大阪国際宗教同志会平成十年度総会記念講演
『日本人の宗教性とその心理的効果』
大阪市立大学 文学部長
金児暁嗣
10月13日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において、大阪国際宗教同志会(会長津江孝夫今宮戎神社宮司)の平成10年度第2回例会が開催され、15教団から約50名の宗教者が参加した。今回の記念講演の講師は、社会心理学者として「宗教行動」研究の分野で内外から高い評価を受けている金児暁嗣大阪市立大学文学部長が務めた。 |
▼ソフトな社会心理学 みなさん、こんにちは。ただ今、非常にご丁重なご紹介を賜わりました大阪市立大学の金児でございます。私は先ほどの紹介にもありましたように、大学では社会心理学という学問を専攻しております。大阪の泉州に貝塚というところがございます。かつて女子バレーの「日紡貝塚」として有名になったところでございますが、そこの本願寺派の寺院で生まれまして、高校生の時に得度授戒を受けまして僧侶の資格も持っております。 京都大学に入ってから、大学院で研鑚を積んでおる過程で、本願寺に伝道院――今では浄土真宗教学研究所という名前になっておりますが当時、伝道院――というところで「宗門人の宗教意識に関する調査をせよ」ということがありまして、そういう仕事を長年やってまいりました。もう三十数年ぐらいになろうかと思いますが……。 若い時は、どちらかというと「硬い社会心理学」といいますか、極めて実験室の中で行われるような、そういうような類いの研究を進めてまいりましたが、人間というのは不思議なもので、四十を過ぎてくると、どうもいろいろ「これでいいのか?」と自分の人生を振り返るようなことが起るという訳で、そういう意味で、私も硬い社会心理学というものから、もう少しソフトな、つまり、若い頃から伝道院でお手伝しておったような、「日本人の宗教性に関わる社会心理学」というようなものをするべきだと思い至りまして、爾来、もっぱら百パーセントとそちらの方に専門を移しております。 本日は、お配りしておりますレジメがございますが、「日本人の宗教性とその心理的効果」という題目で一時間ほどお話させていただきます。話の筋道は余りに盛りだくさんの題材を用意しすぎましたので、一時間の範囲内で終れるかどうか、少し心配なのですが……。 まず、現代人の宗教行動あるいは宗教意識というものをどのように捉えていくかで、そういうことから話を進めまして、日本人が持っておる宗教性に迫りたいと思います。宗教が本来持っておる最大の機能は、やはり「死の不安の軽減」にあるかと思います。しかし、私たちは、しょっちゅう死を恐れてばかりいては日常生活が成り立たない訳で、日常生活の中では、「今、生きていることが幸せである」ということを思わない訳にはいかない訳で、ですから、宗教を信じていない人よりも宗教を信じている人の方が遥かに心理的に充足感を持てるのであろうかと、まずは、われわれは、元気に日常生活を送っている間には、そういうことが重要な問題として上がってくるかと思います。それで、そのようなことをお話さしていただいた上で、最後に「宗教性と死の恐れの克服」というような問題が宗教によって可能なのかどうか? そういうことをお話してみたいと思っております。 ▼宗教行動の三類型 それでは、お手元の「宗教行動の分布」という表をご覧下さい。これは、1978年から始めまして、現在もやっておりますが、ここに上げておりますデータは、昨年までの資料を掲げておりますけれども、私が勤務いたします大阪市大の新入生とその両親――時には両親を含めないこともありますけれども――その人たちに「宗教とか信仰に関係する事柄」として、普段行なっていることを選択してもらった結果です。 さらにこの表には、今から約25年前に実施されましたNHK放送世論調査所による「日本人の意識調査」の結果も記しております。それから、以前、私が調査いたしました「高齢者を対象に行なった調査」あるいは「浄土真宗本願寺派の末寺の檀家総代を対象にして実施いたしました調査」あるいは、大阪府と奈良県の府県境に生駒山という山があるのは皆さんも先刻ご承知だと思いますが、その生駒山は最近では「宗教のメッカ」といわれておりますが、そのなかのデンボ(できもの)の神様で有名な「石切劔箭つるぎや神社の参詣者に対して行なった面接調査」その結果も記しておりますし、同じ生駒の聖天信仰で有名な「生駒山高山寺の法院の方たちを対象に行なった調査」あるいは「高校生から幅広く集めたもの」等をここに記してあります。 この15種類の宗教行動なんですが、この15種類の宗教行動は、いったい、どのように分類されるかといいますと、「現世利益的行動」と「慰霊的行動」それから「自己修養的行動」の3グループぐらいに分けることができるわけです。つまり8番目にありますような「聖典や経典など宗教関係の本を折りにふれて読む」といったようなそういった行動。あるいは「普段から礼拝、おつとめ、布教など宗教的な行ないをしている信仰グループに参加している」という、そういう種類の行動というのは「自己修養的行動」と分けることができるのです。それに対しまして、「墓参り」とか、あるいは「祖先や肉親の亡くなった霊を祀る」といったそういう行動というのは、「慰霊的な行動」であるかと思います。そして最後に、12番にあるような、「一、二年の内に身の危険や商売繁盛、安産、入試合格などを祈願しに行ったことがある」とか「お守りや御札など縁起ものを自分の身の回りにおいてある」といったような行動が「現世利益的行動」であろうかと思うのです。 今、言葉で言ったことを、スクリーンで写し出してみたんですが、今から25年前と現在とでどう違うのかといいますと、自己修養的行動としては「普段から礼拝、布教、おつとめなど宗教的な行ないをしている」という、そういう行動を取り上げてみましょう。そして、慰霊的行動としましては、スクリーンには載せておりませんが、もっとも代表的な慰霊的行動は、墓参りでございますので、慰霊的行動としまして、この表にあります、「1番の墓参りをしている」という行動を、取り上げてみたいと思います。それから、現世利益的行動としましては、13番目の「お守り、御札などの縁起ものを自分の身の回りに置いている」この三項目を取り上げて、今から、25年前と現在を比較してみるということを行なってみたのです。 そういたしますと、どのようなことが判ってきたかといいますと、この図の中で70年代と書いてあるのが、NHKが実施した「日本人の意識」調査。お配りしております表の中にあるサンプルをグラフに表したもので、そこで「若者」とありますのが、当時、16歳から24歳までの人たちであります。それから、「中年」とありますのが当時、45歳から54歳に相当する人たちで、「高齢者」とございますのが、60歳以上の方々であります。さらに、90年代につきましては、「若者」は大阪市立大学の学生で代用させております。「中年」は、そのご両親です。そして、高齢者はお手元のB4の資料にあります右から四番目の高齢者のデータを使ってございます。いずれも平均年齢は、ぴったりと言っていいほど一致しておりますので、これからお話いたしますことに都合がいいわけですね。ちなみに、高齢者のデータは、4年ほど前に堺市の市民大学講座という、お年寄りを対象にした講座がございまして、その受講生の方々から取りました。 70年代と90年代とで、それぞれのサンプルの平均年齢がほぼ同じでありますから、単に二十年前と今との違いだけに止まらない非常に興味深い分析ができるわけです。それはどういうことかと申しますと、「同時代者の宗教行動がどうなっていったか」という変化が判る訳なんですね。これは非常に面白い。今、私は50代半ばですが、20年経てば70代半ばになるわけですが、この私が20年経ってどう変化してきたかということを、これでもって分析できるわけです。 出生時期が同じ人々というのは、同一の時代的背景のもとで、歴史的あるいは社会的体験を共有しております。そのことによって、共通したものの見方であるとか、行動様式を持つということは当然あるわけです。そういった同時代者集団、同時出生者集団が「25年前と今とでは、どのように変化しているか?」ということを見ることは可能であるということです。このような分析は社会学ではかなり信頼性の高い分析方法になるわけですけれども……。70年代の若者は、現代では既に中年になっております。70年代の中年は、今の高齢者に相当します。このようなことを念頭に置かれた上で、このスクリーンの図をご覧いただきたいわけでございます。 ▼「墓参り行動」とは まず、「墓参り」から話をいたしますけれども、墓自体が宗教に深く関わっておるもんでございますから、少し詳しく話したいと存じます。「墓参り行動」というのは、B4の表に戻ってご覧いただきますと、1973年――今から25年前と比べますと、現在は「墓参り行動」はかなり熱心に行なわれているということが非常よく判ります。16歳から24歳の若者たちの間では、44.0%であったものが、現在の大学生では、七割前後の人たちが「墓参り行動」をしておりますし、25年前に中年であった人が、墓参りを73.4%という数値でありますけれども、両親(現在の中年)の場合には、それは80%半ばに達しております。 このように、「墓参り行動」は、私たちの宗教行動の中でも非常に慣れ親しんだ行動であるということがこの図の中にもよく表れておるわけです。私たちは一般に、年と齢しを取っていきますと「亡くなった人を偲んでお墓参りする」ことが多くなりますけれども、まさに他の宗教行動に比べると圧倒的に強い行動であるということが判るわけです。そして、この70年代70年代のいずれの世代を取ってみましても、年齢を取れば取るほど「墓参り行動」が増えていくということが判るわけですけれども……。ところが25年前に若者であった人たちは、実はここでは45%しか「墓参り行動」をしていない。ところが、その人たちが中年になった現在、実に81%の人たちが「墓参り行動」をしているということで、約2倍の行動が取られておる。また、70年代には、中年の「墓参り行動」というのが73%でありましたが、その人たちが高齢者になりました現在におきましては、それが八六%ぐらいに上昇しております。これは、何を意味しておりますかといいますと、加齢による効果、つまり年と齢しを取っていきますと「墓 参り行動が増えていっている」ということが判るわけです。これを心理学的では、「加齢による効果」と呼んでおります。 しかし、もっと面白いことは、墓参りの増加は加齢による効果だけではないということです。注目していただきたいことは、どの世代におきましても25年前に比べると、どの世代も「墓参り行動」が増加しているということが大きな特徴ですね。25年前の若者と今の若者を比べると、「墓参り行動」は格段に違う。中年においてもかなり違います。10%近く違う。高齢者においても10%近く違うというふうに、現代においては、どの世代においても「墓参り行動」が増大しているということですね。特に若者の増え方については驚異的ですらあります。ここに時代の要因が働いているわけで、そういたしますと、現代という時代は、世代を問わず墓参りが増えてきたのはいったいどうしてなんだろうか? ということです。 ▼「墓」に見られる「家」観念 余り詳しく説明すると時間がもったいないのですが、この辺は重要なので「なぜ、墓参り行動が増えだしたか?」と言うことを考えてみたいと思います。墓参という行動は、「亡くなった祖先に対する慣習化した儀礼」であるわけですけれども、そうした儀礼行動が、現代という時代にむしろ盛んになってきているという背景には、「祖先観念の変化」があると言って差し支えないと思います。いわゆる祖先崇拝というのは、日本社会の親族制度あるいは家制度と密接に結びついてきたわけですね。つまり、「家」の永続制ということ、あるいは継続制といったことが、そういうものを支える働きを祖先崇拝は持っておりました。 こうした祖先観念が定着いたしましたのは、中世の浄土思想の影響に基づいた「死者を供養する」という観念が始まりかと思いますけれども、庶民にまでそれが浸透するのは、近世幕藩体制のもとで「寺社統制」がなされて以降のことだとされております。さらに明治以降になりますと、国家神道の確立とともに、祖先祭祀が国民の義務として位置づけられてくるようになってくる。つまりイデオロギーとしての祖先祭祀が、家を基盤として国家にまで拡大されていったというわけですね。その意味で、墓は「家墓」であり、決して「個人墓」ではなかったというわけですね。現代でも「家墓」としての墓観念を持っておられる方が多くいます。そうした観念というのは、墓碑に「〇〇家先祖代々の墓」と書いてあるのを見れば十分納得がゆきます。このスタイルはわれわれが昔から慣れ親しんでいるものですけれども……。 それが「家墓」に代表されるわけですが、ところが核家族化した現代社会にありましては、こういう祖先観念というのはどうも希薄になってきたようです。大学生に「祖先や先祖はどのぐらい前の人のことを指しますか?」という質問をしてみますと、「家系の初代」と答えたものは、男子学生で50%ほどで、女子学生では30%ぐらいです。われわれは、「祖先」といったら、系譜(家系図)ということが念頭にありますから、「家系の初代」というふうに理解しておりますが、ところが現代の若者には、そういう回答が一番多いには多いのですが、そうではなくて、「亡くなったひいおじいさん、ひいおばあさんまでがご先祖である」と、こういうふうな考え方がかなり増えてきてるわけです。「祖父母まで」という学生も10%越えております。亡くなった曽々祖父母――まあ、お年寄り側から言ったら玄孫ですけれども――それも若干あります。「亡くなった両親」というのはさすがに少ないですけれども……。 先祖というものが「自分の記憶のある人まで」ということになると、祖先の管理については、遥かに身近な存在になっておるのが現在社会における祖先観念であるかと言っても差し支えないのではないかと思います。要するに、ひいじいさん、ひいばあさんとは、自分にとって、ある程度リアリティーのある人たちで、子供にとって、生前元気であって、それにその人たちの記憶があれば、そこまではお墓の前で偲ぶことができる存在であるわけですが、曽々祖父母になりますと、回答率が両方合せても約9%ぐらいにガタッと落ちているのも、学生たちがリアリティーを感じないからです。そうすると、こいうふうな記憶にある人たちというのは、要するに身近な存在である人たちですね。そしてそれが、そういう祖先観念が男子よりも女子により多くみられるというところが注目されるところだと思います。 墓観念というのが変わってきまして、「〇〇家先祖代々の墓」に変わりまして最近では、霊園墓地などに行きますと、寂滅為楽の「寂」という字があったり、「安らぎ」というのが書いてあったり、また、「さようなら」というような言葉が書いてありましてね。昔の墓の観念がそういうところを見ても変わってきているのは確かですね。こういった墓地観というのは、すべて旧代の「家」の束縛から完全に解放されたものでありまして、特に中年女性に顕著なのは「散骨」とか……。つまり、「旦那と同じ墓に入るのは嫌だ」という女性がどんどん増えておりますし、総合墓といいますか共同墓といいますか、一心寺にありますようなああいう形の墓(註:大勢の人の骨を混ぜる)がいい。というそういうことになりつつある。そうした観念を社会意識の面から考えてみますと、日本人の組織集団への帰属意識というものがやや希薄化してきてるということが、次に言えるんですね。 つまり、集団とか組織への帰属意識が希薄化していけばいくほど、逆に私たちは――ここがパラドックスなんですけれども――個人的な関係を重視せざるをえない。私たち人間というのは、誰か側にいないと孤独な存在ですから、一人ぼっちというのは誰でも嫌です。どの時代でも嫌です。そうすると、組織集団――例えば「会社人間なんてまっぴらだ」と、そういう若者であっても、個人的な友人関係というのはより余計に、そうであればこそ重視するようになるわけです。ここのところがポイントでして、個人を偲ぶ墓参行動が増えているというそういう現象というのは、個人的な関係を私たちはより重視するようになったということに起因しておるわけで、そういう意味で墓参りは現代の時代精神を映し出しております。 ▼弱まる向宗教性と強まる応報観念 少し墓参りの説明が長すぎましたが、続いて、「現世利益的行動」の「お守り札」というのを見てみますと、70年代は若者も中年も高齢者も30%程度でありましたが、現在では50%近くになっておるという現世利益的行動が増えております。それに対して、礼拝、お勤め、布教などの「自己修養的行動」は元から少ないのですが、ここで注目してもらいたいことは、どの世代においても25年前に比べるとやや低下気味ということです。そういう意味で、現代人の宗教意識というのが、「慰霊行動」そして「現世利益的行動」に重きを置いて、「自己修養的行動は嫌だ」と、そういう宗教行動=意識というのが強いということが指摘できるかと思います。 その宗教行動と並びまして重要な変数が――心理学では変数と呼んでおりますけれども――宗教意識ということでございます。私たちは、いろいろな宗教行動を取りますが、そういう宗教行動を取り巻く宗教観のようなものを持っているわけで、それが宗教的態度意識であります。 私のこれまでの調査研究によりますと、ほぼ三つの宗教意識が析出されておりまして、一つは「向宗教性」という意識であります。二つ目は「加護の観念」……。これは「おかげさま」に代表される観念です。三つ目が「応報観念」あるいは霊魂観念とも呼べるかもしれません。 この向宗教性というのは一般的な意味で宗教に対して好意的な態度を示すのか、あるいは非好意的回避的な行動を取るのかといった次元です。心理学では測定ということをよく行なうというか、何か人の心理を調べる時に、よくそれを測定しなくてはいけない。その測定のためには、尺度を構成して「物差し」を作って、そしてそれを人に答えてもらうという方法を取ります。知能検査でもそうですし、心理学テスト、性格検査でもそうです。いろいろな項目を列挙してそれに答えてもらって、その回答結果からその人の知能なりあるいは性格なりを得点で表していくわけですが、社会心理学でもよくその方法を取るわけです。(宗教的態度の尺度)宗教一般に対してある人が好意的な態度を持っているのか、あるいは非好意的な態度を持っているのかということを、ここに示した12個の項目によって見ております。「信仰を持つことによって人生の目標が与えられる」「信仰に裏打ちされた生き方こそ人の真の生き方である」といったような項目です。しかし、「日本人の宗教意識」といったようなものは、そういうふうな表に上がってきた、こ れは目に見える宗教、私たちが宗教といったらどのようなことを連想するかというと、普通、教団があり、あるいは戒律があり、儀礼がありというそういったものをイメージしますけれども、「向宗教性」というのは、そういうレベルでの宗教意識です。 「加護観念」に相当するのが「おかげさま」意識です。それに対して「応報観念」すなわち「たたり」の意識は、「死後の世界があると思う」「死者の供養をしないとたたりがあると思う」「仏様や神様を信心して願いごとをすれば、いつかその願いがかなえられる」「水子供養をするべきだ」といった諸項目に対して賛成を示す態度といのは「応報観念」、逆に裏返して言えば、「たたり意識」というものが強い人であるということが言えるのです。 現代人は、こういった宗教意識というものをどういう形で抱いているかと申しますと、これは(図表2参照)うちの大学の学生と両親のデータですけれども、男子学生女子学生とその両親です。左が「宗教一般に対する好意的な態度=向宗教性」真ん中が「おかげさま=加護観念」の観念、右が「応報観念=たたり意識」です。 そういたしますと、「向宗教性」に対しましては、この点線を入れていますところ(註:平均値二五ポイント)は、肯定でも否定でもない、中立を守るというか、どちらでもないという位置が点線で書かれております。ですから、大阪市立大学の男子学生は、宗教一般に対しては、肯定どころか、全く否定的方向にあるということです。女子学生もそうです。お父さん、お母さんはかろうじて真ん中に近いところにおられますけれども、今の若い人たちは、宗教に対してネガティブな態度を示しておる……。 それに対しまして、「おかげさま」意識はどの世代も強くて、「どちらでもない」をかなり越えておりまして、現代の若者は、そういう意味では「まだ捨てたもんではない」といいますか「おかげさま」という意識は持っておる。そして、それは子世代よりも親世代の方が遥かに強ようございます。 ここで注目したいことは、霊魂応報たたり観念というものが、今の女の子たちに極めて強いということです。私は、こういうことを始めて以来、毎年うちの大学で調査をやっているのですが、最初に調べた時にびっくりしましてね。大阪市大の学生が「水子供養をしないといけない」とか、あるいは「何かしたら罰ばちがあたる」とか、そいうことを思っているのかと……。市大の学生は比較的偏差値が高い方ですから、だから、当初は「学歴が高ければ高いほど、そういう迷信俗信などに相当するものは払ふっ拭しょくされていく」というのが通説でしたので、「おやっ?」と思ったんですが、しかし何回調べても結果は同じなんですね。女の子は、霊魂応報観念たたり観念が非常に強いわけです。 ▼宗教行動意識に対する家族の影響 それで、先ほどの宗教行動宗教意識にしましても、実は、皆さん方も実感していらっしゃるかと思いますが、私たちは「自らの意志でもってある宗教行動をしよう」ということはまずない訳で、大抵は、お父さんお母さんに連れられてどこかの神社にお参りに行ったとか、あるいは友達に誘われて入試の祈願に行ったとか、誰かに影響されてある行動をとるのが普通ですが、ここに端的に表れていますけれども……ここで、(図表3参照)「父親の自己修養的行動」を横軸にとりました。縦軸は、「お母さんあるいは子供の自己修養的行動」をとりました。つまり、統計的にいえば、二者の相関をとったことです。つまりここで言っていますことは、お父さんの自己修養的行動はほとんどゼロであるか、あるいは一点ぐらいの人、二点ぐらいの人、三点〜六点である(市大のお父さんの中ではかなり強い方ですけど)そういうレベルにある人の母(奥さん)はどうか? というのをみてるんです。 だから、お父さんの「自己修養的行動」が極めて希薄であれば、お母さんも希薄なんです。お父さんがこんなところ(註:左側を指して)にあって、お母さんがこんなところ(註:高いポイントを指して)、にあるとはということはありえない。面白いことに、「似た者夫婦」という言葉があるのですが、夫婦というのは結婚する前は似てないのです、統計的にいうと。結婚によって、これはランダムに意識観念は合体してるわけで、「好き」というだけで一緒になったわけで、二人の考え方は最初は全然一致していない。ところが、二十年も連れ添うと、態度も行動も似てくるわけなですね。これが「似た者夫婦」で、お父さんが自己修養的行動がゼロであれば、お母さんもゼロに近い。ちょっとましになったらお母さんもだいぶましになってくる。非常にましになら、お母さんはグッとましになってくる。というふうに、宗教行動に対する家庭の影響というのはものすごくあるんですね。 子供だってそうなんです。子供の自己修養的行動の程度はお母さんに比べるとそりゃ低いですけれども、お父さんがましであれば、子供も若干ましになっていってるんです。慰霊行動についても然りで、これもそうです。お父さんの慰霊行動が強い人ほどお母さんも強い。子供も、先ほどの自己修養的行動よりも遥かに影響力が強くなってるんです。すごいのはこれです。お父さんの現世利益的行動は、もうお母さんに決定的に影響を与えておりますし、子供にも――子供はもとより高いんですけれども――お父さんがもとより強ければ、子供の現世利益的行動は高くなっていく……。やはり家族の影響は強うございまして、これは 宗教行動に止まらず、宗教意識についても同じようなことが言えると思います。 それで、普通一般に、人の態度を変えるには――「あることをさせたい」と思ったら――例えば、泉尾教会の信者さんがおられて、その子供があまりお参りをしない。お参りさすようにしたい。その時にどうすればよいかというと、普通は態度を変えさせようと、「だから、お参りすればこんなに良いことがあるんだぞ」と、いろいろ説き伏せていく方法が取られます。カウンセリングだってみなそうなんですね。少し精神的に弱っている人に、カウンセラーがカウンセリングをする。ある意味でカウンセリングの方法にもいろいろありますが、要するに、クライアント(患者)の態度を変えていこうとするのが、カウンセリングであるわけなんですね。商売でも、ある商品を買ってもらいたい。その時も、消費者の態度を変えて、買う方向へもっていこうとする。それが常識ですけれども実は、宗教行動を考えてみますと、むしろ、「行動が先にあって、私たちの態度が決まってくる」という側面が非常に強いんです。例えば、私は僧侶でありますけども、小さな頃から父親に、百パーセント強制的に毎朝夕本堂でお参りさせられてですね、お仏壇の前で手を合せるという習慣が否応なしについた後に「自分の 信仰を意味付けしていく」ということが後から引っ付いてきます。先に教義などを学んでから、お仏壇に手を合せることは決してない訳なんですね。 ▼応報観念はあらゆるものを信じさせる そういうことを考えてみますと、さっきから申し上げてます三つの行動――自己修養的行動、慰霊的行動、現世利益的行動――この三種の宗教行動が、どういうふうに態度のレベルへと結びついていって、いったい何を信じさせているのか? と、そういうことを分析しているのがこのスクリーンの図(図表4参照)なんですけれども、このスクリーンの右にあるのが、「信じるもの」と書いてありますが、別のスライドを使います。現代人は――といっても「大学生と両親」が信じているものでありますが――以前ですと、神とか仏とか聖書、経典の教え、お守り、御札、天国、地獄、極楽それぐらいでことが足りたんですが、今の若い人たちも含めて、「何を信じているか」を分析する場合に、「奇跡」とか「虫の知らせ」などを入れないと関連性が判らなくなってきております。 それで、若者と中年世代を見てみますと、青で囲ったのが仏さまですが、中年世代は仏さまをかなり信じておりますが、若者たちはそれほどでもない。むしろ驚くのは、赤く丸で囲んだ「霊魂」であるとか「あの世」、「死後の世界」、「来世」、「奇跡」ですね。こういう要素になると、もう圧倒的に若い人たちの方がはるかに強うございまして、黄色で塗った女の子たちのこの信じ方というのは、易、占い、手相、お守り、御札、虫の知らせ、奇跡、あの世、死後の世界、来世、霊魂、これらを信じる比率というのは非常に強い。僕らの彼女たちの世代だった頃――今から二三十年前――を思い出して振り返ってみても、これほどではなかったわけですね。つまり現代の若者たちの中には「霊界神秘思想」というものが非常に強くあることが判るわけです。 今、掲げましたこういうふうな信じる対象というのは、ある統計分析を使いますと三つに集約できるわけですね。(図表4参照)つまり、「神仏とその霊力」に相当すると考えられるものが、神仏お守り御札の力、これがワンセットとしてお互いに類似相反パターンが似ておるのでいっし ょにすることができます。そして、霊魂存在、聖書、経典の教え、あの世、死後の世界、来世、天国地獄極楽をひっくるめて「神秘的霊的」なもの。それから、奇跡、虫の知らせ、易、占い、手相、こういったことが「オカルト」としてひっくるめられます。そこで、面白いことに、この三つの宗教行動は、理論的にはこういうふうに結びついていくだろうと、想定されるわけです。 「宗教一般に対する好意的な態度」というものは、自己修養的行動から湧いてくるものである。そして「おかげさま」というのは、慰霊行動を積み重ねてくると出てくるものであり、「因果応報の観念、霊魂の観念」というのは、現世利益的行動から出てくるものであると理論的に想定いたします。そして、これがこうなり、これがこいうふうに結びついていくと理論的に想定したのですが、この辺までは理論的にはうまくいった。つまり仮説どおりにいったのですが、この矢印の意味は、これとこれの関係が非常に強いというは太線で示しております。点線の矢印は、関係はあるけれども少し弱い関係である。点線が全然ない部分というのは、全く関係がないということで、要するに、自己修養的行動から宗教一般に対する好意的な態度が出てくるけれども、その向宗教性から何をも信じさすこともできない。慰霊行動から加護の観念とうものが、やや弱く関係しているけれども、それに止まっておる。ところが、これがすごいわけです。若者がとる現世的行動というのは、因果応報の観念を生み出し、その因果応報の観念は「あらゆるものを信じさせていく」ということが、はっきりと判ってくるわけですね 。 つまり、今の若い人たちの宗教行動なり、あるいは宗教意識というのは、現世利益的な関心が根底にあって、そして、それが古来からあるような因果応報の、つまり「たたり」という意識に結びついてゆき、そして何かを信じさせる。という、そういうことが言えるかと思います。 ただそれは、後でも申し上げますが、これだけでは不安なんです。つまり、なぜこのようなことが起こっているか? 例えば、浄土真宗という宗教では、自己修養的行動から向宗教性へ行き、そして仏様へという道筋が教義の上で当然だとされているんですね。だのに実際は、そう行っていない。当然で現代の若い女性たちは信じていないから、自己修養的な行動をとることが非常に少ないし、とったとしても、自分の信念・信仰に基づいてとっているとはたぶん言えないから、こう右の方(P10の図表)に至らないわけなんですね。 ところが、現世利益的行動というのがとられる理由というのは、現代社会においては非常にはっきりしております。要するに不安なわけです。これは、後からでも時間がありましたら申し述べたいと思いますけれど……。現代人の宗教行動というのは、現代社会における不安というものが根底の背景にあって、今の宗教ブームというのがまだ続いておるとすれば、そのブームを形づくっているであろうと思えるのです。 ▼満足度日本一は福井県 以上で、宗教行動と宗教意識との関係をご説明申し上げましたけれども、メインテーマの心理的効果ですが、これもいろんな機能があります。宗教の最大の機能というのは、先程、冒頭にも申し上げましたように、「宗教を信仰をすることによって、幸福感を持てる。幸福であると実感できる」ということです。 泉尾教会さんでは、マルチメディアを駆使なさっておりまして、ホームページを覗いてみたんですが、インターネット上に「レルネット」でしたですか、いろいろな情報を瞬時に手に入れることができまして、今後もますます私たちは宗教に近づくため、全く宗教を知らない(お参りしたことない)人たちに対しても非常に強いインパクトを与えることができる手段だと思います。また、その反面、怖さもあります。世の中にはいろんな宗教がありますから……。その泉尾教会さんのホームページの中に、三宅歳雄先生のご教話が載せてありまして、どのご教話を読みましても、「おかげさま」という意識、「ありがたい」という言葉がしょっちゅう、しょっちゅう目に止まるわけなんですね。ですから私たちは、宗教を信仰することによって心理的充足感が出てくるはずであす。しかしそれは、「本当に宗教的な信仰によって出てきているのかどうか?」ということなんです。三宅先生のご教話にそういうなことが説かれていますけれども、それは果たして三宅歳雄先生の個人的なご境地に過ぎないのかもしれない。一般の人たちにおいても、果たしてそうであるのかどうかというのを、科学的に解明すべき問 題なんですね。 それで――こういったことを随分以前から考えておったわけなんですが――NHKの放送世論調査研究所が行なった調査研究のなかに、このような資料がございました。これは、全国調査なのですが、「あなたは今の生活に満足されていますか? リストの中であなたの感じに一番近いものをおっしゃってください」という質問がありまして、「今の生活で十分であり、非常に満足だ」という回答と、「今の生活で一応満足だ」という回答を取り出しまして、それを偏差値で現したのがこの図(図表参照)で、黒ければ黒いほど満足度が高いわけで、白ければ白いほど満足度が低いということです。ですから、岩手県は満足度は全国で最下位でありますが、いろんな新聞社が何度となく調査して、必ず上位三位以内に入るのはここです。北陸なんですね。福井県は、県政のなかで「満足度日本一」というのを知事が言ってまして、「十分な県政をしてないのにそんなことを言ってもらっては困る」という反論も上がっているようですが、知事はそれを県政の謳うたい文句にしているぐらい満足度が高い県で有名です、その筋で は……。 なぜこんなに高いんだろう? 確かにめちゃくちゃ裕福な県ではありません。だのになぜ高いんだろうかという疑問があるのですが、「あなたは何か宗教を信仰していますか?」、「どういう宗教ですか?」という質問で「仏教」と回答した人の偏差値です(図表省略)つまり、「北陸あたりは仏教の信仰度が極めて高い」ということがこのデータでは言えるわけですね。そしてこれは(図表省略)浄土系・浄土真宗派の寺院の密集度ですけれども、北陸・中部あたりが高い。そうすると、先程の生活満足度と浄土真宗系の分布とがどうも重なっている部分が――そりゃ中には一致していない部分もございますけれども――かなりの重なりが強いなと私は以前から感じておりました。 ある時、福井新聞から依頼がありまして、「満足度日本一というのは、浄土真宗の信仰が関係をしているのではないか?」と……。つまり福井県というのは、越前吉崎に蓮如が数年間坊舎を建立いたしまして、吉崎で大布教いたしまして、わずかの間で大ブレークしました。『御文章』のほとんどが吉崎で執筆されております。そういうふうに、吉崎での活動というのが非常に彼の布教人生の中でも最も大きな意味を占めておったと思うのですけれども……。 それで、福井に行っていろいろ調査をしたわけです。選挙人名簿からランダムサンプリングいたしまして、かなり大掛かりな調査をいたしました。そういたしますと、福井県民に対して「家の宗教は何ですか?」と質問いたしますと、なんと浄土真宗が60%です。これは全国でも最高の数値だと思うのですが……。福井県には曹洞宗の本山永平寺がございますが、永平寺のお膝元でも禅宗の人は7%にすぎない。そして、「あなにとっての心の宗教は何ですか?」と質問いたしますと、浄土真宗が約54 %、新宗教が14%と浄土真宗が圧倒的に強ようございますね。 この図(図表参照)は、大阪市大の男子女子、福井県の大学生の男子女子を比べて、先程ご説明いたしました向宗教性、加護の観念、応報観念(霊魂観念)、この三つの宗教感の違いを比べたものです。大阪の男子学生は、宗教すべてのどの側面に対しても、意識が希薄であるといえます。「どちらとも言えない(平均値)」がこの点線のところ(3.5)がありますが向宗教性は、四者とも「どちらとも言えない」よりも下回っておりまして、広く一般的に好意的でない。けれども、「おかげさま意識」は、大阪の男子以外は福井の女子も男子も大阪の男子に比べるとかなり強く持っている。こういうことでありますけれども、心理学という学問では、先程「尺度を作る」と申しておりましたが、「幸福感を測定する尺度」を考案いたしまして、宗教意識宗教行動と幸福感との関係をいろいろ検討してみたわけです。 その前に、大阪の男子女子と福井の男子女子で――「感情バランス」という少し変わった言葉を使っておりますが、私たちは何か身の回りにいいことがあれば嬉しく思います。逆に不快なこと、腹の立つことがあればムッとした不快感情が湧きます――私たちの精神バランスから言いますと「快感情」と「不快感情」の差し引きがちょうど0だったら、快も不快も均等に起こっておる。差し引き「快感情」の方が強ければ、その人は常日頃いいムードに浸っておる。差し引きがマイナスであったならば、その人はしょっちゅう怒っておる。ということになります。それで、福井と大阪を比べてみますと、大阪は男女とも感情バランスが5(という線が感情バランスが差し引き0になるように変換してあります)以下であれば、しょっちゅう腹を立ているということです。ちょうど5でしたらバランスがとれておりまして、5以上でありましたらニコニコしている程度がより強くなっている。そうすると、大阪の男女は、しょっちゅうイライラしているわけですね。それに対して福井の学生たちは、感情的にバランスがとれた状態であるということがいえるわけで、これが宗教意識のどの側面を謳っているのかと申 しますと、あまり時間もございませんので結論から申し上げますと、「おかげさま」という意識なんですね。あの宗教観の中の「たたり意識(応報観念)」ではなくて「おかげさま」意識が強くなればなっていくほど、私たちの感情バランスがプラスの方向へ向いていくわけです。 盛りだくさんに資料を用意してきましたので、だんだん時間もなくなってまいりましたが、福井県の学生たちに「脳死と臓器移植」の質問をしてみますと、こういう宗教感の違いが顕著に出てくるわけです。こちらが「脳死と臓器移植」に対する大阪市立大学の学生の意見。右が福井県の学生たちの意見。「脳死は人の死として認めるかどうか?」、大阪の学生は「認める」が29%で、福井県の学生は22%。「条件付きなら認める」が、64%に対して59%。「絶対に認めない」という意見が、福井の学生達には極めて強いわけですね。そして、「あなたは臓器移植でしか助からないとしたらどうしますか?」とうい質問をしたところ、大阪の学生は「外国に行ってでも移植を受ける」と回答した学生が36%もあります。福井県の学生は21%にすぎない、これは大きな違いであります。それに対して福井の学生は「日本で受けれるのなら、受けてみようかな」というのが、36%ほどあります。これはあまり変わらないのですけれども……。変わるのは「治療(延命処置)を止めて、自然の命を全うする」という意見が福井県の学生にかなり多いんですよね――現在、臓器移植の問題が一頃に比べるとちょっと静かに なってきましたが――宗教性的な風土によって、今の若い人たちの間でもこれほど違いがあるということは、考えてみるべきことではなかろうかと思うわけです。 ▼死の不安の克服 最後に、脳死・臓器移植の問題に関しまして、「死の不安の克服」の問題ですけれども、一般的に申しまして、欧米の研究、特にアメリカの心理学研究では、宗教は「外発的な宗教」と「内発的な宗教」の二通りに区分しております。「外発的な宗教」というのは、外的な目的があって、その外的な目的を達成させるために宗教を信仰するそういう種類の宗教であります。いわゆる現世利益的な指向性を持った宗教を外発的宗教指向性と呼ぶわけですね。そういった指向というのは、元来「欲望を満したい」という動機に発しておりますので、それによって欲望が満たされるなら、満足感が起こってくる。満たされなければ、悲観の念が増大してくる。ということになるのです。最近、「宗教のはしご」ということがよく言われますけれども、「宗教のはしご」をするような人たちはその動機・思考は完璧に外発的な指向性に基づいているわけです。 それに対して、内発的な宗教性というのは――自己修養的な宗教行動というものが行動面ではそれに相当いたしますけれども――信仰すること自体が目的になるといいますか、宗教に生きるといいますか、宗教の道に沈むといいますか、私たちの頂いた食物が胃に入って消化されるように、私たちの血となり肉となる。こういうこういう形の宗教を「内発的宗教(intrinsic religion)」と呼んでおります。 それに対して、「外発的宗教(extrinsic religion)」というふうに欧米の研究者では呼ぶんですが、うちの大学院生が先日、インド・ネパールに行きまして――大学院生といいましても元看護婦さんで、現在でも学費を稼ぐため夜に看護婦をパートでしておりますけれど、その院生が私のところで「看護と宗教」というテーマで勉強をしておるのですけれども――インド・ネパールでも看護婦さん・医療従事者の方々に対していろいろ面接・質問書での調査を行ないまして、日本の看護婦さんたちと比べて「宗教と死の不安」との関係がどう違うかということを調べてきました。 つい一昨日、日本心理学界がありまして、その院生が発表したのですが、これは内発的な宗教性の得点を日本とインド・ネパールとで比較しております。(図表参照)もちろん縦軸に大きいほど(棒が高い)ほど、内発的宗教性が強いのですが、インド・ネパール辺りは、ヒンズー教の信者が圧倒的に多いのです。インドではヒンズー教に加えてキリスト教を信仰している看護婦さんが結構います。日本で一番多いのは無宗教です。当然ですから、内発的宗教性は日本の場合は低くなってきますよね看護集団では……。 それと、死の不安を測定する作図上での回答がこれ(図表参照)です。これを見ますと、先ほどの表と対応させてみれば、見事に一致しているというか、対応していることが判かるわけです。内発的宗教性の得点と「死の不安」と得点は逆の相関にあるということですね。 このことを、浄土真宗の女性門徒――若婦人会の人たちですが――「死に対する不安」だけが死にまつわる問題ではございませんで、私たちは、死に対しましては、誰も経験することはできませんから、経験を報告することができないということから、死は未知なる問題です。あるいは死について、「苦しいだろうな」、「孤独になるだろうな」という、そうふろな死に対する観念もございますし、あるいは、仏教がずっと説いてきた、あるいはキリスト教が説いてきた極楽浄土・天国という死の側面もあります。それは、「こっち」の社会で死ぬともっと満ち足りたところへ行くことができるという観念ですね。あるいは死に対して、「今、死んだら家族のために十分なことをしてやれないで死んでしまう」という問題もあります。別離と自責という観念です。 一方、死というのを真っ正面から受けとめようではないかということで、「死というのは人生の試練の機会なのだ」、「死とはその人の人生観を示す時である」、「死とは立派にやり遂げなければならない重要な出来事である」、「死とはその人を試す人生最後のテストである」というような、そういう肯定的な積極的な死に対する態度を「死観」と私たちは呼んでますけれども、人生の充実感・満足感というものを「生」とおいた時には、この問題は、死に対する態度になりますので、「死観」と呼んでます。 そういうふうに、死に対する態度は、無常観に至るまで、死の不安だけではなくて、こういった諸側面に対して「宗教がどのような効果を持っているか」と、いうそうう問題もまた考えなければならないです。それで、浄土真宗の若婦人会の門徒の方を対象にいろいろと調べて分析してみますと、自分でこのデータを分析してびっくりしんですけれども、若婦人会の方々が持っておられる宗教性には、真宗の信仰性に関わるものと民俗宗教性(迷信・俗僧)に関わるものとの二つの側面がございます。 これは、真宗の教義の上からは「民俗宗教的なものは払拭ふっしょくしていくべきだ」と言われているのですが、しかしそれを持っている人もおるわけですね。この「神や仏を粗末にすると罰ばちがあたる」、「水子供養はするべきである」、「先祖の供養をしなければ祟りにあう」、「神社の境内にいると心が落ち着いたり、あらたまった気持ちになるったりする」……。ここに書いてございますこういった諸項目というのは、浄土真宗の門徒・僧侶にとっては民俗宗教的なものとして否定的に理解されなければならないことになっております。それに対して抱くべき信念は、「お念仏を唱えているときに、御仏に溝たれているという実感を味わうべきだ」、「生活に教えが影響を与えて」おったり、「信仰によって死に直面しても安らぎの気持ちを持て」たり、「一週間の内にに聖典や宗教的書物を読む回数が多かっ」たり、こういった信念・態度はよろしい。とこうされておった。 それで、民俗宗教性と真宗信仰性を横軸にとってちょうど通知簿の五段階評点のように真宗指向性が「非常に弱い」・「弱い」・「普通」・「強い」・「非常に強い」と五段階に分けまして、その人たちの「苦痛と孤独」の得点を見てみました(図表参照)。苦痛と孤独とは「最も辛いものである」、「人は最も苦しい瞬間である」、「死ぬことはとても寂しい」といったような尺度にどれほどの得点を取るかとったようなもので、こういうような思いが強ければ強いほど、死に対して怖がっている、ネガティブな気持ちを持っているということですから、これを見てみますと、浄土真宗の信仰が強くなっていけぼいくほど、苦痛と孤独は減っていきます。それに対して民俗宗教性が高ければ高いほど苦痛と孤独としての死観が高まっていくという極めて強い相関がございますし、死を別離と自責というふうに捉える、これもネガティブな死観でありますけれども、「今死ねば家族の将来を十分配慮できずに死んでしまう」、「今死ねば家族を世の中の厳しさにさらさなければならない」だろうという心配は浄土真宗の信仰が深くなっていけばいく ほど、落ちていきます。しかし、民俗宗教性はそれに対して、信仰が深くなればなるほど増えていく。 非常に大事なところは、宗教に対するものの取っ掛かりは、宗教行動と宗教意識の関連のなかでお話いたしましたように、やはり現世利益的なドロドロとしたものが取っ掛かりやすいんですね。宗教にぜんぜん関心のない若い人たちに対して、高こう邁まいな教義をいろいろ述べたって、それはぜんぜん入ってこないわけで、それよりもやはり、体でもって、行動でもって、身でもって教えるほうが遥かによいわけです。もし、そうでないとすれば現世利益的な指向性、外発的なextrinsicな指向性が、これは宗教に入る入り口としては無視はできない。これは大事なところなんですね。しかしそれだけでは、こういうふうに入ってきた人たちは不安から解放されないわけで、いつまでたっても現世利益的信仰の悪循環がずっと続いていくんですね。ですから、どこかのところで内発的宗教指向性を入れていかないと私たちの不安は鎮まらない。宗教というのがより純化していく中でそうことは行われていくだろうと思うのですが……。少し話しが超過いたしましたのでこの辺りで終わらせていただきます。どうもご静聴ありがとうございました。(おわり) |