先代恩師親先生教話選集『園に集う人々』より
『死後の世界と子孫繁昌』
「人間は、死んだらそれですべてが終わりでしょうか? また、宗教の説く死後の救いというものは、金光教ではどういうようにされるのでしょうか?」このことを、2、3日前に泉尾教会に来られた米国の大学で宗教哲学を研究されている先生(註:ポール・イングラム博士、シンプトン大学教授)から尋ねられた。
仏教では地獄・極楽を説き、「生前に積む徳は死後の助かりのため」と言い、キリスト教でも「天国に召される」というように言っているが、「金光教では、いったい、そのことはどうなっているのであろうか?」と聞かれる。
金光教では、死後についての教えは、たいへん少ないのであるが、そのひとつに「生きても死んでも、天と地とはわが住家と思えよ(『神訓』「道教えの大網」第三条)」と示されているところを見ると、幽明の境を越えて、この天地に守られ、恵まれ、救われる外にはない。そこのところの限りない、大きい人間の助かりを示されていると思われる。
教祖様の逸話のひとつであるが、あるご信者が教祖様に「金光様、人は死んだらどうなりますか?」と尋ねている。
「仏教では地獄・極楽と言うが、この道では人間の死後は、どうなるのであろうか?」というのである。
教祖様は、その人の問いに答えて、「この方(金光大神)は未だ死んだことがないから分からぬ……」と言われ、重ねて「そうはおっしゃっても、金光様は生神様でいらっしゃるから、死後のことについてご想像はおつきになるでしょう……」と言うので「そうじゃ、想像はつく……」と仰せられ、そして、ひとこと、「日の入りが良ければ明日は天気じゃろ……」と答えられたとか……。そのご一言には無量の深味が窺(うかが)える。
このことが、人間の死後の世界を指し示され、現世の生き方の大切さを御教え下されたものと思う。
人間の死後が問題であればあるほど、生きている現在を問題にせねばならぬ。その生き方次第で、死後が決まるものであると思う。
人の幸いを祈り、人に喜ばれ、世のお役に立ち、「徳者よ」と称えられる人……。明るい日の入りを思わせるような人ならば、その人の死後もまた、恵まれるであろう(霊として安心であろう)。
なお、それだけでなく、残された子々孫々も助けられるのが、この道のおかげである(他の宗教のように、信心した者だけの助かりではない)。「霊も助かり、末々安心、繁栄のおかげを受けてくれよ」と頼まれる神様を信心しているのが金光教であると、アメリカ人の学者に答えたのである。
さらに、このお道は、子孫繁栄のおかげを頂く道でもある。教祖様も「末々安心のおかげを受けよ」と教えられている。
この道は、信心した者だけが助かるという道ではない。ひとりの信心の徳で、親先祖から子々孫々まで助かるおかげを頂く道である。人間の生(せい)というものは、自分ひとりの生(せい)ではなくして、親、また、その親(先祖)から連綿と続く生(せい)であり、また子供の中に、孫の中に生きてゆく、生き通してゆくものであると思う。
死後の救い――霊(みたま)になっての救い――は、ただ、霊の安心だけではなく、救いだけではなく、その子を、その孫を立派にする。「この子を見て下さい。この孫を見て下さい」と言える徳を残し、現し、示させていただけるものを含むものである。
人間の幸福――助かり――は、自分だけのものではなく、子や孫の幸福、助かりに繋がってこそ、真(しん)の助かりの実現ともいえるものである。自分の代(だい)だけの幸福、助かりで終わるものでは、真の助かりとか幸福とはいえぬと思う。
人間の生(せい)は、死んで――霊となって終わるものではないと私は考えている――形はのう(なく)なっていても、生(せい)の中身の願いが、不死不滅であると信じている。それが子孫にまで受け継がれて行く。そこに信仰の貴さ、偉大さがあり、そのおかげを頂いて末々までのおかげを頂くのがこの道である。
人間生(人間願)とは、永遠に続く、子や孫に生き通すことであると共に、これまでの親先祖のご苦労に応え、その積み来たった努力(願い)を引継ぎ、その願いをば、受け通す。そこで親先祖に報いることができ、喜んでもらえる。そのことを子孫たちに伝えていくこと。それが生きること……。願いに生きること、願いに生かされることであり、その生きゆく――願い通してゆく――ことを信心の願いというのであると思う。それが、そのまま御神願でもあると思う。
そのことの確立(実践・実現)が人間の助かりにもつながり、畢竟(ひっきょう)(とどのつまり)は、「子孫繁昌、家繁昌」と言いうる一家の助かりにもなるのである。
(ある日の教話・昭和44年3月)