講師の関肇氏 |
▼「安保世代」という言葉の響き
ご紹介を頂きました関肇でございます。只今、ご紹介の中で司会者の方が「安保世代の関肇」とおっしゃったのを聞きまして、ちょっと昔を思い出しました。あの頃の私は、『日米安保条約』の中身も知らず、どちらかというと、「大国アメリカが、勝手なことを日本に押し付ける」ような感情を持ちまして、「けしからん!」という心情と、それから、デモに行くなら行くで、「決めたことは、学生同士一緒にやらなくてはいけない」というようなことで、デモに参加しておりまして、樺美智子さん(註:60年安保闘争当時、共産党員の東大生で、全学連のリーダーのひとりであった樺美智子が6月15日のデモ隊国会突入事件の際に、警官隊との衝突で死亡した)は、私のすぐ傍で亡くなった訳であります。「安保世代」という言葉を聞いて、そのことをちょっと思い出しました。まあ、だいぶん昔になったなあと思う訳でございます。
本日は、大阪国際宗教同志会の先生方の前でお話をさせていただく大変光栄な機会でありまして、本来ですと、こういう偉い先生方にお目にかかるのなら、私がお話しするよりもむしろ、皆様方のお話を聞かせていただいたほうが私の心の平穏のため、魂の救済のためには、良いんじゃないかと思うような次第でありますけれども、「有事」問題という、私共の専門分野が本日のテーマになっていることもありますし、何よりも私自身を知っていただきたいということもありまして、ひとまずは、私のほうからお話しさせていただきます。
▼北朝鮮が急に態度を変えたわけ
ここ(看板)に、「有事とは何か?」と書いてございます。もちろん、これについてお話ししたいと思うわけでございますけれど、最近、新聞・テレビなんかを見ましても、連日、北朝鮮の問題がたいへん多く出ています。それについて、やっぱり一言喋しゃべらせてもらいたい……。それも、私の勝手な印象みたいなものを中心に話させていただきたいんですけれども、北朝鮮は今、大変な方向転換をしているというふうに思います。
というのは、まず、このあいだの日朝首脳会談で拉致疑惑を簡単に認めたこと。それから、5人の方の一時帰国を許可した。もちろん、あの方々はかなり辛い目にあって、洗脳されておられるんでしょうけれども、一応、返してきました。それから、昨日(10月17日)の発表ですけれども、アメリカのケリー国務次官補が、北朝鮮に行きまして、「あなた方は(米朝合意で凍結されたはずの)核開発をしている。そういう証拠を持っている」と言いましたら、あっさりそれを認めてしまった。北朝鮮という国は、今までどんな悪いことをしても、絶対に罪を認めない。自分たちの都合の良いように話を持っていって、相手から取れるものだけ獲ろうという態度であったのに、あそこまで方向転換した。これにはもちろん、大変な経済的な苦境が背後にあるわけです。
アメリカが、北朝鮮やイラクなどを「悪の枢軸」と呼んで、実際イラクに対しては、非常に強行な姿勢を執ろうとしている。あれで「北朝鮮も震え上がった」と言う人もいます。もちろん、それもあるでしょうけれども、一番の問題は、国内が立ちゆかなくなってるわけですね。この8月頃に経済制度を変えまして、長年、食糧は配給制度だったのに、お金を出して買うようにした。その代わり給料も上げた。しかし、――給料も上げたが、物価のほうがもっと上がってしまったという記事を見ますけれども――ああいう統制経済の国で、経済制度を変えるってことは大変な冒険でありますし、たいていは、体制がひっくり返るものですね。
関肇氏の講演に真剣に耳を傾ける国宗会員諸師
|
北朝鮮は、1995年ぐらいから自然災害が続き、食糧危機に陥っています。というのも、地理的にトウモロコシを植えてはいけない(適さない)所に金正日(キム・ジョンイル)の命令だからといって、勝手に山林を掘り返して、山に保水力がなくなったせいと言われておりますけれども、毎年、50万人、100万人単位の人が餓死している。もう4〜500万人死んだという説もあります。北朝鮮の人口が2,000万人とか2,400万人と言われておりますけれども、2,000万人として400万人亡くなれば、5人に1人は餓死しているわけですよね。大変な状態です。
ところが、その独裁者というのは、あくまで「過酷なことをやってきた」ということにたじろがなければ、たとえ国民の半数が死んでも頑張るかもしれないですね。これは、独裁権力が強ければ強いほどそうなんで、例えば、ドイツは第二次世界大戦の際に、ヒットラーが死ぬまで抵抗しましたよね。あれは、ヒットラーの独裁権力がそれだけ強かったということです。ところが、同じ枢軸国でもイタリアは、ムッソリーニに対して――ご存知とは思いますが――バドリオ元帥が反乱を起こして、ムッソリーニを追放した。日本の場合には、軍部はもう意思決定ができなくなって、最後に天皇陛下が介入されて、敗戦を受諾した。
これらの例から判りますように、ヒットラーの場合のように、独裁権力が強ければ強いほど、独裁者の意志で、国民が最後まで引きずられるわけです。ところが、今回、金正日は、あっさりと拉致疑惑を認めてしまいました。独裁権力というものは、ひとつには、武力によって支えられるということがありますけれども、それ以上に、「この権力が正しい。将軍様(金正日)が正しいんだ。将軍様は決して誤りを犯さないんだ」という信仰が国民の間に植え付けられていないと、その両面がないと維持できないものがあるんですね。
ところが、その(間違いを犯すはずのない)金正日自身が拉致疑惑を認めたということになりますと、もちろん、そのことは国内ではできるだけ隠しておくでしょうけれども、自然に見えてきますよね。そうすると、将軍様の権威というものがガタガタになるわけですね。金正日はそういう危険を冒してまで、あれを認めざるを得なかった。それだけ、日本からの援助が欲しかった。切羽詰まっているんだろうと思います。
まあこの後、どの程度まで彼らが頑張れるのかどうかは判りませんけれども、ともかく、現在の時点まで、彼らは一種の鉄の意志のように思われていたのですが、遂に、その一角が崩れたと思うんですね。例えば、変な例かもしれませんが、極悪犯人が警察に捕まって取り調べを受けている時に、何を言われても認めずに頑張っている。ところが、ある時、ひとつのことを白状すると、それがきっかけになってズルズルっと白状しちゃうんですよね。それはやはり、「頑張る」という鉄の意志が崩れたからです。もし、金正日がそういう心理状態になったとすれば、北朝鮮の崩壊は案外早いんじゃないかという気がいたします。
▼平和にはいろんなレベルがある
北朝鮮の現体制が崩壊した場合、その結果(北東アジア地域の安定が)どうなるかということは別としまして、現実に拉致された方々が大勢おられる。一般的に私共日本人は、戦後50年間は「平和」だと思って生きてきました。確かに、外国に軍隊をもって攻めて来られるということはなかったです。そういう意味では平和でした。この会の最初に、「平和の祈り」がありました。これはたいへん大事なことで、「素晴らしいお祈りだ」と思って伺っていたわけですけれども……。
おそらく、宗教者の先生方たちがお考えになる平和というのは、単に戦争がないという状態ではなく、心の平安も含んだ非常に理想的な姿であるのだと思います。しかし、私共のように、現実政治をみるものについては、(理想としての)平和は大事であるけれども、国際社会というものは、絶えず紛争があるわけで、もし、その平和が崩れた時には、その中でどうすればいいのか? ということを考えざるを得ません。例えば、拉致された方々やその家族の方々には平和があったんだろうか? 国民全体が気が付いていなかったのだけれども、一部の国民(拉致家族)にとっては、この二十数年間は平和な状態ではなかったんですね。
もし、ああいう事件が中国に対して行われたら、中国は猛反発しただろうと思いますよね。冷戦中のフィンランドとソ連の関係が参考になります。軍事的に見ると、フィンランドというのは小さな国で、ソ連は超大国です。しかも、フィンランドのほうは中立国ですから、安全保障上、この国をバックアップしてくれる国はあまりないわけです。事実、ソ連のほうから小部隊が国境を越えて入って来て勝手なことをするということは、なきにしもあらずだったわけですが、それに対して、フィンランドはいつも毅然とした態度で対応した。
これらの例に比べて、北朝鮮による拉致事件に対して、日本政府は毅然とした態度を取ってこなかったわけですよね。工作員というのは北朝鮮の軍人のことですよ。それから、工作船や不審船が日本の領海の中に入ってくる。これらはみな、言ってみれば軍艦ですよね。政府の部隊に属する船です。それらの船が、勝手に日本の領海に入って来てまた勝手に出ていく。それを日本政府がなんとも思わなかったというのは、これは大変な問題だったと思います。
ですから、拉致被害にあった人たちにとっては、既に有事だったわけです。国家という立場から見れば、領土を守るだけじゃなくて、日本人一人ひとりの安全を守る、自由を守るということは、防衛の第一段階だと思うんですよね。それを日本政府はしていなかった。
▼なぜか北朝鮮や中国に弱腰な日本政府
北朝鮮や中国に対して、日本は常に低姿勢な態度を取ってきました。こういう拉致疑惑などは、随分と以前から一部で問題にされてきましたし、それから、公安当局なんかは、いろいろ気が付いていたわけですね。ただ、これを具体的問題として、公おおやけに取り上げるようになったのは、国会では、大阪選出の西村真悟議員が、採り上げたのが初めてだと思いますし、マスコミでは、産経が採り上げたのが最初ですね。
何故そうなったのかといいますと、佐藤勝巳さんという拉致問題についていろいろ本なんか書いて活動しておられる方が、『何故、日本が朝鮮半島に対して弱いのか?』という本を書いておられますが、その中で、「朝鮮総連の動きが恐かった」と指摘しています。例えば、何か彼らの不正を指摘すると、物凄い電話攻勢をするんだそうですね。そのうち、担当官の自宅にまで無言電話なんかがあって、個人としては耐えられないような精神状態にするとか、あるいは、総連の下部機関である朝鮮銀行信金などは、常にいろいろ怪しげなお金が出ている。そういうことが次から次へとあったわけです。
それから、日本には「朝鮮半島に対して、(たとえ相手が悪かったとしても)強い態度は取るべきでない」というなんとなしのムードがありましたよね。ひとつには、戦後、日本が独立を回復するまでは日本はアメリカの占領下にあったわけですが、その占領政策の中で、「朝鮮半島に対して、日本は批判的なことを一切してはいけない」という一文があったわけですね。日本国憲法では、「表現の自由」ということが、高々と謳うたわれていますし、連合国側が、敗戦国である日本に認めさせた『ポツダム宣言』でも、そういうこと(「表現の自由」)は言っているわけです。
それにも関わらず、アメリカは日本を占領して東京裁判をやり、昭和26年に独立を回復するまで、アメリカも厳しい検閲を日本にしたわけですよね。日本人も1万人ぐらいがその下で雇用されて高い給料を貰って日本占領政策に従事しとったということのようですけれども、そういうこともひとつの原因であるかもしれません。昭和20年の終戦まで、朝鮮半島と日本とは特別な関係(註:明治40年以来、朝鮮は大日本帝国の一部であった)にありましたし、したがって、朝鮮半島に対してそれなりの気持ちを持つのは大事でありますけれども、それが形を変えて、こういう拉致疑惑を勝手にさしておいても良いというような日本人の気持ちとなっていたわけです。それが一番の問題ではないかと思います。
◆有事における自衛隊の行動とは
先ほどの開会挨拶で、大森会長先生が、「有事法制」の整備の必要性について、防衛庁の代わりに適切なことをおっしゃって下さいました。概要は、それで尽きているのでありますが、それでは専門家として、本日私がこの場に来させていただいた意味がございませんので、少し詳しくお話しさせていただきたいと思います。
お手元にレジュメがお配りしてあります。先日、準備のための資料としてFAXで送ったら、ちょっと見えにくくなってしまい申し訳ございません。「有事法制」と申しますのは、まず、資料にございます『自衛隊の行動に関わる法制』と、二番目は、『国民の生命財産の保護のための法制』の整備のことであります。
『自衛隊の行動に関わる法制』という意味では、会長先生がご指摘下さったように、(有事に)自衛隊が行動する際、例えば、どこかに陣地を造らなければならない事態が発生した時、「その場所に建っている民家を接収してもいい」という規定があるんですけれども、それじゃ立木はどうするのか? それについての規定がないから、立木を切ってもいいようにするとか、いかに自衛隊がスムーズに動けるようにするかということです。現行の法制では、自衛隊があっていかに装備を持っていても、国内で動き回るには大変な制約がある。
それをなんとかしようというのが、有事法制の大きな目的のひとつであります。二番目の目的である『国民の生命財産の保護のための法制』というのは、実は、今回は上程されておりません。将来的には、この両方が整わないと仕事になりません。自衛隊が、国民の生命財産を保護するために、国内である程度自由に動けるようにすること……。例えば、高速道路において、敵が占領している地域から人々が逃げてくるような場合、それをコントロールして、左側の道路は避難する人々に使ってもらって、右側は自衛隊が専用レーンとして使うようにして……。というようなことは、現在の自衛隊の権限ではできないんですね。しかし、実際には、そういうことをやらなければ、自衛隊があったって何もできない訳で……。
今頃こういう法律を作ろうというのは――今まで、できなかったということは――日本が国家としていかにのんびりしていたかということです。これは、北朝鮮の工作船が長年にわたって日本の国民を拉致していった。それを当局は見逃していたということと同じ感覚じゃないかと思うんですね。国会あたりでよく言われた言葉に、「見通しより、近い将来」というのがあります。近い将来、日本にどこかの国の正規軍が攻めてくるというようなことはちょっと考えられません。冷戦時代には、ソ連が日本に攻めてくるっていう可能性もありましたけれども、今のところ軍事バランスから言うと、中国とかロシアが攻めてくることは、ないだろうと思います。
ですから、多少分かった人のほうが有事法制に対する反対を唱えたようですね。「今すぐ必要ではないじゃないか。だから先に延ばしてもいいじゃないか」というのが、多少分かった人の反対論なんですね。それは、例えば、「消防車の前の車輪が外れているけれど、火事はまずここのところ起こりそうにないから、慌てて車輪をくっつける必要はないだろう」というのと同じような、おかしな議論であります。
◆核疑惑に無頓着な日本人
しかし、「有事法制」は本来なくてはならないものです。有事というものは、いつどこでどういう時に起こるか判らなから有事なんです。例えば、北朝鮮による拉致事件。拉致された人たちやその家族にとって、これは完全に有事ですよね。日本の国民が北朝鮮の工作員によってむりやり拉致されたのですから……。ということは、本来、日本国にとっても有事のはずですよね。国民の生命財産が武装した外国人によって脅かされたのですから……。それが、長年見過ごされていたという心理状態は、国全体に対する有事に対して、「いつ起こるか判らない状況にわざわざ法律を作って準備しなくていい」という心理状態と同じだと思うんです。
そういう潜在的危険というものに対して、はたして鈍感でいいのだろうか……。という、そこがポイントだと思うんですね。軍事的には、「日本はアメリカの保護の下にある」と言って差しつかえないと思うんですね。それが今度、北朝鮮が、自国の核疑惑に対して、あっさり認めてしまった。昔だったら、とことんシラを切ったんだと思いますけれども、簡単に金正日(キムジョンイル)が認めた。この間(9月17日)の日朝首脳会談の前に、米国から「北朝鮮が核開発を続けているらしい」という情報が、日本政府に伝えられていたそうです。
ところが、小泉さんは、日朝首脳会談でそれに対する追及はあまりしなかった。会談では、「朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した」というような文章が一応入っていたのですが、拉致問題に対して、あんなにハッキリと北朝鮮に「やった」と認めさせながら――やっぱり、あの時のやり方は非常にまずかったんじゃないかと思う面もある訳ですが――「北朝鮮の核兵器開発については、あまり追及しなかった」と、今日(10月18日)の産経新聞で小泉さんは非難されてますよね。しかし、これは日本国民全体の考えがそう(核問題に甘い)なんだからだろうと思います。
その点、アメリカは核疑惑に対して非常に敏感です。たとえ、核弾頭を造っても、核というのは、運搬手段として、爆撃機で持って行って落とすか、ミサイルを飛ばすか、そういうことでないと使えない訳です。北朝鮮が今、開発しているミサイル――3年前に日本列島を飛び越して三陸沖まで飛んだ――テポドンは、アメリカ本土まで届くとか届かないとか言われていますけれども、むしろ(北朝鮮からの距離がアメリカより)はるかに近い日本のほうが、ミサイルが飛んでくる可能性が高い訳ですね。テポドンは、核ミサイルとしてだけではなくて、炭疸たんそ菌なんかを弾頭に詰めて生物兵器として使用することもできるし、それからサリンみたいな毒ガスを詰めて化学兵器として攻撃することもできる。そういうことに対して、潜在的な危険が指摘されていても、日本人はあまりピンときていない訳です。
日本は、世界で唯一原子爆弾の洗礼を受けて30万人近い人が亡くなったのですから、「核兵器反対!」と強く思うのは当たり前ですよね。事実そういう運動が盛んです。「世界中から核兵器を無くしたい」と思うのは当たり前のことですけれども、同時に、現実に核兵器が配備されていて、それが日本に対して向けられているということに対しては、あまり関心を持たない。まことに不思議なことです。
◆核抑止とはどういう考え方か
ちょっと昔の話になりますけれども、まず核抑止という考え方について説明申し上げます。こんなこと、わざわざ申し上げることはないかもしれませんが……。核兵器というものは、相手から先制攻撃されたら、こっちは酷い目に遭う。国家機能が壊滅状態になるかもしれない。しかし、少しでもこちらの核兵器が破壊を免れて生き残れば、これを用いて報復攻撃をすれば、相手も同じような目に遭わすことができる。だから、きちっとした報復攻撃のできる能力さえ持っておれば、相手から先制攻撃を受けることはないという考え方です。これは、一種の仮定の上に成り立っている、ある意味「危ない論理」ではありますけれども、長年、アメリカとソ連は、ICBM(大陸間弾道ミサイル)を相手に向け合って相互にバランスを取るという関係にありました。
ところが、冷戦中のことでしたが、ソ連がSS20という射程4,000kmくらいの中距離核ミサイルを開発したわけです。それはもちろん日本にも向けられていましたが、主にヨーロッパに対して向けられていました。そこで、ヨーロッパは何を考えたかというと、「もし、SS20でヨーロッパだけが攻撃されたら、アメリカが、自ら危険を冒してまでソ連に報復攻撃をしてくれる保証はないだろう」ということです。というのは、ヨーロッパだけが攻撃を受けたとしても、アメリカ本土はなんともない訳ですよね。そういう時に、アメリカがソ連に報復攻撃をしたら、ソ連もまたアメリカ本土を攻撃するでしょう。そうしたら、アメリカまで大変な被害を受けてしまうから、アメリカはそこまでやらないんじゃないかということになりますね。抑止力としての核の均衡バランスが崩れた訳です。
そこで、ヨーロッパはアメリカ製のパーシングUという、やはり中距離の核ミサイルを導入したんです。その時にもいろいろな議論がありました。「もしソ連がSS20を撤去すれば、自分たちも撤去すると……。しかし、これを配備すればこちらも配備するんだ」というようになったんですね。
その頃、私はヨーロッパにおりまして(註:当時、関氏はジュネーブの日本代表部に勤務していた)、やはり、ソ連の謀略活動で、欧州におけるNATO軍のパーシングUミサイルの実践配備への反対運動が起きたんですけれども、幸いそれほど大きな反対運動にはなりませんでした。
私は合気道をやっておりまして、(外交官という)仕事以外でも、合気道を習いに来ている学生の方とかとの付き合いもありましたが、女性に会うと、ほとんどの人が「欧州のパーシングU配備に反対だ」って言うんです。「じゃあ、ソ連のSS20がどういうものか知っているのか?」と聞くと、正直言って、全然知らないんです。だから、そういう反対論も、あんまり現実を知らない市民が、一方的な宣伝に乗せられた反対運動だったようにも思います。
◆核武装しないことと核について考えないこととは別物
翻って、日本はというと、戦後ずーっとソ連の核の脅威に晒さらされていたし、今でも中国には、日本に照準をセットして配備してある核ミサイルもある訳ですね。ところが、日本人はそれにどう対抗するか全然考えないんですよね。自らの理念として「核兵器を作らない。持たない。持ち込ませない」のいわゆる『非核三原則』を遵守して、核武装について一切それをクリーンにしていく……。それはそれで、ひとつの考え方としてはいいのだけれども、それじゃ、それに代わる(核兵器を有する)相手に対する抑止効果はどうするんだ? ということを考えてないわけでしょ。小泉さんだってあんまり核兵器の怖さなんてピンときていないんだろうと思いますよ。日本の場合、北朝鮮の核疑惑の追及にしたって、日本には査察をする能力なんてないんですよね。
自衛隊というのは、国是として核兵器はもちろん持たないけれども、もし、核攻撃をされた時にどうやってそれを対処するか、防衛するかということも考えてこなかった。それは何故かというと、「そういう研究をやるということは、核兵器を持つことに繋がるんじゃないか」というような攻撃が、左のほうからあったんです。しかし、自国が核武装しないということと、誰かに核攻撃を受けた場合にどう対処するかということを考えないということとは全く別物です。
それでも、一切、核戦略に対する知識もないし、それほど大きな問題にはしなかったんだろうと思いますが、私なんかやっぱり「こんなことでいいのかな?」と思います。確かに、第二次大戦後、実践で核兵器が使われたことは一度もなかったですし、日本が核を使って威嚇されたということもなかったし、国内は平和だった。しかし、まあそういうことでいいのかなということがひとつですね。
◆同時テロのおかげで覇権を拡大した米国
それから、時間があまりありませんので、ちょっと別のことを申し上げたいんですが、昨年(2001年)9月11日の「同時多発テロ」で、ビン・ラディンはアメリカに攻撃を加えた。アメリカは被害を受けた。そして、その結果どうだったかと……。私は、アメリカはそのおかげで大いに覇権を拡大したと思っております。手元に地図がありますが、ここがアフガニスタンです。これがパキスタン。このテロ事件に対して、アメリカは、「テロの首謀者はアルカイダだ」と決めつけて、そのアルカイダをアフガニスタンのタリバン政権が保護している。だから、アフガニスタンを攻撃するんだという自己正当化を行い、それでアメリカがアフガニスタンを攻撃した訳ですよね。テロに対する掃討作戦です。
しかし、その後、中央アジアのウズベキスタンからタジキスタンに、米軍は空軍基地を設置しているんです。これは1月(2002年)頃の新聞記事だったと思いますけれども。3,000人程の米兵を常駐させています。20年か30年間の期限で、中央アジアに米軍基地を租借したということです。
これが軍事的にどういう意味を持つかと言えば、かつての敵国だったソ連に対する抑えという意味もあるし、中国に対する意味もある。中央アジアのカスピ海の沿岸というのは、大変な石油が埋蔵されているところです。サウジアラビアとかイラクといった湾岸諸国よりも埋蔵量が多いという説もあるし、まあそれほどでもないという説もありますが、いずれにしても、サウジアラビアやイラクといった湾岸諸国の原油に対して、日本は80%以上の依存率がある訳です。アメリカもそんなに高くはないですが、それなりに依存している。
しかし、新たにもうひとつそういう地域が出現して、原油の一極依存が分散すれば、非常に危険リスクが分散されるという訳です。かつてのオイルショックのように、湾岸諸国が、石油の輸出をコントロールするということになりますと、各国大打撃を受ける訳ですが、その時にカスピ海の周辺から原油が取れれば、危険リスクが分散され、湾岸諸国の思うままにさせないという訳です。これは非常に大事なんです。
中央アジアの地図を示して
地政学的な解説をする関氏
|
コーカサス地方カスピ海沿岸のバクー油田というのは――ご年配の方はおそらく昔の地理に出てきたので覚えておられるかと思いますけども――ここは大油田で有名だったところです。二十世紀の初めには全世界の原油の50パーセントを産出していました。ノーベル賞を創設したノーベル兄弟が、ここで大石油会社を経営していた訳ですね。
ところが、1917年にロシア革命が起きて、労働者が油田に火を放ち、ほとんど灰塵に帰してしまった。第二次大戦後も、ソ連にとってここは重要な石油の産地でしたので、経済力の弱かったソ連は、石油を輸出し、外貨を得ることによって、なんとかその経済危機を凌しのいできた。しかし、その後、機械設備の老朽化が進み、例えば、無理して地下の油脈に水を注入して(その圧力で)石油を汲み上げていたのですが、あまり生産量が上がらなかったんです。ところが、今や欧米の資本と最新式の掘削技術が入ってくると、あらためて「ここら辺が戦略的に大事だ」ということになったんですね。
私は、先ほど申し上げたように、タジキスタンやコーカサス地方にアメリカが空軍基地を持ったということは、戦略的に当然だと思うんですね。ここに欧米の石油資本メジャーが入り、ロシアの石油資本も参加して、CPC(カスピ海パイプライン共同体)のパイプラインとか、BTC(バクー・トビリシ共同体)のパイプラインを造って、この地方の石油を世界市場へ売り出そうとしている訳です。
そこで、何かことがあったら、サッとここ(中央アジアの米軍基地)から軍を持って行き……。それで、占領するなり、破壊するなり、あるいは、「敵」のそういう行為を防ぐことができる。アメリカはそういうことを考えていて、やっているんじゃないかと私は推し量ってるんです。アゼルバイジャンには、やっぱり、ロシアが基地を租借したそうです。ソ連邦崩壊前は、これらの地方は全部、ソ連邦の一部だった訳ですね。ですから、軍事の背後には、やはり、国家にとって「利権の確保」という動きが必ずある訳です。
◆後方支援という国際貢献だけで十分か?
今回、日本は『テロ対策特別措置法』を成立させて、アフガニスタンに展開する米軍の後方支援を行うということで、インド洋に海上自衛隊を派遣しました。具体的な後方支援活動としては、実戦展開する米軍艦船に燃料の補給をしています。とても暑いところで、海上自衛隊にとっては大変重い負担でしたけれども、アメリカの国防総省ペンタゴンが、『世界各国の対テロ戦争に対する貢献度』ということを発表した時に、今回も(1991年の湾岸戦争の時と同じように)日本の名前が抜けていたんですね。しかし、日本政府が異議を申し立てしたら、今回はすぐに追加してくれて、「日本は大変役に立っている」とあえて言ってくれた訳ですけれども……。「日本はこういう時には(国際協力を)やります。しかし、戦闘場面には出て行きません。それから、戦闘に直接加担するような武器なんかの輸送や補給はしません」ということです。最近になってようやく「油(燃料)ぐらいはいいでしょう」となった訳ですけれども……。
こうやって、後ろで米軍を助けている(後方支援)だけの行為は、欧州の軍隊やロシアがやっている直接支援に対して、ものすごく差がある訳ですよね。これが良いか悪いかということについては、今の日本社会の雰囲気からすると、「悪い」ということになるのかもしれませんけれども、日本に対する石油資源の安定的な供給と、それを確保するという観点からすると、私なんか、自衛隊の海外派遣を頭から否定する訳にはいかないような気がするんです。
防衛ということは、第一義的には、直接日本に侵略があった時に、それに応戦するのが防衛であることは言うまでもありませんが、直接侵略というのは、別に、正規軍による全面戦争でなくても、ゲリラとかが入ってきた時に、これに対応するのも侵略に対する対応です。
一方、「安全保障」というと、国が平和で繁栄していくということ自体そういうものが安全保障です。安全保障というのは、政治・経済・文化を含めた総合的なものですが、その背後には、常に軍事っていうものがあるんですね。国際社会では常識です。良い悪いは別として……。そういうものに対して、日本は「関係ない」と、自分たちだけは「米軍の後で、米軍に言われただけのことをする」それも、なるべく「お金は渡すけれども汗は流さないようにする」というようなことで、いつまでもつのかなという気がします。
今、世界中で米国に対する反感というのはかなりありまして、世界一の大国で、どこにも敵はいない。軍隊の力、例えば、兵器の性能なんていうのは、ヨーロッパの軍隊でも対抗できないんです。真っ暗闇でも昼間と同じように行動できるのは米軍だけです。ロシアも技術が進歩したといっても、相手にならないです。自衛隊だって、もちろんそうですね。
そういう国が、イラクで「世界中の賛成が得られなくてもやるんだ」というのは、やっぱりわれわれから見て、賛成し難いものがある。そこで、アメリカを見る場合に、それがどういう政権か? ということが、やっぱり大事だと思います。クリントン政権の場合は、今のブッシュほど軍事力を動かすことはしなかったかもしれませんけれども、あの政権は「中国と仲良くやろう」という政権(つまり、日本軽視)でしたよね。
今のブッシュ政権は、「日米関係が大事だ。日本が最大のパートナーだ」と、それから「日本が外交で独自性を持ったって、それはいいじゃないか」ということまで言っている訳ですね。どちらかというと、これまでアメリカは、「日本が外交で独自性を持つのは嫌だ。それは容認できない。あくまでアメリカの影響下でことを進め、実質的な意味で、表立ってもらっては困る」という態度でしたけれども、今はそうじゃないんですね。ですから、そういう政権とは仲良くしたほうがいいんじゃないか、という気が私はしております。
◆金正日政権崩壊のシナリオと日本の負担
北朝鮮の問題に戻りますと、先程、申し上げましたように、金正日(キムジョンイル)政権というのは、自分で墓穴を掘った。案外早く崩壊するんじゃないかという気がします。私がそう思うだけでなくて、あそこも国民全般大変な苦しい状態な訳ですね。餓死者が毎年100万人も出るというのは普通じゃないですよ。それ(現体制)を守るひとつの要素は軍隊ですけれども、軍にだって食糧が足りないというような影響が出てきているはずなんです。
一方、あくまで、将軍様(金正日)が偉い訳ですけれども、その権威がいったん揺らいでくるとなると、何か起こるんじゃないかと……。ただ、ソ連なんかでは、ある独裁者が死ぬと、その次に権力闘争があって、誰か次の人が出てくる訳ですね。ところが、ルーマニアと北朝鮮というのは、これは共産主義体制の中では異例な世襲制なんです。金正日には、金正男(キムジョンナム)という――日本に遊びに来て、入管で捕まって、ご丁寧にも日本政府が大事に送り届けた人がいますけれども――息子をちゃんと後継者として育てていっているかというと、そうとも思えないんですね。
そうだとすると、軍の中に、金正日を倒して(自分が取って代わろう)という人がいるかというと、非常に難しいような気がするんです。たとえ、いたとしても、金正日を倒して「全てあいつが悪かったんだ」と、だから拉致疑惑も彼の所為せいにして、「なるべくどうだったか事実関係を明らかにしましょう」とごまかして、アメリカには「核開発もしません」という尻ぬぐいの仕方をすると思うんです。
しかし、金正日が不在となったとしても、結局は政権がもたなくなって韓国に併合されると思うんです。南北一体となるのはいいんですけれども、今度は韓国経済がもつかと言いますと、これまた難しいでしょうね。西独が東独と併合しました。その結果、西独の経済の活力が非常に落ちたと言われていますよね。かつては、ヨーロッパの経済の牽引車だったのが、そうはいかなくなって、ドイツの失業率は高くなっているし、なんとなくパッとしない。それは東独と併合したからです。東独というのは、東欧諸国の中では優等生と言われ、最も工業が発達した国だと言われていました。それでも実際に統合してみたら、全然問題にならない。西ヨーロッパの技術、生産能力にとても追いつかなかったようです。
今、北朝鮮がどうか? 超高速の工作船なんか造ったりしていますが、全般的に技術レベルが低いです。一人当たりGNPも非常に少ない。それが韓国と一緒になってどうなるか? これは韓国にとったら大変な重荷だと思いますね。単に、経済的にゼロに近いので、足したら平均が半分になるもんじゃなくて、(北朝鮮の)人間の頭の中が、「働いて食べよう」というふうにはなってないはずなんですね。あんまり労働意欲がなくても、工場へ行って一定の期間そこに居て帰ってくると、お金を貰えるっていうふうな……。ソ連がそうでしたけれども。そういうところにいる人たちというのは、ものの考え方が違うようにできているんで、そういう人たちを教育し直して、資本主義的な生産過程の中に入れて、うまくやっていくというのは大変な負担ですよね。
それでどうなるかというと、結局「日本がお金を出せ」ということになると思うんですよね。当然、アメリカはそう言ってくるでしょう。中国にお金を出す余裕はあまりないでしょうし、出す気もないでしょう。それじゃ、日本はどれだけ出せばいいんだろうか? 確かに、朝鮮半島に対して親近感を持っている方は「やっぱり出さなくてはいけない」と思われる方もいるでしょうし、若い方は、戦後五十年、日韓関係はいろいろ(援助して)やってきたけれども、「もういい加減にしてくれ」という気持ちもあるというふうに聞きますけれども、そういう人たちは、「出さなくていい」と考えるかもしれない。だから、(もし、北朝鮮が崩壊したら)「どのくらいの援助が必要なんだ」ということは、本当は検討しとかないといけないと思うんです。しかし、そんな検討はどこでもされてないんです。
韓国の金大中(キムデジュン)大統領は、太陽政策といって、なるべく北朝鮮に対する融和政策を取ろうとしてますけれども、彼の肚はらの中は、「今、少しお金を出して、少しでも北朝鮮の金正日政権にそのまま残ってもらいたい。あれがぶっ潰つぶれて韓国と一緒になったら大変だ」という気持ちがある。だから、ああいうこと(太陽政策)をやっているんだという人もおります。
◆韓国の姿勢が変わらないのなら
そこらへんはどうするのかというのは、やはり、今から考えておかなければならないんじゃないかということです。日本と韓国っていうのは、過去にいろんな経緯があって、私は、日本は韓国に対していろんなことをしてあげてきたと思うんですよね。韓国の経済危機の時だって、100億ドル出してあげているんです。
ただ、この間のサッカーのワールドカップ。あれで「日本は韓国と仲良くするために一緒にやりましょう」と「一緒に」っていうのを打ち出した訳ですよね。それで、順位が、韓国(ベスト4)と日本(ベスト16)じゃ、韓国が上になったんです。日本人は「それで良かったじゃないか」って言ってましたよね。しかし、新聞で見る限り「韓国では、絶対日本に負けちゃいけない。上になって良かった」と言ってた訳ですけれども……。日本は「韓国との関係をみると、むしろ下になったことが良かったんじゃないか」という人さえありましたよね。
しかし、その後どうだったか……。すぐ韓国が発表したのは、国際機関に「日本海を東海トンヘと改称するように」と働きかけたでしょ。なんでそんなことしなくちゃいけない。そして、「独島(竹島)を(韓国の)国立公園にしよう」と……、島根県は、「竹島は自分ところの領土だ」と言って、本まで作っていますよね。だから、「(領土問題で見解の相違があるのなら)国連の国際司法裁判所に、その問題を提訴しよう」と日本は言ったんです。そしたら韓国は「嫌だ」と言った。
日本は今まで、韓国を大事にしてきた。しかし、向こうも「ちょっとはこちらと仲良くする姿勢を見せてくれよ」と、私は思います。最近、韓国のほうでもいろんな本が出るようになった訳で、今、日本国内でベストセラーになっている『親日派のための弁明』というキム・ワンソプとかいう人の本がありますよね。この人は日本語は全く喋しゃべれない。物理学畑出身の方なんですね。その人が歴史をいろいろ勉強して、「李王朝の頃は酷かったんだ。日本は明治維新で現代化したけれども、韓国を近代化しようとして日本に協力した人たちは、それなりに理由があったんだ」ということを書いているんです。その本が今、韓国では、ビニール本っていうんですかね、青少年に対する有害図書になってるそうですよ。
だから、韓国には「言論の自由」があるのかって気がする訳ですが、やっぱり、もう少し考え直してくれてもいいんじゃないかと思います。本当に心の底から仲良くなるということが、平和であり、また安全保障なんですね。ところが、こっちがいくら努力しても、そうしてくれない相手はどうするんだと……。これはやっぱり、宗教家の方として、われわれ俗人とは多少発想が変わってくるのもやむをえないじゃないかという気がします。ちょうど3時になりましたので、話は以上にさせていただきます。どうも有難うございました。
(連載おわり 文責編集部)
三宅善信 それでは、質疑応答に移らせていただきたいと思います。ご質問等があられる先生は、記録の関係がございますので、まず所属とお名前をおっしゃっていただきまして、ご質問をいただきたいと思います。最初に、司会の私から何点か、突端という形で申し上げさせていただきたいと思います。
これまで、大阪国際宗教同志会では、現代社会におけるいろんなテーマについて、さまざまな分野の先生方にお話を伺ってきました。今回は、実際に防衛政策の第一線にお立ちになっておられた先生のお話だったので、たいへん貴重な機会でした。お話し中にございましたカスピ海沿岸の旧ソ連邦の中央アジア5カ国の話につきましては、数年前にロシア連邦の元総領事のコマロフスキー先生をお招きして、イスラム原理主義との関係でお話しいただき、また「日本海と東海(トンヘ)」の問題につきましては、去年、古代史学者の上田正昭先生が「環日本海問題」についてお話し下さいました。ですから、私ども大阪国際宗教同志会が取り上げてきたテーマというのは、ある意味では時代の先取りを十分させていただいたんだなと思わせていただいた訳でございます。
そこで、私の質問ですが、日本は唯一の被爆国であるのにも関わらず、これまで、核問題ということ――もちろん、平和利用としての原子力ではなくて、現実に存在する軍事力としての核兵器という意味でございますけれども――に対して、日本人は非常に鈍感であったと……。確かに理念としての反核運動はあるわけですけど、具体的な実際的な抑止力あるいは、実際に核兵器を使う使わないという意味での面では、鈍感であったという意味の事をおっしゃった訳でございますけれど、それにはひとつの原因があると思うんですね。
というのは、国是としてきた「非核三原則」につきましても、米ソ冷戦体制の時に、日本は、アメリカのいわゆる「核の傘」の中に入っていたのですが、この現実をできるだけ「見ない」ようにしてきました。ということは、日本に立ち寄る米軍の艦船や航空機等が、その塔載された核兵器を、グアム島までは核兵器を搭載してきて、わざわざ日本に立ち寄る時だけ外して、またグアム島へ戻って積み直して……。そんなこと、現実問題として誰が考えてもあり得ないことなのに、日本政府の国会答弁としては、日米事前協議があるから、もし(米軍が核兵器を)搭載してるのなら、(日米安保条約に定められた)事前協議をするはず。しかし、これまで一度も事前協議の申し込みがなかったんだから、米軍は核を持ち込んでいないんだろうという、いわば一種の詭弁を歴代の政府が繰り返してきたせいで、逆に、周辺国が日本に核兵器を向けておるという事実に対しても、なんと申しますか、アメリカ軍の持っている核にもわざわざ目をつぶってきたということが、近隣の諸国が持っておる核に対しても見て見ぬふりという、姿勢になってきたのです。同じことが最近よくございますですね。あの食品偽装ラベル張り替えとみんな同じ体質ですよね。都合の悪いことは、見て見ぬふりをしてきたという体質を戦後の日本は作ったんじゃないかなと思います。そのことについてまずお尋ねしたいです。
関 肇 防衛庁にいた頃、内閣安全保障参事官として、官邸に出向したことがありました。その時に、私は、(国会の答弁用に)「潜在的敵国」という言葉を作ったんですね。そしたら、それは全然、国会で問題にならずに通っちゃったんです。潜在的敵国と仮想敵国とどう違うんだ? (会場笑い)と……。だから、当時、恐らく野党も、米軍や自衛隊がソ連を相手にしてるのも分かってるし、ソ連が仮想敵国ということが分かってたから、やっぱり潜在的敵国という表現を認めちゃったと思うんです。だから、まずそういう真実をはっきり見ないと……。
それで、この国では、「これが必要なんだ」ということを言わない体質が、特に防衛問題については最初からあって――憲法第九条の解釈もそうかもしれませんけどね――それと同じことが、三宅先生がおっしゃるような核についても言えると思いますね。一方は、核についての国民の感情というのが非常にアレルギーが強かった。それを理性的に論議するんではなくて、左(左翼)のほうはそれを煽ったわけですよね。それが、日本人が(現実にある核兵器を)理性的に対処できない方向になる原因じゃないかとは思いますけど……。
三宅善信 ありがとうございます。初めからお答えしにくい質問をしてしまいました。それでは、どうぞ会員の先生方、挙手をいただきまして、お名前と所属をおっしゃってからご質問いただきたいと思います。
葛葉睦山 臨済宗の葛葉です。関先生は、ご講演の一番最初の部分で、国宗の『平和の祈り』の内容にお触れになりまして、「宗教者の平和の願いっていうのは、極めて理想的だ。しかし、現実はそんなに甘いものではない」と言われたように記憶していますが、確か「国際社会には絶えず紛争があって、現実的にものを考えなきゃいかんのだ」ということにお触れになりました。そして、ご講演の最後に、「こちらが平和を求めても、その願い通りに対応してくれない相手に対してどうするのか? その答えについては、宗教関係の皆さんのご意見を聞きたい」ということで終わりになりました。
ちょうど、この2つの問いは対になっていると思うんですね。私は、関先生より年齢が6つか7つくらい上でありますから、軍国主義の真っ只中で教育を受けてきた人間でありまして、もう1日、2日敗戦が遅れますと、戦地に引っ張られたというそういう年代でございます。それだけに、「国を守る」ってことは「わが家を守る。わが家族を守る」と等しくイコールで結びついておるという理解をずっと持ってきたわけですね。
ところが、私は臨済宗の禅僧でありますが、一寺の住職をしております。仏教では「殺生戒」、つまり、「他者を殺しちゃいけない」ということが一番大切なことになっています。それから、「兵矛無用(ひょうがむよう)」という、つまり、荒らしちゃいかんとか、戦死させちゃいけないといったようなことを強く仏教の思想では説いている訳ですね。その辺りと、「わが身を守る」という――守るということは、結局、相手を殺さなきゃならないといった――ことの矛盾を大変強く感じるんです。
そういう訳で、私はやっぱり、泥棒が入ってこないためには、国がちゃんと施錠(防衛)もしなきゃいかんとしている訳でありますが、「じゃあ、お前は施錠しないで悪人が入ってきて殺された。それでいいのか?」と、いうような意見もあるんで、私は仏教者としては、そうならざるを得ないという思いを持つんですね。しかし、そうすると、日本の国民の生命財産を守れないということになります。そこで大変苦しむ訳でありますが、関先生は直接、何宗をご信仰なさってらっしゃるか判りませんけれど――無神論者の先生であるかも分かりませんが――その辺りの側面を、宗教者に対してどのようにご指導下さいますか? ちょっとご感想でも聞こうと思いますから。「あなた方(宗教者)はそうしなさいよ」といったようなことありましたら、お答えお願いします。
関 肇 最初に申し上げた問題は、われわれ政治などに関わろうとする者と宗教家の皆様方とでは属性が違うんじゃないかと申しましたのは、決して、宗教家の皆さんの考えておられることが「甘い」とかそういうことじゃなくて、やっぱり、次元が違っていて、それぞれあっていいんじゃないかというふうに私は思ってる訳です。
宗教について申し上げますと、私自身、近代実証主義みたいな頭(考え方)の構造になっておりますものですから、例えば、魂の存在とか、神の存在というものを否定することができないけれども、それを実証的に肯定するということもできなくて、非常に悩んだ時期があります。結局、何も徹底的に突き詰めずに、依然として中途半端なままで今日いる訳ですけれども……。宗教家の方が理想的な平和というものを追求されて、場合によっては自分が殺されてもそれを甘んじて受け入れるということまで考えておられるのは、まあひとつの理想として、それは素晴らしいことじゃないかとは思うんですね。
そういう訳で、やっぱりあまり口答えを言いたくないんですけども、国の文化というのはいろんな面がありまして、ある理想な面を持っているっていうところは必要なんですよ。しかし、そうかといって、政府としてみれば、やはり、例えば、「北朝鮮の工作船が来て」何人もの日本人を拉致して行ったという事件ですが、あれでももっと早くキチンと対処しておけば――対処というのは、この国の主権を侵すようなことがあれば、毅然と対抗手段を構じるという意思表示をするということですが、この間、北朝鮮の工作船に初めて銃撃を加えて、相手が自沈しましたけども、もっと早くああいった意思表示をしていたら――そう簡単には入ってこれない訳ですよね。これまで日本政府が勝手なこと許していたから、相手も好き勝手なことをしたという一面があるわけです。
だから、政府としては、やはりそれ(対抗手段という意味での武力行使)は、やっぱり止むを得ないんじゃないかというよりはむしろ、私はそうあるべきじゃないかと思っています。そういう国際的な国の権益というものは、ある程度追求する面があったほうがいいんじゃないかと思いますけど……。これらは、ある意味で、国際政治の汚い面ですが、それに対して、一国の文化の中で、もっと理想を追求する面があるってことは大事じゃないかと思います。
ただ、私から率直に言わしていただけば、結局、宗教家の方もある程度は社会的な活動をされるわけで、社会的な活動と政治的な活動とはもう同じことになる訳ですね。だから、この理想というものを追求することというのは、やっぱり、心の問題としてだけなら簡単に言い切れますけども、社会的となると、非常に難しい面があるのじゃないかというふうに思います。
それで、平和といいますと真っ先に思い浮かぶのが、ガンジーの無抵抗主義ですよね。あれは本当に「自分が何されても何も抵抗しない」という徹底したものですよね。ただし、あれは、イギリスの圧倒的に強力な植民地支配に対して、インドの人々が抵抗する手段としてああいうやり方があった訳ですよね。しかし、一応、独立国家として存在している国の政府が、単なる無抵抗主義でいいのかというと、僕は手段としては、あんまり適当じゃないと思います。ですから、ガンジーのあそこまでの無抵抗主義、あるいは、葛葉先生のおっしゃった「仏教者として」というのはそういうことなんだろうと思いますけども、やっぱりなかなか大変なことだろうと思うんですけどね。ちょっとお答えにはなっているかどうか判りませんけど、私の意見を述べさせていただきました。
三宅善信 ありがとうございます。お答えになりにくい質問が出て大変なんでございますけれども、確かに、葛葉先生のおっしゃる非暴力とか無抵抗あるいは、もっと極端に行きますと、仏教の「捨身飼虎」のように、「餓えた虎に自分を食べさせてまで相手を助ける」という徹底した自己犠牲の考え方まで一方でございますけれども、宗教と申しましても一色ではございませんで、他方では、イスラム教の「ジハード(聖戦)」の問題もありますし、キリスト教もその長い歴史の過程において「クルセイド(十字軍)」ということをしてきました。
また、神学の分野においても、「正戦論」つまり「正しい戦争のし方」という自己正当化の営みですね。アウグスチヌスなんか読みますと、「こうこうこういう条件が整った時は、戦争をしてもよろしい」と……。一神教の世界は、極めて条件的というか契約的な社会でございますから、そういうこと(註:宗教が戦争を肯定する)も、一方では十分成り立つわけでございます。また、仏教やヒンズー教では、教えとしては非暴力とか不殺生を説いておりますけども、宗門の中では、それぞれいろんな権力争いもやはりある(会場笑い)わけでございまして、人間存在が本質的に持っている「争う」ということについては、当然、宗教者としても現実問題として、やはり真剣に考えなければならないと思います。
それでは、次の質問をしていただけます先生ございませんでしょうか? 最初に仏教の先生にお願いしたので、神道、仏教、キリスト教と3つあるんですけれども、自ら進んで質問をしていただける先生おられませんでしょうか? そうでないと、私からご指名する結果になりますけども……。それでは、日本基督教団の村山先生、よろしくお願いします。どうしても、キリスト教からの先生の数が少ないので、いつもよく当たってしまって申し訳ないんですけれども、村山先生お願い申し上げます。村山先生は、実際に海軍へ行かれたご経験もおありの世代でございますので、村山先生からは、また変わった観点からのご質問が頂けると存じます。
村山盛敦 いい機会ですから、今度の拉致事件との関係で、私の感じたことをちょっと申し上げますと、司会の方が「村山は海軍」といいましたけども、年代でいうと76期といいまして、終戦の1年前、井上校長の頃に訓練されたものであります。私が、この間の拉致事件を見て一番に感じましたことは、もう日本の皆さんは忘れていらっしゃるかもしれませんけども、第二次世界大戦の時に、私はたまたま親父もやはり牧師でして、あちこちで暮らしたことがあります。北朝鮮・韓国を含んで、「こういうことが今でも起こるのは、戦前の日本が犯したことについて十分な償いをしてない結果だ」ということを率直に思いました。
どんなに日本が酷いことをしたか……。私は、小学校の六年生の時に、今の北朝鮮に当たる地域で小学校を卒業しております。その前には、たまたま台湾の台南というところにもいました。もちろん、日本が戦争中に犯したことが、どんなに酷いことであったかということは、その後、帰ってきてから知ったことであります。私自身も、戦争中は、先ほど三宅先生がおっしゃたように軍国青年でありまして、もう「当然、お国のために死ななくちゃならない」と思ってきましたが、でも、戦争が終わってじっと考えてみて、理屈はいろいろ言うけれども、やっぱり国家による拉致事件のような犯罪の根っこには、それに吹きこまれていったものであるというように私は理解しました。
ですから、私が申したいことは、もうちょっと日本が犯してきた事実について、僕は全ての日本人が学ぶべきだと思います。そういうことが、ひとつも整理されてないままに、第二次世界大戦でどういうことが起こったかというようなことを全く考えていない私たちが、いろいろのことを言う資格がないような気がするんです。
ついでに個人のことを申しますが、私の兄は20歳の時に、フィリピンのレイテ島で死んでおります。ずっと後になって、そこを見に行きましたが、「どこで死んだのか判りませんが、大体この辺だろう」ということでした。しかし兄貴は、その時は玉砕ということを言いました。それが結果としては、骨も帰らないような死に方をしているんです。私は、そのことについてどうこう言いませんけれども、「戦争というのは酷いことになるんだなあ」と実感しました。
そこで、「宗教というものは理想主義だ」と関先生はおっしゃったけども、私はそんなことないと思う。もちろん、そういう面もありますが、同時に、敗戦後、平和憲法を作り、こうなったことには、原爆の経験をした日本人が「こうあって欲しい」という思いで、まず理想的な考え方のほうにみんなが一致したんじゃないかと思います。
ですから、私は、関先生のおっしゃるように、非常に現実的なものの見方と、それから理想的なものとが、いずれは一致してくるのではないか……。人間は馬鹿じゃないんだから、やっぱり間違いを多く犯していくけれども、「その間違いを二度と繰り返さないように」ということになれば良いのであって、だからそういう点で、僕は、世界宗教者平和会議というものが今、歩んでおるんじゃないかと思います。
だから、関先生に対するもうひとつの質問は、最も現実的に見て――これはもう私も現実的に行かなくちゃならないと思いますが――今起こっている問題を非常に現実的に見て、具体的にどうしたらいいのか? どうするのが良い方法なのか? あるいは敵を作って、あくまで敵を叩くということも必要なのか? そういうようなことを考えながら聞いてたんですけど、ちょっと質問になるかどうか分かりませんが、ですが決して、何か宗教者だけが、理想的なことを追ってるというのは僕は反対です。もしも、そういう風にお考えだったらと思い、質問をさせていただきました。
三宅善信 村山先生ありがとうございます。これもお答えにくいご質問でしょうけども、関先生どうぞおっしゃって下さいませ。
関 肇 まず、拉致問題についてですが、「過去に朝鮮で日本が悪いことをした。それが(北朝鮮による拉致事件の)根になっている」とおっしゃるんでしたら、何故、韓国はそういうことをしないのか? ということになりますね。日本は、アジアの各地でいわゆる「植民地支配」をしましたが、何故、北朝鮮だけがそういうことをしているのか? ということになりますと、これやはり、北朝鮮っていう国が、非常におかしな特殊な国であるからであろうと思います。だから、私は、拉致事件が日本の植民地支配に対する報いだというふうには考えられないんですけど……。
もちろん、あの当時の日本が、いろんな悪いことをしたのは事実でしょう。ただ、世界の歴史の実態を見ると、もっと酷いことがいっぱい行われているわけですよね。これを「良い悪い」だけから評価するんじゃなくて、やっぱり人類の歴史っていうのはそういうもので、その中で「日本だけが悪かった」というふうに見るのには反対なんですね。これはちょっとキリスト教の方に挑戦するようですけども、「セント・バーソロミューの虐殺」(註:1572年にフランスで起きた旧教徒による新教徒への集団虐殺事件。10万人が犠牲になったという説もある)なんぞ、ある意味じゃ私には理解できないですよね。同じキリスト教徒同士なんだから……。
そういうことが、人類の歴史にはいっぱいある訳ですから、それに対して、「もう少し何とかしたい」という思いは当然あるべきだし、だから、「日本だけが悪いことをした」という考えじゃなくて、「人間のそういう面をどう見るか?」っていうふうなことでしたら、確かに村山先生のおっしゃる点は解ると思いますし、お兄様が「レイテ島で玉砕された」とおっしゃいましたけども、旧日本軍は、非常に愚かしい戦争をしてるんですよね。ですから、やっぱり私なんか、旧日本軍の戦争のやり方について賛成できないところが多々あります。
それからもうひとつ。「現実の政治ってものを考えた場合にどうするか?」というご質問には、それはやはり、今の国際情勢みたいな格好で国と国が対立する構造になっているところでは、やはり、日本政府は、日本国民の生命と財産を守ることがまず必要なのではないのかと……。しかし、よその国とも、もちろん、友好的に交際する必要があるわけですし、それが日本の外交の基本でならなくてはならないと思います。
ただ、有事法制というのは、極端な事態になった場合にどうするかということを問題にしているんで、アメリカのように「軍事的な先制攻撃によってテロを無くす」なんてことは日本にはできない相談ですね。しかし、だからといって、相手のやりたい放題に放っていてもいいのかということもあるのですね。テロと強盗とは違いますけど、例えば強盗が入って、物を盗んでいったとして、「まず会って話そうや」なんて言っていたら、次の悪者がドンドンやって来るでしょう。そういうことを認めるのは、やっぱりどう考えても、まずいんじゃないかと思います。
ただ、逆に軍事的に攻撃するということだけで、問題が解決するかというと、そうはいかないんですね。なぜなら、テロというのは、政治的な弱者が行う行為なんですね。要するに、政治活動なんかで自分たちの主張を通すことができない。だからといって、軍隊でもって戦うこともできない。ゲリラのように準軍事団体みたいなものも作れない。恐らく、ほとんど他に対抗手段がない。しかし、支配者側と考え方が決定的に違うという時に、テロをやるわけですよね。その決定的に違う者にはどうするんだろう?
これは、やはり、大変難しい問題ですね。まず、テロを止めることが第一なんで、例えば、イスラエルとパレスチナですけど、私の感覚では、イスラエルの反撃は、ちょっと、酷すぎますよね。戦車や戦闘機を使って一般市民も巻き込んでゲリラ掃討作戦をやるっていうのは……。しかし、イスラエルのほうから見ると、テロリストたちがパレスチナ人の一般市民に隠れて入ってきて、イスラエル市民を殺す自爆テロをするのですから、パレスチナの一般市民に対しても「これはなんとかしなくちゃならん」という感覚もあるんですね。
じゃ、パレスチナ人によって「選ばれた代表」であるアラファト議長が、パレスチナ人の過激派による自爆テロの暴走を止めさせることができるのか? というと、これはもうできない(統治能力を失っている)んですよね。と言うのは、このテロ組織というのは、必ずしも上の命令をきちっと聞いて、これに従うというふうにはなっていないからなんです。
しかも、独自に武器を持っていて、自分で喰ってる連中がいて、こういう連中がパレスチナ自治政府という組織の中に一応入っていても、組織の親玉と自分の考えが違えば、やりたいことをやるんですよね。それをどうやってコントロールするかっていうのは、本当に難しくて、せっかく交渉が良い方向に向かったと思っていても、ボーンとテロが起こって、また元に戻っちゃう。
これは、いわば、宗教と政治を結合したような戦いですね。ユダヤ教徒とイスラム教徒の間の……。昔はユダヤ人とアラブ人とがパレスチナの地で共存してたわけでしょ。平和的共存していたのが、欧米の後押しでパレスチナの地に(ユダヤ人のために)イスラエル国家が作られてから、ああいうふうになったわけですけども……。ですから、政治というのが入ってくると、手の打ちようがなくなってくるというケースもありますね。
三宅善信 ありがとうございます。これもまた、お答えしにくい質問になりました。
ちょっとだけ、私から補足させていただきますと、日本の場合は、例えば、戦前や戦時中のことにしても、あるいは、現在起こっている諸問題にしても、徹底的に物事を解明して、自らで関係者の責任を問うということをずっとしてこなかった。例えば、戦後盛んに言われた「一億総懺悔(ざんげ)」なんか完全にそのパターンです。政治家と3歳の子供とでは、明白に戦争に対する責任が違うはずですが、「一億総懺悔」というスローガンで一緒くたにされてしまう。「一億総懺悔」ということは、実質的には「誰も懺悔しない」ということと同義ですからね(会場笑い)。そのことを逆にひっくりかえして、戦後は、北朝鮮のそういう所業に対しても、長い間、国会でも自衛隊でも、見て見ぬふりをしてきた。先ほど申し上げた牛肉の偽装事件でもみんな同じ構造なんですね。
ですから、そういう意味では、日本人は、戦争責任の問題だけじゃなくて、あらゆる面において、日本人として、日本の文化として、反省すべき部分があるんではないかということは、私も思います。
それから、テロの問題ですけども、関先生がご講演くださったとおり、米ソの両超大国による冷戦構造の時代には、抑止力としての核兵器はいうまでもなく、通常兵器に至るまで抑止力が機能していた。というのは、仮に自分のところから先にファーストストライク(先制攻撃)しても、相手からセカンドストライク(反撃)されると、自分のところもおじゃんになるという――お互いに、いわば「動くに動けない」非常に危険なバランスですけども――バランスというものが一応、成立していたわけですけども、これがテロリストになりますと、領土や国民を抱えた国家じゃないですから、自分たちのほうからどこかの国へ先制攻撃をしかけたとしても、セカンドストライクで反撃される可能性がないわけですね。まさに、神出鬼没、悪のNGOみたいなものです。なんでもできる訳で、そういう点が、これまでのような国家同士の軍事的なバランスの問題じゃ非常に解決しがたい。
こうなってしまったのには、ひとつ原因があると思います。それはやはり、冷戦が終結したことによって、軍事力においても経済力においてもアメリカが1人勝ちになってしまって今や唯我独尊状態です。それまでは、結果論ですけれども、一応、ソ連という対抗軸があったために保たれてきた一種の節度というものがアメリカにもあったんですけれども、現在の金融のグローバリズムにしましても、ブッシュ政権の軍事色にしましても、あらゆる意味でのアメリカ一国主義が、節度を越えちゃっている部分があります。
そうすると、そこで「自ら疎外されている」と思っている被害者意識を持った人々も、希望を持てない閉塞感から、節度を越えた――ワールドトレードセンターへの自爆テロ攻撃なんか象徴的ですけれども――あちこちで、ああいう信じがたいようなテロ事件を起こすことになってくるんです。もちろん、人類の歴史始まって以来、人間は皆「カインの末裔」ですから、人殺しはずっとあったわけですけれども、それにしても一種の節度というものの範囲内で行われてきたのですが、このタガがとれてしまっているんじゃないかなということを私は思ってしまいました。
三宅善信 もう一人だけ、最後にご質問を頂戴したいのですけれども、ここまで、仏教とキリスト教の先生方から頂戴いたしましたので、神道の先生方でどなたかおられませんか?
渡邉絋一 坐摩神社宮司の渡邉と申します。私は戦前の生まれでございますけども、教育は――昭和二十一年年に、当時まだ国民学校の名が残っていた時分に小学校に入った訳ですけれども――戦後の教育を受けております。けれども、昨今の社会状況に対する私の意見について、先生のご感想をお伺いしたい。もう一点は、質問と言ったら失礼でございますけれども、見解をお聞きしたいと、こういうことで質問させていただきます。
先ほど、キリスト教の先生もおっしゃられてましたけども、私たち日本人が「第2次大戦の反省ということが十分に行われてなかった」ということも当然あるわけでございますが、それと同時に、戦後の教育の中で、「国を思う心」というのが、やはり養われておらなかったのではないかな? という具合に、私は常々に感じておりまして、教育の欠陥ということになるかも知れませんけれども、そう意味では、われわれ宗教者にも多大の責任がその中には存在しているのではないのかな? と、このように思っております。
今のわが国の状況を見ておりますと、常に一国平和主義で戦後は来たのではないかなと、このように思えてならないわけでありまして、そう意味では、一国平和主義が真の平和の状況に繋がっていくのかどうかということに、非常に疑問を持っております。
今日、頂戴しております資料の中でも、例えば「有事の際に、自衛隊が行動を起こした時に、国民の権利の制約は必要最小限だ」と、このような考え方が述べられておりますけれども、もちろん、私であろうと誰であろうと、戦争は嫌でありますけれども、一時的な国民の権利の制約は、有事の時は可能な限り、必要最大限、やはり国を思わなきゃならないんじゃないかな、とこういうことも反面思われてならない訳であります。
そのようなこともございまして、いずれにしても「心の問題」が根底にあるのかも知れませんけれども、真の愛国心といいますか、そういうものが、今、十分全うされているのかどうかという意味では、戦後教育の欠陥がその根底にあるのではないのかということに関して、先生のご意見を承りたいのが一点でございます。
それからもう一点は、有事三法が前回の国会でも成立せずに、継続審議の経過を辿(たど)っておりますけれども、先生は、有事三法について、それぞれ、流れた理由について――新聞記事なんかで見た範囲でも、「十分に整備された中身に本当になっているのかな?」と、素人(しろうと)の私ですら思うような事項もございました――その点について、先生のご意見を賜りたいと思います。以上でございます。
三宅善信 渡邉先生、ありがとうございます。
関 肇 最初のご意見ですけれども、それは私もそういうふうに思います。戦後教育では、公共心がすっかり欠けてしまって、個人の利益の追求ばかりがずっと行われてきました。「日本の国家の目標は、経済の発展だ」と、それが正しいという風潮がありましたけれども、たしかに経済の発展は大事ですけれども、それが人間本来の目標になり得ないのに、「それが目標だ」とされてきたのは、おっしゃることの反映じゃないかと思いますね。
世界にはいろいろな国がありまして、それぞれの国柄があります。キリスト教の国なんかでも、やっぱり国家と同時に、キリスト教というものが背骨(バックボーン)にあって、それが国民の大部分をまとめる力になっている。日本の場合には、そういう宗教がなかったので、何が国民をひとつにまとめ得るのか? この問題は明治維新の時にも、伊藤博文とかも非常に心配する訳ですよね。それで『教育勅語』を創って「何かで日本をまとめるものを考えなくてはいけない」と、あそこで非常に、平易な形での国民道徳みたいのを説いて、国家というものを演出したんです。
ところが、戦後は、「国家っていうと非常に悪いものだ」という風潮が強くなってしまって、そのお陰で、じゃあ公共のために自分の利益を犠牲にするってことは、そもそも考えなくていいというようになってしまった。それが今日いろいろな不祥事を起こしているひとつの原因だと思います。
それで、先ほど「いろいろな国柄がある」と言いましたけれども、やはりある程度、国家っていうものを大事にするということがないと、日本人全体がまとまるということは難しいと思うんです。しかし、その「国家っていうのは何か?」というと、国家権力がひとつの指令を発して、国民全体がどっちかへ走るというようなものじゃなくて、やはり、なんとなく国を大事に思っている。今までの歴史や文化を否定するんじゃなくて、肯定することで、国家というものを大事にしないといけない。
そういう意味では、和歌とかそういった過去の文化というものを、もう少し教育の中に取り入れて、そういう中で、自然に愛国心というものを養うのが一番いいんじゃないか。「国を大事に思うことは大切だ」ってことを直截に教室で教えるのは、あんまり良い方法ではないんじゃないかと思いますけれどもね。日本には文化的に優れているものが沢山あるわけですから、そういうものを教えることによって、自然と日本に対して誇りを持つ。また、日本人が国を大事に思っていろいろなことをやってきた。ということを教えるということが必要なんじゃないかと思いますね。
それから、「有事法制が十分練れてないんじゃないか?」というご質問ですが、これは、お手元の資料の一ページに、左のほうの四角の黒い所、一番上が『自衛隊の行動に関わる法制』です。それから、『国民の生命財産等の保護のための法制』というのが二番目なんです。矢印で見ていきまして、『自衛隊の行動に関わる法制』の矢印の四角の下から上が、今回立法化しようとしていることで、その中で、『国民の生命財産等の保護のための法制』の右端の3つばかり括って矢印になってまして、『事態対処法の整備』というのは入ってない訳です。
それからさらに、一番下の「大規模テロ、武装工作員云々」については、有事法制の検討と並行して、相互の関連に留意して、「法制面運用面その他多角的な関連から検討を進める」ということですが、これも準備されてない訳ですよね。だから、今「テロ対策が一番大事じゃないか」と言われている(註:面と向かった国同士の戦争よりも、小規模な集団によるテロ行為のほうが実際に起こりやすい)のに、それについての検討が先に延ばされている。
これは何故、こんなことになっているかと言いますと、今まで検討して、ある程度まとまったものを今回やろうとしてますが、今まで検討したけれども、難しくてできなかったものが後まわしということなんです。今回話がまとまったという法律の中でも、関連する法律だけでこれだけある訳ですね。それを示したくてこの資料を持ってきたんですけど……。これらのひとつひとつにそれぞれ所管官庁がある訳です。
官庁というのは、官庁同士で話をして物事を決めていくものですから、じゃあその土地の利用については、国土交通省が「うん」と言わなければ、防衛庁のほうは、いつまで経ってもこれを変えることはできないんですね。そういうことでなかなかできなくて、自衛隊が行動する時もそうだった。じゃあ『国民の生命財産と保護のための法律』というのは、今度は地方公共団体も関係してくる訳ですね。今、われわれの生活というのは、実際には、法律でいろいろ細かく定められていまして、例えば、学校の校庭にヘリが降りるという場合は、教育委員会の許可を受けなきゃいけないとか、そういうことが全部決まっている訳ですね。そういうところの話がつかなければ、前へ進めないということで延びている訳です。
結局、縦割りの行政組織になっている訳ですよね。相互に関係するものをうまく調整するというのは非常に難しい訳です。本当を言いますと、そこで政治主導で、ある程度、環境省は反対でも、「国全体として必要なんだからやりなさい」というようなことは、今後やっていかないといけない訳ですけれども、なかなか細部にわたって政治家が主導できるようにはなっていない訳ですよね。ですから、「なんで防衛庁はモタモタしているんだ」というと、防衛庁だけではできなくて、他の省庁や地方公共団体その他が関係しているものですから、延びてしまうということがひとつあります。
それからもうひとつ「解りにくかった」と言われているのが、武力攻撃の意図が推測されることに関して、武力攻撃が予測される場合と、武力攻撃の恐れがある場合と2つがあって、この「予測と恐れ」とは、いったいどう違うのかということが解らないと、問題になりましたよね。これは、ちょっと馬鹿げた話なんですが……。自衛隊法に『防衛出動』という項目があるんですね。もうひとつは『防衛出動待機』というのがあるんですね。「防衛出動命令」が出ると、防衛出動することになるのは当然ですが、「防衛出動待機命令」となると、いつでも防衛出動ができるように、部隊が行動できるように準備して待ってるということになるんですよね。
ところが、防衛出動するってことは、現実に何処かの国が攻めてきて、日本が侵略されて、ということだけではなくて、例えば、よその国が軍隊を集結して、日本を攻めようとしていることは明らかなんだけど、まだ攻めるまで至っていない。そういう時にどうするんだと。ただジッと黙ってるのかと。それじゃいけないだろうというんで、「相手の日本攻撃が明らかに予測されるような場合は、防衛出動命令を出しましょう」ということです。そこまではいかないけれども、例えば、北朝鮮がテポドンの発射準備体制に入った時に――弾道ミサイルの液体燃料というのは、発射する直前の段階でロケットの中に注ぎ込まないといけないんです。液体燃料自体、非常に危険なものですからね――発射台にミサイルを立てて燃料を注ぎ込み始めたとしても、その時点ではまだどこへ撃つか判らない。しかし、おそらく日本だろうという時には、これもやっぱり待機命令ぐらいは出してもいい訳ですよね。
そういうことで、こういう表現でペーパーを書いたんです。これは非常に官僚的発想に捕われた議論で、そこらへんは、その時の自衛隊の判断に任せてもいい訳ですよね。この辺は書き方が解りにくいから一本化しようなんて話があるようですけど、そういう面でも、解りにくいのは事実です。私自身、「予測と恐れ」と聞かれても、すぐご説明できなかったように、頭の中に入っていないくらいですから。
三宅善信 ありがとうございました。関先生は官僚一筋でこられて、宗教とあまり関係ないようにおっしゃっていましたが、実はご令室様が伊勢神宮の前の少宮司をなさってました幡掛先生の令嬢であられまして、そういう意味で、伊勢の神宮をはじめ神社界とも非常に関わりのお深いお家柄でございます。まあ、ずっと官庁の方におられましたので、そういうことは極力避けておっしゃってたんだと思います。
それから、やはり私、今回の「有事法制」議論でも、あるいは、日本国内で一般に行われている議論でも、非常に定義が曖昧(あいまい)になっているのは、安全保障とか国とか言う時に、その人はいったい何をもって「国」と思っているのかという定義が、まずハッキリなされていないという根本的な問題があります。
750年程前に、日蓮聖人が『立正安国論』(1260年)の中で、「クニ」という字を3つ違う漢字を当てて書かれております。まず「國」です。クニ構えに「或」と書きまして、カントリーとかランド、日本の国土そのものです。もうひとつは「国」。クニ構えの中に「玉」という字を書きまして、これは日本の統治機構、ステートとしての国です。もうひとつの「■」は、クニ構えに――他で見たことのない漢字ですけれども――「民」という字を書いて、クニと読ませています。ネーション、日本文化とかという意味だと思うんですけど、日蓮聖人は、この3つをハッキリと意識して使い分けておられます。
ところが、われわれが「国」というものを考える時に、現在の統治機構というものを――戦後すぐには、よく国体護持とか言いましたけれども――守るのが国を守ることなのか? それとも、日本人の文化、生活のあり方を守ることが日本を守ることなのか? 日本の国土、島一つたりとも外国に渡さないという意味の、国土を守ることが国を守ることなのか? ということの議論がしっかりなされていない上での、安全保障ということの議論になるから、話が解りにくくなるんだと思うんです。
それは、今申しましたように、日蓮聖人が750年前からおっしゃってる訳ですけれども、未だに日本人がそこの部分を明確に考えていないところがありまして、そういう部分も含めまして、今日は関先生に防衛のご専門の立場からお話しいただきまして、われわれも宗教の理想論では、現実の問題としての国というものが、特に日本の周りにある国は、ちょっと危険な国もあるようでございますので、われわれ宗教者も、そういう部分を実際しっかりと見させていただきましょうと、そして、いろいろな問題に目を瞑(つぶ)らずに直視しましょうということを教えていただいたと思います。
お時間の関係がございまして、本当でしたらもっとご質問したいんですけれども、またいずれあらためての機会ということで、今日はこの辺で質疑を終わらせていただきたいと思います。関先生どうもありがとうございました。もう一度、拍手をお願いします。
(連載おわり 文責編集部)