★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★


先代恩師親先生教話選集『園に集う人々』より

『今年に祈る』

年改まり、ここから新しい人生の第一歩を踏み始めましょう。日本人なら誰でも、年の初めは「おめでとう」を言い交わし、お互いに祝福し合い、励み合いをいたします。だが、今年はただ「おめでとう」だけでは済まされぬ気がいたします。

何かドッシリと背中に堪(こた)えるような荷物を、背負わされている感じがいたします。生まれて初めて感じる御神願の重み――使命感――が、私に一新を迫っているように思えるのです。「鮮やかに死ね! 鮮やかに生きよ!」と、私に呼びかけている。
その天地の声の強さに私は驚く……。私をして、目を覚まさせる新年であります。

今年の課題は世界維新であり、その中での日本の維新の年であると思います。世界を離れての日本はなく、日本だけがうまく行けばよいという現代でもない。

すべての問題が大掛かりであり、複雑にして、多岐にわたるものであり、そのような繋がりの中にある日本人であり、お互いである。国際通貨不安に明け暮れた昨年の世界経済をよそ目に、われわれ日本人の上には予想を上回るような経済成長をみた。政府もこの繁栄は「わが施策の賜(たまもの)」と、その上に安座し、財界も内蔵された不安を忘れて繁栄を謳歌(おうか)した。企業家も、商人も、サラリーマンも、「昭和元禄」ムードに酔うた一年であった。

だが、われわれ信仰者は、その繁栄を貪(むさぼ)り、栄華を享楽しているだけでよいのであろうか? 昔の人は、「衣食足りて礼節を知る」と言ったが、今の人は衣食は明らかに足りている。いや、足り過ぎているともいえる。しかし、そこで礼節を知るのでなく、いよいよ享楽に流れ、せっかくの繁栄を貪り食っているとしか思えぬ実情である。

金が潤沢に回ると、無駄と思われることにも惜しげもなく使うが、そのくせ、親や恩人に報いるのには余り使わぬ。たとえば、大恩ある老母に小遣いの5千円でもあげようものなら、「十分した」と思い、そのくせ、自分は正月休みに何万円と使うて旅行をする人が多く、冬休みに子供を旅行させるのに万金を使うても、そう出し過ぎのように思わぬ。

この金の使い方を思い、礼節を忘れた今の繁栄を問題にせざるを得ない。「驕(おご)る平家は久しからず」と、よく言われるが、今の日本の繁栄が、遠からず没落に繋がるとすると大変である。だから、今のうちに繁栄のあり方を厳しく反省し、検討せねばならぬ。外国人にエコノミック・アニマルと言われるところを問題にせねばならぬ。今の繁栄は生活の乱れを誘い、いよいよ利己一徹へ駆りたてて、人々の心がいよいよ貧しくなってゆくのではあるまいか……。その落ちつく先が思いやられる。

繁栄の中で不満に満ち、人を責めることのみでいよいよ心が貧しくなり、自分の責任を果たすことを忘れ、要求のみする生き方になっていることは恐ろしいことである。
聞いた話だが、ある外国人が各国からの留学生交歓のために、日本に「学生の家」を創る決心をして募金を考え、自国に帰られた。そして、自国の有力者を説いて、相当額の寄附を受けて帰って来た。

むろん、地元の日本も、自国内のことでもあり、かなりの協力者があろうと、そのことについて、関係者の日本人も容易に考えていたところ、その外国人が帰って来ても、肝心の日本側の分担額がわずかしか寄(集ま)らぬ。八方に手を尽くしても、さっぱり熱が上がらず、発願した外国人に合わす顔がなかったと……。

それも、経済的繁栄を世界に誇っている日本……。また、使いどころによっては湯水の如く金を使っていく繁栄の日本人であるのに……。

本当の繁栄の道を知らず、礼節を知らず、ただ、自己のみのことしか考えぬ所以(ゆえん)であり、人間として成長しておらぬという証拠であろう。

繁栄に安座して驕り、享楽を追い求めて、ただ、利己・我欲の追求のみにあくせくしていると、「驕る平家は久しからず」の二の舞いを踏むことを恐れる。
外国人から、「日本人はエコノミック・アニマルだ」と酷評されるのも、そうしたところにもあろう。

繁栄はいつまでも続くとは限らぬ。かつて世界を支配していた大英帝国の今日を見よ……。1年前までは栄光を誇り、世界にものを言うていたフランスが、今は各国から3千億ドルの資金援助を受けて、歳出の大削減を実行し、国民に耐乏生活を要求しているではないか……。

それを思えば、経済の根が浅い(社会資本が充実していない)日本。急激に繁栄して足が地についていない日本人である。一度、経済的に打撃を受ければ、フランス以上に壊滅的になるであろう。

そこを十二分に心して、繁栄に酔わず、享楽に耽(ふ)けらず、礼節をわきまえ、利己・我欲を断って世のお役に立つ心になり、いよいよ心の帯を締め、勤勉にして苦労を買うて出ようとする、かつての日本人の良さをもって生きぬき、エコノミック・アニマルの汚名を返上することである。そのことをまず、神を頂く信仰者がその範を示し、そこで神様から恵まれる人になってもらいたい。

すべてを一から考え直し、理解し合い、練り合いしてゆかねばならず、また一面、勇気を持って、犠牲を覚悟して、堂々と難儀に取り組み、いかに難しかろうとも、怯(ひる)むことなく、辛抱強くなし続けてゆかねば、ひとつとしてなせぬ、できぬことはない時代に出遭うたのが今年であると思う。

一人の人間を助けるにも、社会を助け、世界を助けずにはなせず、一人だけを牛蒡(ごぼう)抜きに助けることのできぬ時代である。

  人間の部分的な助かりは可能であっても、丸ごとの助かり……、人生全体の助かり、人間一生の助かり、人間そのものの助かりを実現してゆくには、世界助けの祈りの実践・実現がいる。

一人だけを、一国だけを、牛蒡抜きには助けることのできぬ仕組みになっているのが現代である。

しかるに、人間には利己心が強く、まず、「自分が助かりたい。自分さえ助かればよい」と考えている者が多いのである。そのことも分からぬことはない。善い悪いは別として、そのこと(自分自身の幸福の追求)も是非してゆかねばならないのではあろうが、人間は一人で生まれてきたのではなく、一人で生きられぬものであるし、また、一人だけの幸福などあり得ぬことであることを分かってもらわねばならぬのである。

われあるは、父母あってのことであるから、最小限でも3人の理解と協力がいる。それなしには自分が助からぬ、幸福になり得ぬのである。その事実を否定することはできぬ。そこから夫婦の問題に繋がり、子供への繋がりとなって一家が形成され、それを包む社会、国家、世界ということになるから、利己(自分さえよければよい)を越えねばならず、その利己が越え難いという土壇場に立っての救いがいるのである。

現代の救いとは、そのことを踏まえずに……、その大掛かりの救いを通してでなくては、一人の人さえ救い得ぬということである。その世界助け、国家助け、社会助けの重荷を背負って、一人ひとりの救いを実現してゆくところに今年の私の御用、役割がある。しかも、そのことは、いまだかつて経験しなかった場でしてゆかねばならぬことである。

神様から「そのことをせよ。そのことに使うてやる」と命ぜられている。そのことを願うて下されている。頼まれているのが、取次の御用であるのを思うとき、立ちすくみ、凍りついてしまう私でありますが、自己(我)を切り捨て、殺し、「死んで死んで死にきって、そこから生まれ出よ。這(は)い出せ。歩め!」と叫ばれ、願われ、頼まれている私であります。

だから、昨日までの私と今日の私とでは、私が違う。ニューの私になることである。昨日までの取次者と、今日の取次者とは違う。ニューの取次者が御用に立っての新年であります。

この一年、総てのことを新(さら)に頂き、自らがニューになりきり、神様の御用に使うていただき、御役に立ってまいりたいと祈るものであります。
このことを日にちに新(さら)の心で問いつめ、求め正し、各地方・出社(でやしろ)各会、市内各会・各班と全組織の中に頂き直して、問題を問題とし、このことの達成に身命を打ち込み、そこから人を祈り、人に働きかけ、一人でも多くの同信者を導き、その願いの場を広げてまいりたいと祈っております。

わけて本年は、お道の立教百十年の年にあたる意義あるお年柄であります。
教祖様が、難儀な氏子助けを願われ、たびたび「人が助かりさえすればよい」とのご信行を積まれて百十年を迎えるとき、私共がニューになり切らせていただいての信心生活運動の展開を祈らせていただくことは実に有難いことであり、このことをなさせてもらうことによって、栄光輝く徳積みの道を歩ませていただき、末々までの繁昌……将来の上に栄光ある大みかげを頂こうではありませんか。

(ある日の教話・昭和44年1月)

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