に自分を育て信心を成長させていくかであると思うのである。そこのところを皆さんにも解っていただきたいのである。
現在の私は、人の難儀が救われるということ、人が助かるということ、人が幸せになるということ、そのことが私の使命である。御用である。役前であると思うている。
人の助かりのためになんでもさせてもらえる……。ことに出遭(あ)えば出遭うほど、勇めてきて有難く、喜び喜んで、勇んで難儀と取り組める。その祈り、その信心、そのお取次が鈍物の私をして、不可能なし。なんでもなさせてもらえる。どんなことでも、願えば不思議やおかげにしていただける。その場に置いていただける。その場を授かっている。有難いというか、勿体(もったい)ないというか、ただ、もう感激に泣く以外にない、拝む以外にない。そういう立場に私を置いて下されている。皆様たちも同様なおかげが頂けるのである。
そう思うと、ジッとしていられぬ。居ても立ってもおられぬ気持ちのする私である。いよいよ神様の「おかげを蒙(こうむ)ってくれよ」と願われ、「氏子が助からねば神が助からぬ」とお頼み下される。その有難さ、勿体なさに感激し、私の身にハッパのかかってくるのを感得するのである。たとえ、私自身がどんなに足らなくとも、やらせてもらえる。やらせて下される。神様が必ずなさせて下される。「われに不可能なし」の信心・信念が頂け、いよいよ、いきいきなさせてもらえるのである。皆様もそういう信心・信念・祈りを……、勇み――生き力を生活の中に頂いてもらいたい。それが神様の御徳とでもいうのか、御恵みとでもいうのか……神様の偉大さを自身の身にこなし、受ける道である。いきいきと生活の中に生かしぬいていく道である。
また、そのことによって、初めて神様がお喜びになり、勿体ないことであるが、神様がご安心なさり、お助かりなさり、人間が尊い人間としての生き方、幸せな生活ができることになり、「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く(『立教神伝』)」とは、そういう生き姿を現すことになる。人間としての真にいきがいある道を展開することができると信ずるのである。
(ある日の教話・昭和三十七年十一月)