大阪国際宗教同志会平成十三年度総会記念講演


環日本海文化と東アジアの宗教 1

財)世界人権問題研究センター理事長
アジア史学会会長・京都大学名誉教授 上田正昭


2月13日、神徳館国際会議場において、大阪国際宗教同志会(会長大森慈祥辯天宗管長)の平成十三年度総会が、著名な古代史学者である上田正昭先生を講師に招いて開催され、神仏基新宗教各派から約70名の宗教者が参加した。本誌では、そのうちの記念講演の内容を数回に分けて掲載する。

ご紹介をいただきました上田正昭です。私は、京都大学に入ります前に東京の國學院大学で学びまして、今宮戎神社の津江孝夫名誉宮司様とは同級生なんです。今日は、大変懐かしく、久しぶりにお会いしました。本日は、三宅善信先生から「環日本海の話をぜひしてほしい」と言われまして参りました。

  国際宗教同志会のことは、私は良く覚えておりまして、当時、同志社大学の総長をしておられました牧野虎次先生が昭和22年にこの会をお創りになりました。その後、とっくに「消えてしまって無くなってしまっている」のではないか? と思っていましたが、大阪では50年以上にわたって活動を続けておられるということを最近知りまして、関係者の皆様のご尽力に改めて敬意を表する次第でございます。

▼大阪はいつから大阪と呼ばれるようになったのか


上田正昭 先生

  今日は、一番最初に「大阪と東アジア」ということを少し申し上げようと思います。なぜならば、今日の集まりは大阪を中心とします国際宗教同志会の皆様でございますが、「燈台下暗し」と申しまして、大阪の皆様が大阪のことを案外ご存知ない。これは大阪府立女子大学の学長を2期6年務めました時に感じたことでございます。

  まず第一に、大阪という町の名前はいつ頃から歴史に出てくるかご存知でしょうか? 大阪のことを論じている方でも「おおさか」という地名がいつ頃から出てくるのか、ほとんどご存知ないのです。和銅五年、西暦で申しますと712年、奈良時代最初の女性の天皇、(第44代)元明天皇の時代です。その和銅五年の正月28日に、太安万侶(おおのやすまろ)が稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦よむところを記録して作った書物が『古事記』でございます。これも正しくは「ふることぶみ」と読むのです。

  その第10代崇神天皇のところに「大坂山」という山の名前が出てきます。古事記ができましてから8年後、養老四年、元明天皇の次の元正天皇――この方も女性の天皇です――の時代ですが、720年5月21日に完成した古典が『日本書紀』でございます。これも正しくは「にほんぎ」というのですが、この崇神天皇十年の9月のところを見ていただきますと、「大坂道」という道路の名前が出てきます。この「大坂」は現在の大阪ではございません。二上山の北側を奈良・大和に入ります道を古くは「大坂道」と呼んでいたのです。その二上山の北側の峠を「大坂」と呼んでいたのです。今でも奈良県側にお出でになりますと、大坂山口神社という神社がございます。この二上山の南側に古代の大幹線道があります。皆さんご存知の竹内街道です。

  大坂という地名は、現在の大阪府の南側にもございましたが、大坂という町の名前が出てきますのは大変新しいことなんです。明応五(1496)年、蓮如上人がお書きになった『御文章(おふみ)』の中に初めて町の名前として大坂という地名が出てきます。これが「大坂」という町の名前の出てくる一番古い資料なのです。豊臣秀吉が大坂城を築き、1,600年の関ヶ原の合戦が終わり、慶長八(1603)年徳川家康が江戸に幕府を開きましたが、大坂が「天下の台所」と言われますように、商業都市として多いに発展したことはご存知の通りでございます。この「おおさか」といいますのは「大坂」が正しいのです。ところが、よく見ますと「土に返る」という字で縁起が悪いということで、明治になってから「坂」をやめて「阪」を使うようになったのです。ですから、江戸時代の書物は全部「大坂」と書かれています。

  「大坂」になる前の地名は「難波(なにわ)」です。難波という地名は、古事記・日本書紀にも見られる古い地名です。(初代)神武天皇が大和に入ってこられる「神武東征」の逸話を読んでも「難波の渡り」と書いてありますし、日本書紀の第3巻には「なにわ」の由来いわれが書かれておりまして、「なみはやの訛なまれるなり」と・・・・・・。「浪が速い」という意味の「なみはやが訛ったのが、なにわだ」というのが日本書紀の説でございます。ここには港がございます。「その難波の港(津)を管理(摂)する国」というのが摂津(せっつ)の国の名前の由来なのです。


▼古代から大阪は国際都市

  現在の大阪府は摂津国、河内(かわち)の国くに、和泉(いずみ)の国くにの3つの国から成り立っているわけですが、これは現在の大阪を考える際に非常に重要なことです。河内国の南部にありました、日根・大鳥・和泉の三郡が奈良時代の天平宝字元(757)年5月に分かれまして、和泉国ができたのです。ですから和泉国は古くはないのです。和泉国、河内国、摂津国の3三つの国から大阪府は成り立っているのですが、全部「水」に関係があるのです。つまり、大阪湾というものが大阪の歴史を考える上でとても大事なものなのです。よく「ベイエリア」という言葉を使いますが、まさに大阪湾は日本の歴史において表玄関であったことは間違いがありません。

  難波津の発展する前は住吉の津。住吉大社のところには港があったのです。ですからご祭神は、底筒男(そこづつお)・中筒男(なかづつお)・上筒男(うわづつお)と海の神様3人になっているのです。ご祭神がなんであるか何も知らずに住吉さんに参っているようではご利益はありません(会場爆笑)。いかに大阪が水と関係があったか。「シルクロードの海上の終点は難波津であった」と私は昔から言ってきました。中国の長安(現在の西安)がシルクロードの終点と言いますが・・・・・・私は(西安にある)西北大学の名誉教授もしておりますが・・しかし、西安から海のルートを通って大阪に文化は入ってくるわけですから、海上の道の終点は難波津である。したがって、この難波津と朝鮮・中国との関係はとても密接なんです。

  例えば、大阪の難波津には大郡(おおごおり)という役所がありました。これは歴史の研究をしている人でも「郡(註=地方の行政単位)」の大中小だと誤解されている方が大変多いのですが、実際は、今で言うと外務省のお役所です。対外関係の役所を難波には特別に置いているのです。したがって、難波津の周りには迎賓館ができます。宗教同志会の皆さんは、今度、ソウルにお出でになるそうですが、残念ながらまだ発掘で出てきてはいませんが、ここには「三韓館(みつからのもろつみ)」というものが置かれていました。それから、これはあまり機能しなかったのですが、高句麗などの外国の使節が来た時の迎賓館が置かれていました。したがって、この大阪府沿岸には中国、朝鮮半島から渡ってきた方が古くからたくさん住んでおられたのです。大阪は古代から国際都市であったといって過言ではありません。

  『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』という書物があります。これも普通の本の記載は間違っている。これは万多(まんだ)親王という方が中心になって編纂されたもので、五畿内(大和・河内・摂津・和泉・山城)の1182の氏族の祖先の伝承をずっと書いた本なのです。できたのは弘仁六(815)年です。それぞれの氏族を3種類に分類しています。天皇に祖先の繋がる「皇別(こうべつ)」、神様に祖先の繋がる「神別(かみべつ)」、そして中国や朝鮮に繋がる「諸藩(しょばん)」です。

  びっくりするのは、朝鮮半島から渡ってきた人の子孫で平安時代の初めに有力な氏族になっているものは、河内国で55。和泉国で20。摂津国で29。足してごらんなさい。104もの氏族が祖先は朝鮮から来たということになっているのです。現在の大阪府に住んでいる104の氏族のご先祖は朝鮮半島から渡ってきたということが『姓氏録』にはっきり書いてあるのです。特に私が注目しているのは漁民です。海人・海女と書いて「あま」と読みますね。(第40代)天武天皇のお名前は大海人皇子(おおあまのみこ)と申しますね。驚くのは大阪湾沿岸に韓海人部(からのあまべ)という人がいるのです。これは本当に珍しい。「韓半島から渡ってきた人で大阪湾沿岸で漁業をしていた皆さん」と資料に出ています。

  遣隋使、遣唐使、遣新羅使などは難波津から出発していきます。中国からの使節、新羅からの使節は瀬戸内海ルートで来ますから、難波津から上陸するのです。なぜ聖徳太子が大阪湾を見下ろす上町台地にあの立派な四天王寺を建立されたのか? それは国際都市大阪と難波津との関係を考えなくては解らないのです。ですから、大阪国際宗教同志会の皆さんが韓国の宗教界の皆さんと交流を深められることは大変意味があると思いつつ、先ほどの総会も拝聴いたしました。


▼「日本海」はいつ誰が付けた名称か

  私が、三宅善信先生から依頼されましたのは「大阪の話をしろ」というのではなくて、「日本海の話をしてくれ」というものでした。私がつけた題は違うんですよ(会場笑い)。「日本海」というのはものすごく大事なのですが、残念ながら日本海側を指す「裏日本」という言葉があります。これは差別用語です。いつ頃から「裏日本」という言葉が使われるようになったか調べてみました。明治二十八年以前にはありませんでした。「山陰」「山陽」と同じで、そう他意があってつけたのではないのですが、明治三十三年の頃からは「裏日本」というと「遅れた地域」という偏見が持たれるようになりました。「表」が進んでいて「裏」は遅れているなんて、明確な差別です。私はこういう考えは日本の歴史を考える上でとても具合が悪いと思っていますので、早くから「裏日本、裏日本と言うけれど、日本海側がかつて表日本であった時期があるよ」ということをあえて申し上げてきました。表玄関は、これは紛れもなく難波津です。その次は博多です。それは事実ですが、だからといって日本海側が遅れていたと思うのは、そういう歴史観を持つことは歪んでいるのです。そうおっしゃる方の目が曇っているのです。

  私は、堺市にある大阪女子大学の学長をしておりましたが、和泉国にありました堺を地盤に出ておられる代議士は中山太郎先生です。中山先生が外務大臣の時に、私の学長室に電話が掛かってきたんです。「上田先生ちょっと教えてほしいんです」、「なんですか?」、「国連の地名会議で『日本海という名前はけしからん』という意見が大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国から出たんです。『だいたい国名を公の海につけているのはけしからん』というのです。先生、何か良い知恵はありませんか?」と言われました。私は即座に「インド洋はどうなりました?」(会場爆笑)と答えました。そんなこと、すぐに言わなければならない。後になってから反論していたのではダメです。外交ってそういうものでしょう。後から勉強して言ってもダメなのです。ハワイの原子力潜水艦の事件でも同じです。その場で言わねばなりません。日本の外務省は何をしているのか。私の教え子も外務省にいますが、もうちょっとしっかりしてもらわなければ・・・・・・。中山先生は「ああ、インド洋がありましたか」とおっしゃった。

  それでは、「日本海」という名前はいつ誰が付けたのか。文化二(1805)年にロシア提督クルゼンシュタインが長崎に来たのです。当時の日本は鎖国していましたから、開国要求に来たのです。彼がウラジオストックに帰るのにずっと世界を回って行きます時に「日本海」という名前をつけたのです。これは確かです。外国人がつけた名前のことで中山先生が言われるのです。「先生、そんなこと言うてたらあきまへん」と言いました。

歴史をちゃんと知っていれば、相手が誤解をしていればちゃんと言えるでしょう。国際化ということは相手(外国のこと)を知るということも大事なのですが、己(日本)を知っていなければ、国際化なんてできません。

  もちろん、英語や韓国語がしゃべれるほうが良いに決まってますが、なんぼ外国語が上手でも、例えば、日本の文化・宗教を誤解して批判している人がいたら「それは間違いですよ」ということを言わなあかん。逆にこちらが間違っていたら、謝れば良いのです。

「済みません」という日本語はとても大事な言葉です。「(決してこのままでは)済ませません(善処します)」と言っているんですから・・・・・・。「済みません」と言って済ましていてはどうするんですか。こんな無責任な日本語は使わないほうが良いのです。ほとんどの人は、自分の使っている言葉の正しい意味も知らずに使っているのです。私も使ってしまいます。なんとか済ませなきゃならないわけですから、でも、「済みません」と言って済ませちゃうのじゃまずいので、最近は「ごめんなさい」(場内爆笑)と、言うことにしています。

  『采覧異言(さいらんいげん)』という新井白石が書いた本がありますが、その後、山村才助が手を加えて間違いを正した『訂正増訳采覧異言』を出しています。ここに「日本海」と書いてある。この本は享和二(1802)年に出版されました。(ロシアの提督)クルゼンシュタインが(1805年に)「日本海」を命名したよりももちろん早いのです。私が驚いたのは、才助は太平洋を「東日本海」と書いている(場内爆笑)。本当ですよ。これは才助の歴史観がいかにすごいか。日本海を中心に物事を考えているわけですから・・・・・・。日本海が「表日本」であるという考えに立たなければ、太平洋を「東日本海」とは呼びません。そういう考えがあった。それは最近の発掘の例を見ると判るのです。


▼天皇陛下の考古学へのご関心に感動

  私は、本年の宮中歌会始めの召人(めしうど)を仰せつかりました。昨年の9月に宮内庁から打診がありました。多少、歌は詠むのですが「どうしようかな」と迷っておりましたら、10月に入りまして侍従2人がお見えになって、「陛下のご内意でもあるのでぜひ」ということでしたので、召人の大役を務めさせていただきました。召人というのは陛下が招かれるのですから、お茶で言うと正客です。終わりましてから、両陛下から慰労(ねぎらい)の儀がございまして――侍従長以下が同席しているんですが――15分間、両陛下からご質問がございました。

  その中で、私が非常に感激いたしましたのは、出雲大社の心御柱(しんのみはしら)についてのご質問なんです。本当に陛下はよくご存知です。おそらく何かの書物でお読みになったか、皇太子時代にも私を呼んでいただいたのですが、それで、「ぜひに」ということだったのです。陛下のいらっしゃる前で侍従が言うので本当なのでしょうが、「高さ十六丈」とよくご存知ですよ。古代の出雲大社のご本殿が高さ十六丈だったという伝承があるんです。48メートルです。ビルでいうと16階建ての巨大な木造の神殿があったということです。現在の出雲大社のご本殿はこれほどではありません。それでも高さ八丈、地上24メートルです。その倍あったんです。陛下のご質問は「本当に十六丈あったということが学術的に証明されましたか?」というものだったんです。

  陛下のご質問は本当に専門的です。例えば、たくさんあった陛下のご質問で、最初のご質問は「最近の発掘をどう思いますか?」というものでした。私は旧石器の捏造(ねつぞう)事件のことをおっしゃっておられるのかと思ったんです。陛下のご質問のなされかたも悪いんです(会場笑い)。「最近の発掘成果をどう思いますか?」と言われたら一瞬で解るのですが、旧石器の捏造の件は弁解のしようがないのです。藤村新一君が悪いのではなく、指導した先生が悪い。そう思って絶句しておりましたら、陛下が「飛鳥の亀型の石や出雲の心御柱など」とフォローして下さいました。私は得意中の得意ですから、侍従が「簡潔にお答え下さい」と言ったけれど、簡潔になんかなりようがない(場内爆笑)。いろいろとお答えして「やれやれ」と思っていたら、僕と1メートル半くらいのところまで来られてお礼を申されて、皇后様に「どうぞ」とおっしゃって譲られるんです。いやぁ・・・・・・感動いたしました。

  ともかく、古代にも出雲大社のものすごいご本殿を山陰に実際に建てているんです。それだけではありません。昭和五十九年ですから、今から17年前の8月、斐川町荒神谷遺跡というところから銅剣が358本も出たんです。大変なことです。「新羅からのものが300本も出たのか」と大騒ぎになりました。弥生時代の銅剣は全国で300本くらいしか見つかっていなかったんです。1カ所からそれを超える358本も出た。これに驚かない考古学者はいかに勉強していないかということです。「予想していた」なんてよく言うものです。嘘に決まっています。私はびっくり仰天しました。

  去年の暮れ、銅鐸が6個。そして銅剣・銅矛が16本出ました。弥生時代の青銅器文化を、今までの考古学者は、「北九州を中心とする銅剣・銅矛・銅戈の文化圏、大和を中心とする銅鐸文化圏、その交わっているところが出雲だ」と、出雲のことを軽く言っていたんです。これが「裏日本」観と似ているんです。「裏日本は遅れているから」という先入観で見ているんです。もう早いもので、5年前になりますが、10月14日、加茂町の加茂岩倉遺跡というところで銅鐸が1カ所で39個出たんです。それまで出雲で見つかっている銅鐸を合わせても51個ですよ。日本で一番たくさん銅鐸が出たのは出雲なんです。「出雲の文化が遅れている」なんて言っている歴史観は歪んでいるのです。

  出雲大社には48メートルの立派なご本殿があった。宇豆柱、心御柱、そして東南の柱、3つが出てきたんです。直径が約3メートル。杉です。すごい柱が出てきたんです。あの柱から考えますと、実際に十六丈あったのかは判りませんが、少なくとも今のご本殿よりはずっと大きなものであったことは間違いないのです。

  陛下に「間違いございません」と申し上げましたら、陛下は「天を意識したのでしょうか?」と・・・・・・。そこらの質問とは質が違います(会場笑い)。私はあらためて、陛下の学問へのご関心に感動いたしました。もちろん、侍従がマニュアルを作って「上田というのはこういう人物でこういう研究をしている」なんて、おそらく事前学習ブリーフィングされているに違いないけれど、「最近の発掘は?」と聞かれて、私が絶句している時に、さっとフォローして下さるのはマニュアルには書いてありません。ご存知だからできることです。感動いたしました。陛下は「裏日本観」は持っておられないですよ。


▼日本海は「東海」ではない

  しかし、多くの人々がこの「裏日本」観を持っているのです。そして、例えば、残念ながら今は朝鮮民主主義人民共和国とは国交はございませんが、高句麗というのは広大な国で、現在の中華人民共和国の東北地方(旧満州)遼寧省――よく残留孤児の方が来られますね――国内城で建国したんです。そして南に下ってきて、吉林省の丸都城に都を遷しまして、平壌(ピョンヤン)に遷ったのは427年のことです。私は古代朝鮮の研究をしていますから、遼寧、吉林、黒龍江省には3回調査に行きましたが、中国の先生には悪いのですが、遼や金(いずれも国号)の時代の朝鮮、すなわち高句麗のことを調べるために行っているわけです。

  この高句麗から日本へは日本海ルートで来れるんです。近いのですんなりと。朝鮮半島からわざわざ瀬戸内海を通ってでは遠回りです。日本海を横切ります。当時は日本海ではなくて「北海」と文献にはあります。例えば、『日本書紀』の垂仁天皇の二年の条には「北ツ(の)海」とあります。天平五(733)年2月にできあがった『出雲国風土記』を紐解くと、日本海のことを「北ツ海」と書いている。ですから、国連の会議で韓国から「日本海という名称を止めて『東海(トンへ)』にする」と言われて、そんなことを譲ってどうするのか・・・・・・。韓国が「東海(トンへ)」と呼ぶのは勝手ですが、日本で「東海」だなんておかしいではないですか。「それなら『北海』と言いますよ」と言い返せばいい。外交官はそんなことは即座に言わなければ・・・・・・。私に聞いてきて(中山太郎外相は)、「先生、そういうことを書いた論文はありますか?」と言うので、すぐに私の書いた論文を送りました。

  一時は「日本海」という言葉を使うこと自体を批判されたこともありました。でも、譲る必要はないでしょう。正しいことは譲る必要はないのです。間違った時には謝罪しなければなりませんが、いつも謝罪してばかりだけれど、そんなことはちっとも得策でもなんでもない。「それは間違いだ」ということを正確に、史実に基づいて反論できなければどうしようもない。日本人が日本のことを知っていなければ、国際化はできません。


▼20世紀の総括

  私は、20世紀を総括する時、次の3つは絶対に忘れてはいけないと思っているんです。宗教家の皆さんはそれぞれの宗派・教団の立場で20世紀を定義していることだと思います。

  第一は、今日の総会の中で「平和の祈り」の黙祷がございましたが、20世紀は第1次世界大戦、第2次世界大戦とございましたように、世界全体が戦争に巻き込まれた時代なんです。18世紀、19世紀にも世界のあちこちで戦争がございましたが、地球全体が戦争の渦に巻き込まれたのは、20世紀のことです。20世紀は間違いなく「戦争の世紀」でした。地球全体が戦争に巻き込まれたのです。

  第二番目は、自然がこんなに破壊された、こんなに地球が汚染された時代はありません。そして、たいへん残念なことですが、民族がこんなに激しく対立し……。特に、ぜひ宗教家の皆さんにお尋ねします。宗教の争いがこんなに激化した時代はかつてないんです。そのために、今、地球上には2,200万人の難民の皆さんが溢れているんです。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)・ユニセフなど救援活動はいろいろなされていますが、今私がこうしてお話しています間にも、飢えに苦しんで死んでいく人もいる。病気で亡くなっていく人も相次いでいます。私は20世紀は「人権受難の時代」であると思います。

  第三に、20世紀というのは――これもたいへん残念なことですが――欧米が世界の政治・経済・文化をリードした。ヨーロッパとアメリカが、特に20世紀の後半はアメリカが、世界をリードした。もちろん、ヨーロッパにもアメリカにも私の友人はたくさんいますし、立派な先生方がたくさんいますし、ヨーロッパやアメリカが発展していくことを決して妬ねたんでいるわけではありませんが、「20世紀にはアジアが評価されなかった」ということを、われわれアジア人はもっと考える必要がある。アジアの輝きが世界に向かって失われた世紀だったと私は考えます。あえて言えば、「アジアが凋落(ちょうらく)した世紀」だったのです。

   したがって、21世紀は、平和の世紀で、自然と人間が共生する世紀であり、多文化共生の世紀である。人権の文化が輝く世紀であってほしい。そして、アジアが輝く世紀であってほしい。これが私の願いであります。欧米の文化が発展するのを批判しているのではありません。「アジアがもっと自信を持って世界に発信する世紀であってほしい」と、そのように思っております。実は、ここに『新世紀と東アジアの宗教』という大変長い論文を書いているんです。これは大阪商業大学の比較地域研究所が「ぜひ書いてほしい」というので、特別寄稿したら400字詰め原稿用紙に50枚くらいの大変長い論文になりました。それにも書いておいたんですが、アジアの文化が輝く秘訣のひとつに宗教があると私は思っています。


▼アジアの輝きの回復は宗教から

  東アジアの宗教がこれから果たす役割は極めて大きい。今日、お集まりの皆様の中に、キリスト教あるいはユダヤ教の方がおられるかもしれない。イスラム教の方もおられるかもしれませんが、それらの批判をするつもりはないのですが、「東アジアの宗教にはこれから果たすべき役割がある」ということを学問的に書いている論文です。決して、今日のテーマがこうだから付け焼き刃で申し上げているのではないのです。時間がありませんが、ひとつは東アジアの宗教は、仏教にしましても神道にしましても、あるいは中国が産んだタオイズム(道教)にしても、どれひとつとして一神教ではないんです。多神教あるいは汎神教なんです。これは、宗教の役割としてものすごく重要なことだと思います。東アジアの宗教に一神教は存在しない。極めて重要なことです。

  今から5年前のことです。ポーランドのワレサ前大統領を――彼は間違いなくクリスチャンですから――関西学院大学が中心になって呼んだんです。その時、朝日新聞が主催してホテル・ニューオータニで講演会が行われました。ワレサ前大統領は労働組合のリーダーで、ソビエトの弾圧に抵抗してノーベル平和賞を受賞された方ですから、「東欧の連帯」について話をされた。私は東アジアの友好と連帯に関することをお話しました。

  その時にいろいろ申し上げたんですが、神道の話になりまして、アジアの連帯が非常に難しいひとつの理由は、宗教が多様なことなんです。例えば、ヨーロッパの連帯が可能な背後には、キリスト教の存在がものすごく大切なんです。プロテスタントとカトリックに分かれていてもです。欧州にはキリスト教文化という共通するものがあります。しかし、アジアの場合は宗教の壁が厚いですから、難しい。

  その時、八百万(やおよろず)の神様の話をしました。「日本には神様がいっぱいいるんだ」と。そうしたら、通訳の人がそのまま訳したんです。「800万いる」(会場笑い)と。そしたら、ワレサさんがびっくりして、「日本には神様が800万もいるのか?」と。思わず吹き出しましたが、ともかく、たくさんの神様がいる。これは本居宣長が日本の神様について『古事記伝』三の巻三に素晴らしい定義をしておられます。宗教界の先生方も機会があれば、ぜひお読み下さい。

  「さて、全て神とは、古いにしえの御文どもに見えたる天地の諸々の神達をはじめて――つまり、古典に見える神様、国常立(くにとこたち)神とか天御中主(あめのみなかぬし)とか、ずっと出てくる神様をはじめとして――その祀れる社にます御霊重々し。また、人は更にも言わず、鳥獣飛走の類、海山などその波にまで世の常ならず、優れたる勲徳のありて、畏(かしこ)きものをば神とは言うなり」と……。これは宣長の日本の「神」の定義です。これはもう、その通りです。

  そして、その後が宣長の偉いところですが、宣長は「優れたる勲の徳のありて」とはどういうことかということを注釈して「貴きこと、良きこと、勲しきことのみにあらず」と述べています。「徳が貴い、立派な手柄を立てた、あるいは畏(おそ)れ多い」ということだけではなくて、「悪しきもの、怪しきものなども世に優れて畏(かしこ)き神なり」と……。これはなかなかです。悪神つまり崇(たた)りをする神、あるいは不思議な霊力を持っている神、こういうものも「優れて畏き神なり」と定義しているのです。 

  これはいわゆる多神教ではありません。あらゆるものに神の霊力を認める汎神論です。こういう考え方は道教にもありますし、仏教にもあります。例えば、真言宗をお開きになった空海、あるいは天台宗をお開きになった最澄も、こういう汎神論的考えを持っておられた。天台宗はもちろん中国、真言密教も中国で開かれたわけですが、長安の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に学んだ空海のこの言葉「一切衆生悉有仏性」はすごい言葉だと思います。「全てのものに仏性があるんだ」という考え……。今日は仏教関係の方もおいでですが、これはとても優れた考え方だと思います。

  平安時代の後期に後白河法皇が編纂された、『梁塵秘抄』という歌集がありますが、その中に「仏も昔はひとなりき。われらも遂には仏なり」という一節があります。これは日本の仏教徒の民衆の心を詠んだ歌と思います。「仏も昔は人なりき」、お釈迦さんにしても皆そうです。「われらも遂には仏なり」これは「悉有仏性」の思想です。

  こういう思想が21世紀に必要なんです。これは東アジアの宗教のものすごいところです。つまり、自然と対決するのではなく、自然の中に神を見出し自然と共存する。自然と調和する。これは東アジアの宗教に共通する重要な要素だと私は考えています。そういう意味で、東アジアの宗教家は自らの宗教を自覚して、誇りをもって21世紀に欧米中心の時代からアジアがその輝きを発揮する時代を目指すべきであると考えている次第でございます。

  時間がまいりましたので、粗雑な講演ではありましたが終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

三宅善信: ありがとうございました。上田先生には私(三宅善信)が無理なお願いをいたしましたのに、非常に広範囲な観点からおまとめいただき、また、最後には宗教者の役割を鑑みてのお話を頂きました。私もこのようなお話を頂戴できるかと思いまして、本日は、国宗の理事をされています住吉大社様はもちろん、今日は出雲大社様もお招きしております。また、環日本海ということでロシア人の先生もお招きしております。

  上田先生もおっしゃいましたように、「裏日本」というのはおかしい。そもそも茶道でも、裏千家表千家と言って「裏」のほうがメジャー(会場笑い)になっていますし、そういう意味でも、この環日本海文化という視点は重要だと思います。韓国の地図を見ますと、確かに日本が「朝鮮半島」と呼んでいる部分の東側の海(註=日本海のこと)を「東海(トンへ)」と書いてあります。しかし、その西側の海には「渤海・黄海」と書いてあるわけです(会場笑い)。これは中国側からの命名ですから、もし日本海のことを東海と呼ぶのなら、渤海・黄海のことを西海と呼ぶべきです(会場笑い)。韓国はどうもダブルスタンダードだなと私も考えておりました。

  今日はまた、いろんな先生方をお招きしております。大阪国際宗教同志会と名前がついておりますが、「国際」を語るためにはまず「日本」を知らなければならない。自分の足許を見ずに「国際化、国際化」とばかり言う人のことを、大阪弁で「アホくさいか」と言いますが(場内爆笑)まさに、「日本というものをしっかりと知った上で、世界と対話していこう」というのが、私ども大阪国際宗教同志会の趣旨でございます。

  この後、10分間コーヒーブレイクを取りました後に、質疑応答の時間を30分間取りたいと思いますので、上田先生にご質問のある先生方、よろしくお願いします。

(文責編集部)