国際宗教同志会 平成23年度第3回例会 記念講演
『宗教的利他主義:東日本大震災に宗教のあり方を問う』

大阪大学大学院人間科学研究科 准教授
稲場圭信

2011年10月5日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において国際宗教同志会(村山廣甫会長)の平成23年度第3回例会が、各宗派教団から約50名が参加して開催された。記念講演では、宗教の社会貢献について新進気鋭の研究者である大阪大学大学院人間科学研究科の稲場圭信准教授を招き、『宗教的利他主義:東日本大震災に宗教のあり方を問う』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、講演に引き続き、質疑の内容を紹介する。  


稲場圭信准教授
稲場圭信准教授

▼ 英国の新宗教研究から始まって

ただいまご紹介いただきました、大阪大学の稲場と申します。本日はよろしくお願いいたします。この度は、突然、三宅善信先生からお話を頂きまして、この歴史ある国際宗教同志会の場でお話しさせていただくことになりました。タイトルに肩身の狭い思いと申しますか、宗教指導者の皆様の前で、このような『宗教のあり方を問う』という大それた講題を付けたことに冷や汗をかいているところであります。社会学という学問の中で、宗教社会学という分野の研究を17、8年ずっと続けてまいりましたので、宗教指導者の皆様には「外から研究者はこんなことに関心を持ってやっているんだ」ということを知っていただく良い機会になればと思います。また、大学でこういったことを授業でやっていますので、学生がどんな反応をしているかということも含めてお話しさせていただきますので、至りませんが1時間ほどお付き合いいただければと思います。

本日は、スライドを元にお話しさせていただきますけれども、パワーポイントの内容は、ほとんどレジュメに書かれていますので、適時そちらを見ながらお聞きいただければと思います。先ほど三宅先生のほうから私の紹介を頂きましたが、私の研究テーマを含めて簡単に自己紹介させていただきます。私は元々、東京大学で、宗教学を教えておられる─今は死生学で有名ですけれども─島薗進先生の下で、「現代宗教の利他行ネットワーク」という、宗教の社会倫理性というところから研究をスタートしました。宗教の社会倫理性というと、宗教の社会貢献、すなわち、そこにはボランティア、チャリティ、慈善といったものが考えられますけれども、その後、それらを国際的な視野で研究することが必要だと思い、特に宗教団体の社会活動という点で歴史のあるイギリスで学ぼうと、1996年にロンドン大学へ留学しました。そちらで、英国人が戦後始めた仏教運動(Friends of Western Buddhist Order)─この組織のリーダーの方はイギリス人ですけれども、その人はインドで「不可触賤民(アンタッチャブル)」出身の政治家として、法務大臣まで務めた仏教会衆のB・アンベードカルと一緒になって運動したこともある有名な方です─と、もうひとつは英国における福音主義の新宗教運動であるジーザス・アーミー(イエス軍)というキリスト教の団体。その2つにおいて利他主義というものを研究しました。それを元に、2000年に博士号をロンドン大学で取ることができました。

イギリスでは、貴族の方が大学のパトロンになっているのですが、式典時の席順は、奥の方が年配の総長なんですけれども、最終的に学位授与で握手をするのはパトロンという不思議なシステムで、これがその学位授与式の写真です。(横の写真の右の方は)もう亡くなられましたが、オックスフォード大学のブライアン・R・ウィルソンという、世俗化論とか宗教社会学で非常に有名な教授で日本語でもいくつも本が出ています。左が指導教授のピーター・クラークです。イギリスには研究で4年間、その後1年間教えていましたが、1999年にロンドン大学で東洋アフリカ研究─日本の宗教研究もしていますが─をしているSOASという大学院で国際的なシンポジウムがあった際に、パネリストの1人として三宅善信先生が参加しておられました。その時、私はまだ駆け出しの大学院生でしたが、三宅先生にも声をかけていただいた記憶があります。

イギリスの新宗教運動であるフレンズ・オブ・ウエスタン・ブッディスト・オーダーとジーザス・アーミーの2つの教団における利他主義の研究を元に学位を取って、その後2冊の本になりましたが、『THE PRACTICE OF ALTRUISM─Caring and Religion in Global Perspective』(『利他主義の実践─グローバルな視野におけるケアと宗教』)は、アメリカ人の先生との共著です。ロンドン大学での研究後、フランスの研究所で市民社会などの研究を続けました。

そして2003年から神戸大学で助教授のポジションを得まして、「思いやり」研究に取り組み、2008年に『思いやり格差が日本をダメにする』をNHK新書から出しました。実は、このベースは宗教研究なんです。イギリスでの利他主義研究そして市民社会を考えていく中で「思いやり」という価値や教育、そのベースには宗教がある。ただ『宗教と思いやり』では、なかなか教育界に働きかけるのも難しいということで、ちょっとタイトルも工夫をしました。幸い、この本が分かり易いということで、PTAやNPOや様々な幼稚園、小学校や育英会から呼ばれてお話をさせていただく機会も増えてきました。それからもうひとつ、ずっと続けていた社会貢献利他主義研究というものを若手研究者に呼びかけて進めまして、2009年に『社会貢献する宗教』という本を北海道大学の桜井先生と一緒に編纂しました。島薗進先生が書いてくださった帯に「宗教は『自分勝手』であってはならない!!」と、非常にショッキングなタイトルが付いていますが、若手研究者によるひとつの成果という形で世界思想社から出させていただきました。今日のお話は、この内容と震災の話も含まれております。


▼ 英国の新宗教研究から始まって

ただいまご紹介いただきました、大阪大学の稲場と申します。本日はよろしくお願いいたします。この度は、突然、三宅善信先生からお話を頂きまして、この歴史ある国際宗教同志会の場でお話しさせていただくことになりました。タイトルに肩身の狭い思いと申しますか、宗教指導者の皆様の前で、このような『宗教のあり方を問う』という大それた講題を付けたことに冷や汗をかいているところであります。社会学という学問の中で、宗教社会学という分野の研究を17、8年ずっと続けてまいりましたので、宗教指導者の皆様には「外から研究者はこんなことに関心を持ってやっているんだ」ということを知っていただく良い機会になればと思います。また、大学でこういったことを授業でやっていますので、学生がどんな反応をしているかということも含めてお話しさせていただきますので、至りませんが1時間ほどお付き合いいただければと思います。

本日は、スライドを元にお話しさせていただきますけれども、パワーポイントの内容は、ほとんどレジュメに書かれていますので、適時そちらを見ながらお聞きいただければと思います。先ほど三宅先生のほうから私の紹介を頂きましたが、私の研究テーマを含めて簡単に自己紹介させていただきます。私は元々、東京大学で、宗教学を教えておられる─今は死生学で有名ですけれども─島薗進先生の下で、「現代宗教の利他行ネットワーク」という、宗教の社会倫理性というところから研究をスタートしました。宗教の社会倫理性というと、宗教の社会貢献、すなわち、そこにはボランティア、チャリティ、慈善といったものが考えられますけれども、その後、それらを国際的な視野で研究することが必要だと思い、特に宗教団体の社会活動という点で歴史のあるイギリスで学ぼうと、1996年にロンドン大学へ留学しました。そちらで、英国人が戦後始めた仏教運動(Friends of Western Buddhist Order)─この組織のリーダーの方はイギリス人ですけれども、その人はインドで「不可触賤民(アンタッチャブル)」出身の政治家として、法務大臣まで務めた仏教会衆のB・アンベードカルと一緒になって運動したこともある有名な方です─と、もうひとつは英国における福音主義の新宗教運動であるジーザス・アーミー(イエス軍)というキリスト教の団体。その2つにおいて利他主義というものを研究しました。それを元に、2000年に博士号をロンドン大学で取ることができました。

イギリスでは、貴族の方が大学のパトロンになっているのですが、式典時の席順は、奥の方が年配の総長なんですけれども、最終的に学位授与で握手をするのはパトロンという不思議なシステムで、これがその学位授与式の写真です。(横の写真の右の方は)もう亡くなられましたが、オックスフォード大学のブライアン・R・ウィルソンという、世俗化論とか宗教社会学で非常に有名な教授で日本語でもいくつも本が出ています。左が指導教授のピーター・クラークです。イギリスには研究で4年間、その後1年間教えていましたが、1999年にロンドン大学で東洋アフリカ研究─日本の宗教研究もしていますが─をしているSOASという大学院で国際的なシンポジウムがあった際に、パネリストの1人として三宅善信先生が参加しておられました。その時、私はまだ駆け出しの大学院生でしたが、三宅先生にも声をかけていただいた記憶があります。

イギリスの新宗教運動であるフレンズ・オブ・ウエスタン・ブッディスト・オーダーとジーザス・アーミーの2つの教団における利他主義の研究を元に学位を取って、その後2冊の本になりましたが、『THE PRACTICE OF ALTRUISM─Caring and Religion in Global Perspective』(『利他主義の実践─グローバルな視野におけるケアと宗教』)は、アメリカ人の先生との共著です。ロンドン大学での研究後、フランスの研究所で市民社会などの研究を続けました。

そして2003年から神戸大学で助教授のポジションを得まして、「思いやり」研究に取り組み、2008年に『思いやり格差が日本をダメにする』をNHK新書から出しました。実は、このベースは宗教研究なんです。イギリスでの利他主義研究そして市民社会を考えていく中で「思いやり」という価値や教育、そのベースには宗教がある。ただ『宗教と思いやり』では、なかなか教育界に働きかけるのも難しいということで、ちょっとタイトルも工夫をしました。幸い、この本が分かり易いということで、PTAやNPOや様々な幼稚園、小学校や育英会から呼ばれてお話をさせていただく機会も増えてきました。それからもうひとつ、ずっと続けていた社会貢献利他主義研究というものを若手研究者に呼びかけて進めまして、2009年に『社会貢献する宗教』という本を北海道大学の桜井先生と一緒に編纂しました。島薗進先生が書いてくださった帯に「宗教は『自分勝手』であってはならない!!」と、非常にショッキングなタイトルが付いていますが、若手研究者によるひとつの成果という形で世界思想社から出させていただきました。今日のお話は、この内容と震災の話も含まれております。


▼ 他者への思いやりを持つということ

日本社会は今、東日本大震災によって大変な状況ですけれども、先ほど国際宗教同志会の方々も被災地で慰霊復興祈願祭をされたと承りましたが、阪神淡路大震災の時も、宗教者は動かれていたと…。私は当時、東京に居りましたが、兄が神戸市の中央区で被災したということもあり、神戸にボランティアに行きました。子供のケアをしていた訳ですけれども、宗教の社会倫理に関心がありましたので、宗教者の動きというものを遠くから見ていました。被災地では、様々な宗教団体が組織力を活かして、迅速な活動をしていました。ところが、これはほとんど報道がなされなかった。宗教性を薄め、宗教団体色というものを一切出さずに─「布教活動に繋がる」と見られるという懸念もあったのでしょうか─、一ボランティア活動という風な形でしておられるところもありました。これに対して賛否両論がありました。一部の学者の中には、「これによって既成の宗教は壊滅的になる」と言う人も居ました。あの当時は、オウム真理教の事件もありましたけれど、阪神淡路大震災の時に、宗教者が宗教者としてこの場に立たなかったことが大きな問題でした。

ただ、私は、被災地で小学校に入り、宗教者の動きも遠くから見ていましたので、目に見える形ではない地味な宗教者の動きに非常に感銘を受けました。普通ボランティアに行くとなると、人間ですから、(同じボランティア活動をするのなら)やはり人から感謝されたいという気持ちがあるんですね。ですから、見えないところではなく、なるべく被災者の方と会って自分も体を動かして、人と人とのコミュニケーションなり、そして最後に感謝をされ「有り難う」の一言を受けると、自分のボランティアとしての活動が報われた、お役に立てたという感覚を得られる。そういうところに行きたがるものです。これは、人間として当たり前のことだと思います。

ところが、ある宗教の方々は、そういう日の当たるボランティアではなく、避難所の一番汚いトイレを黙々と掃除をしておられました。避難所のトイレは、用を足したらすぐ出たいほど汚れている場所です。誰が見ている訳でもないそのトイレを、人が使っていない時にサッサと掃除をする…。とてもじゃないけれど「私にはできないな…」と思いました。とても素晴らしい方々だと思います。これはやはり、日頃の宗教的研鑽、奉仕の延長に、人が見ていようが見ていまいが大切なことに取り組むという宗教者の姿勢を見せていただきました。

最新の社会情勢について解りやすく講演する稲場准教授

マスコミでも「1995年はボランティア元年」と言われましたが、宗教者だけでなく、若い大学生や高校生までが大勢ボランティアに行きました。「これで日本社会は変わる」と言われた訳です。しかしながら、阪神淡路大震災の後、本当に日本社会は変わったのでしょうか? 「思いやり社会になる」、「支え合いが起きた」、「ボランティアを非常に熱心にする人々がいた」一見変わるように見えた訳です。ところが、その後どうなったか…? 日本社会のあり様は、少しも変わりませんでしたよね…。

少し話が変わりますが、今、子育てをしている母親が一番力を入れていることは何か? これは、ベネッセという子供向けの教材を作っている企業が定期的にアンケートをしているんですけれども、こちらが2005年と2010年のアンケート結果です。1位が「他者への思いやりを持つこと」あるいは「マナーやルールを身につけること」6割近くの方がこういった項目を選んでいます。いくつか選択肢があって選んでもらうんですが、それ以外にも勉強や健康といった選択肢もある中で、思いやりが1位にある…。これはどういうことか? 日本社会が思いやりに溢れているから、自分の子供もそういう風に育ってほしいと思って子育てをしている。あるいは、日本社会が「他人はどうでも良い」、「自分さえ良ければ良い」という思いやりのない社会になっているから、せめて自分の子には思いやりを持ってほしい。もしくは自分の子供が成人した時に、「ギスギスした自分さえ良ければ良い社会」ではなく、思いやり、支え合いのある社会で生きていってほしいという願いでこの回答をしている。私は後者だと思いますが…。

それからもうひとつ、これは内閣府がやっている社会意識に関する世論調査ですが、定期的にほぼ毎年「今の世の中をどういう風に見ますか?」と世相を聞いています。いくつか選択肢があります。良い世相、悪い世相の中で、「良い」の中で「思いやりがある世の中ですか?」という質問に対し、「はい」を選んだ人は、1998年は6.9パーセントしかいない。同じ年に同じ調査で「自分本位である」を選んだのは42.5パーセント。明らかに思いやりが少なく、自分本位であると国民が見ている訳です。それが2009年になると、「思いやり」が少し増えてくるんですね。この間、1998年はNPO法人数も増えてきた。ボランティアの方も増えてきたという流れがあるのかもしれません。しかしその一方で、「自分本位である」というのも増えています。この差はかなり開きが出てきています。2008年、特にリーマンショック以降、経済が大変な状況の中で「格差社会」ということがずっと言われてきていますけれども、まず世の中の諸相ということで、いくつか考えてみたいと思います。


▼ キレる大人と怯える大人

「子供がキレる」ということが一時言われましたけれども、「大人たちもキレる」ということなんです。いろんな所で、ひとかどの大人が相手の立場も考えずに「どうしてこんなことになっているんだ!」と、店員さんに怒ったり暴力をふるったりする。自己中心的に過剰な利便性を要求するようになった。これは、十数年の間にストレス社会─誰もがイライラして、時間イコールお金だという感覚が強まり、待たされるだけですぐに怒り出すようなことが増えている。これに対して、2006年の調査ですけれども、「世の中で治安に関して不安を感じることは何ですか?」という質問に対して、答えを選んでもらっているんですが、1位が「情緒不安定な人や怒りっぽい人、すぐキレる人が世の中にいる」という不安を抱えている。だから、街中でもなるべく人と目を合わせないように気を付けて過ごしている方が多い。すぐに怒鳴ったりイライラする人が多い社会になっています。

それから「モンスター・ペアレンツ」という言葉もよく言われます。幼稚園や小学校で、自分の子供が何か問題を起こした時に「自分の子供が何かやった」、「自分の子供が悪い」のではなく、「うちの子供をそんな風にしたのは学校(の先生)の責任だ。どうしてくれる?」と、逆ギレして学校を責める訳です。あるいは、学芸会や生活発表会といった場で「うちの子供がどうしてこんな端役を…? もっと良い役をつけろ!」と、権利を過剰に主張し、自分が正しいと信じ込んで学校の先生に楯突く。1980年代ぐらいから、経済至上主義とかいろんな中で権利を主張していく訳ですが、親御さんの中には学校の先生より学歴が高い方も大勢おられます。商社に勤めておられるご主人とその奥さんが「学校の先生は大した学歴じゃないから」と馬鹿にする。一昔前ならば、「世間の目」というものがあって、過剰な自己権利主張は、かえって恥ずかしくてしなかったのですが、今は個人の自由の時代、権利の時代で、なんでも学校の先生に「どうしてくれる?」と要求する。こうしたモンスター・ペアレンツの問題が学校の現場で起きている。もちろん、こういったことが起きない地域や学校もありますが、実際に社会的問題になっていることは皆様もご存じの通りです。

それからもうひとつ、「評価社会」という言葉を私は使っていますけれども、もう20年ぐらいずっと続いていることです。常に単一基準の評価のプレッシャーに晒されている。既に私が子供の頃からそういった風潮がありましたが、「良い子、良い学校、一流企業、ノルマ達成」と、次から次へと評価が待っている。すると今度は、評価に怯えるということになる。たとえ悩みごとを抱えても弱みを人に見せられない。会社でプロジェクトに関わっている時に「体調が悪い、不安ごとがある」と会社の同僚に話すと「あいつはあんなことで悩む奴だ。このプロジェクトにいると足を引っ張るかもしれないからあいつを外そうか…」と、心配してくれるよりも、共に働く上でのマイナス要因と評価してしまう。その結果、その後の彼(彼女)の居場所がなくなってしまうんですね。一番親しい会社の同僚にすら悩みごとを話すことができない状態に対して、私は「ダメ出し評価社会」という言葉を使っていますけれども、一度「あいつはダメだ」というレッテルを貼られてしまうと、なかなかそれを挽回するのは辛い。だから、人に弱みを見せない。親しい人にも、家族にも言わない。

バブル経済が崩壊した後もそうでしたが、中高年のリストラの問題があります。中高年の方は「自分が会社でいつリストラに遭うか判らない」と心配していますが、決して家でもそのことを言いません。何故なら、家でそれを言うと「うちの父ちゃんはうだつが上がらない」と奥さんからダメ出し評価を受けてしまうからです。一番悩みを解ってほしい、自分のことを良く見てほしい、愛されたいと思う家族や親しい人からダメ出し評価を受けるのは一番辛いことです。だから何も言えなくなってしまう。そういった中で、悶々と一人悩みを抱えて、最終的には自らいのちを絶ってしまう人も居る…。安らぎのない現代社会ですけれども、こういった関係を社会学では「1.5次関係」と言ったりもします。

これは、1次関係と2次関係の間ということなんですけれども、1次関係とは、家族や親子といった親しい間柄ですね。本来ならば、その中で喜怒哀楽を共有して、嬉しかったことも思う存分話す。そうすると、家族だから「良かったね」と喜び合えるんですね。けれども、世間一般では、あまり自分の良かったことを話すと、何となく自慢をしているように聞こえるから、あまりそういう話はしない。1次関係では、喜びも困ったことも相談ごとも気兼ねなく話す。2次関係は外の関係ですから、社会的振る舞いを要求されるため、あんまりそういったことを話さない。ところが、最近では先ほど言ったように、たとえ1次関係の間柄でも、自分の悩みを話すと自分の評価が下がるかもしれない。その結果、だんだんと1次関係で話がしづらくなってくる。だから、家族で、夫婦で、親子間でも悩みを言わない。学校で虐められて仲間外れにされても、お父さんお母さんには言わず、1人悩みを抱えている。リストラに遭いそうなサラリーマンの方もそうです。しかし、人間はそれを何処かに吐き出さないと壊れてしまうので、1次関係に代わり2次関係である赤の他人に話をする訳です。例えば、サラリーマンが外へお酒を飲みに行って、赤の他人である接客をする人に悩み事を話したり、OLの方が対人関係の悩みや恋愛の悩みを、友達でもなく家族でもない、髪を切りに行った先の美容師さんにポロッと話す。そういった関係性の捻れが起きています。


▼思いやりは偽善か

そして、この十数年、日本社会では違法派遣や食品偽装や粉飾決算など、モラルの欠如によるさまざまな犯罪が起きています。消費期限が切れていたり、農薬で汚染されたり、黴(かび)が生えている食用ではない事故米は、政府が安く「工業用の糊」の原料として卸すのですが、その事故米を、なんと業者が少し磨いて老人ホームや福祉施設に食用として転売してしまったことがありました。食べられない米だから政府がタダ同然で安く卸したものを、もし食べられるものとして売ったら、あるいは、酒蔵に日本酒の原料としてそれを卸したら、莫大な利益になります。そういうズルをして、その会社は儲かったけれども、結局後で、その事実が判明して、「食品偽装事件」として捕まりました。

そこには、自分の行為によってお米を食べた方に健康被害が出るかもしれない。あるいは、その酒蔵はブランドイメージが潰れてしまうかもしれない。けれども「被害を受ける人や社会で困っている人など関係ない。自分さえ良ければ良い」という社会の風潮がある。根底には、この「思いやりの欠如」というものが、日本社会に蔓延しているのではないかと思います。そういった中で、2006年から私は「思いやり格差社会」という言葉を使っていますが、これは「経済格差」と違って、人々のこころの中にある思いやりの度合いを指します。本当に人のことを考えていて、常に世話を焼いたり心配したりと思いやり深い人がいる一方で、「自分さえ良ければ…」と、お金のことしか考えない、自分の都合しか考えない人もいる。

そのように、思いやりの度合いに格差が生じて、実際に目先の損得が優先される中で、どんどん「思いやりは偽善だ」という社会になっていきました。日本の子供は皆、小学校の道徳の授業で思いやりの大切さを学ぶんですね。家に帰ってもお父さんお母さんから「人には優しくするんだよ」、「思いやり深く生きるんだよ」と教えられる。ところが、小学校高学年頃になるとテレビでニュースを見だす。すると、有名な大企業の社長が人を騙して自分の会社が儲かることをやって捕まっている。子供はそれを見て「世の中って嘘だらけだ。学校の先生や大人たちは『思いやりを持て』なんて言っているけど、あれは嘘なんだ。自分のことさえ考えて生きてゆけば良いんだ」と感じるようになります。そういうところから「思いやりは偽善」というレッテルを貼り出すんですね。けれども、子供の心の中は何処か純粋なところがあるので、目の前で困っている人がいたら「何か親切にしようかな」と思う訳です。

けれども、中学生になってから、そんな思いやりや優しさを言葉して表に出すと、周りの同級生から「何かあいつだけ良い子ちゃんぶってる…」と、いじめの対象になる。だから、そういった素直な思いやりの心を子供は封印するんです。正義とか夢とか理想を語りづらい世の中になっている。小さい時に思いやりを教えることは、現代社会の大切な価値のひとつとして大切だから、小学校の教育課程で教えるんです。ところが、中学ぐらいから子供たちがそれを「偽善」として切り捨てていく…。本来、社会的に伝えていかなければならない大切な価値が、世の中全体から見ると「偽善だ」と思われていることに非常に問題があると思います。そういう社会的風潮の一方で、「これはおかしい」と思って、ボランティアとか社会貢献活動に自分の道を見出す方も多くいらっしゃる。そう考えると、「思いやり格差」は拡がる一方なのかと思います。


▼近代合理主義からの脱却を

結局、1995年に起きた阪神淡路大震災の後も、日本の社会は「思いやり社会」に変わらなかった訳です。その後、11年連続、毎年のように3万人もの自死者がおられる。それとは別に、人間関係がほとんどなく、人から看取られずにマンションの一室で孤独に死んでいく「孤独死」が毎年3万人…。この20年間、日本は人を物のように扱う社会になってゆき、勝ち組・負け組の分断社会、人間関係が希薄になった無縁社会の傾向がより顕著になってきました。本日ここにお集まりの宗教指導者の皆様ならばご存知だと思いますが、実は「無縁」という言葉の中には、NHKが使ったネガティブなイメージだけでなく、もっと深い意味もあると仏教は説いています。それをNHKスペシャルでは視聴者が解りやすいように、縁がなくなって孤独死していく社会を『無縁社会』とネーミングしてしまった訳ですけれども…。どうして(1995年の震災後に日本社会は)変わらなかったのか?

「近代の価値・信念体系は時代遅れになりつつある」と、さまざまな識者が指摘しています。近代を特徴づける思想のひとつに「人間は自然をコントロールすることができる」という考え方がありますが、「こんなことは思い上がりだ。自然環境ひとつ取ってもそうだ…」と、各界のリーダーの方々も言い出しました。しかし、実際には、社会は近代的価値観に支配されたままなんですね。「効率性が最も重要だ」これも近代の価値です。「すべてはお金に換算できる」、「個々の人間は個別の存在だ」、「市場(マーケット)に委ねれば、社会はうまく機能する」等々…。これはリーマン・ショックで「経済を市場だけに任せておいては駄目だ」ということが明らかに証明されたにもかかわらず、相変わらずそのままです。

講師の興味深い話に熱心に耳を傾ける国宗会員諸師

未来学者のアーヴィン・ラズロは、「こういった近代の価値・信念体系は時代遅れになりつつあると多くの人が感じている」と言っています。しかし、十数年前に阪神淡路大震災が起きても、結局、日本の社会は変わることなくこのまま突っ走ってきた。いや、むしろドライブがかかって、小泉・竹中時代の新自由主義経済…。そして、人を物のように見なす社会にどんどんなっていった訳です。

これは、ひとつには生きる意味の貧困が大きいと思います。これは、先ほど申し上げた近代の価値・信念体系というものが、あまりにも社会に広く深く、われわれ現代人の頭の中にあったがために、6,400人もの人が亡くなった阪神淡路大震災が起きても、結局変わらなかった。つまり、われわれは近代的な価値の下に生きていかないと、フッと己が立ち止まった時に、自分の生きる意味の貧困に気付いてしまう。もちろん、宗教界の皆様方は違う価値観をお持ちだと思いますが、日本社会では7割以上の方が「私は無宗教」と思っておられる。そういった中で、「生きる意味」とは何なのか? 結局、経済的なことや自分の立場、出世といった近代的な価値で生きるしかない。

このことは、危険と知りながら安全神話を受容した原発依存社会の根底にあったものと同じだということです。私はちょうど42歳になりますけれど、これは日本に原発が誕生した歴史とほぼ重なります。原発は近代合理主義科学の最先端の技術として見られ、自然界や環境をすべてコントロールできる夢のようなテクノロジーと言われました。しかし、そこには人間が何か忘れたものがあったということに、今われわれが気付かされたという訳です。

そのような状況の中で「3・11」東日本大震災が起こりました。私は大学院生を3人連れて、先々週も岩手県の花巻まで飛行機で行き、そこからレンタカーで岩手のさまざまなお寺や神社、宗教施設、教会を、全行程で600kmぐらい回って聞き取り調査をさせていただきました。(パワーポイントで写真を見せながら)これは6月の写真ですが、当時はこういった状況でしたが、震災直後からテレビでもずっと報道されています。地震だけでなく津波もありましたが、そこで繰り返し使われたのが「想定外」という言葉でした。「想定外」の反対語は「想定内」。これはつまり「物事は想定の範囲内に収まる」という、われわれ現代人の驕りがあったのではないかと思います。これは、「すべては思い通りにコントロールできる」という、先ほどの近代の価値・信念体系と同じなんです。すべてが想定内に収まるものだとして、「リスクはあるけれども、そんなことはコントロールできる」という安全神話も含めて─もちろん、いろんな学者の方が「これは問題だ」と発表したり、市民活動家の方も社会運動として原発反対運動をしたりといろいろありましたが─多くの人が「結局は想定内に収まる」という生き方をしてきました。


▼社会に貢献する宗教

一方で、震災直後から、日本の中にあっても宗教者の祈りや活動が目に見える形で報道されるようになりました。先ほどご紹介がありましたが、私はそういった宗教者の活動をインターネット上で集めてまた発信するということを続けてきました。そこには、「利他主義への期待というものがあるのではないか?」と考えました。 実際に、ボランティア(社会貢献)の実践があり、研究者もこういったことに関心を持って取り組んでいる。これはひとつには、環境問題ひとつ取ってもそうですが、現代社会のさまざまな問題が行政主導のシステムだけでは対応できないということが明らかになるにつれて、われわれにとって身近な医療や年金といった問題は、お上に任せておけば巧く行くという時代は終わったと、人々は気付き始めた訳です。それから、「強者(勝ち組)だけの資本主義」とは別の道への希求と申しますか、そこに何か私たち現代人の今後の生きる道を見出していかなければならないと考えている方も増えてきています。そういった中で「利他的精神に富む市民社会」といったことは前から言われていましたが、本当に地に足がついたような、市民が関わって動いていくような可能性が見えてきたと私は感じています。

レジュメにもありますように、私は『社会貢献する宗教』の中で、利他主義を「社会通念に照らして、困窮あるいは不利な状況にあると判断される他者の援助を目的とし、自己の利益が主たる目的ではない行為」と私は定義しています。普通「利他主義」と言いますと「自分を犠牲にして他者に尽くす」という印象があります。もちろんそうですけれども、やはり人から感謝されたい。そこに自分の生きる意味を見出したい。一種、内面的な喜びと申しましょうか、受けるものがある。そこまで否定してしまっては、現実の利他主義というものは成立しなくなってしまうかもしれません。純粋な利他主義が存在するかどうかというと、哲学的論争にまでなってしまうので、私はこういう風に定義した上で、実際の社会的取り組みというものを研究し続けてきました。

そういった中で「宗教ボランティア」という言葉があります。私も好んで使う言葉ですけれども、これは一般のボランティアと異なり、宗教的利他主義─この言葉にはまた後ほど触れますが─に基づいて宗教者が行うボランティアを指します。信仰がない方のボランティア活動はそれでひとつのボランティアです。しかし、信仰を持っている宗教者の方々が行うボランティア、それから団体組織が母体となって行っている活動も「宗教ボランティア」と見なしていろいろな活動を研究しています。では、宗教的利他主義とは何か? ということですけれども、当然ながら、そこには普通の利他主義と違って、宗教的理念に基づき、宗教の内容によってそれぞれ意味、深まりというものが違う。皆様方それぞれの宗教の中での他者との関係性や利他が、教義的に、また実体験として説かれるところだと思います。

この宗教的利他主義というのは、私は宗教にとって非常に根幹にあるものではないかと考えています。それはひとつに、宗教の社会的あり方というものを大きく問いかけていることです。もちろん「宗教は世俗の価値と異なり、一般社会とは違う」という考え方もあります。もちろん、そうだと思います。俗世間の価値観・信念体系とは異なるものを宗教者は持っている。一方で、日本は法治国家ですから、たいていの宗教的集団は「宗教法人」という法人組織から成り立っています。ですから、社会的存在として宗教組織というものを見なければいけない。そうすると、社会との関わりというものが世間一般からも見られる。もちろん、それぞれの信仰に基づいて俗世間と距離を置く超然とした立場にあるということは、宗教としてひとつの価値がある。

一方で、社会が宗教をどのように見ているかということも大切です。また、宗教者の生き方、他者・社会との関わりが、この宗教的利他主義という言葉の中で立ち上がってくる。この言葉を使わなくても、また声高に言葉にしなくても、宗教者の生き方や立ち居振る舞いの中に、他者・社会との関わり方、また、悩んだり苦しんでいる方に寄り添う宗教者の姿というのは、自然とその方の生きる姿勢に現れます。また「信仰によって如何に救われるか」という救済観にも関連している。これも宗教によって宗教的利他主義が大きく変わってくる可能性があると思います。


▼ソーシャル・キャピタルとしての宗教

少し話を社会一般に戻したいと思います。「ソーシャル・キャピタル」という言葉が日本社会でもカタカナでこの10年ぐらい使われるようになりました。これを日本語に訳しますと「社会関係資本」という風に言ったりもしますが、最近では、政府もこの言葉を使って、地域社会の復興や政策に活かそうと、いろんなことを考えています。実際に最先端を行っているイギリスやアメリカでは、国の研究機関でこのソーシャル・キャピタルについて研究させ、実際に国の政策に活かすといった取り組みがなされています。

組織や集団にある信頼や規範、人と人との互酬性(註:人類学においては、義務としての贈与関係や相互扶助関係を意味する)、これを「ソーシャル・キャピタル」と呼びます。人が複数居ればそこに関係性が現れ、信頼性(人と人との互酬性)が生まれる。これが強ければ強いほど、その集団は組織・集団として強い。お互いが信頼し合っていたら組織は強いんですね。組織の中にありながら「何かあの人は信頼できないなあ」と思っていると、何かひとつあれば崩れていってしまう、あるいは分裂してしまいます。

ですので、こういったソーシャル・キャピタルが強いと、人々の支え合いの行為が活発化する。ですから、政府もこのソーシャル・キャピタルに関心を持っている。イギリスやアメリカでは、宗教をソーシャル・キャピタルを担っていく大きなファクターと見て、「宗教とソーシャル・キャピタル」の観点から10年程研究が続けられ、そういった本もよく出版されています。ですから、今後さまざまな問題が改善されるのがソーシャル・キャピタルだと言われています。


▼社会的基盤を失いつつある日本の宗教

では、もう一度宗教の話に戻りたいと思います。先ほど「信頼」という言葉が出てきましたが、宗教が人々からどれほど信頼されているか? これを見るために「人生において宗教は重要であるか?」という質問項目が『世界価値観調査』を通して数年おきに実施されているんですが、2005年から2007年にかけて世界各国で「人生における宗教の重要度」を聞いています。この表の赤いところを見ると、イラク、タイ、南アフリカ、インド、イタリア、アメリカでは「人生において宗教はとても重要だ」と答えられています。イラクはイスラム教、タイは仏教国でありますけれども、宗教の違いは関係ありません。その他、アメリカでも70%以上の人が「宗教は非常に重要だ」と考えています。アメリカはキリスト教が非常に強い国で、今でも「毎週日曜日には必ず教会に通う」方が非常に多く居られます。

国別宗教信頼度比較:『世界価値観調査』より

一方で、下段を見てみますと、韓国、イギリス、フランスではちょっと弱くなってきますが、それでも半数近くの人が「宗教は重要だ」と答えています。では、中国や日本はどうでしょう? この表では最後のほうにいますね。日本では「宗教は人生においてとても重要だ」と「どちらかというと重要だ」という回答を合わせても2割に届きません。また「あまり重要でない」が35.7%、そして「まったく重要ではない」が44.8%と半数近くを占めています。お隣の中国は共産主義の国です。共産主義だから表向きは宗教を否定している。それでも、実際には、土着の宗教として中国でも信仰を持っている方が多いですね。個々の家に行けば、それぞれ何らかの信仰を持っておられることが判ります。キリスト教徒の方も居られます。その中で「宗教は人生において重要だ」と答えた方が、21.9%と、日本の19.6%より多いですね。これが日本の現状ということです。確かに統計上は、19.6%というショッキングな数字─よく「無宗教の国」と言われますが─が回答として出ていますが、これをまた鵜呑みにする必要はないというのが私の考えです。


▼日本の現状

朝日新聞、読売新聞、NHKなど、いろんなところで定期的に宗教人口の調査をしています。そこで「あなたは信仰を持っていますか?」と聞くと、調査によって多少ブレがありますけれども、日本では「はい」と答える人は、だいたい二十数パーセントで3割まではいきませんし、場合によっては2割を切ります。それから「宗教団体の社会貢献活動を知っていますか?」という問いに対して─これは庭野平和財団の調査ですが─、「はい」という回答はたった35パーセントでした。これは2008年の調査ですので、今回の震災でどう変わるかですけれども、実際に、宗教者はさまざまな社会活動─人権問題にかかわる活動をしている、東南アジアで社会奉仕活動をしている、平和活動をしているなど─をしている。あるいは、日常的に宗教教誨師(註:収容者や受刑者の徳性の育成や精神的救済を目的として行われる活動)として、民生委員として地域社会で活動されている方々がいらっしゃる。しかし、それを知っている人は少数です。これは「庭野平和財団」という、どちらかというと社会活動に関心の強い立正佼成会の研究所が行った調査ですから、そこにひとつの価値観がある。もちろん、外部に委託して調査していますけれども、そういう対象を選んで調査している。どちらかというと、普通の内閣府がやるような調査でやったならば、3割を切るんじゃないかと思います。これが現状です。

そうすると、先ほど「ソーシャル・キャピタル(社会資本)としての宗教」という話をしましたが、アメリカでは日本円にして年間2兆円規模で7,000万人以上の困窮している人々が宗教者の活動によってケアされているという現状があります。その意味で、アメリカは「宗教の国」という訳です。そこでは、教会を中心にソーシャル・キャピタルとして、地域社会で目に見える形で市民と関わっている。しかし日本では、今挙げたように、そもそも宗教人口が3割以下という宗教の現状…。宗教がソーシャル・キャピタルとして、人と人を繋ぐという文脈が弱いと見ています。

もちろん、昔は違ったと思います。日本でも宗教が少なくとも機能していましたが、急激に社会的基盤を失いつつあるという日本の現状…。今、檀家の数が減って「このままではウチのお寺は立ちゆかない」と訴えているお寺も増えています。少子高齢化や地方の過疎化も加わり、移動性が高い社会の中で、菩提寺や檀家さんが移動していく。葬送儀礼の多様化から「(宗教家が介在した)葬式は要らない」という方も、以前に比べて急速に増えています。『千の風になって』や『おくりびと』といった歌や映画が話題となりましたが、そこには宗教者の姿が出てこない。日本の宗教者が、社会的基盤をどんどん失っていく状況にあるといえます。


▼宗教者災害救援ネットワーク

こういった中で、今回の震災を経て、宗教的利他主義に可能性はあるのか? それとも、これは日本社会が変わってゆく転換期になるのか? 私は何人かの研究者に呼びかけて、先ほどお話しした『宗教者災害救援ネットワーク』というものを、3月13日、インターネット上に立ち上げました。ここには、現地で救援活動をしているお寺や神社、あるいは現地に入った宗教者が、実際に現場からツィッターやメールで時々刻々と情報をくださる。あるいは、さまざまな団体がブログを立ち上げる。新聞記者が記事にする。そういった情報をここに全部集約していきました。これを通じて、救援活動や宗教団体の義捐金、追悼、活動拠点の情報、避難者の受け入れやこころのケアなどの情報を、このサイトに入れていきました。震災直後の3月13日に立ち上げたんですが、わずか10日間という短期間で10万回ぐらいこのサイトの記事が閲覧されました。日本社会はこれまで、どちらかというと宗教者の災害救援に関心があるとは思えない状況だったんですけれども、一定の割合で見る人がいた訳です。その多くは宗教者だったかもしれませんが…。先月、9月末までに80万回も見られました。

また、これと時を同じくして『宗教者災害救援マップ』というサイトも立ち上げました。先ほど、石巻で国際宗教同志会の皆様が合同で追悼慰霊復興祈願をされたということでしたが、その慰霊復興祈願祭の受け入れ先となった洞源院の情報も上がってきてます。これは、まず地図の上に宗教施設(お寺、神社、教会など)をマッピングして(位置を落とし込んで)いきました。例えば、洞源院では、避難者が4月30日に280人、6月1日に134人といった避難者数の最新情報に加え、活動内容などの情報を地図上に挙げていきました。こういった情報を提供することで何になるのかということですけれども、まず情報を上げることで、宗教施設で実際にどういう活動が行われているかが判る。そして、現地に入る一般のNPOの方もこれを見て「何か連携ができないか?」あるいは「このお寺に行って何か共同で活動ができないか?」といった希望が、実際の行動へと速やかに繋がってくる。現在、2、3,000データが集まっていますけれども、将来的には全国に拡げていきたいと思っています。


▼被災地で宗教は何をしたか

7月に、気仙沼に調査に行きました。これは松岩八幡神社で熊谷正之宮司に伺ったお話ですが、地震の直後はこのような状況でした。この写真は、津波が押し寄せてきた後の7月の段階の写真ですが、現在(10月)は瓦礫の撤去も進んで本当に何もない状態です。そういった中で避難された方々が、神社の中で生活を共にしておられた。氏子青年会の10名が、自分自身も被災しながらも率先して炊き出しをした。そして、昨秋のお祭時に神社にお供えされていたお米や、祈年祭(註:五穀豊穣を祈る春祭り。旧暦の立春頃)のために作っていた煮しめなどで数日を賄った。宮司の方曰く「神様にお許しをもらって」被災者と一緒に皆で頂いた。最初は境内でテント生活を送っていた人もいたのですが、具合が悪くなったので「神様も許してくださるだろう」と拝殿の中で寝泊まりをした。

これは曹洞宗の清涼院というお寺の三浦光雄住職のお話ですが─檀家さんがほとんどですが─100名ぐらいの方がお寺に避難してこられた。また、SVAシャンティ国際ボランティア会からお寺に支援物資が届き、その物資を貰いに来た地域の人々を含めると、総勢400名ぐらいの方がこのお寺に出入りした。もともとこのお寺は、震災前から「地蔵祭とか地域の人がいっぱい集まって活動するような場所として、また、お酒を酌み交わしながら本音で語り合い、若い人たちも集えるような開かれたお寺にしたい」という三浦住職の取り組みがあったのですが、震災でもその活動が生かされた。ただ、震災直後は、祈りや座禅といった悠長な時間はまったくなかった。毎日、次から次へと起こることを次々とこなすだけであった。しかし「経を上げることだけが供養ではなく、被災した人々と接することがお勤めだ」と住職はおっしゃってました。

それから、これは石巻の日本キリスト教団の小鮒實牧師から伺ったお話ですが、ここも避難された方が何人か居られましたが、キリスト教だから活動したのではなく、共に生きる人間として動いていた。共に生きることの大切さ、寄り添うことの大切さ、そして聖書で説かれている「隣人(となりびと)」というものの意味が本当によく解ったとおっしゃってました。

これは、「四方僧伽(さんが)北海道」から岩手県に駆けつけた若い僧侶の上川泰憲氏と、こちらの方は宗教者でなく写真家でもあり美容師でもあるんですが、この他にミュージシャンの方やレストランの経営者など一般の人たちも一緒になって被災地に入りました。この人たちは本当に苦難にある人に寄り添って、とにかく食べ物を一緒に作ったり、髪を整髪したりと、日常生活のお世話をする中で家族のようなこころの繋がりができてきた。彼らが1間被災地で活動して札幌へ帰る時には涙で抱き合っている。そしてまた彼らが3週間後に現地へ再び出向くと、再会できたことにお互いが本当に喜び合っている。


▼こころのケアとは寄り添うこと

宗教者の間ではよく「こころのケア」ということが言われますが、実は、専門の臨床心理士が被災地へ出向いても、こころのケアはできないんです。「こころのケア」というものは、カウンセリングする場所があり、時間が決まり、セッションの形が確保された中で成立するものであって、外部から被災地に入るなり「こころのケアに来ました!」と言っても、現地の方にこころの内やこころの傷を話していただけるでしょうか…? 実際に被災地の方にお話を聞きましたけれども、ここだけの話ですが、大阪府から派遣された臨床心理士が「こころのケア」と染め抜かれたジャンパーを着て、大阪府の救援活動の一環として被災地にやって来たそうです。どうなったかは、言うまでもありませんね。

一方、四方僧伽の上川さんたちは、被災しながらも「どうにかして踏ん張ろう!」、「これからどうやって建て直していこうか?」と悩みながらも話している現地の人たちのところへ行ったんですが、彼はひと言も「こころのケア」などと言わないで、とにかく被災者に寄り添いきりました。自分に何ができるかどうか判らないけれども、一緒に食べものを食べて、とにかく生きる…。ここでは、こころのケアをわざわざ「こころのケア」と言わなくてもできている訳です。だから、本物の絆ができる。

そこへ大阪府の救援隊がポッと入ってきて「こころのケア」として「体調不良や眠れないとか何か相談事はありますか?」と活動を開始したのですが、被災者の方々はそんな支援は「要らない」と…。まったく知らないアカの他人が「こころのケアの専門家です」と入って来られても、とてもじゃないけど「自分の父親が津波で流された」とか「子供が行方不明だ」とか、言えないですね。行政はそういうことを解っていない。しかし、上川さんたちが活動で入っていると、髪の毛を切ってあげたり食事を共にしている中で、「実は、うちの親父がまだ見つかっていない…」と、ポツリポツリと話す。そういった中で、本当にこころの絆ができてくる。

東京大学の島薗進先生が代表で、私も世話人の1人として関わっている「宗教者災害支援連絡会」があるのですが、ここで宗教者が連携し、活動の内容をシェア(共有)して、ここでもこころのケアに取り組んでいます。やはり宗教者が専門家として関われることは大事なことだと思います。ただ、被災地に入られる時は「こころのケア」という言葉を使うよりも、やはり例えば一緒にお茶を飲むとか、日常的な細々とした用事のお手伝いをすることから入っていくほうが良いです。宗教者も一般の人と分け隔てなく「食べ物を運ぶのが大変だから」といったような日常的なお手伝いをするうちに、現地の方も「このお坊さんにだったら話したいな」とか「この牧師さんなら聞いてくれそうだな」と、関係性ができてくるのではないかと思います。こういった取り組みが今、できつつあります。

宗教のネットワークの中で、神社は東北三県で五千弱あります。お寺も数多く─中でも曹洞宗が多いですが─あります。全国の諸宗教団体を合わせますと、18万もの宗教法人があります。これらが連携すれば本当に大きな社会的力になります。『宗教者災害救援マップ』というものを作りましたが、日頃から備えとなる地図を作って、そして宗派を超えて─例えば備蓄米。地域が同じであれば、こちらのお寺では夏に賞味期限が来るように備蓄し、別のお寺では冬場に賞味期限が来るようにと、3カ月や6カ月ずつずらして備蓄する。そして(無事、何も起こらなくて)賞味期限が近づいたら、そのお寺・神社・教会は、フードバンクなどを通じて生活保護や貧困で困っている方々に提供するとか、あるいは祭か何かの行事で使う。そしてまた新しい米を備蓄する。そうやって日頃から災害に備えて、いざ何か起きた時には集落を挙げて連携するということが、先ほどのネットワークを作るような感じでできるのではないか。関西にあっても、将来の東海・東南海、南海三連動型地震に備えて、今からそういった連携を作っておくことが大事なのではないかと思います。その場合、宗教だけでなく民間セクターとの連携も必要になると思います。

先ほど「こころのケア」の話をしましたけれども、大阪大学の前総長の鷲田清一先生は「言葉を受け止めるには、アースが必要だ。こころに傷を負っている方が話す。聞く側が話す側の内容をまともに受けて、まともに反応したのでは、聞く側も話す側もいっぱいいっぱいになってしまう。専門家はどこかでアースをしている」とおっしゃってます。そこに私は、宗教者の方々はおそらくそれぞれの信仰に基づいた神仏がそこに居て、目の前に来た苦難の中にある人や悩みを抱えている方々の話を聞く時に、人間としてすぐにそれを受けて反応するのではなく、何処かでそれをアース─アースといえば地面ですから、宗教の場合はヘブン(天)と言ったほうが良いかもしれませんが─して、自分を超えた存在にそれを渡していくということがあるのではないか。それがあるから、また話す側も楽になっていくのではないか。最近、そんなことを考えています。


▼宗教の社会貢献

宗教者の話をしましたが、先ほど、日本では大多数の方が「自分は無宗教だと自覚している」と申し上げました。「(信仰する)宗教がある」と答えた方は3割も満たない。ただ、私は残りの7割以上の「無宗教だ」と思っている人たちも何らかの宗教心があると考えて、それを「無自覚の宗教性」と呼んでいます。これは『宗教と社会貢献』という論文の中で書いたんですが、この論文は無料で見ていただけるように、インターネット上に電子ジャーナルを作りました。ご関心のある方はご一読いただければと思います。

この中で、無自覚の宗教性としてこのように書いています。「無自覚に漠然と抱く自己を超えたものとのつながりの感覚と、先祖、神仏、世間に対して持つおかげ様の念」これは、自らを無宗教と思っている人々の中にも存在するのではないか。自分は定期的に何処かの教会や神社、教団に行って何かをしている訳ではない。けれどもお守りは持っているし、先祖に対する感謝の念がある。おかげ様で自分が生かされているという思いもある。こういった人は多いと思います。このベースにある無自覚の宗教性が、今回のような震災の時に一般の人たちの中に眠っているものがフッと出てくる。そういった中で自分が生かされている。おかげ様でいのちがある。でも困っている方々が居るから、自分にも何かできないか…? 義援金をはじめ、いろいろな形で支援の輪が広がっています。こういったところから「無自覚の宗教性」というものが、日本社会で今、大きく動いている。

私はこれまで「宗教の社会貢献」という言葉を使ってきましたけれども、実は、無自覚の宗教性もこの定義の中に入っているんです。これは、宗教者、宗教団体、あるいは宗教と関連する文化と思想─これは日本の精神性にも繋がってくるかもしれませんが─が、社会のさまざまな領域における問題の解決に寄与したり、人々の生活の質の維持・向上に寄与したりすることを、私は「宗教の社会貢献」と呼んでいます。もちろん、東南アジアや被災地での大きな社会活動やNGO活動も大切ですが、その一方で、人々のこころの中に安らぎを与えたりすることも宗教の社会貢献だと思いますが…。

そして、一般の人々が思っている「無自覚の宗教性」も実は、ベース(根底)には日本人の中にある宗教思想というものが大きくそこにあると思います。ですので、「宗教の社会貢献」は非常に大きい領域を持っていると私は見ています。災害救援から始まって、発展途上国や人権・平和運動、環境への取り組み、地域での奉仕活動、医療・福祉活動、教育・文化振興・人材育成、あるいは宗教的儀礼・救済も宗教の根本的な社会貢献だと私は捉えています。こういった幅広い領域で実際に宗教が社会と関わっている。

ところが、日本人はそのことをよく知らないんですね。学生に実際の宗教者の活動をビデオを使って見せたり、平和運動などの話をします。そうすると、学生─この場合は阪大生ですが─の反応は、「宗教団体がこんなに社会活動をしていることに、また、そのことを自分がまったく知らなかったことに驚きました」という声は非常に多かったです。

そして「宗教団体は自分の活動をアピールしていくことが必要だと思います」宗教者の方々の中には「陰徳だから…」とか「これはあまり人様に言うことではない」と、自分たちの活動を外に出していくことを可としない宗教者も多かったと思います。最近は少しずつ変わってきていると思いますけれども…。学生は「良いことをやっているのだからアピールしたらいいのではないか」と(感じるようです)。「個人単位ではできないようなことを団体としてできる上、信仰心に基づいており営利目的でないため、社会に必要な活動だと思いました」これが、大阪大学の学生の声です。ここで3人の意見を挙げましたけれど、大多数がこのような意見を出していました。ネガティブに「それは売名行為じゃないか」とか「布教活動に使おうとしているんじゃないか」といった穿(うが)った見方をしている学生は少数でした。


▼強い公共性と弱い公共性

「支え合う社会の礎となる4つの力」ということを、この『思いやり格差が日本をダメにする』という本の中で書きました。私は、これを「宗教者が持つ力」と思って書いたんですが、「共感力」すなわち、苦難や難儀な状況にある方々に思いを寄せることができる力。それから「人間関係力」これはお互い様で生きていると思える感覚。「チャレンジ力」は、自分は完成されたものではなく、常に自分自身を省みて研鑽を積む宗教者というのは、実は社会を大きく変えていく力があるのではないかと思います。「ロールモデル力」は、社会のお手本です。多くの宗教には指導者が居て、またそこに続く人…。師匠が居てお弟子さんが居て、その師の姿を通して学んでいくロールモデル(役割)です。そういったものが宗教者が持つ力であり、また、宗教者が社会の中でお手本となっていくということがあるのではないかと思います。そして、支え合う社会をまた大きく創り上げていく。

宗教的利他主義の行方を考える時、2つの方向性があると思います。今、公益法人や公益性などいろいろ言われていますが、ひとつは「強い公益性」。もうひとつは「弱い公益性」。社会的アピールの強弱、目に見えるか見えないかといったことも言えるかもしれません。強い公益性となると、組織がどんどん大きくなってきて、メンバーシップ、マネージメント、NGOということになっていくと思います。これは、宗教的、利他的な倫理観を一般社会に伝えていく。宗教がベースになり、宗教NGOとして大きく社会に働きかける可能性がある。一方で、大きくなりすぎたために市民不在になってしまう。

また、弱い公益性のほうは「おかげ様」や「お互い様」といった無自覚の宗教性と繋がりが深く、社会にじわじわと浸透してゆく。目に見える形ではないけれども、これを基に多くの人が宗教の持つ力というか、何事にも感謝をするおかげ様というものがこころの中から育ってゆけば、持続可能な社会になってゆくのではないか…。持続可能な社会を考える時、そういった2つの方向性があるのではないかと思います。これはどちらが良いということではなく、いろんな方向で今の社会に働きかけていくことができると思います。

ただ、私自身いろいろ研究をしていく過程で、留意点がいくつかあります。ここで申し上げるのはごく普通のことかもしれませんけれども、これは社会一般が心配することでもあります。今回の震災でもマスコミの方からよく取材を受けまして、「こんなことはないのか?」と聞かれるケースがありました。その質問のひとつ「独善的になっていないか?」とは、「宗教者の方々は、やはり信念があり『これが正しい』と思っている。そういった中で、困っている方々の立場と違う所で動くことはないのか?」と聞かれたことがあります。「宗教の閉鎖性」も言われています。その支援活動は、信仰のない人、他宗教の人にも開かれているのか? 一般の人が参加しやすい雰囲気か? いろいろ活動する中で自分たちだけでなくいろんな方々と連携していく…。

実際に今、そういった活動がなされていると思いますので、私は新聞記者の方から取材を受けた時にいくつか事例も紹介して「宗教者が独善的に自分たちだけでやっているのではなく、社会福祉協議会と連携したり、宗教・宗派を超えていろんな繋がりがあります」という話をさせていただいています。

そしてもうひとつ、「市民団体と同様に、説明責任を自覚しているか?」ということです。やはり、宗教団体は組織として動く。そこには当然ながら、信者の方や教会のメンバーの方々のお布施や献金─浄財といいましょうか─が使われている。そうすると、教団組織としては、その活動費を何のために使っているのか信者や氏子や檀家に説明する責任があります。この教会としては、この神社としては、このお寺としては、「この活動がこういう面で大切です。ですから、皆様から頂いたお金をこういった活動に使わせていただきました」といったように、その使い方も含めて説明をしていく。NGOにとって年次報告を出すことが当たり前のように、宗教者の活動に対してもより具体的な説明責任が求められてきています。

最後になりましたが、「支え合う社会へ」ですが、「利他や利他主義を教育や説教・説法でも説くことは非常に重要ですけれども、やはり、思いやり行動の実践者である生きたロールモデル─先ほどお話しした「お手本」です─とのコンタクトが必要不可欠」だと思います。道徳教育を通じて「思いやりが大事だ」と言っても、それによって思いやりのある人が育つ訳ではありません。小さい子供が思いやりを学ぶ上で、父親や母親、そして地域社会で、神社やお寺、教会の宗教者の方々も含む大人たちが、目に見える、あるいは目に見えない形でロールモデルとなっていく。それがまた、社会に拡がっていくと言えるのではないかと思います。

今日お話しさせていただいた内容は、この(2011年)10月末に『宗教的利他主義』(弘文堂)という本になりますので、ご関心のある方にお読みいただければと思います。拙い話でしたが、以上で終わります。ご清聴有り難うございました。



(連載おわり 文責編集部)



国際宗教同志会 平成23年度第3回例会 質疑応答
『宗教的利他主義:東日本大震災に宗教のあり方を問う』

大阪大学大学院人間科学研究科 准教授
稲場圭信


稲場圭信准教授
稲場圭信准教授

司 会: 先生方のご質問が整いますまでの間、まず私のほうからの導入をさせていただきたいと思います。稲場先生が「生きる意味」についてお話しなさった時に、「想定外ということを多くの方に言われた」ということですが、「想定外」が成り立つためには、まず「想定内」が想定されていなければなりません。数年前、マスコミからどんな質問をされても、「それは想定の範囲内です」と答えていたライブドア創設者の堀江貴文さんは結局捕まってしまいましたが、人間というのは─神話という言葉を比喩的に使わせていただきますが─神仏ではない訳ですから、あらゆることが予め判る訳ではない。しかし、実際に動くためには、何らかの前提を想定しなければなりません。赤信号で交差点に突っ込んだら交通違反ですが、青信号だと「横からは車が来ない」ということを前提にドライバーは走っています。つまり、人間が生きていくためには、たとえ実際にはそうでなかったとしても、想定と申しますか、神話というものをどうしても創らなければならない。

そして、古い神話が崩壊したら、また新しい神話を創らなければならない。明治維新の時も、二百数十年の間、誰も崩壊するなどと思ってもみなかった徳川幕藩体制が、黒船の来航をきっかけに、あっという間に壊れたので、慌てて維新政府を創り、長年御所の中だけで暮らしておられた天子様を京都から連れてきて「万世一系の大日本帝国」という神話を創りましたし、太平洋戦争に敗れた時も、一夜にして「神国日本」から話が変わり、新しい民主主義や平和憲法という想定が生み出されました。しかし、これらは皆、単なる神話です。そして、これまでのいろんな価値観が崩れた今回の大震災による原発事故でも、新しい神話を創っていかなければならないし、社会から必ずそういったものの要求があると思うんですが、日本社会における現時点での新しい神話として、稲場先生はどういうものをお考えでしょうか?

稲場圭信: 一研究者の私が答えられることではないと思いますけれども、やはり私は、今回の震災を通して社会は変わっていくと思います。どういう風に変わっていくかということですけれども、先ほどの「生きる意味の貧困」に対して、「生きる意味を問うていく」ような社会になっていくのではないでしょうか。私自身は少し下の世代になりますけれども、今の社会を動かしている世代の方々には、これまで「幸せの方程式」と呼べるようなものがあったと思うんです。戦後、誰もが同じように大学に入って、企業に勤めて、ローンを組んで家を購入するといったように、「こうすれば、誰でも豊かになってゆける」という、ひとつの幸せの路線です。

ですから、ある意味、「生きる意味」など考えずとも、日本人皆が共通して目指す道があり、その目標に向かって、ただただ走ってゆけば良かったのですが、これまで社会を支えてきた「幸せの方程式」がガラガラと音を立てて崩れていく社会の中で、今度は一人ひとりが異なる豊かさを目指すための道を考えていく時代に突入していくのではないかと思います。私も子供が2人居りますので、親としての立場を考えれば、次の世代にバトンを渡す立場として、次の社会に責任を持って何か違うもの─幸せの価値観─を伝えてゆきたいと思います。それが、生きる意味を考えて、ただただ効率を重視したり、社会をコントロールしているだけでは、社会が求めている新たな価値観、すなわち「神話」が生まれてこないと思います。どうなっていくか判りませんが…。曖昧な答えで済みません。

司 会: 有り難うございます。それでは、ご質問の準備のできた方はございますでしょうか? お名前とご教団名に続けて具体的なご質問をお願いしたいと思います。

西奥薫尚: 成道会教団の西奥でございます。本教団は法華経を中心に学んでおりますが、利他主義が大切なことは明白ですが、本日の講題にもあります「宗教的利他主義」として考える場合、先生はどのように捉えておられるのでしょうか? 宗教心から発した一般的な人間としての利他主義なのか、それとも、人類にはいろいろな宗教がありますけれども、そういった個々の宗教が一致完結した宗教的な利他主義なのか、その辺りをもう少し詳しく教えていただければと思います。

西奥薫尚師の質問に答える稲場圭信准教授西奥薫尚師の質問に答える稲場圭信准教授

稲場圭信: ご質問有り難うございます。この「宗教的利他主義」という言葉は、基本的には「宗教理念に基づいた利他主義」のことです。宗教理念の中には、それぞれの宗教が持つ世界観があると思います。キリスト教ならば、隣人愛などが挙げられますが、その中でもよく出される例が「善きサマリア人」の話ですね。苦難にある人に寄り添っていくようなやり方です。また、私がお話しするのは恐縮ですが、仏教ならば菩薩行などの中で説かれているものでしょうか。イスラム教では「ザカート(制度喜捨)」として、人に施しをしていくことをひとつの信仰義務として説いています。このように、それぞれの宗教の中には、他者との関わりや神との関わり、あるいは自分自身の運命に大きく影響を与えるような救済観が、いくつか説かれていると思います。その自分の信仰に基づいて、それぞれの宗教者は他者との関わりや利他主義を実生活の中でどう捉えていくかを考えながら、日々実践されていると思います。

ですので、「宗教的利他主義」とは、決して、ひとつのあり方ではなく、それぞれの宗教者、また、同じ宗派であっても、それを受け取っておられる方一人ひとりの思いによって違うかもしれませんし、また実社会にあっては、信仰をベースにどう他者と関わるかということは、その場その場で変わってくるものかもしれません。それを含めて、宗教的な理念がベースにあるものを宗教的利他主義と捉えております。また、異なる宗教が一致団結して同じことをするということではなく、この国際宗教同志会のように─それぞれ宗派や信仰が違いますから─形の上では、それぞれの祈り方を尊重しつつ、慰霊、追悼、復興祈願で何か一緒にやりましょうといったやり方もあるのではないかと思います。

西奥薫尚: 仏教の立場から問題点を挙げますと、例えば、「現一切色身三昧(げんいっさいしきしんざんまい)」というのがありますが、困っている人を救うためには、その人と同じにしなければならない。姿形も同じくするぐらいに気持ちを入れて助けなければならないという思想がありますが、利他主義が人類の根本的で大切な使命である一方で、それぞれの宗教の原点や価値観は分裂している訳です。ですので、利他主義を広く教育に取り入れられるようなものにすることが、われわれ宗教者に課せられた課題ではないかと思いますが、一般的な利他主義を普遍的な価値観のとして世界運動的に盛り上げてゆくべき課題と捉える場合、そう考えるのは簡単ですが、いざ実行するとなると難しいものがあります。私は、その方法論をどのように考えていくべきかという問題があるのではないかと思います。「困っている人を助けなければならない」ということは、日本国民の大多数が思っていますが、いざとなると、自分の安全が第一であったりする訳です。そういう中で、利他主義はどういったエネルギーで拡げていくべきなのでしょうか?

稲場圭信: 有り難うございます。それについて私の立場でできることは、宗教者の方々の活動を通して逆に私が学ばせていただき、研究させていただいたことをまた社会に発信するということではないかと思います。多くの日本人が宗教者の社会貢献活動を知らない中で、政府も深刻な歳入不足に陥ると「宗教法人に課税しよう」という話が出てきますが、今も復興財源に関する話の中で、消費税論議に加えて、一部ネット上では「宗教法人は税金を払っていないが、社会との関わりという点で公共性がないのであれば、消費税をどうするかを議論する前に、まず宗教法人からも税金を取るべきではないか?」といった意見もあります。

しかし、これは、メディアがこれまで、あまりにも宗教者の活動を取り上げてこなかったが故に、一般社会の人たちが宗教者が現在している社会貢献活動の実情を知らないという背景もある…。そういった状況において、「実際、宗教者はこれだけ社会に関わって(貢献して)いる」ということを、まず、事実として社会に発信することが、私が研究者としてできることではないかと思っています。ですので、宗教者の方々が実際どのように連携して大きな社会的力となってゆくかは、方法論も含めて、私は世界各国の宗教者の動きから学ばせていただきたいと思っています。

司 会: 有り難うございます。「利他」という行動様式は人間である限り誰でもある訳ですから、当然、世俗の一般の方々にもある訳ですけれども、その「利他」の発現がボランティアのような自己実現としての「利他」と、例えば、天台宗における「忘己利他(もうこりた)」や融通念佛宗の「一人一切人(いちにんいっさいにん)」という意味での「利他」とは、基となる理念が違うのではないかと私は思います。ですので、見た目は同じように見えても、世俗の方々のボランティアと宗教者のボランティアとは、スタート地点からして違うのではないかと思います。まず、そのことを世間の方に理解してもらわなければなりませんし、そのことが今、稲場先生がおっしゃったような宗教法人を取り巻くいろんな公益性の問題と関連しているのではないかと思います。

深田紹雄: 真宗大谷派の深田と申します。稲場先生は、お話の中で、利他主義を「社会通念に照らして、困窮あるいは不利な状況にあると判断される他者の援助を目的とし、自己の利益が主たる目的ではない行為」と定義づけておられます。平成12年(2000年)に、マイクロソフト社の創業者であるビル・ゲイツ氏が、私財5兆円を投じて「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」という慈善財団を設立されましたが、この財団はワクチン接種によって、ポリオによる子供の死亡をゼロにすることを目的のひとつとしています。そのビル・ゲイツ氏が2008年に来日された際、講演の最後に「他を助けることは人間の本性である」と言われました。

講師に核心をついた質問する真宗大谷派の深田紹雄師講師に核心をついた質問する真宗大谷派の深田紹雄師

「違いを埋めよう」という訳ではないのですが、稲場先生がおっしゃるところの「宗教」と、私の考えるところの「宗教」には、少し定義上の相違があります。先ほどの先生のお話の中で、日本人で「宗教」に関心があるのは2割から3割ということでしたが、もし「宗教」というものが、私の思うところの「人の拠り所とする事柄」だとすれば、極端な話、その方が自己中心的な生き方をしていたとしても、その自己を本尊にしていたならば、その方の考えはその方の内面における「宗教」であると私は思っています。ですから、私にとっては、「宗教」イコール「宗教団体」ではないんです。そのことを考えますと、もし、「他を助ける」ということがビル・ゲイツ氏の言うように「人間の本性である」ならば、「宗教」という言葉に込めて稲場先生がおっしゃっていることが、組織としての宗教(=宗教団体)のことなのか、あるいは何か別のものを旨としておっしゃられているのか教えていただけないでしょうか?

稲場圭信: 「宗教」を何と定義するのか。これは非常に難しい問題なんですね。実は、私も文脈に応じて「宗教団体」、「宗教者」あるいは「宗教思想」と使い分けています。そのため、ちょっと判りづらいところがあるかもしれませんが…。世論調査で「あなたは信仰がありますか?」と聞く時には、やはり定期的に何処かの教会に行っているとか、○○宗や××教団といった、何らかの宗教団体に属しているかどうかを暗に尋ねていると思います。一方で「あなたの人生にとって宗教は大事ですか?」と聞くような時は、宗教団体に所属しているかどうかというよりも、自分自身の生き方としての宗教性が問われていると思います。

ですので、自分は特定の団体には属していないけれども、仏教的な思想の下に生きているという人も「宗教は大事である」と考える人々のカテゴリーに入ってくると思います。ビル・ゲイツ氏の所属会派はよく存じませんが、あの方もやはりキリスト教的な伝統の中にあると思います。キリスト教の世界観の中には「金持ちの方は最終的に神の世界に入っていけない」というのがあるのですが、あれだけの資産を作った方はやはり、「今度は何かしないといけないな」という気持ちになって引退後に財団を創る。これは、欧米の資産家の方に多く見られる傾向です。その時に「人間として、他人のために何かするのは当たり前だ」と言い切る中には、やはり、ユダヤ・キリスト教的な世界観があることは間違いないと思います。

一方で、「宗教」を抜きにしても、社会生物学、行動心理学、電子工学のほうでいろいろ判ってきていることは、人間は本来的に脳に利他的なものがインプットされているそうです。今春、サルの研究者である小田亮さんが『利他学』という本を出されました。その中でいろいろ書かれていますが、そのひとつに「人間の脳の中には、他者のために何かしようというというものがプログラムされている」とあります。他にも、人間は他の動物と異なり、本来的に利他的なものがプログラムされているということを、脳科学的に「そうだ」と言い切る学者もいるぐらいですが、そのプログラムされているものが各個人の発達段階で成長していくか抑えられていくかは、家庭環境、社会環境、一番大きいのは宗教環境によって変わってくるのではないかと私は考えています。

アメリカのプリンストン大学の社会学者であるロバート・ウスノウは「人間の思いやりや利他的な精神が一番発達する環境は、やはり宗教的に良い環境だ」と言っています。「宗教的に生きていく親から、他者との関係、地域社会との関係といったものを、子供が小さい時から学んでいくことが、利他的な精神が最も発達する良い環境だ」と言っています。実際にそういう研究もあります。ちょっとご質問からずれる回答になったかもしれませんが…。

司 会: 有り難うございます。最近『はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか』という科学小説を読みましたが、ヒトに進化したチンパンジーは非常に攻撃性が強いけれども、ヒトのほうに進化しなかったもうひとつのチンパンジーの仲間であるボノボは、お互いの人間関係(ボノボ関係)を非常に大事にしており、紛争を調停していくあり方が見えます。この小説では、ボノボの行動様式をインプットしたロボットが男に襲われた女性を助けるという話なんですけれども…。こちらのほうの研究からも、「人間は利他性や社会性を持った動物」ということで研究が進んでいると思います。他にどなたか質問がございますでしょうか?

逸見忠志: 住吉大社の逸見と申します。先ほど「日本人は宗教に対する感覚が希薄だ」とおっしゃいましたが、今回の東日本大震災に際した日本人と比べて、「9.11(同時多発テロ)」や「スマトラ沖大地震(インド洋大津波)」が起きた時、アメリカは非常にキリスト教信仰が強い国ですし、インドネシアはイスラム教国ですが、外国の一般の方々は、彼らの宗教性を通じて、どれほど利他的になられて被災された方にボランティアや支援活動をされているのでしょうか?

稲場圭信: ご質問有り難うございます。まず自然災害が起きると、国内外問わず「災害ユートピア」という現象が起きます。これはいろんなところで言われていることですが、普段はそんなに助け合い行動が起きていない所であっても、自然災害の直後には人々が助け合って生きようとする。もちろん、場所によっては略奪や暴動などが起こるところもありますけれども…。例えば、アメリカ南部のニューオリンズをハリケーンカトリーナが襲った後、人々の間で助け合い行動が起きている一方で、むしろ警察自治をする側が、恐怖心から人々が何か略奪行為をするのではないかと黒人を抑えつけることをしてしまいました。しかし、基本的に、人種を超えて災害時には助け合おうという気持ちが出てきます。

では、宗教者が実際にどれほど活動しているかと申しますと、アメリカでは、災害が起きた時に最初に駆けつけるのはいつも宗教者なんですね。ペンシルバニア大学の公共政策の教授であり、宗教の社会活動を研究されているラム・ラン教授は、アメリカで非常に有名な社会学者なのですが、その方の研究でも、カトリーナの災害時には、まず教会の人たちが水浸しのニューオリンズに入って支援活動を行っています。その後にやっと連邦政府の人たちが重い腰を上げている。アメリカでは年間、日本円にして2兆円ほどの寄付金を宗教者が集めて7,000万人以上の困っている人々のために活動していますが、アメリカという国は、信仰心が非常に強く、また、宗教人口が多いからそういうことが起こるのかと言いますと、英国は「国教会制度のある国」でありながら、日本と同様、定期的に教会などの宗教施設に行ってお参りしている人の数は全体の1割しかありません。その一方で、英国にはチャリティーの伝統があり、20万団体以上の慈善団体があって人々が活動している。そこにはキリスト教の伝統もある。ですので、無自覚とは申しませんが、あまり表面的には「私は毎週教会に行っている敬虔なクリスチャンだ」と言わない人でも、そういう活動を通じて他者を支えようとしている現実がある。ただ、統計的に日本と比べてどうなのかと言われると、まだまだ研究がそこまで至っていません。また、日本のような国は、きっちりと統計に表すのが難しい面もあります。宗教界の方々にもそういった研究へご協力をいただければと思います

司 会: 有り難うございました。本日は本当に貴重なお話を聞く機会を得た訳ですが、先ほどの稲場先生のご説によると、「宗教者は発信する努力が足りない」とのことですが、もちろん、その中にはメディアや行政が意図的に宗教者を排除している部分もある訳ですが、これを機会に、日頃から宗教者がしている活動を発信して社会的説明責任を果たしていくということが非常に大事だということを本日の稲場先生のお話から教えていただきました。最後に、感謝の意味で、もう一度、先生に拍手をお願いします。本日は、有り難うございました。



(連載終わり 文責編集部)