民俗のこころと鎮めの文化
大阪大学 人間科学研究科 教授
大村英昭
平成九年六月十一日、金光教泉尾教会神徳館国際会議場にお いて、大阪国際宗教同志会(会長津江孝夫)の 平成九年度総会が開催され、在阪の宗教者約六十名が参加して、役員の改選 と規約の改訂が行われ、新体制 が発足した。また、大阪大学人間科学研究科の大村英昭教授が基調講演を行った。
*「民俗のこころ」とは何か?大変、ご丁重なご紹介を頂きました大村英昭でございます。泉尾教会の先生方とは、今までにもいろいろと交流する機会がありまして、こちらに寄せていただくのも、何度目かでございます。親先生とは、一度、『金光新聞』のほうで対談させていただく機会もございました。
今日は、先程来、ご紹介賜りましたように、そこに掲げていただいておりますようなテーマで、仰せのように、一時間余り、お話申し上げさせていただきますが、実は、諸先生方にこちらがご意見を賜りたいという願いもございまして、当今、私自身が考えておりますことをご披瀝を申し上げまして、皆様方のご意見、ご批判を賜りたいということで、本日このような機会を与えていただきました。
本日タイトルになっております最初の「民俗のこころ」というのが、まず、ちょっと聞き慣れない言葉であろうかと思いますが、これは高取正男という、既に亡くなった民俗学者、京都女子大学で教鞭を執られた学者でございますが、この方の造語と言ってもいいと思います。「俗」という字にご注目いただきたいわけです。いわゆるナショナリズムに通じる「民族」ではございませんで、フォークソングのフォークという言葉のほうをとっておられるのであります。で、そのものずばりの『民俗のこころ』というタイトルを付けた著書もございます。それをちょっとこちらへ拝借をさせていただいて、それと「鎮めの文化」というタイトルを並べさせていただいたのであります。
講師紹介の一番下のところにも、NHKライブラリーから近日出版されるということでご紹介いただいておりますが、これが少し遅れておりまして、担当者からやいやい言われていて、今日も原稿を持って、うろうろしているという状況でございます。それにも、『日本人の心の習慣〜鎮めの文化論〜』(NHKライブラリー八月下旬刊行予定)という、タイトルで出版する予定にいたしておりますが、これが、大震災の年でございますから既に一昨年になりますが、その夏にNHK教育テレビの『人間大学』で放映させていただいたテキストをもとにいたしまして、今回、書き改めたものでございます。終始このようなことで、最近は、こうした機会があるごとに、この「鎮めの文化」という言い方を盛んにいたしているのであります。ジャパンタイムスの方から、英語のネーミングもちゃんといただいておりまして、「カーミングカルチャー」と訳してございます。
そういうわけで、私の理解では、日本の民俗のこころというのが、ずうっと、潜在的に「鎮めの文化」の側に傾斜していたのではないか、と考えているのでございます。ところが、とりわけ明治維新以降の、いわゆる「日本近代化」の中で、「煽あおる文化」――「鎮めの文化」に対照させて、英字のネーミングで「アジテーティングカルチャー」という名前を頂きましたが――カーミングカルチャーとは反対、対極にある「煽る文化」が、明治の近代化以降に日本中を席捲いたしまして、「鎮めの文化」という日本古来の民俗のこころが、むしろアングラ化させられたと申しますか、陽の当たる場所から、じめじめした薄暗いところへ追いやられてきたと思うのであります。
でも、あのような震災やいろんなことを考えるにつきまして、われわれは「いつかどこかで必ず死ぬ」ということを本気に考えますと、こころ鎮まって死にたい、というのは極く当然のことでございます。煽られっぱなしでは死ねないと、いうことを思います。そうしますと、「死の一点を見据えてきた」といわれる日本仏教は、当然ながら、この鎮めの文化の中で、それを超越すると申しますか、外国から入ってきた仏教を取り入れて、日本の風土の中で、鎮めの文化というかたちに調刻し直してきた。そして日本民族のこころの中心をなしてきたのではないか……。それを、暫く、特に近代化過程の、わずかまだ百数十年しか経っておりませんが、にもかかわらず、世代的に五世代ぐらいを重ねてきますと、例えば教育の中で、全然、忘れられて、忘却の彼方に置き忘れられてきた。それを今、もう一度、リバイバルさせることが、私たち、日本仏教者としての役割ではないのか、という意味で、発想してまいりました。
とりわけ、ある種の自信を持ったきっかけがございまして、これは、今、私の勤めます大阪大学で、新入生のためのサービス科目のひとつに「日本民俗の心を学びましょう」という科目を、あえて私のほうから提言しました。これは、ご承知のように、例のオウム真理教事件のことなどを考えあわせていただくとすぐ解るのですが、大阪大学からは出家信者を多数、輩出させた。その中で非常に有名な、テレビの前で刺殺された村井という最高幹部は、わが大阪大学理学部宇宙物理学の修士過程を終えて神戸製鋼に勤めた後に、あのようにオウム真理教に入っていった人であります。それ以外にも、大阪大学卒業生や在校生の中で、出家信者になった人が相当数おりまして、そのような意味で、実は、特に理科系の先生方なんかの間から、「どうもちょっといけませんな……」と、しばしば「大阪大学は一体、何を教えているんだ」と、言われかねない。それで、ちょっと「サービス科目」と申しますか、「先生(大村)のような方(註=教授であると同時に寺院の住職)に、日本仏教の本当の心といったところを、解りやすく説明してほしい」といわれるのです。
そのようなものがちゃんと根付いていないから……。昔だったら、たいてい家で、おじいさんおばあさんから、言わず語らず、そういうものが語り伝えられている。それは、あるいは言葉でないかもしれないけれど、自然にその人の振る舞いを通して、受け継ぎ伝えられてきた民俗のこころが、今ではうまく伝承されておらない。ですから、あのように非常に特異な、かなり平均的な日本人の心からかけ離れたものを、しかも仏教なら仏教、何々というような既成教団の名前を使って誘いかけられていって、案外、コロッとそこへ足元を掬われるのは、結局、一種の「宗教的免疫」と申しますか「抵抗力を持っていなかったからだ」という意味で、もう少し「そうではない。民俗のこころにちゃんとなった仏教とはこういうものだ。ということを、あなた(大村)に、ひとつ教えてやってもらいたい」というような要請がございまして、それで、私もいろいろ考えまして、いきなり抹香臭い話をするのも、いかがかと思いましたし、あまりどこかの宗派に寄せてしまうと――つまり、あくまで国立機関でございますから――仏教といえども特定の宗教に違いないわけで、それだけに関わって教えるというのも、国 家公務員としては、いささか政教分離の原則に反するところもあると思いまして、なるべく、もう少し間口を広くとって、仏教とかキリスト教とか神道とかをあえて言わずに、それらのいわば集合点のところが、大変きれいに出来上がってきた。それを高島氏の言葉を使わせていただいて、「民俗のこころ」と、あえて申しまして、それを教えようと思ったわけでございす。
* 小津安二郎監督の『東京物語』
それで、聴く人が、あまり興味を引いてくれなければ意味がない訳でございますので、そこで幾つかの映画のビデオを観せまして、その中には、キリスト教のよく表現されているものも入れましたし、「日本固有の民俗のこころが大変きれいに造形されている」と僕が思ったものも入れまして、いくつか映画を観せたのですが、その中には、「これは今の若い人には到底、理解し難いだろう」と危惧しながら観せたのが、終戦直後の昭和二十二年に封切られました小津安二郎監督の『東京物語』特に、外国の映画評論家によっては、「日本近代映画の中で最高傑作」という評価の高い映画で、外国人の目には、そのように映っているのでしょう。実際に出演している俳優さんは、東山千栄子原節子そして笠智衆であります。もちろん、白黒画面で、原節子が演じておりますのは戦争未亡人で、この人の生き方が重要なテーマになっているわけで、僕らの世代ですら、もはやこのような俳優たちは知らない。わずかに笠智衆あたりは、その後に、山田洋次監督が『寅さん』シリーズで、笠智衆のキャラクターを大変上手に使われたわけで、だからある程度、知っている学生も多いのでありますが、 他のところ……、だいいちバックグラウンドが非常に理解しにくいのではないか、と思いながら観せました。
ところが意外なことに、とても評判がいい。女子学生の中には、観終わった時に泣いている子がかなりいたわけです。この映画は、センチメンタリズムで泣かす映画では決してないのです。そして、最後のシーンは最高画面という映画評論家が多いのですが、一番最後は、東山千栄子が演じていた自分の老妻を失いまして、奥さんのご葬儀で終わる。という筋書でありますが、この老夫妻が、子供たちのいる東京へ出かけるのですが、自分の実の長男と長女は東京の生活が忙しくて……。最初はその長男長女の家へ尾道から訪ねていく。きっと歓迎してくれるだろうと思って、期待して行った。ところが、どっちもこの老夫婦が邪魔になるのです。二人ともとても忙しい。東京ですっかり定着をした生活をしている人たちで、体ていよく「熱海に宿を取ったからそっちに行ってくれ」と言って、追い出されてしまう。このときに、ちょっとした擬音効果で、波の音が大変効果的に使われている。熱海で、この「ザー、ザー」という波の音がバックグラウンドに上手く使っておりますが、堤防のところに二人寄りかかりまして、「もう帰ろうか」と……。つまり、もう期待どおりでなかったですから、「もう明日に でも尾道に帰ろうか」「帰ったほうがよさそうじゃのう」と、淋しそうに会話をするのですね。
ところが、その宿に、原節子が演ずる――つまりこの人は、戦死した次男の嫁で、老夫婦から見れば、自分たちは舅姑にあたる――その若い嫁が飛んで来まして、「何ということか」と、「是非自分のところへ来てくれ」と言って、一番親切にこの老夫婦を庇うのですねぇ。そのやりとりの中で姑が、「あなたは良い人だ、気を遣わなくてもよい」と言う。つまり、たった三ヶ月で――結婚生活わずか三ヶ月ぐらいで夫に出征してしまわれて、しかもその夫が戦死して――今は未亡人に「まだまだあなたは若いんだし、良い人だし、いくらもチャンスがあるはずだから、絶対(死んだ息子に)遠慮してくれるな。それでは私たちが辛い」と、いうようにおっしゃる。しかし、原節子は、「そのようなお心配りはなさらずに、放っといて下さったらよい。私は好きでやっているのです」と、いうような会話がずっと続いていくのですね。
ここは、なかなか今の若い人には理解できないだろうと、こちらはタカをくくっていたのですが、その辺でもう、ずーっと吸い込まれていく様子で、その後に、東山千栄子が演じる老妻が亡くなりまして、そして、そのお葬式。その段階でも、この原節子が演じている嫁が、最後まで葬儀を万端やるわけですね。そして参会者たちが皆、帰ってしまって、長男長女は、形見分けを争っているのですけれども、そういうことにも加わらずに親切にして、人たちが皆、帰ってしまって、一番最後の場面は、ポツンと、その尾道の海が見える座敷縁にひとり……。後ろから映している。ローアングルの典型的な「小津カメラ」といわれておりますが、要するに、一言も言わない。ただ、わずかに聞こえてくるのは、尾道の海からポンポンポンという蒸気船が出て行く音が入っている。そして、やがて夕焼けになりつつある。こういう縁側に、ポツンと座っている笠智衆が、後ろから映されている……。有名な場面で終わるわけであります。ところが、この映画を観せますと、ある女子学生が、これを表現して、これを笠智衆に表現させた小津のこころ映えを「堂々の諦観」と表現しているのですね。もちろん、その諦念 とか諦観について、この映画を観せるについて多少の説明はしております。日本仏教というのは、ここが命であったのでないかと思う。つまり諦観というものの凄みが解っていったら……。
* 仏教的諦観と臓器移植
ここで、近代仏教学者は、諦観の意味をただ「諦あきらめる」という意味だけではなく、「明らけく見る」という意味だと、盛んに強調されますが、私は、普通に言われる「諦める」という意味で、何も悪いことではないと思うのです。人間どこかで諦めが肝心で、諦められなければ、恨みをのんで死ぬだけですから、どこかでそういう諦観とか、諦めるとかいうことが、堂々と主張できねばならない。「あなたもう諦めねばだめよ」ということが言えなければいけない、と思うのです。
そんなことで、ちょっと説明するわけですが、例えば、昨今の臓器移植問題について、皆様方から見れば、わが宗門、浄土真宗とか、浄土宗様とか、こういう伝統教団は、「何やってるのか?」ということがよく問われる訳です。
この間、この五月八日に、実は私もそれまではよく知らなかったのですが、台湾に現在ご本山がございます臨済宗佛光山寺の主宰で、東京のホテルオークラで、日華仏教者会議というものがございまして、こちらの教会からも善信先生が参加されておられまして、この会議に僕は一応、基調講演者という役で引っ張り出されたのですが、よく知らなかったからあんな大胆なことができたと思いますが、文字通り、この巨大教団を率いる星雲大師という、まさしくご開山(教祖)が、三十年前、中国大陸が文化大革命の最中、臨済宗本部の方が皆、大陸で弾圧されまして、台湾に脱出なさった。そういう僧侶グループの総帥が星雲大師と呼ばれる方で、台湾に渡ってからわずか三十年……。渡って十年後には、高雄に巨大な本山を建てられ、そのさらに十年後には、アメリカに西来寺。これがロサンゼルスに1988年に完成いたしました。その年の11月の月刊『ライフ』誌には、「アメリカにできた紫禁城」というように例えておりまして、「西半球で最大の仏教寺院であろう」と絶賛いたしておりますように、大変、見事なお寺を造られたのです。さらに、その後にわずか十年経っていないぐらいですが、東京大阪 をはじめ、日本全国主要都市のほとんどに大別院を建てられまして、もちろん、全国から世界中に散らばっている華僑さんたちを、ネットワークを組んで糾合されたには間違いございませんが、いくら大金持ちの華僑さんでも、よくこのような短期間にこれほどのものを……。ということでございました。
ところが、その(佛光山の)ご開山であられる星雲大師と並んで基調講演させられまして、しかも、こういう元気教団相手に、テーマが「現代における宗教の役割」では……。あちらは元気があるから、いろいろなことなさって社会貢献に尽くされる点はすごいものであります。それに引き替え、元気のないわが教団(浄土真宗本願寺派)などは、そのようなすごいことを言われても、社会貢献のかけらもしておらない。自分のところの宣伝をするのが精一杯、ということでありますから、なんとも、これは応じにくい。並んで僕は何を話したらよいのか?と思って、大変困ったのでありますが、そういう佛光山さんでも、実は1990年から「臓器移植協会」というものを設立されて、まず星雲大師が率先して――もちろんあのお年と齢しでは、使える臓器はたかがしれており、仮に「脳死」になられたところで、他の臓器はほとんど役に立たないですけれど――臓器提供にサインをされた。だから、あの方の場合は、脳死状態になられても、いわゆる「延命処置」を取らないわけです。
これはもう皆様方は既にお心得のことと思いますが、大阪大学のお医者様などがよく強調されるのですが、「もう大村君なんかは絶対に脳死にしないよ」とおっしゃるのですね。「脳死」というのは、機械的につくる作業ですから、放っとけば、そのまま死んでしまうわけです。それを、死ぬのをちょっと止めるわけですから、その状態は、生命維持装置といわれる器械をいっぱい付けまして、脳幹の一部と、本来放っておけば止まってしまう心臓に、とりあえずストップをかけている。ですから、機械的に、生命維持装置という器械によって作る状態を「脳死」というわけです。
ですから、例えば、僕が交通事故に遭っても、こんな年齢の者には、「脳死」状態にして、生き肝きもを何とか新鮮なうちに採れる期待は、もう起こらないです。僕らの体の場合は、医学的には、もう欲しいものは何もない。「あんたの肝臓なんか、酒をいっぱい飲んで、ほとんど肝硬変の一歩手前……。あんたの腎臓もひどい。石が三つも四つもある……。そのような臓器は貰ったほうが迷惑する。タバコを一日に百本も吸ってるような人の心臓みたいなものを誰が欲しがるか……」ということで、僕のような者が、交通事故かなんかで仮に脳幹破壊状態になったとしても、機械的に作られる「脳死」をわざわざするだけの魅力が医学的には無いのであります。
同じような意味で、星雲大師にも無いと思いますが、臓器バンクに登録されているという意味は、あくまで普通に死んだ状態でも採れる臓器は、腎臓とアイバンクの目の網膜に限られます。五十歳以上の方で、なお、他の人に移植できる臓器は、ほんのわずかであります。ですから、そのような意味もこめてですが、「脳死状態による臓器移植を可能にするために脳死を人の死とすることに賛成」ということが、ここに含まれているというわけですけれども、しかし、今、「脳死」に反対している国は日本とイスラエルだけですから、ということは、当然、まだ「脳死が人の死だ」と認定していないのは、この二国だけでございましょう。ですから、日本も今(脳死を人の死にするための法制度化を)急いでいるという状況です。当然、台湾の場合は、新鮮な臓器であれば、「脳死状態」を作って、臓器移植のチャンスを作るということを当然していることと思いますが、そのような中で、星雲大師のところもそれを社会貢献の一つとして、「これは菩薩行(註=人助けを自分の修行にする)だ」と、ごく普通に考えていられるわけで、特別に屈折したところがない。
* 新たな恨みを作り出す臓器移植には断固反対ところが、わが国では、その以前に非常に屈折して、「菩薩行」とさえ言っていないのです。わがほうの仏教教団では、「何故か?」ということなるのです。それは、日本仏教界だけに限らず、大阪大学の倫理委員会のようなところでも、私にお呼びがかかれば、繰り返し申し上げたことですけれど、「私の(臓器移植についての)意見など、どうでもいいから聴かないで下さい」と最初に断ってから、一般的な推進派の意見に対して「それは違います!」と言うのです。つまり、「皆様方はお医者様で、当然、移植すれば助かる。この子に移植してあげれば助かる。そして、その助かったときの喜びに目を向けて、ものをおっしゃってる。お医者様として、それは当然のことである。人間の進歩は、そもそも、そうして進んできたものだ」と私は充分認める。しかし、僕は――宗教者は――ちょっと違うのです。すなわち、いくら、そのような条件が整えられていっても、医学部の先生方に何度も初めに確認するのですが、「脳死が国家的に認められるようになり、そして、大阪大学の臓器移植技術はこれだけ進んでいるということはお聞きしました。しかし、だから最高条件が整ったとし て、それでいて、臓器を欲しい方のすべてに行き渡るような状態が出てくるかと……。どうしても、そういう意味で、生き肝を移植してあげなければいけない――助からない――というニーズが、欲しいと思っている側に対して、臓器を供給する側が上回る――余裕ができてくる――余ってくるということが、将来的には可能性がございますか?」と聞きますと、お医者様は「それは絶対にない。常に足りない。不足です。だから、現在、外国でも、相当条件を整えているオーストラリアあるいはアメリカ合衆国でも、日本からの臓器移植希望者が来ることを実は大変、迷惑しているのです」と答えられます。
向こうさんたちは、ヒューマニズムの国で、海を越えて求めてきたら、余計に、むしろ心配してくれるぐらいで、移植手術の順番を少し早いめにしてくれたりさえする。しかし本音は、「自分ところだって不足しているものをなんで外国の人のために……」というのには、本音の不満はやはりある。だから、自分たち(移植医)のとこへは、双方の厚生省を通して、「日本は、せめて生き肝ぐらいは自給自足して貰いたい。日本は、何でも金で買いに来る」と、そういうことを、露骨に批判している人もいるのです、と説明される。「そういう情況でございますから、臓器は常に不足なんです」という説明です。
すると、私は「あぁ、そうですか。日本で脳死(状態による臓器移植)を解禁したところで、やはり臓器は不足なのですね。そうでしょうね。それでは私は反対です。皆さん方(医者)は、貰って喜ぶ人のほうに目をつけられるが、宗教者というのは、申し訳けないけども、それだけ条件が整っているにもかかわらず、そこから漏れてしまう人、どうしても不運な人はいる。つまり、臓器は不足しているのですから、誰かは貰えたけど、誰かは貰えないというということが生じるから反対です。『同じ病気なのに、あの人は生き肝を手に入れて助かったけれど、私は選びに漏れ、恨みを呑んで死んでいかなければならない』という人ができてしまう。ところが、この(移植の)可能性が全体としてなかったら、この人の恨みは、むしろ少ないでしょう」と、言うわけです。
ということはどういうことかと申しますと、このような科学的可能性が与えられてなかった昔だったら、医者はどう言っていたのか。例えば、そういう肝臓にあるいは心臓にある構造的な欠陥をもってお生まれになったときに、お医者様はご両親に対して、どうお慰なぐさめしたんでしょう。「これは今の医学ではどうしようもできない。残念ですが、諦めていただくしかない……」と言われたはずだ。親のほうも「あぁ、そうか。この子は、そういう星のもとに生まれてしまったのか」と……。可哀想なことをしたと思いながらも、要するに、諦めを前提にして、「では、この子の行末の幸せをどう考えたらいいのか?どうしたら天国に行かせてあげることができるのか?」というように、昔の人は考えたはずです。ところが今では、なまじと申したらおかしいけれど、そういうチャンスがあり、科学的には救われる……。ところが「僕は、逆に、その可能性があるにもかかわらず、その選びに漏れた」という人は必ず発生するわけでしょう。「不足するということは、僕ら宗教者は、その悲しさに向けてものを申し上げる。それしかない」とお医者様に言うのです。
* 諦めるという知識を磨くそう申しますと、「では、大村さん。それだったら、どこまでいっても進歩というものは――科学的進歩には――それに伴って、今の先生の言葉を使えば、医者は諦めることのできない状態を、より多く作った。より多く増しただけではないか、と言わざるを得ないとおっしゃるのですね」と言われるので、私は「昔の人は、そのような技術がなかっただけに、むしろ諦めるという知恵を磨いた。その諦めるという知恵の上に日本仏教がある。だから今でも、絶対に、『素直にお医者様方と気持ちを共にせよ』とおっしゃっても、僕にはできない」と……。そうすると、「大村さんはもう、あらゆる科学の進歩を否定することになるが、そうですか?」と言われました。そのように、おっしゃるから「もちろんそうですよ。なにか(科学技術が)進歩してよかったことが、ひとつでもありましたか?何もない。断固ない!」と言って、頑張りました。
ところが、星雲大師のところでは、そういう感覚ではないわけで、とにかく、「社会貢献で……。菩薩行で……」とパッパッパッパとおっしゃる。これは元気教団の特徴と思います。では、わがほうが捻れているのか、と言われたら、捻れているということを認めざるえない。ここに、やっぱり日本仏教というものの独特の形ができたと思います。やはり古典仏教とはずいぶん違う。
星雲大師のお話の後で、僕も基調講演者でしたから、参加された日本の先生方が「大村困っているから、どう言い出してくるか」と思って、皆、期待しておったらしい。私は、要するに「古典的な、恐らく日本に初めて仏教が入って来た時もあのような形であったに違いない。そう意味で、初期の、大変古典的な仏教者の理想であったひとつの形を私たちは今、見せていただいた。という思いがしまして、懐かしいとさえと思う」と、受けて立ったのです。「うまいこと逃げましたね」と、浄土宗の水谷幸正先生が誉めて下さいましたが、「あぁとでも言うしかないような」という意味で、古典仏教と日本仏教とは大変、違う。それが、実は、「日本の民俗のこころ」を作ってきた、と思っているのです。
で、最初の『東京物語』に話を戻しますが、そういうものが、今の若い子たちから見ると、ある種の「異文化」と映るのでしょう。われわれは、なまじ半かに、笠智衆さんは知っていますけれど、今の大学一年生という若い世代になると、小津安二郎という名前すら知りませんから、描かれているストーリーあるいは、戦争や終戦直後の戦争未亡人のことも何も知りませんし、ある意味では異文化――カルチャーショック――といってもいいにもかかわらず、それが非常に新鮮に見えて、泣き出す学生もいる。感動している学生がかなり多かった。そうして「堂々の諦観」という言葉まで飛び出してくる。そういう僕ら日本人の遺伝子みたいなところに、ある種の感受性があると思うのです。それが、小津安二郎という人を通して、われわれプロの仏教者をはるかに凌いで、日本仏教の心を、ああいう形で大変上手に表現して下されば、今の若い人にも、訴える力は十分持っていると私は思うのです。そういう意味では、僕らプロの坊さんがするよりも、よく通じるところがある。
むしろ、現在、坊主が一番いけないと思うぐらいであります。非常に下へ手たと思います。むしろ坊主でない方々……例えば、「諦観、諦念」と申しますと、亡くなりました藤沢周平さんや、幕末明治維新期の、まだ若いうちに死んでいった人人、ヒーローたちを描かれた司馬遼太郎さんの小説もそうです。司馬遼太郎氏が、ご自分の作品として「『燃えよ剣』が一番好きだ」とおしゃったそうですが、これは、新撰組の副長、土方歳三を描いたもので、明らかに「死のダンディズム」と言える。鳥羽伏見で負けてから以降は、自分の死に場所を捜している。
そういう感じを、司馬さんはとりたてて「日本仏教」とは絶対おっしゃってはいませんが、もう一度、読み直せばすぐ判りますけれど、大阪の夕陽ヶ丘――あれは完璧にフィクションとして夕陽ヶ丘――に場所を設定されて、情婦というと嫌らしい言い方ですが、静という愛人と最後の別れの逢引きをいたしますが、それを敢えて夕陽ヶ丘の茶屋に場を設定して、明日、いよいよ東北へ死に場所を求めて発つという前夜に、夕焼けを見ながら「いつか俺のしていることも、誰かがきっと一人ぐらいは、解ってくれる奴もいるさ」という台詞せりふを言わせながら、バックグランウンドに夕陽ヶ丘が使れていた。『弱法師』とか、『せんとくまる』といったいろんな謡曲で取り上げれてきた。
ご承知のように、夕陽ヶ丘は有名な念仏聖ねんぶつひじりのメッカで、古来、大阪湾に沈む――今の大阪湾を見ていると汚いですけど、当時は、淀川からの堆積物が島々になっていたわけで、蓮如さんのころでも、盛んに海から船で現在の上町台地の森林を見られて、その青い森を非常にきれいに和歌に詠んでられるというほど、松島とまではいえないかもしれないけれども、大変きれいな海だったようであります。その島と島の間へ、夕陽が降りていく……。この夕陽を拝んで、遥けき西方浄土を願うと申しますか、拝むと申しますか、そういう悲愴感のメッカでもあった。そういうバックグランウンドを、さすがに司馬さん、大阪文化を愛して、十分ご承知の上でのことと思います。だから、直接的におっしゃっておられないですけれども、一番いい場面と申しますか、土方歳三が死を求めて、零落の身を、お日様が遠くへ落ちていく……。そういう「民俗のこころ」のある非常にきれいな表現をされた。伝統的な場所に持ってこられた。やっぱり凄い表現力だと思いますし、そういうものを通して、若い人にもこういう表現方法をしてあげると解るのではないか…。
あるいは、中年男性に好まれている藤沢周平さんのどの本を読んでも、どっかで諦念のようなものが流れている。またそれが、彼の『蝉時雨』などは、若い人の出世物語のようにも一見、みえるのですが、違うと思うのです。最終的に流れているのは、何か男女の愛情みたいなものがきれいに紹介されて、ある種の諦念の中の恋愛のようなものが、上手に表現され、読後感は、きわめて爽やかであります。
*聖徳太子の正体
そういうふうに考えていきますと、いずれにしろ、日本仏教は、インド古典仏教からは相当、隔たったものでした。そのポイントはどこかと申しますと――時間の都合で、これ以上、詳しくよう申せませんが、確かに聖徳太子は、日本に仏教をもたらした方ということは明らかですが、そのもたらした方が、梅原猛先生のお言葉を使いますと――実は、聖徳太子こそ、日本の「怨霊鎮め」の元祖であられたことをすごく強調された。それが、梅原猛の最大の学問的貢献と僕は思うのです。
たいてい「怨霊鎮め」といえば、普通は菅原道真が元祖で、それを鎮めるために建てられた京都の北野天満宮は誰でも知っておりますけれども、聖徳太子を「怨霊鎮め」として祭り上げた文化事業そのものが、法隆寺にまつわるすべてのものだということを発見し、強調なさったのが梅原猛先生の大変なご慧眼だったと思います。そして、彼の言葉を使えば、「生前の聖徳太子にも増して死後の聖徳太子が、日本仏教の形を変えるのに重大な影響力をお持ちになった」といういい方をなさる訳です。この「怨霊鎮め」の感覚とは、多分、仏教が入る以前から日本民俗のこころとしてあったと思います。さらに言えば――梅原先生はあっさりこれを「神道」とおっしゃっておりますけれども――「古神道」と申してもいいような「民俗の」……つまり、はっきりいって、「仏教伝来以前の」感覚だったと思います。ところが、たまたま聖徳太子は、そういう神道的「世界」の中に、法華経を中心とする大乗教典をお持ち込みなさった方……。そして古代国家の改築にまでタッチされて、繁栄させようとなさって、努力なさった方であられます。これもまた、もし機会がございましたら、是非、小林恵子さんの本を読 まれるようにお勧めいたします。岡山大学の古代史学者です。文芸春秋社が非常に支援している人で、文春文庫に『聖徳太子の正体』という本がありますので、一度ご覧になって見て下さい。非常におもしろいです。ここまでは、大阪大学の古代史研究者に聞きましても、「(小林説は)大変、おもしろい意見ですけど、あんなにまで言われてしまうと、日本古代史がガチャガチャになりますから、あまりに恐しいので、よう採用しない」というて、その世界(古代史研究者の中)では割合に知られているけども、誰も真面目には採り上げたくない説です。
と申しますのは、例えば「聖徳太子は日本人でない」という意見――これは最近の古代史では定説と思うのですが――少なくとも、明治維新がでっち上げた「万世一系」の天皇家とは関係のない人だろうと思います。それはもう、定説になっておりましたけれど、この小林恵子さんは、さらに「聖徳太子は西突蕨人(トルコ系)だ」とおっしゃっている。西突蕨とは、鉄の文化を持つ騎馬民族の国で、当時、中国は煬よう帝だいという偉大な大王が出てまいりまして、随帝国という統一王朝が成立していて、その頃に、その北方の騎馬民族の中に台頭してきた大王達頭(タットウ)という人がいたのですが――これはササン朝ペルシャ側の史料とか、東ローマ帝国側の史料にたびたび出てくる名前で、当時、世界的にも有名だった――この随の煬帝との間でも、もちろん、北方騎馬民族内部にも葛藤がいろいろあって、この人がずっと、こっちへ移動して来て、とうとう日本に来た。そして「聖徳太子は、達頭その人だ」というのです。「これはもう、あまりの破天荒な説でございます。何が何でも、あのようなことまで言われると困ります」と、皆(古代史学者)がいうのですが、しかし、非常に説得力が豊かで あります。まぁ一度、お読み下さいませ。
それは、「さもありなん」というところが多く、大体、鉄の文化そのものもおもしろいですし、今、播磨(姫路市)の斑鳩寺に、鉄球の地球儀があるのですね。世界に二つしかないのだそうで、どこから入ってきたのか判らない。古いことは古いものです。「地球が丸い」ということを知っていた。昔、僕らが学んだ歴史では、「地球が丸い」ということが判ったのは、ガリレオの時代でしょう。しかし、ずっと以前から、ササン朝ペルシャとか、あの辺では常識であった。ですから、古代にペルシャ文化が入って来ているといわれるのですけど、「このようなものを持ち込めたのは、聖徳太子一族以外には考えられない」とおっしゃっている。さらに、もっとおもしろいことは、「厩戸皇子うまやどのみこ」という幼名自体、聖書の「イエス生誕」の話とそっくりですけれども、それは、東ローマ帝国とかその辺との交渉があった一族と判れば、聖徳太子の話として持ち込まれて来ることも十分、考えられますね。
さらに、もっとはっきりしているのは、随の煬帝に向けて出した詔みことのり(外交文書)です。「日、出づる処の天子、日、没する処の天子に書をいたす。向かって申して曰もうさく。恙つつがなきや。云々」と。これは、自分のところは東ですから「日出づる処」、おまえさんのところは西だから「日没する処」と、少なくとも同格に扱っているわけで、世界の端っこの小さい島国日本――当時の倭国――から、そのような非常識な手紙を貰って、随の煬帝ほどの人がまともに逢ったりするはずがない。逆にいうとこれは余程の人だったればこそ、すなわち、聖徳太子が北方騎馬民族の大王達頭であると判っていなければ、とてもあのような形で、そこから交渉が始まって、やがて遣隋使みたいな実際、ほぼ対等な外交を随の煬帝がすることはない。と論証されまして、日本書記で今まで謎といわれていたところに大変うまく食い込んで、この説を押し入れると、ストンストンとほとんど確かに、謎が皆、解けてしまって、非常におもしろい。
* 怨霊鎮めと日本仏教
ちょっと話が逸れましたが、その聖徳太子は、どう見ても確かに嫡流の天皇家ではないが故に、結局、「ほとんど毒殺であろう」と言われておりますし、もっとはっきりしておりますのは、その21年後には、ご一統の皆さん、要するに、お妃様からお子たちに至るまで一族皆殺しになったのであります。そういう意味で、これを叩き殺した手合いが、太子の「怨霊」に怖れおののいた。それは、「怨霊」を怖れていた日本民族の仏教以前のこころとして持っていた。ところが、たまたま皆殺されたご一統の聖徳太子は、外国の高度な文明であった仏教を日本に持ってきて下さった方でしたから、この仏教をもって「怨霊鎮め」に使わせていただくと申しますとおかしいですが、このように使わせていただいたら、きっと聖徳太子様に喜んで貰えこそすれ、恨みを倍加する恐れは全くない。今までになかった世界である「怨霊鎮め」に、仏教がこのように習合したんだと思います。
こうして、鎮めと仏教とが日本で固有に重なって、ここから日本の仏教の発展は始まった。それは、現在に至るまで、「葬式仏教」という形で、死者の供養をずっと続けてきた。この姿を、インド古典仏教や、東南アジアあるいは南アジアの仏教(上座部仏教)者が見られて、あるいは学問的に仏教を勉強された方々は、「ひどい堕落だ」と悉くおっしゃるのでありますが、違うのです。堕落とかそういう問題ではない。性格がそこで変わったのです。聖徳太子のおかげで、あるいは聖徳太子を媒介にいたしまして、それまでは神道で行われてきたいろんな心映えが、仏教にも振り分けられたということだと思うのです。
その中で、「神仏習合」というのは、結果的に進められていった。その神仏習合が、日本仏教に独特な味わいを作ったので、とりわけ、仏教の側は、そもそもが「怨霊鎮めに役立つ」ということで、ずっと本流になっていく……。柳田国男氏が言ったように、「(日本において)仏教は、ひとつしかよいことしておらん。それは、野に捨てられている霊の鎮めを仏教者が一生懸命にした。『南無阿弥陀佛』という非常に簡便な『怨霊鎮め』の技法を日本人に教えた。これは、すごいことだ」といって、あの仏教嫌いの柳田国男さんでさえ、「この部分は(仏教を)評価してやってもよい」とおっしゃっているほどであります。
ところが、ご承知のように、どちらかといえば、そのころは「鎮護国家の仏教」ですから、「官制」仏教なのです。そもそも、そのような仏教が奈良に入って来ました。「官制」つまり、奈良朝時代あたりの寺は「一種の国立大学」であったと考えていただきますと解りやすいですが、南都(奈良)の各寺々はそういうところで、お坊様は事実上、官僚に等しい。しかも、そこでは『僧尼令』のもとに、非常に厳しい戒律にしてあった。
ところが、例えば、これも司馬遼太郎さんの『空海の風景』をお読みいただくと分かりますが、弘法大師空海も、一旦は、この官学仏教と名付けられるほうへ行ったのです。でも、嫌になった。それは、単に庶民の悲しさに身を添わせたというよりも、国の祭祀――お祭りごと――をすることのそれぞれが、天皇のため、朝家のためだけで、しかも、つまらない戒律を非常に厳密に適用されている。今でいう『国家公務員法』みたいなものですけれども、それを嫌って、結局、「野やに下る」わけです。そして、ああして四国巡礼に出て行くわけであります。「野に下る」ということは、当時のことですから、仏教のお坊様になられたことは間違いありませんが、普通の在家の人から見れば、確かに「出家」に違いない。これを「第一の出家」と考えますと、弘法大師のなさり方は、一旦、そこへ入られてから、もう一度、「野に下られる」これを「第二の出家」と呼んだりいたします。
そういえば、このように「野に下る人」の外に、「もともと野にいた人」がおるはずはずで、これが、いわゆる「毛坊主」伝統でございます。これは初めから、優婆塞うばそくとか優う婆ば夷いとかいっているわけで、恰好だけの坊さんですから、戒律をちゃんと守ってない。ここでは、もう禁欲主義は一切ございません。だから、親鸞聖人の「肉食妻帯」を、余程のことのようにおっしゃる方がありますが、それ程のことではなかったのです。そのようなことは、在野になったお坊様方は皆、当然のことでありまして、すでに有名な奈良仏教の最後の学僧でございますが、賀古の教信沙彌というように、これは親鸞がよく口にした言葉で「賀古の沙彌の定なり」(覚如の『改邪抄』)と言っていたのですけれど、普通の在家生活をしながら、ひたすら何をするにも「南無阿弥陀仏」と言っていたので、皆が「阿弥陀丸」と呼びましたが、もとを正せば、大変な偉い奈良の学僧だったといわれている人でした。
この「野に下る」とか、初めから「野にあった」という線が、先ほど申しましたように、そこらの河原に打ち捨てられている――例えば、全国で飢饉が起こって、食えなくなった人があふれてきて、結局、都でも食えないから、皆、野垂れ死にする。その死体が賀茂の河原にいっぱい捨てられている――それを一生懸命、荼だ毘びに付すとか供養するとか、さまざまな努力をされた。これが、もともと野にいる坊主たちでありました。ここに「怨霊鎮め」と重なった、あるいは「神仏習合」といっても構わない。そういう日本の仏教……実はここに日本仏教の本流があるのです。
* 供養する心こそ日本仏教の本流急いで結論しておきますけれど、そのような経緯をたどってまいりますと、「葬式仏教」になったことは堕落でも何でもない。亡き人の供養に全力をあげるというのは、むしろ、日本仏教の世界の仏教とは違う大変大きな形、値打ちだと思うのです。
ところが、その葬式葬祭などを、昨今の学者さんたちは、全然、そのように考えてこなかった。ひたすら、モデルがありまして、近代仏教学、例えば「空の思想とか、無の思想というものが仏教の思想的な中身だ。それを悟ることが仏教なんだ」と、ワァーと言い立ててくる。わが浄土真宗ですと、「昔から親鸞の教えは、そういう意味で、まさに仏教の本流のある部分をきちんと表現し直している」ということを言おう、言おう、と続けてきたのです。ところが、何も言う必要がなかった。本当の日本仏教を通して、「民俗のこころがどのように表現されてきたか」という、つまり、下からものを考えた場合に、学問として入ってきた、哲学として入ってきた仏教とか、あるいは、哲学として考えられた仏教とか、学者、しかも、それも東京帝国大学とか京都帝国大学で、勝手に何か訳の判らないものを作っている。それも、実は「作っている」といっても、日本がオリジナルというよりは、先行して、フランスやドイツで、仏教学というのは急速に進歩したのを追っかけて行ったわけで、そういう――もちろん、僕も、その方々の、学者としての偉大さを認めないわけではありませんけど――そのことと、「 そういう仏教でなければならない」と思い込むこととは、別だと思うのです。
学問としての仏教は、偉大なものとして、文化遺産として残すことは大事です。でも現実に、日本仏教が現場で携わってきたことを、葬式などで何をやってきたのか……。それほど値打ちのないことに堕落したこと、本来の仏教精神から外れたことをやってたのか……。ということを言うだけでなく、本気に、真面目に、今こうしてご説明するように、「鎮めの文化」として、もう一度、確しかと捉え直せたら――小津安二郎のような非常にすぐれた表現者を得れば――今の若い人にも、ある種の説得力を持って解って貰えるものだと思います。それを、実際、現場でいるプロの坊さんたちは、ひたすら学者から責められたりして、「あれは仏教ではない」とか言われ続けて、何か悪いことをしているような気持ちになっていて、劣等感を持ってやっている。これでは、ろくな葬式もできません。かえって、葬儀業者の思う壷になって、もちろん、それでお金儲けができるからですけれど、結局、そういう形に貶おとしめられてきたわけであります。
そのようなことで、今日は、ちゃんと体系だったお話ができませんでしたけれど、日本仏教が、とりわけ神道との関係で――近代の、特に浄土真宗の教義学者の悪癖かも知れませんが――神道を嫌うのです。神道を嫌うというより、現世利益――この現世を祈る心そのもの――を、何故か解りませんが、「神道的な心」と申して、「これが浄土真宗の中に混れ込んできているので、もっと純粋化に心にしなければいけない。それで、神道を排除して、純粋仏教にしなきゃいかん」ということで、実際、どうなったかと申しますと、それをする都度する都度、実は「己の念仏のご利益のスケールを自分の手で小さくしていっている」のです。極端に申しますと、「後生の一大事」ときれいごとをいいますけれど、浄土往生しかないのです。今の教義学者のいい方では、「浄土往生以外のご利益はお念仏にはない。生きる生き方を祈ってはそれは神道だ」と言われてしまう。
もっとひどい人になりますと、「供養もいかん」というのです。皆さんも、どこかで聞きかじられたかと思いますが、有名な『歎異抄』第五章に「親鸞は、父ぶ母もの孝きょう養ようのためとて、一遍いっぺんにても念仏申したること、いまだ候はず」といった、その心をちゃんと考えもしないままに、聞きかじりでこのご法講をとって、「先祖供養は浄土真宗では本当はない。あのようなものは神道かどこかですることであって、われわれは違う」と、言えば言うほど、「では、一体お念仏してるのは何のご利益があるのだ?」と、だんだん訳の分からないことを言い出す。分からなくなるから、もう「浄土往生」一点に絞り込んでいきますから、確かに、非常に思想的純度は高い。ですから僕は、それを「真宗ピューリタリズム」と揶や揄ゆしたくなったほど、純度が非常に高くなったと思います。いろんな夾雑物きょうざつぶつはみな取り去ったかに一見みえますけれど、その「現世を祈る心」みたいなことは、結局全部、浄土真宗以外のところ(主として新宗教)へ、自分の手で追い出したようなもので、何かまことに妙なものができ上がったのです。
それで、今日の文脈で結論を急ぎますと、いわば「怨霊鎮め」という形で、日本に仏教が入ってきて以来、ずっと「供養の心」というか「死者の供養」へ集約していった。僕は、これを、「畏れを知る心」だと思うので、そんなに責められる程、迷信臭いということではなく、「怨霊鎮め」というのは、己を超えたものを畏れる心なのです。だから、そういうこころ根と習合しながら完成してきた「供養する心とは一体、何か?」ということを、それを現に担当しているプロの仏教者自身が、十分、大真面目には考えていないのです。このことは、「ただの民俗宗教であって、仏教とは違う」といったバカな話になってしまったものですから、きちっと学問的にここの所を考える方々が今までなかった。それでいろいろと誤った方向が出て来てしまったのだと、僕は今、思っております。
いずれにいたしましても、「民俗のこころと鎮めの文化」として、あらためて今、鼎かなえの軽重を問われている……。これを次の世代にも解るように、きれいに表現していってあげるかというのが、われわれ中間世代の役割ではないのかと思います。少なくとも仏教側からは――皆様方、いろいろなご宗教の皆様とは、違うわけでございますけども――仏教サイドからは、そのようなことを今、考えておりますということで、本日の話題提供の役を終わらせていただきます。長い時間、ありがとうございました。
(おわり)