アレクサンダー・ベネット教授
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▼武士道の復活よりも武道の復活を
こんにちは。本日はよろしくお願い申し上げます。先ほどご紹介くださいました私の経歴にひとつだけ訂正があります。この5月に剣道七段に昇段しました。ニュージーランドの仲間に「お前はいつになったらニュージーランドに帰ってくるのか?」と尋ねられる度に「まあ、七段を取ったら…」と答えていたのですが、思っていたよりだいぶ早く昇段してしまったので「どうしようか」と思っています。ニュージーランドの剣道ナショナルチームは引退したのですが、今度は監督に就任し、チームの指導に当たる重い責任を担うことになりましたので、いつまで日本に居ることができるかはっきりと判らないのですが、とにかく剣道はやればやるほど奥が深く、自分がどれだけ解っていないかがよく判ってくる…。そんな剣道のおかげか、それとも剣道のせいか、しばらくはニュージーランドへは帰れそうにないと思っています。
今日は武士道について話す訳ですが、「武士道」と「武道」とはまた違います。武士道とは創られた伝統ではないのか? という説すらあります。私が「武士道とは何なのか?」を考え始めたきっかけはいろいろありますが、私は、そもそも武士道という概念について大きな疑問を持っています。近頃、「今の日本に欠けているのは武士道精神だ」といったことをよく耳にします。数年前には藤原正彦氏の『国家の品格』が出版され大きな注目を集めましたが、そのような本がたくさんあります。今、日本の社会があまり良くない状態であったり、若者の根性がなさ過ぎるといったことの原因を武士道の見直しによって回復されるのではないか? という意見を持つ方がたくさん居られます。
では、「武士道のどのようなところを見直すのか?」ということになりますと、そもそも武士道というものに対する勘違いもかなり含まれるのではないかと思います。私は、おそらくそういう方々が求めている答えのひとつが「武道」にあるのではないかと思います。つまり、理念としての「武士道」よりも、実際に体を使って、汗を流して稽古(けいこ)をする―「稽古」という言葉自体が、古の人々の智恵を考え直すという意味があります―「武道」の稽古の中にしかないんじゃないかと思います。ですから、私は「武士道」の復活よりも「武道」の復活を求めているところです。
本題に入る前に、まずこの写真をご覧ください。写真の質はあまりよくありませんが、これは私が撮った写真の中で一番の宝だと思っています。数年前になりますが、文部科学省の研究費を頂いて、イランに行ってきました。皆さまご存知の通り、イランはイスラム原理主義の国です。本当は剣道の仲間が居るイラクへ行きたかったんです。いわゆる「ウォーゾーン(戦闘地域)」で剣道をやっているということを聞き、これを研究しながら指導を手伝えないかと思っていました。しかし、申請書を出したものの文科省から「戦争中のそんな危険な所へ行かせる訳にはいかない」と断られました。しかし「周辺国ならば良い」ということでしたので、「では、イランへ行こう!」と決めた次第です。私は、子供の頃からペルシャ文明に非常に興味がありましたし「こういう時(公的資金を受けて研究者として滞在する)以外は、なかなかそういう所へ行くチャンスはない」と思い、ほぼ半年間にわたって現地に滞在しました。
▼イスラム原理主義と日本の武道
その研究のテーマは、主に2つありました。ひとつは「イランの大学などの研究機関における日本学の事情」です。イランの若者が、どこまで日本文化や日本語に対して関心を持っているのか? そしてもうひとつが「武道の研究」です。日本武道は、イランにおいてどのように思われているのか?イスラム原理主義の国では、武道はどのように捉えられているのか? この2つが私のテーマでした。
何故、この写真が私にとって重要な写真なのかと言いますと、滞在中に私の案内をしてくれた現地のスレイマンというイラン人―10年ぐらい日本で空手の修行をした後、イランに帰国して指導に当たっている方なんですが―が、実にいろんな所を案内してくれました。首都のテヘランには3つぐらい大きな武道館がありましたが、その他にも、小さな道場は何処へ行ってもありました。今、ここに映っている道場に案内された時は―私は、テヘランでの行動はすべてその人に任せてついて行っていたため、その時もいったい自分が何処にいるのかまったく判りませんでしたが―、建物の中へ案内される前に「あなたが喋ると外国人と判ってしまい、ちょっと困りますので、決して喋らないでください」と釘を刺されました。私が「けれども、(白人であるニュージーランド人の)私はどう見てもイラン人には見えない」と言うと「アルメニア系イラン人に見られるかもしれないから、とにかく喋らないように」と念を押されました。
ベネット氏の講演に耳を傾ける国宗会員各師 |
行ってみると、敷地のそこかしこに自動小銃を持った人がいっぱい立っています。「いったい、ここはどんな所なのか?」と思いながら迷路のような廊下を通って道場の中へ入ると、ちょうど合気道の稽古をやっているところでした。この写真には写っていませんが、右手には、アヤトラ・ホメイニ(註:イラン・イスラム革命の最高指導者)の写真が掲げてありました。その隣には、柔道の創始者である嘉納治五郎、その隣が合気道の創始者の植芝盛平、そして、沖縄から本土へ空手を伝えた船越義珍の写真が飾ってありました。今の日本の若者が見ても、きっと判らないと思いますが、武道の世界においては教祖のような人たちばかりです。「これは凄いな」と思いました。そこで、イラン人の稽古を拝見しました。合気道に続き、柔道の稽古がありました。途中、今日は日本から客人が来ているということで「ひと言ご挨拶を…」と頼まれました。どこから見ても私は日本人には見えませんが、現在日本に住んでおり、家内が日本人なので「ならば、彼も日本人だろう」と思われたようです。日本を代表して挨拶をした訳ですが、ちょうど合気道の稽古が終わったところだったので、植芝盛平先生について話をしました。
そして訪問を終え車に乗ると、案内してくれたイラン人に「今、われわれが何処へ行ったか判るか?」と尋ねられました。「いや、判らない。しかし何故、普通の道場の回りに、あのような機関銃を持った兵士が大勢立っているんだ?」と聞くと、彼は「実は、あそこは旧アメリカ大使館だったんだ」と答えました。皆さまご存知の通り、1979年―当時、私は9歳でしたが―に、イラン革命が起きました。ホメイニ師が亡命先のフランスからイランへ帰国し、それまでの支配者であったシャー(パーレビ皇帝)が追い出されたという、大きな事件がありました。テヘラン大学の学生たちが、(本来、国際法によって治外法権になっている)アメリカ大使館に乱入して、(外交官特権で守られているはずの)大使館員たちを人質にしました。ちょうど当時、アメリカは「人権外交」のジミー・カーター大統領でしたが、イランの革命政府に対して「アメリカ国籍の者を全員返すように」と言っても聞かない。この事件は444日間続いたのですが、それ以来、アメリカとイランは現在でもまったく外交関係がありません。
ちょうど同時期にアメリカで大統領選挙があったんですが、(人命を尊重したため、この問題に有効な手を打つことができなかった)カーター大統領が負け、(イランに「核兵器を落とすぞ!」と恫喝して当選した)強行派のロナルド・レーガンが新大統領に就任するその日に人質全員が釈放されました。ですから、カーター大統領にはちょっと可哀想な結末でしたが、世界史において非常に重要な事件であったことは確かです。当時9歳だった私も鮮明に覚えている事件の舞台となった旧アメリカ大使館が、一部だけとはいえ、日本武道を勉強するための道場として使われているとは…。
▼武道は最も成功した文化輸出
私はまさにそのためにイランへ研究しに行った訳ですが、やはり、武道―剣道、柔道、空手、合気道、薙刀、相撲と、いろいろありますが―は「日本文化の中で最も成功している輸出品」と言っても良いのではないかと思います。イランで調べたところ、最も競技人口の多いスポーツは「サッカー」ですが、ナンバー・ツーは「武道」なんです。実はイランの文部省の中にも武道課がちゃんとあるんです。それだけ日本の武道は、世界中何処へ行っても行われているスポーツなんです。街なかの道場に入って稽古をしている人たちを見ますと、裸足で、日本の胴着を着て、日本語の号令に従って、日本武道を勉強しています。不思議ですよ。まるで、その空間だけ日本を移植したような感じです。
さらに興味深いことに、イスラム原理主義国では、ほとんどの民間人は自国政府を非常に嫌っていますが、宗教としてのイスラムに対しては非常に深い信仰心を抱いています。彼らは、それだけイスラムに対する信仰心が深いのに、柔道や空手といった武道が説く教えの中に含まれる日本的な精神面や道徳的な部分と、彼らのイスラム信仰の間に摩擦はないのか、アンケート調査をイランで行いました。だいたい500名から回答がありましたが、非常に驚きました。摩擦どころか「武道をやることによって、人間(ムスリム)(イスラム教徒)として、より良い人間(ムスリム)になることができる」というのです。要するに、「われわれムスリムにとって武道とは、まるで宗教のサプリメントのようなものだ」といった回答があったんです。これには「面白いことを言うな」と感じました。武道をやることによって肉体と精神を鍛えることは人間の質を高めることに繋がり、それがすなわち「ムスリムとしての質を高めることになるのだ」と思っている人が非常に多いということを発見しました。
このことは、私にとっては、大変驚いたことだったのですが、実は同じ様な調査をキリスト教圏で実施しても同じようなことを言うんです。これはすなわち、「日本の武道には普遍的な良さがある」という証拠だと思います。反面、日本国内においては、武道の競技人口がどんどん減ってきています。これは非常に残念ですね。この写真も、先ほどと同じくイランで撮った写真です。これはゾロアスター教の遺跡(註:ゾロアスター教は古代ペルシアで起こった)なのですが、(火を神聖視するゾロアスター教では、火葬は「火を穢(けが)す」ことになるので)人が亡くなったら死体を専用の塔の屋上に置き、自然に返す(鳥葬を行う)施設です。写真のこの部分に黒い点があるのがお判りいただけるでしょうか? 「落書きかな?」と思い、登って近くまで行って見てみたところ、なんと極真会館のマーク(会場笑い)だったんです。遺跡に落書きすることは決して褒められた話ではありませんが、「こんな所まで極真空手は来ているのか…」と驚きました。それほど「世界中、何処へ行っても日本の武道の影響はある」という証拠です。
▼創られた伝統
武道や武士道に関して、よく「日本の伝統武道だ」といった言い回しが使われます。しかし、いつから伝統武道になったんでしょうか? 何故なら、武士道にしても武道にしても、日本が近代化していく過程で今の形になったからです。おそらく多くの人々がイメージしている武道や武士道は、わりと近年に形成されたものなのです。確かケンブリッジ大学の文化人類学の先生だったと思いますが、エリック・ホブズボームの有名な『創られた伝統』という本がありますが、この本の中で「祭や歴史的英雄やあらゆる国家儀式など、いわゆる伝統的慣例・習慣は、実は最近になって“創造”されたものが多い」と指摘されています。そして「“創造”は国家、君主制、そして文化に正統性を加えるために行われ、ナショナリズム、民族、国家の象徴および歴史その他に深く関わっている」といいます。
それは日本の武士道のことだけではなく、どこの国でも「これがわれわれの民族伝統文化だ」といわれる文化の中にも、よく調べてみると案外、100年も経っていないことが非常に多いんです。例えば、スコットランドにバグパイプという民族楽器がありますが、よく映画で中世を舞台にしたハイランダー(スコットランド人)の戦士がバグパイプの音楽をBGMにしながら攻めてくるシーンがありますが、本当にこの楽器が生まれてから数百年の歴史があるかというと、実はそんなに古くないんです。調べてみると、バグパイプという楽器は18世紀終わり頃から、新しい国民国家としてのスコットランドのアイデンティティを創り上げようとする時に、国家あるいは民族レベルで、こういった楽器を使うことによって自分たちの独特のアイデンティティを創り出した訳です。
日本でも、まさに同じような現象が起こりました。特に、「武士」というものが世の中から居なくなって久しい明治も後期に入った19世紀終わり頃から「武士道」という言葉が流行(はや)るようになった訳です。しかし、この「武士道」という言葉自体、非常に誤解の多い言葉でありまして、文献的に一番最初に出てくるのは『甲陽軍鑑』あるいは『武功雑記』と言われており、『甲陽軍鑑』は、戦国時代の終わりに武田信玄の家老であった高坂弾正昌信(春日虎綱)が信玄の遺児勝頼のために書いた―学者によって言うことが違うんですが―という体裁になっているんですが、本当は、甲斐武田氏が滅亡して何十年も経った江戸初期に入ってから、小幡景憲が編集して、武士の間であたかも「武士の教科書」のように読まれていました。
『武功雑記』は、ちょうど戦国時代の終わり頃に書かれたとされています(編集者註:これも100年以上時代の下る元禄時代の作と言われている)が、これらが一番早い例ではないかと思います。それまでは「武士の生き方」に関する言葉―「武の道」とか「男の道」とか「弓矢取る身の倣い」といったような表現―がありましたが、「武士道」という言葉自体は確かに存在しましたが、ここで言う「武士道」という言葉は、一般的に使われている言葉ではなかった訳です。
例えば、明治末期に井上哲次郎という東京帝国大学の哲学科教授がいましたが、その人がそれまでに書かれた武士道に関する全部で60巻のいろんな本を集めて、上下2巻にまとめた本では、江戸時代に書かれた武士の代表的な本―例えば「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」で有名な『葉隠』や『武道初心集』―があるんですが、それらの60巻の中で、一度でも「武士道」という言葉が出てきたのはわずか10巻程度です。そのうち、頻繁に出てくるのは3〜4巻しかありませんでした。江戸時代の日常生活において、「武士道」という言葉が頻繁に使われていたかどうか判りませんが、少なくとも書物の中にはそんなに出てこない。
江戸時代ですと、「武士道」という言葉より、例えば、山鹿素行の書物には「士道」という言葉がよく出てきますし、もしくは「武道」という言葉が使われています。この「武道」という言葉は、文字の上では、現在の「武道」と同じ言葉なんですが、江戸時代の時に使われていた「武道」という言葉は、現在のそれとはまったく異なるニュアンスがあって、まさに「武士の生き方」という意味でした。今われわれが「剣道」や「柔道」を包括する概念として使っている「武道」という言葉は、だいたい20世紀に入ってから使われるようになりましたから、わりと最近のことです。「武士道」という言葉に関しては、皮肉なことなんですが、武士の身分が廃止されてから流行(はや)り出したのです。それが明治末期ぐらいのことです。それまでも、言葉としては存在したんですが、それほど巷で聞かれることはありませんでした。
明治時代にはいろんなできごとがあり、武士という身分がなくなり、四民平等になった。また、徴兵制度も1873年にできて、武士のみならず20歳以上の男子は皆、他の国同様、必ず軍の訓練を受けねばならない時代がやってきた訳です。1882年になりますと、非常に重要な『軍人勅諭』教訓集が海軍や陸軍に配られました。結構長い文章ですが、そこでも「武士道」という言葉はまったく出てきません。『軍人勅諭』では「理想的な軍人」の資質として、例えば「忠誠」や「礼儀」や「質素」といった言葉が出てきます。武士道という言葉自体はないけれども、山鹿素行や大道寺友山(註:江戸時代の兵法家)といった、武士道の代表的な本を書いた人々の書物の中に出てくるような内容です。この頃になって初めて、われわれが言うところのいわゆる「武士道精神」が一般化しようとする時代になります。ですので、武士道にとって『軍人勅諭』は大切なものと言えると思います。その意義はいろいろ考えられると思いますが、陸海軍兵の公式倫理規定となった訳です。
▼天皇制国家と武士道
やはり、近代国家における天皇に対して絶対的忠誠心を身につけることが、ひとつの目的であったと思いますし、「戦前日本におけるイデオロギーの道徳指針を提供した」という考え方もあります。他にも「天皇と軍の個人的繋がりを象徴している」など、いろいろ考えられるんですが、最終的に国民が国家イデオロギーの一部となっていったということは、歴史を見れば言えることだと思います。江戸時代における武士道に関する本のキーワードを取り入れた文章が、一般の日本人に配られるものになった訳です。さらに1890年(明治二十三年)の『教育勅語』にも「武士道」という言葉は出てこないんですが、天皇崇拝と新しい国家主義を国民一人ひとりに弘(ひろ)める役割を果たしています。ですので「武士道」とは直接関係ありませんが、これも同じく日本の独自性を強調した文章であります。
では「日本の独自性」とはなんでしょうか? 国家レベル、あるいは民族レベルでそれを求めようとした時、答えのひとつが「武士道」だったんですね。その頃、19世紀のナショナリズムがピークを迎えようとしていました。ナショナリズムというものは非常に難しいので簡単に説明できないんですが、日本の場合は大きく2種類に分けることができると思います。2種類とはいっても、かなり異なるところもあれば、重なっているところもあります。この2つとは、「国家主義」―政府は、国民に対して「国家に忠誠を尽くす」ことを求める日本人であるという考え方―と、「民族主義」―国民であることのみならず、日本の歴史、伝統、習慣の上に成り立つ日本人であることに重点を置く考え方―があります。
面白いことに、国家レベルでは、武士道や武道はあまり利用しようとしなかったけれども、最初、民族レベルで強調されるようになりました。当時、もう武士は存在していないんですけれども、忠義といったような武士の倫理体系が新しい観点から解釈されて、あらためて「武士道」として広まっていきました。特に、1894年から95年の日清戦争の頃に再び武士道や武道に対する関心が高まってきました。例えば、先ほど1904年から1905年に起こった日露戦争の話が出ましたが、日本がロシアと戦争して勝った時に、ほんの50年前まではまったく近代国家じゃなかった日本が海軍を作り、世界のスーパーパワー(列強)と互角に戦って勝てたことから、日本国内のみならず、諸外国も「いったい何が日本にあるんだろう? 何か凄いものがあるんじゃないか?」と考え、そこから日本の武士道に注目が集まり、簡単に言いますと、次第に「武士道の精神が日本人のDNAに含まれているんじゃないか?」と解釈されるようになったんです。その考え方を世界に広めたのが、新渡戸稲造でした。後ほどまた、新渡戸稲造の貢献した点、問題点について考えてみたいと思います。
東京大学の歴史の先生である福地重孝先生は、日清戦争および日露戦争に勝った日本人に対し、西洋人は各方面から日本人を研究し、その結果、精神的な原因のひとつとして、日本の武士道に着眼しました。日本人もまたその特質を認め、武士道を鼓舞する風潮がにわかに盛んになりました。よく考えてみると、武士が実際に存在していた時代、武士の総人口に対する割合は、せいぜい5〜6パーセントしかいませんでしたが、その僅か5〜6パーセントの人々によって受け継がれていた武士道の精神が、明治に入ると、今度は日本人として生まれた者ならば、日本人の誰でもDNAにあることになります。それはほとんど無条件にそう考えられるようになりましたが、その影響は今でも残っています。
先ほど出てきた井上哲治郎も、非常に有名な東大の哲学者でした。彼はナショナリズムのリーダーで、とりわけ「日本主義」という民族主義的な考え方の本を多く出しました。こういった本が多く出版されたのが日露戦争の前後ですが、「武士道は、日本民族の産物なり…。武士道は過去の習慣なり…。と軽率に捨つべきものにあらざること明かなり」と、言っています。これは「伝統的武士の倫理を国民化しなければならない」という考え方なんですね。概要を言いますと、「日本が世界の舞台でこれだけ活躍できているのは、武士道があるからだ。西欧にも騎士道という武士道と同じようなものがあると言う人もいるが、武士道は独特だ。だからこそ、その武士道を倫理規範とする日本人も独特の存在なのだ」といったことが書かれています。それを完全に日本人としての独自性の基盤として井之上哲治郎のみならず、多くの学者がしようとしました。
▼新渡戸稲造の功罪
その当時(註:明治後期)から、武士道に関する本がどんどんと出てきました。それまでほとんど武士道という言葉が使われていなかったことを考えると、「武士道とは、近代国民国家によって創られた伝統」と言えるんじゃないかと思います。先ほど新渡戸稲造の話が少し出ましたが―この人は皆様よくご存知だと思いますが―1899年に『Bushido:
The Soul of Japan』という本を英語で書きました。その本のベースとなっているのが武士道の7つの徳(礼、忠義、誠、名誉、仁、勇、義)です。何故、彼がこの本を書いたのかというと、明治維新後急速に近代化できた日本人や日本文化のことを知りたいと思っている人々から、国際的に活躍していた新渡戸はいろいろ聞かれるんですね。ある時―ベルギーへ旅行している時だったと思いますが―有名な学者と散歩をしている時に、学校における宗教教育の話になりました。新渡戸が「日本の公立学校では宗教教育をしない」と言うと、その学者は「では、日本ではどうやって道徳を教えるのか?」と尋ねました。新渡戸は「そう言われてみれば確かに…」と思いますが「そうか、わざわざ道徳教育をしなくても、私たちには武士道というものがあるのだ!」ということに気づきました。簡単に言えば、世界の人々に対して「日本人は西洋人のようにキリスト教徒ではないが、同じ様な道徳観があるのだ(=日本人は決して野蛮人ではない)」ということをアピールするために書いたのだと思います。
ですから、新渡戸は日本人を代表して、日本の良いところや西洋の国々との共通点を強調するためにこの本を書いたのです。ところが、面白いことに、新渡戸が書いたこの本を私が読みますと、その内容は決して武士道ではないんですね。これは、完全に彼が創った普遍的な道徳について説いた書物なんですね。しかし、日露戦争に勝った頃(20世紀初頭)は、欧米には日本に関する情報があまりなく、新渡戸の本ぐらいしか英語で読める本がなかったため「これを読めば日本人の凄さが解るんじゃないか?」と、瞬く間にベストセラーになりました。例えば、アメリカのセオドア・ルーズベルト(第26代)大統領が何十冊も購入して友人たちに配るほど、高く評価されました。諸外国であまりにも大ヒットしたので、1908年頃に逆に日本語版が出版され、英語版同様に日本においてもベストセラーとなりました。
「新渡戸がそれを書いた意図は何だったか?」というと、武士道道徳的価値観の中から、理想的部分を選んで作り直すことでした。すなわち、近代日本のコンテキスト(状況)において、日本社会が過去から受け継いできた倫理観の理想を描こうとしたのです。例えば「礼儀正しく、寛容で、慈悲の心に富み、名誉を重んじ、自制心が強いというような徳が、日本の伝統の所産であるとした」ということなんです。それも日本人のひとつの徳の形として言えるかもしれませんが、それらの徳をひっくるめて「武士道」と名付けるにはかなり問題点があります。
実はたくさんあるのですが、2点だけ挙げるとすれば、ひとつ目は「新渡戸自身は、決して日本の専門家ではない」ことです。彼は、日本思想史や日本史に詳しい人ではありません。もともと東北の生まれですが、東京で英語学校に学んだ後に札幌農学校で学んだので、結果的に彼はほとんどの教育を外国人講師から受けましたので、日本史をあまり勉強していないのです。もうひとつの問題点は、新渡戸は日本文化史の専門家でないにも拘わらず、外国において新渡戸は「日本の偉大な学者」といったイメージが定着していました。そのため「日本のことは、まず新渡戸に聞こう」となりました。しかし、『武士道』の中で新渡戸が語っていることは、あくまでも新渡戸自身の意見であって「新渡戸の意見=日本」ではないんです。それはさすがに、その当時の他の学者からかなり批判を受けています。一般国民からは非常に人気を得た訳ですが、専門家からすれば「何だ、これは?」という代物だった訳です。
最も多かったのは「武士の道徳をキリスト教化しているのではないか?」といった批判ですが、私もまったく同感です。というのも、この本に書かれていることは、武士道というよりは、キリスト教の聖書に近いところが多いのです。何故なら、実は新渡戸はクリスチャンだったからです。自身が学んだ学校の講師の影響を受けてキリスト教徒となり、また、メリー・エルキントンというクェーカー(註:平和、平等、質素、誠実等を強調するキリスト教の小教派)教徒の女性と結婚しました。当時、特に井上哲治郎などが新渡戸の『武士道』を批判していました。イギリス人の著名な日本学者でB・H・チェンバレンという人が、面白いことを言っています。まず、チェンバレンは新渡戸を「ナショナリストの教授だ」と批判していますが、私はそれは違うと思います。
少々厳しすぎる気がしますし、私は彼はどちらかというとナショナリストというよりはむしろ、インターナショナリストではないかと思います。そして「新渡戸が武士道をテーマに書いたが、そもそも、武士道というものには歴史的根拠はない」とはっきり言っていますが、「武士道」は実際に存在しましたから、これも違います。チェンバレンが言った中で興味深い点は「新渡戸は新しい宗教を創り出した」と言及したところです。私は、これは確かに言えるんじゃないかと思います。新渡戸は、日本の良いところと西洋哲学や宗教などの様々な要素から、自分の智恵を使って新しい普遍的な教訓書を作ったのだと思います。だから、日本のみならず、アメリカでもハンガリーでもニュージーランドでもどこの国でもベストセラーとなり、110年経った今でも、何処の書店に行っても新渡戸の本があるんです。
もし学者としてそんなベストセラーを書くことができたなら、もうこれで仕事を辞めても良いと思います。新渡戸はそれだけ大きな影響を与えた訳ですが、残念なことは―決して批判をしたくはないのですが―「これが武士道だ」と言われても、それはまったく違うということなんです。しかしながら、現在のほとんどの武士道論が、新渡戸によって書かれた『武士道』に基づいて描かれているんです。例えば、2006年に出版された藤原正彦氏の『国家の品格』も、ものすごいベストセラーになりましたが、この本に取り上げられている武士道も、新渡戸の言う『武士道』なんです。歴史を見れば「新渡戸が完全に自身の思いで作り直したものだ」ということは明らかですから、新渡戸によって書かれた『武士道』はまさに「創られた伝統」ということになるのではないかと思います。
▼武士道の神髄は残心にあり
本当は「武道と学校教育」について話したかったんですが、今日は時間がないため飛ばして、結論に入りたいと思います。ベストセラーとなった『国家の品格』の中で、藤原氏は「今、日本には様々な社会問題があり、その特効薬として使えるのが武士道ではないか?」また「美的感受性や情緒を育むとともに、人間には一定の精神の形が必要である。それが武士道である」と、『国家の品格』の中心テーマとして「武士道精神を復活すべきである」と言及しています。他にも似たようなテーマの本がたくさん出ていますね。しかし、どの本を読んでみても、「武士道が良いものである」とは言っているのですが「では、どうやって武士道を復活すれば良いのか?」ということについてはまったく書かれていません。私は、それが武士道に関する多くの本に共通する大きな欠点で、それでは意味がないのではないかと思います。そこで、それだけを批判すると、私も学者としての立場がなくなりますので、長年武道―特に剣道ですが―をやっていて気づいた、非常に興味深い点を挙げたいと思います。
これは、ひょっとして武士道の神髄ではないか? と思うものが「残心(ざんしん)」です。「残心」は、どの武道でも用いられる言葉ですが、例えば、剣道の場合ですと、このように定義されています。「打突した後も油断せず、相手のどんな反撃にもただちに対応できるような身構えと気構え…。剣道試合、審判規則および細則では、残心のあることが有効打突(一本)の条件になっている…」(註:『剣道和英辞典』より抜粋)要するに、打つだけでは一本にならず、打ったその後どうするかを見て、一本かどうかを判断する訳です。これは非常に説明しにくいので、いくつか短いビデオをお見せしようと思います。
まずは柔道の場合です。柔道でも「残心」という言葉を使っていますが、柔道が今日でも「残心」を重視しているのかどうかについて考えてみる良いテキストがあります。このビデオは、2000年に開かれたシドニーオリンピックにおける井上康生選手の柔道決勝戦です。金メダルを取った井上康生さんは、一本勝ちした瞬間に「やったー! 俺が世界一だ!」と高々と拳を挙げてガッツポーズをしています。しかし、これは残心がない例です。残念ながら、いくらオリンピックで世界一になったといっても、それがすなわち「世界一の武道家」ということではないんですね。
では、次に剣道で同じく一本があった後をご覧いただきましょう。これは2005年に開かれた第53回全日本剣道選手権大会の決勝戦の映像です。警察官の内村選手と原田選手の対戦ですが、内村は明治大学卒、原田は筑波大学卒で、今でも活躍しておられます。2人とも非常に強い選手ですが、当時どちらもまだ優勝したことがありませんでした。(映像を見ながら)今、白の小手が入りました。元に戻って互いに構え合って、蹲踞(そんきょ)、納刀(おさめとう)、「有り難うございました」…。素人目には一見、どちらが優勝したのか判らないのは、「残心」があるからです。先ほどのようなガッツポーズをする余裕がないんです。どうするかを考えて間を切って、様子を見ている審判が旗を挙げる。それを見て負けた人が「参りました」といっても、もう一方は「よっしゃー!」というような態度は一切しません。そして蹲踞などの礼儀を終え、戻りますが、戻った後もガッツポーズのような真似はしません。それが「残心」です。
何故なら、これは真剣勝負だからです。もともと武士の世界から受け継がれてきている考え方のひとつです。「生きるか、死ぬか」という世界で出てきた考え方なんです。残心がなければ、たとえ首尾良く相手を切ったとしても「よっしゃー!」と喜んで油断していると、今度は自分が後ろから切られてしまうんです。映画の見せ場でも、悪い奴が死んだと安心したところへ、死んだはずのそいつがバッと生き返って背後から襲ってくるという場面がよくありますよね。つまり、実践の場合は「何があっても油断してはいけない」ということが基本なんです。もうひとつの例を挙げますと、山登りをする友人から聞いた話ですが、一番危ないのは「登り」ではなく「下り」だそうです。困難かつ危険な道程を乗り越えてやっと頂上に辿り着いて、ホッとして気が抜けてしまう。実際、登山者が事故に遭ったり死んだりすることが多いのは、山から下りる時だと言われています。友人は、それを「残心がないからだ」と言っていました。
では、剣道で「残心」がない場合はどうなるのかを見てみましょう。説明しますと、高校生の5人の団体戦ですが、勝ったチームは県代表として全日本インターハイに行くことができるという大きな試合です。ここまで白、赤それぞれが2勝ずつ取っているため、この大将戦の勝敗が、すなわちチームの勝敗となるため、選手には凄いプレッシャーです。最初に赤が小手を入れました。白は二本取り返さないと負けになってしまいますから必死です。今、白が小手を入れました。剣道では、一本取ったら、いったん開始線に戻らないといけません。この開始線に戻る時に、画面に映っている選手がした動作にお気づきになられたでしょうか? 応援しているチームメイトに向かって「やったぞ」といった感じで拳を小さく前方に出しましたね。この動きがガッツポーズと言えるのかどうか判りませんが、これを見た審判が合議に入りました。副審が来て、彼がチームメイトに向かってガッツポーズをしたことを確認し「これは残心がない」と判断し一本が取り消しになりました。
せっかく一本取ったのに、それがなしになってしまったんです。それぐらい厳しい世界なんです。打った後、どういった態度を取っているのか? 大切なことは身構え、気構え、そして心構えであって、たとえ勝ったからとて、威張っている場合ではありません。実戦だったならば、人のいのちを奪ったことになるのですから、喜ぶべきことではないんですね。ある先生は「残心とは懺悔と言ってもよい」と言っていましたが、それだけでなく、残心がない者はいずれやられてしまうのですから、サバイバルの問題でもあった訳です。そういった武士の「生きるか、死ぬか」という世界は、今も剣道の中に残っています。もし「武士道精神を復活しなければ」と言うのであれば、実践しなければ解らないことがたくさんあると思います。先ほどご覧いただいた柔道の決勝戦をもう一度ご覧いただきましょう。非常に残念なことですが、柔道はもはや武道ではなく、競技スポーツになっているんですね。これではサッカーの試合でゴールを決めた選手と変わりません。残念ながら、それでも彼が日本のトップなんです。ですから「武道」とひとくちに言ってもいろいろあります。
この「残心」を簡単に説明しますと、「何があっても興奮しないこと」、「何があっても油断しないこと」、「ゆとり」、「周りを意識すること」、「感情を抑えること」、「謙虚に勝つ、素直に負ける」そして「相手の気持ちを考えること」です。先ほどの全日本選手権にしても、勝った選手は、内心は嬉しくて仕方がないと思いますよ。子供の時から死ぬ思いで激しい稽古を繰り返し、やっと全日本チャンピオンになれたのだから嬉しいに決まってます。しかし、その気持ちを抑えて一切出しません。負けた人も内心「くそー! こんなところでやられるか!」と自分に腹を立てているだろうと思います。しかし、分かれて残心を示している時に主審の宣告を受け、負けが決まったとなれば、悔しい感情は一切見せず「参りました」という態度で礼をする。私も剣道を始めて24年経ちますが、この「残心」の重要性、そして武道と人間形成の繋がりがようやく見えてきたように思います。
しかし、この「残心」も道場の中だけで終わってしまったらあまり意味がないでしょう。どのようにその教訓を自分の日常生活に活かすか…。例えば、お酒を飲み過ぎないといった「身体の残心」や、友達であっても常に尊敬の念を忘れないようにする「人間関係の残心」、「仕事の残心」があれば残業もなくなるかもしれません。他にも「道徳の残心」、「教育の残心」、「常識の残心」などいろいろ挙げられます。今日、私は先生から名刺をいただきましたが、私はいつも持ち歩いている名刺を今日は大学研究室の机に忘れてきてしまいました。それは残心がなかったからだと思います。何かうまくいかなかった時に人のせいにするのではなく「残心があれば、そんなことにはならなかった」と考えるのです。長年続けてきた結果、剣道は私の日常生活に枠組みを与えてくれるようになってきましたが、「残心」こそが新渡戸が考えた「礼」や「忠義」や「礼」などに繋がるのではないかと思います。
今日の話をまとめますと、一般の人々が考える「武士道」は実はそんなに古いものではないということ。今の武士道のベースとなっているものは、新渡戸稲造によって外国人向けに最初は英語で書かれ、後になって日本語に訳され、今日一般常識のように語られている「武士道」の考え方に繋がった。しかし、これには誤解が多く含まれており、歴史的に研究すると、実際にはそうではないということがよく判ります。もうひとつの結論は、武士の生きる道の智恵を学びたいのであれば、私は実際に稽古をすることだけが唯一の方法じゃないかと思います。
皆様がご存知かどうか判りませんが、2012年からすべての中学校1、2年生が必修科目のひとつとして武道を勉強することになりました。文科省が、何故今の子供たちに武道を教えるのかといいますと、日本の道徳や伝統文化について勉強しなければならないということもありますが、今日のグローバル社会において自国の文化を知らないと、立場的に不利になるという懸念もあります。武道を勉強することによって、いろんな問題が解決するのではないかという目的で決まりました。私は、ある意味においては非常に賛成ですが、一方で問題―文科省はいつも大きなことを言う割には計画性がない―があると感じています。現在、全国に1万校以上の中学校がありますが、実際に武道を教える資格を持っている人は300人しかいません。いったい誰が教えるんでしょうか? 私自身は武道家ですから、武道そのものが好きではありますが、武道は中途半端にやると非常に危険な面もありますから、それなら逆にやらないほうが良いんじゃないかと思います。新聞で読んだんですが、1987年から2008年までに学校のクラブ活動で柔道をやっていて亡くなった子供が108名もいます。今までのところ、その時の指導者は監督不行届として、業務上過失致死容疑で誰も逮捕されていませんが…。武道はそれだけ危険を伴う実践の世界ですが、ちゃんとやれば得るものがたくさんあります。それが本当の武士道ではないかと思います。本日はご清聴有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)