小原克博教授
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▼何故、諸宗教対話に興味を持つようになったか
本日、こちらの金光教泉尾教会様に初めて来させていただいたのですが、ちょうどお昼過ぎに大学での講義を終えてからすぐに駆けつけて、会場に到着したのがお約束の2時少し前だったため、少々あたふたしました。大正駅から泉尾教会の境内の北端(裏側)まではすぐに来られたのですが、入り口を見つけることができず、結果的に境内地の周辺をぐるりと回った後に門(南側)を見つけたのですが、敷地も建物もとても大きく立派な教会で驚きました。
今回、幸いにもお招きいただく機会を得まして、あらためてウェブサイトに記載されていた『国際宗教同志会の歴史』を拝見させていただきました。もちろん、三宅光雄先生と善信先生がお2人とも国際宗教同志会をはじめ諸宗教対話の活動に熱心に関わり、また、各方面で活躍されてきたことは存じておりましたが、私自身がこういった場に身を置かないことには、その歴史を振り返る機会はありません。今、三宅善信先生からのご紹介にもありましたが、特に国際宗教同志会の創設初期の頃の同志社との深い関わり、牧野虎次総長との関わりを考えますと、やはり、同志社に属しているものとしては、なんらかの形で少しでも貢献できればという思いで寄せていただいた次第です。
国際宗教同志会の趣旨である「異なる宗教同士の対話」を本日の課題にしてお話ししたいと思います。今日、お話しする内容をまずざっと紹介しておきたいのですが、私自身がどういった形で宗教間対話に関わってきたのかということについて、私の個人的な経験から始めます。その後に、何故とりわけ日本だけでなく、今日の国際社会において宗教間対話が必要なのか、その必要性についてお話ししたいと思います。また、具体的に私自身がどういう取り組みをしてきたかを事例として紹介いたします。
私たちはもちろんこの宗教間対話やその取り組みに対して一定の歴史を持っておりますけれども、宗教間対話という大きな目的自体は時代によって変わらない部分がある一方で、同時に「時代の要請」というものにも応えていかねばなりません。時代毎に求められるものは変わりますので、先のお話の後に、近代日本における歴史を紐解きながら、同時に直近の「3.11」東日本大震災以降、私たちを取り巻く情勢はどのように変わってきたのか、何を課題として受け止めてゆけばよいのかということを併せて考えてみたいと思います。
国際宗教同志会で熱弁を揮う小原克博教授
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まず、私自身の宗教間対話との関わりですが、先程も名前が出ていましたが、「NCC宗教研究所」という研究機関が同志社大学の比較的近くにございますが、そこで長らく所長を務められた幸日出男先生と私は学生時代比較的親しかったので、幸先生に誘われて、よく同研究所主催の諸宗教対話の研究会に出ていました。そこで、仏教の方、神道の方、あるいは新宗教の方のいろんな話を聞く機会がありました。最初に諸宗教対話を「面白い」と思ったのは、おそらくその頃だと思いますが、キリスト教徒の私にとって他の宗教─もちろん、大学で「宗教学」として学ぶ機会はありましたけれども─について、そういった研究会や講演会という場を通じて、耳学問としてさまざまな宗教について学び、出会いを重ねてきたように思います。
その後、大学院に入ってからドイツに留学いたしました。3年弱ぐらいの短い期間ではあったのですが、ドイツで学んだその時期に、宗教間対話を生涯のテーマのひとつにしてゆくのではないかと思うような経験もいたしました。具体的に申しますと、私が留学していた3年弱の期間というのは、「ベルリンの壁」が崩壊する前後です。私がドイツに到着した頃は、「西ドイツ(ドイツ連邦共和国)」政府発行の学生ビザを取りました。しかし、帰国時には東・西ドイツの区別がなくなっており、「統一ドイツ」となっていました。留学する以前にも、夏休みなどを利用して長期・短期でドイツに行っておりましたが、その際にも、「東ドイツ(ドイツ民主共和国)」の中にある西ベルリンへもたびたび足を運ぶことがありました。もちろん、東西ベルリンを分かつ「ベルリンの壁」も見ました。
当時は、(自由主義陣営の)西ベルリンから(社会主義陣営の)東ベルリンへ入るには、「チェックポイント・チャーリー」と呼ばれる(第二次世界大戦後、ドイツを占領した連合国によって設けられた)「関所」のようなところを通らないと「向こう」(ソ連が占領した東ベルリン側)へ行けないという、西側から東側に抜ける唯一のチェックポイントがありました。そこを通過して、東ベルリンへ限られたお金を持って、限られた時間内で訪れるのですが、壁を隔てて東西の違いを非常に強く感じた訳です。西側のベルリンは、ショッピングセンターやモールもあって非常に栄えていて、豊かさを謳歌しているような感じでした。一方、東側のベルリンは、東ドイツの中で一番栄えている部分に違いないとは思うのですが、西と比べると明らかに寂(さび)れた状況がありました。
私はベルリンを訪れる中で学習会にも参加し、「ベルリンの壁」がいつ頃造られ、どういった役割を果たしてきたかということを学んだんですが、その“壁”が、東から西へ逃れようとする多くのいのちを奪ってきた訳です。実際の“壁”は簡単に乗り越えることはできませんので、例えば、国境地帯にある池を潜ってみたり、トンネルを掘ったりするのですが、たいてい“壁”を乗り越える前に射殺されます。そういうことが何年も続いてきました。そういった“壁”が象徴する東西冷戦の重みも感じていましたし、もちろん私より上の世代の方は、冷戦のリアリティーもより強く感じておられたと思います。今、その頃のことを思い起しますと、あの巨大な米ソという力の前には、何をやっても変わらない。だからこそ、あの「ベルリンの壁」は、ビクともしない「鉄のカーテン」と呼ばれました。
▼世の中はどんどんと変わってゆく
ところが、「もはや変わらない」と思われた“壁”が、ある時、突然崩れます。直前には予兆がありました。東ヨーロッパのほうで亡命者が相次いで出てきました。そして、東ドイツの状況がどんどん変わっていく中で、ある時、突然“壁”が崩壊し、東ドイツが白旗を揚げるような時代に至った訳です。そういう様子を、私は当時まさにその場に居て見ていましたが、自分の目が信じられないと言いますか、変わらないと思っていたものが瞬く間に変わっていく…。そして、実際に「ベルリンの壁」が崩壊する時には、当時はベルリンから近い所に居ませんでしたが、レンタカーを借り旧東ドイツ領を突っ切って北上してベルリンまで行き、東西ベルリンの人々と一緒に“壁”を叩き壊しました。そして、他のドイツ人と同じようにブランデンブルク門のあるポツダム広場でいろいろやったことも今では良い思い出となっていますが、「歴史的瞬間」に立ち会えたという意味では、ドイツでの経験は非常に良かったです。つまり、「変わらない」と思っていたことが変わっていく。「世界は変わるんだ」ということを、非常に身を以て感じることができた。それは私にとって、ひとつの財産になりました。
今、中東各地で「アラブの春」と呼ばれる民主化の波が起こって、まだ落ち着く間もありませんけれども、これも「変わらない」と思っていた世界が突然変わったことの一面だと思います。非常に強固な権力を持った独裁者たちが牛耳っている国家が、一般民衆がちょっとやそっと騒いだぐらいではどうしようもない、変わらないと思っていた…。ところが、ちょっとしたことがきっかけで、ドンドンと変わってゆき、これからどう変わるのかという見通しも立たないぐらいの非常に大きな変化を中東の多くの国が今、経験しています。私は、そういった「変わらない」と思われている世界が、変わる時には一挙に変わる。場合によっては、そのとき「宗教がどう絡んでいくのだろうか?」ということを、常々関心を持ってきた訳です。
実際に東ドイツの中で民主化への叫びが強くなってきたことのひとつに、教会の働きがあります。これは今細かくお話しする時間的余裕がありませんけれども、やはりそこで、国家と国民との間にある、ある種の緊張関係が生じて、国民がバラバラに生きるのではなく、統一して一緒に苦労を担っていくべきではないかという、ドイツ国民の潜在的な願いをキリスト教の教会が代弁して後押しした側面があります。私はそういった時代状況の中でドイツで学んでいた訳ですが、ライン川岸のローマ時代からある中心的な都市マインツと、ハイデルベルグという大学都市の2カ所で勉強いたしました。
その時に何を学んだかといいますと、もちろん私の場合、「プロテスタント神学」ではあったんですが、ドイツの神学部には他の宗教に関するコースもいろいろあります。私は「日本から来た」ということで、「日本の諸宗教のことをいろいろ知っているだろう」ということで、先生たちは私に「日本のことを何か話せ」と言われました。ゼミでも発表しましたが、その時にやったのは禅仏教など、ドイツ人好みのことをある程度求められてやったのを覚えています。
あちらに行って驚いたことのひとつは、仏典などのドイツ語訳が、すさまじい量の蓄積があるということです。これは18世紀ぐらいからヨーロッパで盛んになったオリエンタリズム(東洋趣味)という潮流の中で、さまざまな世界宗教のテキスト翻訳、特に仏典関係の翻訳が進んでおり、ドイツには一定の蓄積があったのですが、たとえ日本に居ても私にはその古い文献(原典)を読みこなすだけの日本語(古典)の読解力はありません。ですので、サンスクリットや漢訳の貴重な仏典がたとえ目の前にあっても、多分、読めませんので、宝の持ち腐れになってしまうだけでしょうが、ドイツ語は幸い読めたので、今まで近寄り難かった日本仏教の文献に対しても、ドイツ語を経由して学ぶことができ、それについて紹介することができた経験もあります。道元の『正法眼蔵 (しょうぼうげんぞう)』もドイツ語に訳されていますが、そういったものも紹介しました。
▼イスラームとの出会い
そういうことを一方でしながら、同時に戦後のドイツのプロテスタント神学が大事にしてきた“対話”についても学びました。それは何かと言いますと、「キリスト教とユダヤ教の対話」なんです。皆様お察しの通り、ドイツはホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を経験しておりますので、それに対する強い反省を伴って戦後社会の復興が始まりました。キリスト教の世界では、それまではユダヤ教徒─あるいはユダヤ人─というものを「二級市民」扱いして、挙げ句の果てに貨車一杯に詰め込んでアウシュビッツ等の強制収容所へ送り込むということをしてしまった訳です。そこで、ユダヤ人やユダヤ教に対する無理解というものが、多くの人々のいのちを奪ってしまったという反省に立って、やはり「相手をきちんと知らなければならない」ということで、キリスト教とユダヤ教の対話というものが、戦後ドイツの神学においては欠かすことができない部分になっていました。
当然私はそのことについて学んだ訳ですが、そういうことに加えて、私がちょうど滞在していた1989年、1990年前後の時代というものは、ドイツにおいてイスラム教徒が人口的にも十分に増えていた時代です。ドイツにおける「イスラム教徒」とはもっぱらトルコ人のことなんですけれども、西ドイツは、日本と同じように1960から70年代にかけて高度経済成長をしましたが、労働力が決定的に不足していたので、それを補うためのトルコからの移民労働者が非常にたくさん居ました。
ドイツでは「ガストアルバイター(ゲストワーカー)」と呼ばれていましたけれども、名前からも判るように、元々は賃金の高いドイツで働いて母国へ送金し、そして一定の役割が終わればトルコへ帰るつもりでご本人たちも来たのでしょう。ドイツ側もそのつもりで受け入れたんですが、私が滞在していた時代には、彼らが本国から家族を呼び寄せたり、ドイツで子どもが生まれて二世、三世と世代交代を経るうちに、在独トルコ人のコミュニティが非常に増えてきた頃でした。大学でもそういった友人と出会う機会が多々ありましたが、幸いなことに、ドイツのムスリム移民の存在感の大きさは無視できない状況でしたし、大学ではその頃既に、本格的なイスラームの授業が始まっていました。
私は、ドイツでイスラームについてかなりまとまった形で勉強し、ドイツ語で初めて『コーラン』を読みました。もちろん、日本でも井筒俊彦訳のものも出ていましたが、きちんとした先生にコーランを教えてもらったのはドイツが初めてでした。ですから、日本において成してきた経験、そしてドイツにおいてユダヤ教とキリスト教の対話、イスラームとの対話などを経る中で、対話の重要性や、その対話がきちんとできなければ、最悪の場合、人のいのちにまで関わる問題であるということを思い知った訳です。
ですから、対話をするということは、単に知的好奇心だけの問題ではないと思います。もちろん、そこを出発点とすることはあるでしょうけれど、単に「知らないものを知ってみたい」という知的好奇心だけではなく、本当に人のいのちを守るということ、人間の安全保障のために対話というものが欠かせない時代や状況というものがあります。人のいのちの守り方には様々な方法があるとは思いますが、やはり、宗教者同士がきちんと向き合って対話をするということは、非常に大きな力になり得ると思います。私はそういうことを自分なりに考えてきた次第です。
▼「9.11」が変えたイスラームへの見方
今、ドイツの例を挙げましたが、欧米の場合は、そういう意味で「宗教対話をしなければならない歴史的な理由」があります。ドイツから帰国後、私はしばらく日本に居たんですが、同志社大学で勤め始めた後、ドイツにおけるイスラームへの対応を世界各国の学者やメディア関係者に見せるプログラムがあって、ドイツの外務省から招待されまして、そのプログラムへの参加を呼びかけられました。私は一神教研究をしていることから、ドイツの大使館から声がかかったんですけれども、これは今から7、8年前の話ですから、「9.11」(米国中枢同時多発テロ)後のドイツです。それ以前にも移民の問題はいろんな形でドイツ社会で論じられてきましたが、「9.11」以前と以降では大きく変わったことを経験しました。何が変わったかを一言で申し上げると、トルコ人に対する見方がかなり変わっています。かつて、「9.11」以前であれば、彼ら彼女たちは一時であれ、長期であれ、外国人労働者だった訳です。
ところが、「9.11」以降は、同じトルコ人たちが単に外国人「労働者」としてだけではなく、彼らは「ムスリム」として見られるんです。それ以前は、「ムスリム・アイデンティティ」がそれほど強く出ることはありませんでした。つまり、ドイツ社会から見られる視線が全く変わってしまったんです。端的な例をひとつあげますと、トルコ人たちが多く住む街にはたいていモスクがあります。トルコの人たちは自分たちの文化を知ってもらうために、「オープン・モスク」といって、1年の定められた月にモスクを開放して、例えばトルコ料理を自由に振る舞ったり、あるいはトルコの踊りを披露したりと、文化を示すような形でドイツ市民と交流を図るような非常に良いプログラムの歴史がありました。この「オープン・モスク」は「9.11」以前は非常に盛んで賑わっていたのですが、「9.11」以降は、オープン・モスクに来るドイツ人の数が激減したそうです。つまり、在独トルコ人自身は何も変わっていないにもかかわらず、「ムスリムは危ない!」という風潮がドイツで強まる中で、オープン・モスクに訪れる人の数も減ってしまったと聞きました。ドイツだけでなく、他のヨーロッパ諸国においても、各国を悩ませている問題のひとつが、それぞれの国に決して少数者とは言えないムスリム移民たちに対して、どのような対応を取ればよいのか、彼らとどう対話をすれば良いのかが、かなり大きな社会的問題となっています。
一方には、「9.11」以降の変化で少し示しましたように、これは「イスラモフォビア(イスラーム恐怖症)」という言い方をよくするのですが、イスラム教徒に対する偏見や「奴らは悪いやつだ!」といった憎悪感情が、ヨーロッパやアメリカでかなり広まっています。そういった、いわば偏見や無理解に対して何ができるのか? という課題があります。これは、宗教間対話の大きな課題のひとつですね。
最初に知らない相手を見た時に、私たちは自分なりの勝手なイメージを貼り付ける訳です。これは偏見ですよね。そういうものを1枚1枚剥がして、相手の真の姿にどうやったら触れていくことができるのか。こういった作業を各国がしなければならない訳です。これは各国毎に対応の仕方が異なりますので、この辺りの話をしても面白いんですが、今日は触れずに先に行きたいと思います。ムスリム移民の増加が、ヨーロッパ社会が対話を切実に必要としていることの背景にあります。
▼世俗化が諸宗教対話を要請する
それからもうひとつ、ヨーロッパやアメリカが宗教間対話を必要としている理由のひとつに、「社会全体が世俗化している」あるいは「社会全体が宗教的に多元化している」という背景があります。これは非常に大事で、国の違いを超えてヨーロッパ全体がそういった波に飲み込まれている訳です。私たちは「ヨーロッパ」というと「キリスト教圏」、「キリスト教社会」あるいは「キリスト教文明」という言い方で呼びたくなるのですが、確かにそういう遺産はたっぷり残っていますが、国による違いはあるものの、実質的に毎週のように教会に行っているクリスチャンというのは、だいたい人口の5%あるいかないかぐらいです。イタリアやスペインのような、比較的カトリック教会が強い国でも10〜15%になるかならないかぐらいです。
これは、いわゆる世俗化の結果なんです。立派な教会堂にたくさん信者が居られる所もありますけれど、しかし、私もいろんな所に行きましたが、立派な教会堂の前列のほうにお年寄りが10人ぐらいだけ座っている。そういう風景を何度も見ました。確かにキリスト教の文化、遺産は息づいてはいるんですが、実質的にキリスト教というものが勢いを失いつつあります。そういう状況の中で、キリスト教は非常に危機感を持っています。そういうことを直接口にされる方のお1人が、ローマ教皇ベネディクト16世なのですが、「私たちは世俗化に対してなんとかしなければならない」といったことをたびたび口にされる訳です。宗教的な価値が軽んじられて「そんなもの、どうでもいいじゃないか」といった風潮に対して、宗教者は、カトリックだけ、プロテスタントだけ、ムスリムだけで対応するのではなく、連帯して問題に取り組んでいかなければならないような状況もあるということです。
ですから、宗教間対話ということが、ヨーロッパ、アメリカ、あるいは中東などの例を挙げることもできますが、国や地域によっては、まさにいのちに関わるような切実さを持つ場合もあります。ひとつだけ、中東のエジプトを例に挙げますと、少数派のひとつにコプト教会があります。少数派とはいえ、全人口の10%ぐらいは居ると言われていますが、国民の90%を占めるムスリムの勢力からすれば、やはり一握りの存在です。きちんと対話ができていないと、どうなるか判らない訳です。
ムスリムも、ほとんどの方は寛容でコプト教会に対しても温かい目を以て見ておられるんですが、現実には、一部とはいえ、非常にラディカルな急進的なグループもあります。そういう人たちが、少数派のコプト教会に対して攻撃を仕掛けるということも、これまでにありましたし、実際にいのちが失われるということもあった訳です。やはり、対話そのものがゴールなのではなく、対話を通じて信頼関係を醸成していくことが、お互いを尊重し合い、ひいてはいのちを守ることと、大きな防御力になる訳です。ですから、中東にしろ、ヨーロッパにしろ、人のいのちに関わるような切実な状況の中で対話がなされてきたという側面が一部にはあります。
講師の熱弁に熱心に耳を傾ける国宗会員諸師
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▼日本における宗教間対話の現実
ここでちょっと話を転じまして、日本ではどうであったのか、現実にどうなのかということを少し考えてみたいと思います。日本の場合、国際宗教同志会が誕生した時代(戦後すぐ)ぐらいから振り返れば良いのですが、私はこの頃が一番良い時代であったのではないかと思います。一番活発と申しますか、宗教が協力して力を合わせて、「平和をどうやったら維持できるか?」そして、まさに「世界平和をわれわれが担わなければならない!」といった自負心をそれぞれの宗教者が持っていたのではないかと思います。それは、今も残されている様々な記録や文書からもその迫力が伝わってきます。
そういう時代を懐かしく振り返るだけではもちろん駄目なんですが、日本における宗教間対話というものを、これからより建設的に考えていくために、私の経験から見て、どういう問題点があるのか最初に指摘しておきたいと思います。もちろん、宗教間対話には各地域で取り組まれているような地道なものもありますから、十把一絡げに扱うつもりはありません。私が今からお話ししたいのは、実名を挙げると差し障りがあるかもしれませんが、例えば、京都の大きな国際会議場を使ってされるような会合であるとか、お山の上でされるようなものとか、いろいろありますよね。そういうものをイメージしていただければ良いです。それぞれに価値があると思いますが、やはり、いくつか考えておかなければならない点もあると思います。
日本の中でも、そういった大規模な諸宗教対話のイベントは、取り組みを社会に示す意味でも時々は必要だと思いますが、でも、そういったものに連なる日常的な対話がなかなか根付いていない。バーンとアドバルーンは上げるんですが、イベントが終わってしまうと、日常生活の中では、それぞれ独立性がありますので、対話の必要性も感じないし、先程申し上げた、西洋をはじめとする国際社会の場合と比べますと、対話をしなければならないような切羽詰まった状況が日本では少ないということも一方で言えるかもしれません。
近年唱えられている「平和のために宗教者が集まる」あるいは「平和のために宗教者が祈りを合わせる」ということは、方向性としては間違っていませんし、大切なことだとは思うのですが、なんとなく言葉自体が上ずってしまっているというか、重みがだんだんと感じられなくなっているところがあり─切迫感が背景にある訳ではないので─、どうしても綺麗事で終わってしまっているところがあるように思います。それぞれの大きな会合の場において、会議の最後には、たいてい非常に立派な宣言文 (スローガン)がまとめられます。ところが、スローガンは声高に述べられても、なかなかそれを実践するところまでいかない。ですので、毎年スローガンを唱えて「ハイ、解散」ということを続けられておられるのではないかと思います。
▼日本における宗教間対話の歴史
私は海外における宗教間対話の場に参加したことがあるんですが、日本の大きい会合の場合はどうしても、「対話」といっても、そもそも「対話に開かれた人たち」だけがやって来て、対話あるいは会話を楽しむ、サロン的な宗教間対話になっているように感じます。もちろん、そういった場で面識のない人と知り合うことは楽しいですし、それはそれで行った先での学びがあり、出会いがあります。私も、行く先々でいつも三宅両先生とお会いしますが、それも楽しみのひとつです。
しかし、日本の宗教対話は、多くの方々をお招きしてはいるものの、日本の仏教界や教派神道や新宗教の教団が、そういう機会を通じて本当に膝を交えた形で対話ができているかどうかということを考える時、なかなかその辺りの積み上げが十分でないことも感じます。パーティ的なものを開くことも必要ですし、お招きした方に対し特別な場作りを用意することも大事なのですが、そもそも、その宗教間対話の組織がどういう実りを得てきたかということを、もう少し客観的に検証していきながら、日本の宗教界が国際平和に対してどういう具体的な貢献ができるのかということもきちんと考えていく中で、もっともっと効果的な宗教間対話、そして、世界に成果を還元することができるような対話のあり方もあるのではないかと思います。
この「対話への関心」というものは、実は明治期からあった訳です。戦時中ですら、実は様々なレベルの対話がありました。とりわけ知識人層(インテリ)はそういうものを好みました。例えば、19世紀の末ぐらいから、伝統仏教の人たちは、新しく入ってきたキリスト教、とりわけ「ユニテリアン」と呼ばれる人たちに関心を持ったのですが、同志社をはじめとする主流派(メインストリーム)のキリスト教(プロテスタント諸派)に対しては悪口を言うことのほうがもっぱら多かったように思われます。「ユニテリアン」と呼ばれる教派は非常にオープンでしたし、彼らは多くの主流派のキリスト教に見られるような堅苦しい教義(註:「キリスト教以外に真理も救いもない」という考え方)を持っていませんので、仏教界からは非常に大きな関心が寄せられました。彼らが掲げていたユニバーサリズム(普遍主義=真理は複数あるという考え方)という理念が、宗教間対話を可能にしたとも言えます。そういったところから、最初は知的な関心から始まり、後にいろんな対話を生み出していく訳ですが、ただ、時代の中で宗教に求められた対話というのは「宗派同士が喧嘩をしないで仲良くして、最後は一緒に国策に奉仕しなさい」という形で進められていくのがもっぱらでした。
具体的に言いますと、1912年に「三教会同」という会合があり(註:日露戦争後の国家意識の弛みを心配した治安を所轄する内務省の主導)、神道、仏教、キリスト教の代表者71人が集まって「国民道徳の振興のために、一致できるところは一致してやりましょう」という動きが、国策の下に進められていきます。実は、そういった対話や協力関係は明治期からあったのですが、それが最終的には大政翼賛的な戦争協力の一部に組み込まれていったという歴史があります。
だからこそ、戦後できた宗教間対話の運動では、戦前への反省も含めて、まず「平和のために宗教者が尽くさなければならない」という切実な思いが、切羽詰まった課題としてあった訳です。ところが、しばしば言われますように、戦後社会の中で日本が豊かさを取り戻していく過程で、平和ボケしていたり、平和は棚からぼた餅のような存在─特に若い人たちにとって─になってしまいましたので、その有り難さを恭(うやうや)しく前世代から引き継ぐといったことがなくなっていく訳です。それが、同じ宗教間対話、あるいは世界平和を目的とするといっても、時代による変化の中で使命や課題を考えていかねばならない理由でもあります。
▼排他主義者をどう扱うか
時間があまりありませんので、「他宗教理解の類型」について、一言だけ触れておきたいと思います。これは、「宗教をどう見ているか?」ということですが、おそらく皆さんは「宗教者同士なら誰もが諸宗教の共存を求めているだろう」と思われるでしょうし、また、そうされていると思いますが、実際にはそうではありません。「自分たちの宗教が唯一で、他の宗教など糞食らえ」ぐらいに思っている人も、実際にはおります。「自分たちにこそ真理があり、自分たちの所に来なければ救いはあり得ない」という立場を取って他の宗教を見ている人たちを、ここでは、一般的に「排他主義」と呼んでいます。この次に来るのが「包括主義」と言うのですが、「自分たちの優位性は当然揺るがないけれども、他の宗教にも良いところがあり、それぞれの真理がある」と、他の宗教との関係構築を積極的に考える人たちです。最後の「多元主義」は「宗教はそもそも皆同価値である。誰が一番で誰がその次ということはあり得なく、どの宗教も大きな真理の一部をそれぞれ担っており、基本的にそこに優劣はない」という言い方をします。日本では、かなり多くの宗教者が包括主義に属すと思われますが、中には非常に排他的な人たちから非常にオープンな人たちまで幅があるということです。
多元主義者たちは「世界中の宗教者が皆同じく宗教の平等性を認める多元主義者になったら問題は解決するじゃないか」と言いますが、現実にはなかなかそうはいきません。この排他主義的な人も包括主義者も多元主義者もやはり現代世界には存在しますし、将来においても居るでしょう。例えば、しばしば言葉に出される「原理主義者(ファンダメンタリスト)」という人たちがいますが、これから近い将来、彼らが地上から撲滅されて居なくなるか? 科学がもっと進めば彼らのような妄信的な存在は居なくなるかというと、決してそうは思いません。おそらく21世紀の半ばになっても、さらに言えば、後半になっても、宗教的な原理主義者たちは存在すると思います。
彼らを「時代遅れの愚か者」あるいは「けしからん奴だ」と切り捨てるだけでは問題解決になりません。ましてや、彼らの上に雨あられと爆弾を浴びせて「早く消滅してしまえ!」と、雑草に除草剤を撒くように、とにかく「ややこしい奴はなくなってしまえ! という形で問題を処理するのは無理があるんです。やればやるほど、雑草はしっかりと生えてくるんです。アメリカがアフガンやイラクに対してやってきたことを、われわれはつい批判的に見がちですが、われわれは、そこから何を学ばなければならないかということを考える必要があります。
今の話から判りますように、日常的な取り組みとして私が特に気を遣ってやって来たのは、これまで対話の対象とされてこなかったような、ちょっと危ない人たちを積極的に呼んできました。実際呼んでみて、「こんな人、本当に呼んで良かったかな…?」と、思うことが私も何度もありましたけれども、今となってはすべて良い思い出です。キリスト教でも原理主義的な人を呼びましたし、イスラームで申しますと、最近フィリピンでイスラム解放戦線の和解が話題に上りましたけれど、あのトップクラスの人を呼んだこともあります。かなり過激でした。そういう一連の流れの中でタリバーンの方を呼んだりしましたが、こういった人たちは普段、対話の場にまず呼ばれません。彼ら自身がそういうことを拒否しているからです。ですから、特殊なルートを使わなければお呼びすることができないんですけれども…。
こちらの写真の状況を説明しますと、同志社大学一神教学際研究センターでは、2010年から過去3年ぐらいにわたってタリバーンの方々を招いてきました。右の2人がタリバーンで、左の方がパレスチナの方です。アメリカがアフガン空爆をする前に、タリバーンの外交スポークスマンだった方も2年前にお呼びしたりする中で、パイプができてきました。新聞やメディアでは、われわれは「タリバーン」と一括りにして使ったり呼んだりしますが、実際には非常に多様な流れがあります。「タリバーン=武闘派」ではないんですね。確かにそういう人たちもいますが、それはあくまでも一部であって、そうではない人たちもいるので、十把一絡げには見れないということがよく解りました。
実際お呼びした場合、もちろんオフィシャルな会議や講演会、研究会などもするのですが、一番私がいつも楽しんでいる時間のひとつは、その日の行事を終えた後、同志社大学の近くにある居酒屋に連れて行き、いろいろ飲ませたり食べさせたりする時なのですが、彼らは別に贅沢なものを好む訳ではありません。何年かやっているうちに、私は彼らがどういうものを好むかを掴みました。何が良いかと言いますと、タリバーンは鍋料理が好きなんです。もちろん、豚は食べませんから、魚を中心にしたお鍋を用意すると、皆「美味しい、美味しい」と、本当に喜んで食べてくれます。こういった鍋料理なんかを囲みながら、今年の6月もタリバーンやアフガンのイスラム系のグループの方、併せて、カルザイ政権側の人物もお呼びしました。彼は大統領顧問に当たる、まさに政権側の人ですけれども、アフガニスタンでも国内で両者は対立しており、完全に喧嘩している仲です。もちろん、外でも対話の場に出ません。それが今回、同志社大学で初めて実現した訳です。これは多くの新聞で報道され、ウォール・ストリート・ジャーナルのような外国紙でも取り上げられました。
▼当事者抜きのアフガン復興支援会議
この直後に、日本政府主催のアフガン復興支援東京会議が行われ、ヒラリー・クリントン米国務長官、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長といった歴々の方々が来られましたが、その会議に来たアフガン関係者の人は、政権側の人たちだけでした。本来ならば政権側の人たちは、タリバーンの人たちとチャンネルを作って、復興のためにどこまでだったら双方妥協できるのかをきちんと話し合わなければならないんですが、そういうことはされないんです。アフガン人の当事者であるタリバーンを抜きに、「アフガニスタンの復興支援はどうあるべきか?」と東京で話し合っている訳です。おそらくそうなるだろうということを私たちは見越した上で、そういう国際社会の目論見に対して恥をかかせたいという思いもあって、わざとこの会議の直前、ちょうど1週間前に同志社でやりました。本当は、今お互いいがみ合っている当事者同士が話し合わない限り、真の意味での復興支援は難しいでしょう。
実際に両者それぞれの意見を話していただいたんですが、完全に平行線でした。やはり、簡単には交じり合えず、お互いに譲れない部分があるんですね。ひとつだけ挙げますと、アメリカが2014年中にアフガニスタンから撤退することをはっきり表明しています。しかし、カルザイ政権側は、最低限いくつかの部分は、アフガンの治安維持のために残ってもらわないと困るという方針ですが、一方、タリバーン側の人たちは、それは絶対駄目で、完全撤退を求めています。そういう根本的に食い違っている部分はあるんですが、国を復興しなければならないという点に関しては、両者の思いは同じな訳です。そういった共通部分をしっかりと確認し合いながら異なっている点をどうやって妥協し合っていくのか。そういう現実的な話し合いがなければ、いくらアメリカ軍がどうこう動いても事態は変わりません。ですから、こういった対話を地道に積み上げていきたいと思いますし、微力ながらもそういうことをやってきたという思いがあります。
それから、もうひとつ例を挙げておきますと、私は京都・宗教系大学院連合というものを何人かの仲間と創ったんですが、これは京都にある同志社大学を含む7つの宗教系大学─同志社だけがキリスト教系で、残りは全て仏教系の大学─で構成されます。その大学院が連携して、単位互換制度を始めました。つまり、宗教界を担う若い世代をどう育てるかということです。若い世代が宗教間対話をすることの喜びを知ったり、他から学ぶということの大切さを知ることで、次の時代により良い実りをもたらすことができる訳です。
ですから、将来の僧侶や牧師になる方に、きちんと学び合ってほしいという思いがあります。ただ、何故私がこのようなことを考えたかと言いますと、現実には浄土宗であれ、浄土真宗であれ、禅宗であれ、立派な伝統や大学を持っていますが、その中で自己完結してしまっているんです。わざわざ外へ出て行かなくても、自分たちの中だけで狭い研究や勉強ができる訳です。そういう現状をいろんな所で見て、私は「これでは危ないな…」と思いました。「自分たちの宗派内のことしか知らない」というのでは、将来決して良くありません。危機感を持った一方で「若い人にはまだまだ可能性があるだろう」という思いから、チェーン・レクチャーを含む取り組みを始めています。
▼宗教の公益性について
時間がありませんので、手短に最後のところをまとめていきます。「3.11以降の課題」は、一言だけ主張しておきたいのは、宗教の公益性の問題です。特に、被災地支援には多くの宗教者が関わりました。これは本当に素晴らしいことだと思います。これをきっかけに、社会の宗教を見る目も少しずつ変わってきています。どう変わってきたかと申しますと、例えば、日本では1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件がありました。その後、2001年にアメリカで「9.11」同時多発テロ事件がありました。つまり、この2つの大きな事件の影響で、宗教とは「非常に危ないもの」、「近付いたらいけないもの」というイメージが、社会一般、とりわけ若い世代の人たちの間で根強くなりました。これはもう抜きがたいものがあります。
そういうネガティブなイメージを背負わざるを得なかった宗教が、ここに来てちょっとポジティブなものに変わってきたのが、被災地支援を通じてではないかと思います。たくさんの新聞や放送が取り上げ、宗教は社会のことや苦しんでいる人々のことを考えているということが伝わって、宗教が公共や公益の中で果たす役割というものが再評価されるに至った訳です。「3.11」以降、いろんな議論があったと思いますが、ひとつは原発に代表されるような、どんな事実であっても人間が自然からエネルギーを抽出して、それをコントロールして使えるという自然支配に対するある種の慢心のようなもの、人間の自然に対する驕りのようなものを多くの方が指摘した訳です。私たちは、もっと謙虚になって、自然と向き合う、あるいは共生する道を考えるべきではないかという議論がありました。もちろん、私もこういうことは考えるべきだと思います。実際のところ、われわれは西洋的な自然観にどっぷりと影響を受けているんですけれども、そうではない日本的なものの再評価ということも考えなければならないと思います。
公益とはいったい何なのか? もちろん、近代的な意味での「公益」というものは法的に規定されているような社会空間があるんですけれども、宗教はその中で、ひとつの法人格を得たいというのではなく、むしろ、元来あった公益はもっともっと幅広いものだったと思います。それは人間の利害関係を調整するような狭いシステムではなく、人間と動物の間、人間と自然の間、あるいは死者と生者の間で成り立っていたような、もっともっと大きな交流の場、そこから私たちはたくさんの豊かさなどを得てきている訳です。やはり、そういうものを取り戻していく。つまり、近代においては、「公益」というものが極めて人間中心的、あるいは現世代中心的になってきている訳です。この人間中心的な部分をもう一度見直す中で、近代以前にあった豊かさのようなものを再評価しながら、現代にどう受け止めていくことができるのか。そういった「公益の再解釈」というものを宗教の視点からできるんじゃないかという思いを持っています。
宗教の位置付けですが、よく「政教分離」ということが言われますが、多くの人は「宗教とは心の問題なのだから、表に出さないでくれ」と考えている訳です。そういう区分けがあり、宗教もそこに嵌(はま)ってきたところがあるんですが、実際にはそういう近代的な公益や政教分離環境よりさらに広い、まさに自然動物と人間の間で成り立っていた公益というものがあるだろうと私は思いますし、さらに言うならば、死者と生者との間で成り立っていた公益から、私たちは多くのものを得て励まされたり、そこから指針を得てる訳です。そういう死者と生者との間で成り立っていた公益を担保にしながら、同時にまだ生まれていない将来の世代に対しても、私たちは倫理的な責任を管理することが可能になるはずです。ですから、人間中心的で現代世代中心的な、近代的な公益概念だけではなく、過去の死者も未来の世代も含むような、もっと大きな公益概念の中で、宗教は役割を果たしていく可能性をこれからもっと示していくべきではないかと思います。
▼21世紀の宗教間対話に求められているもの
最後に「21世紀の宗教間対話に求められているもの」を箇条書きで問題整理しておきます。ひとつは「具体的な共通課題の設定」です。もちろん、「お互いを知りたい」と単純な動機だけでもOKですが、何か具体的な課題を共有したほうが、より深く、そして具体的な交流ができる。そして、対話は理解のある者同士の間では可能なんですが、現実世界には対話を阻害する力は─暴力であったり、紛争であったり、風説であったり、偏見であったり─いろいろなものがあります。そういったものをきちんと分析していく必要もあります。それから、必ずしも対話を求めないような、いわゆる原理主義的なグループとの対話も時には必要だと思います。これは、もちろんプロフェッショナルな知識を求められる場合もありますので、簡単ではありませんけれども、目を向ける価値があります。
もうひとつは、他宗教間の対話だけではなく、実は、最も深刻な亀裂は、同じ宗教内部にある場合が結構あります。皆さんも身近なところでご存知かもしれませんが、そういう話はいくらでもあります。今、「インター・フェイス(宗教間)」に対して「イントラ・フェイス(宗教内)」と言いますけれども、同じ宗教内部の対話は、凄まじく難しいです。他の宗教のことはともかく、例えばキリスト教ひとつ取り上げてもそうです。アメリカには多くのクリスチャンがいますが、オバマに代表されるリベラル派と、ロムニーに代表される保守的な価値観を持った人たちの間では、簡単には対話は成り立ちません。お互いをバンバン殴り合うような、価値観の闘争みたいなものがされる訳です。ですから、同じ宗教の内部にあっても、大きな断絶がある場合があります。
それをどうやってひとつにしていったら良いのか? これは今、アメリカが抱えている大きな課題です。今、アメリカはちょうど半分で分断されています。この「分断されたアメリカ」という言い方は繰り返し使われるのですが、分断された国家をどうまとめていくのか。これは、次の大統領の力量が問われる部分です。また「宗教と見なされなかったものとの対話」ですが、これは先程申し上げたような「キリスト教と仏教」とか「キリスト教と○○」といったような、いわゆる世界宗教レベルの対話は好んでなされてきたんですが、民間信仰やスピリチュアリティとの対話の大切さをきちんと捉えるということが、これまではほとんどできてこなかった。
私は、宗教間対話には大きく2つのタイプがあると思います。ひとつは今申し上げましたように、それぞれの宗教がお互いに敬意を払いながらしてくもので、伝統的なものです。それからもうひとつは、具体的な課題を取り上げながら─例えば、先端的な科学が取り扱う倫理的な問題や、エネルギー政策、経済の問題、暴力・紛争の問題など、いろんなものがありますが─そういうものに対する宗教者としてのあり方についての対話を通じて深めていくことはできると思います。そのためには、宗教が触媒として働くことができると思います。実際にどんな巨大なものであっても、ひとつの宗教団体が科学の問題を解決したり、国際紛争を解決したりすることはあり得ない訳です。これは、やはり政治家などのいろんな力でやるしかないんですけれども、直接的に化学反応に関われなくても、ある小さな微量の物質が加わることによって、反応が非常に進みやすくなる事例があります。
これは化学では「触媒」という言い方をする訳です。マグネシウムと酸素が化合する時に、ごく微量の触媒があるだけで、反応速度が非常に進むものですが、私は、宗教は社会の中でこういう触媒的な役割をしながら、社会の改善のために何か寄与すべきではないかと考えています。「触媒」という言い方だけでは味気ないので、最後に申し上げたいのは「山葵(わさび)としての宗教間対話」という視点です。刺身などの美味しい日本料理を頂く時に、お醤油を付けるだけで召し上げる方もおられますが、やはり微量であっても山葵があるだけで味が一気に引き立つ訳です。食材そのものになることも大事かもしれませんが、食材そのものを引き立てて、良い結果をもたらすような触媒として社会に貢献できればよいと思っています。本日は、ご清聴ありがとうございました。
(連載おわり 文責編集部)