▼政治家はやくざな稼業だから…
柳本行雄博士
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ただいま司会の三宅善信先生から紹介されました生活科学研究所所長の柳本行雄でございます。また、現在、四天王寺国際仏教大学の学長という大役を仰せつかって、研究と教育の二面に携わっている一人でございます、実は、いろいろと凶悪犯罪が増えている昨今、そういった関連の話でもしようかと思いましたが、もちろん、私は教育畑の者ですから、具体的な「事件」を追うのではなく、「これからの『日本の将来と教育問題』と絡め合わせてお話をしていただきたい」ということでしたので、こういうテーマを出させていただきました。私のお話は散文的になるかと思いますけれども、私の頭の中に浮かんだそれぞれをみなさんの今後の参考にしていただけたら、と思います。
本日、この会場の最前列に私の40年来の友人である清風学園理事長の平岡英信先生がお座りになっておられますが、昔は「えいちゃん」、「やなちゃん」と言い合った仲間でありまして、実は、新婚時代に同じ屋根の下(マンション)で生活をしていたことがあります。当時のマンションですから、広くはない。そのうちに平岡先生は一戸建へ移られて「俺の所、空いたから、まあ使ってくれや」ということで、彼の部屋も使わせていただいたりしてるうちに、弟さんが結婚されたので、また、その部屋をお返ししたりして……。そんな40年来の仲間ですが、その先生を前にして、今こうして高いところに立たせてもらって話をさせていただきますので、少し照れますが、平岡先生は、今日は話を聞いても右から左へ流してください。
私は、昭和28年に大阪市立医科大学(現大阪市立大学医学部)を卒業いたしました。それから40年間病理学をずっと研究してきました。学生時代から、親父(おやじ)がずっと西成区から市会議員に出ておりまして、その選挙運動にも携わってきました。私も「昭和の後藤新平(註=明治から大正期にかけて活躍し、東京市長、内務大臣、台湾総督府民政長官等を歴任し、国鉄やNHKの創設に尽力した医者出身の政治家)たろう」と思いまして、青雲の志も持っておりましたけれども、結果的には学究生活に没頭し、したがいまして、その世界(政界)からだんだん遠のいてゆきました。地味な研究生活も、肉眼で目に見えないものを顕微鏡で見ながら研究するわけですから、そういったおおらかな生活からだんだんだんだんと小さな分野に至って、私は長男でしたが、親父の跡を継げずにいました。
晩年、その親父から「おまえには医者という天職があるんだから、おまえは政治家にはなるな。おれらの仕事はやくざ稼業(註=明日をも知れぬ身の意)だ。やくざ稼業はおまえのような医者の定職を持った奴がする仕事じゃない。一番末っ子の弟(柳本卓治代議士のこと)にやらす」(会場笑い)と言われまして、本日は選挙運動しているわけではございませんけれども、弟が大阪3区から国会に出て、衆議院議員選挙に通りまして、今では、自民党大阪府連盟の会長として、毎日飛び跳ねているみたいです。そういう訳で、私はひたすら学究生活を歩んできたわけです。
ユーモアたっぷりの語り口で熱弁を
揮う柳本行雄先生 |
同時にまた、関西経済同友会の幹事をしてまして、平岡君の一番末の弟さん(註=平岡龍人氏)で、前回、大阪府知事選挙に立候補されたんですが、彼と同じ『明日の日本教育を考える委員会』で、一緒に教育問題について考えている仲間のひとりでもあります。本業は地味な研究生活でありますけれども、そういういろいろな分野で、医者という立場の他に、社会活動とかもしているわけです。
▼生活科学研究所を設立して
生活科学研究所というのは、われわれの日常生活に関係のある医薬品などの安全性――新しい薬品などがわれわれの生命にとって危険であるか、安全であるかとそういうこと――を検査する国の指定機関のひとつとして、世界的なWHO(世界保健機構)の傘下で研究活動をしている団体です。われわれのところで検査した物質が、厚生労働省や経済産業省等に申請され、各企業がお墨付きを受けて、そして世に出ておるわけです。問題になりましたいろいろな事件の対象物は私のところでやったものではありませんから、ひとつご理解いただきたいと思います。私どもは、危ないやつは「危ない」とはっきりと申しております。
今日、皆様のお手元に配らせていただきましたのは、皆様にお使いいただこうと思って持ってきたのですが、ハンドクリームです。それはフランスで開発された「シア」というアフリカの植物から採った物質で造られた化粧品でして、日本で商品化したのは私が初めてで、アトピーにもよく効きます。私が75歳になっても肌の艶が良いのは、このクリームのおかげです。シャワーの後とか髭剃りの後とか、これを使っているからです。角質のできやすい踵(かかと)とか膝とかにひとつ使っていただきたいと思います。
もうひとつは、靴の中敷きです。この中敷きからはマイナスイオンと「低線量放射線」が出ています。「放射線」と聞きますと、安全性の問題を気になさる方がおられると思いますが、これが全く「逆」でございまして、「放射線ホルミシス療法」といいまして、癌の末期症状の人たち、あるいは、膠原病とかの人たち――薬がある程度効かない患者さんたち――が、「低線量放射線によって病気が改善されて長生きした」という実例が報告されていますが、そういった原料を用いて、靴の中敷きにしたのです。
今日こうして会場を見渡してみて、「持ってきて良かった」と思いました。お年寄りが多いから(会場笑い)。三宅善信先生からお声掛けいただきましたので、若い人ばっかりの会かと思っていました。これを使えば、非常にフットワークが軽くなります。この素材を用いて癌患者用に膝のパッドを作ったり、腰のベルトを作ったり、いろいろやっております。おかげで私も元気です。これが効くかどうか、三宅先生、国際宗教同志会員の先生方によく聞いておいて下さいね(会場笑い)。今日は50足持って来ましたので、そういうのを臨床データとして、参考にさせていただきます。
▼人生に定年なし
これからの時代は、「生きているうちは現役やないとあかん」ということで、一緒に大阪市大の医学部の教授になった連中でも、公立大学の「定年」になってから、大阪市大から別の私立大学へ移って72、3歳で辞めるのが一般的ですが、そういった連中が、最近私のところに「定年になった」と言ってよく来るんですが、「大学教授には定年があっても、人生には定年はないぞ」と、一緒に挑戦するようにしています。「定年になったら年金で食っていくつもりでいるのか?年金なんてあてにしとったら、これからの長寿国家で、いつパーッとなくなるか判らないぞ」日本には百歳以上の人が2万人もいるんですからね。だから、そういうので本当に仕事をするんだったら、「生きているかぎり、人生に定年はないぞ」と……。それでは健康じゃなきゃいかん。
そこで「俺といっしょに仕事するか?」と、そう言うたら、「職探してくれ」といったことで、みな集まってきたんですよ。これから、そういう仲間を集めて、21世紀に向けてどんどんいろいろな仕事をやって行きたい。と、そういう夢を持っておりまして、『NPO法人21世紀における環境エネルギー研究教育の会』というのを立ち上げまして、関西から九州までの西日本の教育問題に関わっていこうと……。これからエネルギー問題というのは、避けて通れない大きな問題のひとつでありますから。後ほど、エネルギー問題についてもちょっとお話をしようと思いますが、そういう時代をわれわれが怖がってはいけない。本当に真剣に取り組んでいかないといけないということも踏まえてお話ししたいと思います。
熱心に講演に耳を傾ける
国宗会員諸師 |
で、そういう連中を集めて、「生きている限りは健康でなければいけない」ということで、私も90歳までは第一線で働くつもりであります。あと15年あるんですよね。今から約30年前、47歳の時やったと思います。家内に頼まれて難波のある所へ物を届けに行った帰りに、易者がいたので、「おもろいな。いっぺん冷やかしにやってみようか」と思って、座ったんです。まずは「運勢どうやねん?」と聞いたら、「お客さん、78歳まで第一線で働けますよ」と言われました。30年前に76歳っていうたらはるか先のことですよね。その時、そう言われた。その頃、日本人の平均寿命が66、7歳と言われていた頃です。その時に、「76歳まで働けると」と言われたんです。次に「金儲かるか?」と質問したら、「お客さん、76歳まで働けるって言うたら判りはりますやろ」と言われて、アッと思いました。「76歳まで現役で働ける」ということは、「人生、山あり谷あり」ですけれども、はるか先の76歳まで希望を持たされたという話であります。「ありがとう」と言って、鑑定料の他にチップを千円置いて帰ってきました。
その頃、薬科大学を出た学生の母親が天王寺で『四柱推命』をしていて、有名な人だったんですけど、その人に、「僕は、易者から『76歳まで第一線で働ける』と言われました」と言ったら、「何言うてはりまんねん。先生は80歳90歳まで行けまっせ」と、そう言われました。ということで、常に私は「90歳まで現役」というそういうイメージ、あるいは「気」を持って、これから先も第一線で働こうと思っています。だから、友達が病気したり、手術したりしたと言っても、「何言うとるんじゃ。90まで行け。わたしも90までがんばるんじゃ」というふうに気を持つということ、これはわれわれ人間にとって、非常に大切なことだと思います。そして、仕事する気持ちがなくなれば、明くる日コロッと逝(ゆ)けばいいんですよ。
だから、「人生に定年なし」ということはそういうことです。私も実は、72歳で四天王寺国際仏教大学の教授を定年退職し、現在は、今3カ所から月60万近くの年金をもらっていますけれども、ただし、そんなものに頼っておったんじゃ、将来は、年金をくれんようになるかもしれないし、最近は「年金(の受給額)を減らす」なんてことを言われているし。それ(年金)で、食っていけるようなことを考えておるんじゃなしに、そんなものは無視して、「自分は立派に仕事をやっていこう」と思っている毎日でございます。
それには、健康でなければなりません。そのためには、歩くことです。ですから、いっぺんこの靴の中敷きを使ってみてください。今日の会合に間に合わすために、50足作ってわざわざ東京から持って来させたんですよ。これが成功すれば、いわゆる社会福祉事業団にそういうものを作らせて、アルバイトさせながら商品化できるようなルートを作ってやろうと考えておるわけです。ぜひとも、自分ところの新製品の宣伝ではありませんけれども、自分の健康を確保するということを、足を大切にするということを、軽快なフットワークというものは健康の源であるし、足の裏というのは第二の心臓であるから、ひとつぜひ、お試しいただきたいと思います。
▼三歩下がって師の影を踏まず
さて、ここで、今、いろいろと問題になっております青少年の凶悪犯罪について考えてみます。これは非常に情けないことです。日本の将来を担う青少年がいったいこんな状態でいいのか? 政治家はいったい何しとんねん! われわれの将来について全く見えていない。教育問題にしても、戦後60年のわれわれ日本人と、戦前における日本人とを比較してみたら、とんでもないことが判ります。われわれが青年時代の先生というものは、絶対的なものでした。「三歩下がって師の影を踏まず」という教えのもとに来たんですね。ところが、第二次世界大戦敗戦後は修身教育制度が廃止になって、今日になってきました。だんだんと、いわゆる「教育の細分化」、「先生の専門化」というようなことになってきた。われわれの時代というのは、小学校の先生というのは、国語だけの先生ではなくて、理科も教えてくれる。算数も教えてくれる。いろんな学科をひとりの先生が教えてくれたんですよ。今そういうことのできる先生は、ほとんどおりません。
私が大阪市立大学の教員をしていた昭和40年くらいから大学紛争が始まりました。私はその頃、10年あまり同窓会長しておりました。ちょうど、パリ大学から帰ってきましたら、大学がまさに封鎖寸前の状態でありました。いったいどういうことになったのかと思い、学生たちに「おい、いったいどうなってんねん? ちょっと勉強させてくれ」と学生に言ったら、「先生と話しするのは早い。もっと先や!」と言われました。なんでか言うたら、私に話をすると、紛争を壊されるという恐れもあったんでしょう。他の教授連中を捕まえて、「こんな奴らが悪いんや。こんな奴らがこんなことしとるんや。先生のせいでこんな大学になったんや」と、言うてました。僕らの時代には「三歩下がって師の影を踏まず」と教えられてきた先生たちに向かって、「こんな奴ら」という言葉を発する学生らがいるとは、えらい時代になったなあ。と、悲惨な思いをしたのが、昭和40年代の話なんです。
で、大学でいろんな事件が起こり、ハンガーストライキもするんです。「おい。ハンストもいいけどな、水だけはちゃんと用意しとけや。水さえ摂ってたら1週間でも10日でも生きてられるからな。体だけは注意しろよ!」言うてその場を去り、また昼過ぎにその前を通ったら、「おい。朝見た奴おらんやないか? あいつはどうしたんや? ハンスト、ハンスト言うて、途中で帰るとは、けしからんやないか!」(会場笑い)と、そういうこともありました。
彼ら(学生運動家)も、それぞれの思いで、私の顔を見たら、「先生もカンパしてくれ」と言うんですが、「おまえらの主義主張とは相容れんものがあるから、そういう意味では、わしはカンパせん」と言うてやりました。しかし、顔色見たら非常に悪いから、「肉でも食うてこい!」と言うて、1万円出してやったこともあります。ある時は、「先生、いよいよ明日から封鎖するで」とわざわざ言うてくれましたので、大学の研究室から大事なものを取り出し、今の研究所に運ぶことができました。さすがに彼らも、私の部屋だけはきれいに保存してくれました。これには、学生たちもそういう人間的な繋がりをよく分かってくれたんだなという気がしました。
昭和45年くらいに大学紛争もやっと片づきましたが、いろいろ人事問題もありましたし、私もこの大学(大阪市立大学医学部)に残るべきか残らざるべきかという思いもありました。当時、大阪大学の教授をしておられた山村雄一先生が「そんな教授なんか辞めてしもて、自分で研究所創ったらどうや?」って言うので、「ほな辞めますわ」と言うて(市大を辞めて)、47年に生活科学研究所を設立したわけであります。そして、以前から四天王寺女子短期大学(現、四天王寺国際仏教大学)でも教鞭を執っていたんですけれども、こちらに専任教授として就職いたしまして、今日に至ります。
▼このままでは日本は東アジアの劣等国に
実は、私も市大にいる時に「(父の跡を受けて市会議員の)選挙に出ようか?」と思った頃があります(註=磯村隆文市長も、また、この講演が行われた時点では市長選に立候補表明をしていた関淳一氏も、大阪市立大学の教員出身である)。ところが、家内が「同じするんやったら、市長ぐらいにならなあかん」って言うから、「(大阪)市長になるんやったら、(まず大阪市立大学の)学長にならなあかんな」と思いました。実際に、もし最後まで大阪市立大学におったら、恐らく私は学長になっていたと思いますね。でも、大阪市立大学の学長やったら60歳で定年せないかん。だんだん人生長生きになってきているし。磯村さん(市長)いうたら私の2年先輩で、関君(註=その後、市長に当選)は私の教え子やし、学生時代は一緒にサッカーやっていた仲間です。この間も関君に会った時に、「お前なあ、今の大阪市の財政危機状況を再建しようと思ったら、なかなかしんどいでぇ。それより、助役辞めた退職金もらって、楽しんだらどうや?」と冗談言いながらも、私がしたかったけど、できなかった夢を実現しようとしている関君を、そういう意味でも応援せんとあかんと思っています。
そのような中で、今後、日本人というものが背負っていく将来に「夢がない。目標がない」というのでは非常に困る。これからの日本はどうなっていくのかというと、今から130年前、明治維新直後の廃藩置県の時代には、経済社会というのは、政商というのに守られて、その後の財閥の基盤が作られた。例えば、ブリジストンの石橋社長とか、そういう方たちが集まって、今日の財閥形態の基盤を作られた。それからずっと日本の経済社会が作られてきたわけですけれども……。この130年の間に、豊かな経済社会の中で、みんなが胡座(あぐら)をかいてきたように思います。だから潰れるんです。
私は20年ほど前に、「これからの日本の経済というのは、小が大を喰う時代になるだろう。今の状態ではやがて滅びるだろう。異業種がお互いに手を組み合って、次の財閥形態の基盤を作る時代が来ている」という話をよくしました。だから、やがてそういう時代も来るだろうし、本日、この会場にお越しになられている先生方も、そういう思いの中で、仏教精神を皆さんに説明するのではなく、「和」の心で、お互い同士がリンケージを保ちながら本業に専念する。これからの社会運営というのは、そういう時代が来るだろうと思います。
しかしながら、日本というのは非常に天然資源の少ない国でして、戦後60年、何して食ってきたかというと、外国から原材料を買って(輸入して)それを二次加工して売る(輸出する)という、いわゆる「ブローカー産業」です。それで今日の経済基盤を作った。ところが、最初の30数年間というのは、日本は産業立国として先進国の仲間入りして毎年毎年、より豊かな生活を楽しんできたのであります。
しかし、今日では、日本に代わる国々がたくさん台頭してきたわけです。お隣の中国にしても人口10数億の民があり、あるいは、東南アジアのフィリピンやベトナムといったような、言葉は悪いですが、かつて「東南アジアの劣等国」と言われていた国々が、やがて「(日本に)追いつけ! 追い越せ!」ということで……。お隣の韓国もしかりですね。というわけで、そのような国々が日本をターゲットにしながら、一生懸命努力している。
そういった国々が伸びてきますと、今度は、「日本が東アジアの劣等国に様変わりするだろう」という危機感も感じておるわけです。そんな時に、わが国では、「少子化時代」という大変な時代を迎えたわけです。少子化になるとどうなるのか? 今から30年後の2033年になると、現在、1億2千万人くらいあるわが国の人口が、なんと7、8千万人くらいになってきます。本当にそういう時代になってしまうんです。このままだと……。例えば、お年寄りの介護。今の40代前後の人たちが、やがて私らの年齢(70代)になったときに、足腰が弱って歩けないとなると、誰が世話してくれるでしょうか? 頼むべき自分の子供たちが自分の面倒を見てくれるかどうか、という心配もあるでしょう。
そういう時代を確実に迎える今日の日本の社会において、「いったい日本という国はどうなるのか?」ということを考えているわけです。私は中国にもよく行きますし、東南アジアにも行きます。そうすると、彼らは、やはり日本をターゲットに置いている。そして、彼らは、日本をひとつのマーケットにして、「日本でなんとか成功したい」と思っています。例えば、日本で月5万円くらい稼いで自国へ送金したとしたら、現地では、一族皆が結構豊かな生活を送れるわけです。だから、中国から日本へ大勢、留学生が来てますが、私が所属していますライオンズクラブでも、中国人留学生のために奨学金を出してやる。ところが、彼らが何をするかというと、優秀な子たちがわざと1年、2年と落第するんです。その間、日本でより長くバイトをして、お金を貯めて中国へ送金するんです。留年するほど奨学金がよく貯まる仕組みになっているんです。それをもって親元へ送ってあげる。また、場合によったら、日本人と結婚して日本に永住しようとする。なかなか彼らたちは賢い。狡賢(ずるがしこ)いと言うよりも、常に生活というものを考えておるんですな。
▼テレビのスイッチを切れ
そういう現状ですから、日本人の今の若い子たちはよっぽどしっかりせんといかんのです。先ほども司会の方が、長崎で起きた(12歳の子供が4歳の幼児に悪戯(いたずら)した挙句に突き落として殺したという)事件について触れられましたが、この事件だけでなく、いたるところでこれまで考えられなかったような残虐な殺傷事件が連日起こっていることが報じられております。こうなった原因は、今までの日本の教育が間違っていたからだといえます。やはり、私たちの年代の責任でございます。
かつて、私は関西ライオンズクラブのメンバーでありまして、実は「テレビを通じて一般の人を変えよう」ということで、クラブでこういう問題を取り上げたことがあります。「テレビを通じて午後8時に子供たちに消灯を促す案件について」というものをクラブのキャビネットで取り上げたんですが、みな否決されてしまいました。「テレビがなんで悪いんや? 他人の仕事を反対したらあかん」と言われました。その案の趣旨は、こういうことでございます。「8時をお知らせします。さあ、子供たちの時間は終わりました。安らかな眠りにつけるよう、大人たちは子供たちのためにちょっと動いてやってください」という字幕を私たちのクラブで独自に考案したわけです。
そのひとつの理由として、昨今のテレビ放送が危惧されるべきこととしては、子供たちの睡眠時間の不足による健康障害および学力の低下というものが報告されています。それから、マスコミによる性への異常早熟性の危惧。3番目は、読書力の低下に伴う国語能力の減退および国語の乱れ。4番目は学習時間の削減。というふうに、4つのことが非常に心配されたからです。
われわれ大人は、自分がテレビを視たくても、子供たちのテレビの前に立ちはだかって、「勉強せえ!」と、言わなきゃなりません。しかし実際には、親も勤めから帰ってきたらテレビを視る。子供たちが、「お父さん。こうこう……」と言っても、「ふんふん」と生返事するだけで、馬耳東風のようにテレビを一生懸命視ている。子供との対話がない。そういうことで、親子の断絶ということが起こる。非常に心配される。私自身も反省させられることもあります。
だから、親と子の断絶の中で、そういう子供たちが増えてくるのも当然のことだろうと思います。われわれは、「夜の8時から10時までの間は、子供たちの就寝時間なので、自主的にテレビの放映を自粛せよ」という申し入れをしたことがあります。もし放送局側がそうしないのならば、その時間が来たら勝手にプラグを抜いたらええやないかということです。
ところが、それを日本人はできない。なぜかというと、明治以来の押しつけ欧米文明を、形の上だけ真似てきた(註=その背後にある宗教や倫理を抜きにして、形式だけを真似たという意味)日本国民が、自主的に果敢な処理ができるだろうかという心配があるわけです。欧米では、実はこういうような問題については、スポンサーの自主規制、各界における自主規制というものが広く取り入れられているわけです。
だから、昔は欧米の場合においては、子供のそういった時間帯、親と子の家族団欒(だんらん)のひとときには、テレビのスイッチを全部切って、家族の時間を大切にしていました。昔、私の家庭において、ある時テレビを点けようと思ったら、テレビの配線がないんです。家内に聞くと、家内が隠してしまってたのです(会場笑い)。うちの家では、テレビを視たかったら、わざわざコードを出してきて視ることになってます。そういうこともしてきました。そういったことが、日本人と欧米人との間の生活感覚の差になって現れてきているのです。
そういう時代ですから、日本の子供たちというのは、そういう家庭の環境の中で育ってきているので、いろんな問題が出てくるのも当然のことだろうと思います。今や、そういった事件を、毎日、面白おかしく取り上げて、マスメディアが情報をどんどんと流してくる。そして、ついやけくそになる。「池田小学校事件」においても、宅間という犯罪者が「早よ、殺して(死刑にして)くれ」とまで、言い切っています。こういった事態を少しでも改善するために、これからどのようにすべきかというと、やはり、幼児の時代から、子供たちに対して、そういう学校教育もさることながら、家庭での教育をしっかりとしていかないといけない。
これは、まず家庭の中の親の責任だと思います。私らの世代なら、子供というよりは孫に対する思いで見ていかないとならないと思います。例えば、台所にある包丁ひとつとってみても、正しい包丁の使用法は、料理をするために使う道具ということです。ところが、精神異常者や全く非人道的な人間がそれを持つと、人を刺したりする凶器になるわけです。そういったことを考えると、使用目的を誤った扱い方をすれば、何事も危険な存在になりうるということです。
▼核エネルギーこそ日本を豊かにする
先ほどもちょっと申し上げましたが、日本の国には天然資源が少ない。したがって、何をもって国民生活を支えるエネルギーとしてわれわれが生きて行かなければならないのかということであります。今までは、いわゆる化石燃料(石炭・石油)というものを通じて発展してきました。しかし、その化石燃料すら日本の国にはほとんどないんです。これから、将来に向けてのエネルギーは、核(原子力)エネルギーしかない。みなさん核エネルギーというと、「われわれ日本人が世界で唯一の被爆国でないか」という危機感を持たれる。また、北朝鮮では、拉致問題と引き替えに、核弾頭という物騒なものをちらつかして脅迫しているといったような――そういう本来の目的とは違った、台所のまな板の上の包丁を凶器として使おうとするような――輩(やから)が多いから、結局、核エネルギーが必要であるにもかかわらず、そういう問題に対する危機感を皆さんがお感じになっているのだろうと思います。
やはり、これからの日本の国というものは、核エネルギーというものをうまく利用して、平和な社会を構築し、また、日本の国の豊かな産業のために、核エネルギーこそがわれわれの生活を豊かにする、そういう資源であることを再認識しなければなりません。とにかく、ウランというものは、一番安上がりなエネルギー源です。私は、PL法(製造物責任法)関係で九州電力にちょっと無心に行ってきました。そして、九電の副会長と会って、「子供たちの教育の面でこういうことで仕事をしたいから、いろいろと協力してくれ」と…。
私たちはやはり、公害問題を取り上げているのですが、同時に、われわれは企業というものを守らなければならない。互いに企業が足を引っ張り合ったんじゃ国のためにならない。企業自身も、正しくエネルギーというものを研究し、使用するために企業というものがあるんだから、それはそれなりにして…。しかし、「われわれの研究所は、まだ一民間企業で及ばない科学知識の啓蒙というものを先達としてやりたいから協力してくれ」と言いましたら、私の思いを理解してくれました。これから日本国家社会における将来に向けての問題を取り上げてやっていきたいと思っています。
今日、この場にお集まりの方々は、宗教同志会の先生方でございます。皆様方のこういったいろいろの会の場を通じて、「われわれ日本人がこれから使える唯一の資源は核エネルギーであります。これを安全に使用することによって、われわれ日本人の豊かな国家社会を創り上げて行かなければならない」と、大いに啓蒙していっていただきたいと思います。
皆様のお手元に、平岡先生と私がかつて同じクラブにいた頃に私が書いた『科学の目』という新聞のコラム記事のコピーがあります。日付が1975年ですから、もう28年も前ですよね。しかし、今読んでも、社会で役に立つなと思っています。われわれが、次の世代に育っていく若者たちに、いかに科学知識というものを、科学の目というものを開かせて、国民の福祉増進のために、核エネルギーをより安全にどう使うかということをみなさんにいっしょに啓蒙していってもらいたいと思います。
難しい言葉で喋(しゃべ)ってもあまり理解してくれない。「核エネルギー」といったことを一般の人に解り易く読んでもらうために、漫画の本でもっと紹介していきたいと思っています。大人たちも読んでくれるだろうし、子供たちも読んでくれるだろう。やはり、日本の将来というものは、次の世代を担っていく子供たちが、素直に常識と教養を持って成長してくれることにかかっているのです。そのために、われわれ先人が子供たちのために何をするべきであるか? 子供たちが健やかに成長してくれるような教育方法を考えなければならないということであります。
▼肉体的・精神的・社会的健康を
四天王寺というのは、皆さんご存じのように、今から約1400年前に、聖徳太子が「四箇院(しかいん)」という発想で、単なるお寺だけでなく、敬田(きょうでん)院、これは今日でいうところの学校。それから施薬(せやく)院と施療(せりょう)院、これは病院ですね。それから悲田(ひでん)院、これが福祉施設というふうに、4つの教えをお示しになられた総合的な文化事業を行われました。それを受け継がれたのが今日の四天王寺でございます。ですから、四天王寺というお寺が、学校教育というものを運営しておる。私もそういった部分の理事の一員でもあるわけですが、その場において、慈悲・寛容・生命の尊重といった仏教精神――もちろん、他の宗教の方々もそれぞれ同じような精神をお持ちでしょうが――それに加えて、人間愛、和の心というものが非常に大切だろうと思っています。
ですから、そういうものを含めた「人間同士の和の協調」というものをうちの学校では説いていますが、それらは、やはり、まずひとりひとりの人間を対象としている。ひとりの人間というのは、経済的にも肉体的にも健康な人がどう生きていくかということが基本精神なのです。いわゆる一般的な宗教における人文社会科学的な考え方だけでなく、健康に生きていくためには、自然科学というものをやっぱりミックスしたものがこれからの私たちに必要な学問であります。私は現在、四天王寺国際仏教大学――といっても、何も坊さんばっかりを作っているわけではありませんが――の教育理念のもとで、自然科学と人文科学をミックスした教育をしていきたいと思っています。この大学では、これまでは、だいたい宗教的な人文科学的な教育が中心であったわけですが、たまたま医者である私が、しかも、いわゆるお寺関係者以外で初めての学長職を仰せつかったわけですが、将来に向けてそういう学問形成を念頭に置きながら、将来の学校経営というものを実は毎日説いておるわけでございます。
やはり健康というものは――みなさんご存じのように、スイスにWHO(世界保健機構)がございますが――その国際機関において、「健康とは……」と定義されています。そこでは、「肉体的、精神的、社会的に健全な状態」をもって健康としています。ですから、たとえ肉体的に筋骨隆々の体を持って、一見健康そうな状態であったとしても、刃物を振り回して人を刺し殺したとしたら、精神的には異常である。つまり、これは、健康ではない。また、日本の国家社会の一員として生きている限り、あるいは、世界という国際共同体社会の中のひとつひとつの国が、世界の中の秩序を守るためにはルールというものが必要になる。そういうルールを乱すということも健康的ではありません。
だから、肉体的、精神的、社会的な要素をミックスしたものを作ることが本当の健康であります。ひとりひとりの集まりが社会を作り、そういった社会が都市を作り、そして国を作る。そして、すべての国がお互いの守るべきルールを守ることによって、地球というものを大切にするということがあってこそ、われわれひとりひとりが平和に暮らしていけるのです。そのための日本の国家機構の中での教育問題というのが、平和を担ってくれる次の世代の子供たちの成長を進めるひとつの基準なわけであります。
きわめて散文的な一時間となり、お聞き苦しかったと思いますが、私の言わんとしているところを、汲み取っていただきまして、今日から出会う人それぞれに、そういう皆さんからの思いをお伝えいただきまして、われわれの平和な生活を送っていこうじゃありませんか。ご静聴有難うございました。
(文責編集部)