台湾原住民視察団派遣

 大阪国際宗教同志会では、大森慈祥団長以下10名が、2004年2月17日から19日まで、中華民国(台湾)南部の都市高雄を訪問し、原住民各部族と交流を図ると共に、佛光山総本部を訪問した。

 大阪国際宗教同志会の台湾原住民視察団一行は、2月17日夜、台北中正空港経由で、台湾南部の大都市高雄を訪れた。参加各師の日程確保が難しいので、関空を発ってから関空に戻って来るまで、わずか45時間の強行日程であった。


屏東県の「原住民族文化園区」を
視察した国宗一行

 翌18日は、朝8時に宿泊先のホテル国賓大飯店を出発。貸切バスで高速道路を1時間半かけて移動し、高雄市東部の屏東県の山岳地帯にある「原住民族文化園区」(註:日本では、一般に「先住民」と呼ばれているその土地にネイティブな少数民族のことを、中国語では「先住民」とは「昔に滅んで(死んで)しまった民族」という意味があるので、「原住民」と呼称されており、その慣例に従うことにする)を視察した。

  一見、テーマパークのような「原住民族文化園区」では、台湾原住民各部族(註:泰雅【タイヤル】族・阿美【アミ】族など十数部族が現存する)のかつての生活風習等の展示館で、彼らの伝統生活を学ぶと共に、イベントホールで各部族の舞踊を見学した。


佛光山総本部本殿でご本尊を前に
記念撮影する国宗一行

 続いて、高雄市への帰路にある台湾最大の禅宗系新宗教教団「佛光山」の総本部を訪れ、釋心定住持(管長)に面会し、大阪国際宗教同志会の歴史と活動について紹介すると共に、諸般の問題について意見の交換を行った。佛光山は、51年前に、毛沢東との国共内戦に敗れた国民党の蒋介石が台湾に逃げてきた際に、同行した一兵卒であった後の星雲大師によって始められた宗教運動であり、創設されてまだ三十数年しか経たない歴史の浅い教団であるが、総本山の佛光山は30万坪(百万平方メートル)の広大な境内地に、1,300人もの出家僧尼が共同生活を営む、大変活気に満ちた「地上の楽園」の建設を目指している。


佛光山総本部住持(管長)と会談する
視察団長の大森慈祥辯天宗管長

 さらに、高雄市内にある原住民事務委員会を訪れ、ササラ・タイバン主任委員をはじめとする同委員会のスタッフから、中華民国政府の原住民政策についての説明を受けた。台湾では、現在、現職の陳水扁総統と、政権奪回を目指す国民党の連戦主席との間で、激しい総統選挙が繰り広げられているが、その最大の争点である「大陸(中華人民共和国)」との関係についても、中台を一衣帯水の関係と見る国民党と台湾独立を掲げる民進党との基本姿勢の違いの根拠、すなわち、賛成にしろ反対にしろ、漢人中心史観による「一衣帯水」との主張を根底から覆す台湾「原住民」の存在は、これからますます大きな問題となるであろう。同委員会での会談の後に、同委員会のビルに付属する原住民のための職業訓練センターや職安を訪れ、原住民との交流を行った。


高雄市政府の「原住民事務委員会」を
視察し、意見交換を行った国宗一行

 こうして、次から次へと過密スケジュールをこなした大阪国際宗教同志会台湾原住民視察団は、市内の中華レストランで夕食会を行い、翌19日早朝、現地を発って、帰国した。

 なお、参加者は、辯天宗から大森慈祥・望月康弘両師、妙道会教団から藤原裕泰・岡本潤一猟師、清風学園から宮崎紀元・清水隆道両師、金光教から三宅光雄・三宅善信両師、布忍神社から寺内成仁師、さらに、オブザーバーとして「IARF/WCRP『愛・地球博』出展委員会」事務局長の三輪隆裕師(日吉神社宮司)の10名であった。


【台湾原住民の歴史】


 台湾島に住む原住民族(複数)の起源は古く、人類学的・言語学的には、そのいくつかの部族は、それぞれ、西はアフリカ大陸に近いマダガスカル島、南はニュージーランド、東は南米大陸に近いイースター島に暮らす人々と「共通の先祖」を持つと考えられているほど、人類学的にも謎に満ちた存在である。

 17世紀以後、まずオランダが、東アジア進出の拠点として、この島を軍事的に占領し、続いて、中国大陸において新たに満州から勃興した清朝との闘いに敗れた明朝の遺臣鄭成功(Koxinga)らが、大量の漢人移民と共に亡命政府をこの島に築いた。その際、この島の西側(中国大陸側)の平野部にいた原住民たちは、東側(太平洋側)の急峻な山岳地帯へと追いやられた。
 皮肉なことに、台湾の原住民が国際社会に紹介されるようになったのは、1895年の大日本帝国による同島の併合によってである。同島に言語や習俗を異にする多数の原住民種族がいることを「発見した」日本は、草創当初の文化人類学者たちを派遣し、この島の原住民の文化を科学的に調査した。また、台湾島の「内地化」によって、日本本土と同じように、原住民にも無料で初等学校教育が施されたので、それまで、独自の文字文化を持たなかった原住民たちは、日本語による読み書きができるようになった。

 日本の太平洋戦争敗戦の後、1949年、中国大陸での共産党との内戦に敗れた蒋介石率いる国民党が台湾を占領し、台北を首都にした。このことが、またまた、原住民の権利を奪うことになった。「大陸奪還」を国是とする国民党は、台湾の独自性を認めることは、すなわち、国民党による中国大陸の支配権を放棄することになり、その点では、「台湾侵攻」まったく立場が反対の政策を国是とする中国共産党と、奇妙に利害が一致していることであった。その後、長年続いた国民党政権の下で、原住民の権利は無視されることになった。

 台湾の原住民に転機が訪れたのは、(中国大陸からの)「台湾独立」を公約に掲げる民進党の陳水扁(Chen Shui-pien)氏が、自由選挙によって中華民国の第10代「総統」に選出された2000年5月20日である。従前とはうって変わって「台湾は中国の一部ではない」ということを立証するためにも、遥か古代からこの島に暮らす原住民の存在を中華民国が公認することが必要となった。


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