鈴木 岩弓
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▼未曾有の大震災で
初めまして。ただ今、三宅善信先生からご紹介いただきました東北大学の鈴木岩弓と申します。岩弓という名前は素直に「いわゆみ」と読んでいただければ良いのですが、人の名前と思えないような名前ですので、皆さんいろいろ読み方を考えてくださります。実は、折口信夫(釈迢空)先生が付けてくださった名前だそうです。鈴木がありふれているということで、逆に「岩弓」という名前で皆さんに覚えていただけるようにと聞きましたが、場合によっては姓が岩弓さんだと思っている人もいるぐらいです。その意味ではすごく有り難いと思っています。
本日は伝統ある会にお招きいただき、有り難うございます。ご紹介にありましたように、これまでは一介の宗教学者として、宗教を一歩引いたところから価値中立的(客観的)に研究してきたのですが、東日本大震災が起こったことを契機に、宗教者の皆様方を後ろから応援させていただいているうちに「こうしなくちゃいけない」、「かくあるべし」という価値観に踏み込んだ話をするような立場になってきております。宗教者の先生方を前に僭越ですが、今日はその辺りのお話をさせていただこうと思います。
私は今朝、仙台から飛行機で参りましたが、この写真は仙台空港の1階ロビーの風景です。震災の後、しばらくヘドロの臭いが付いていましたが…。この柱に何が書かれているかと言いますと、「ここまで津波が来ました」という印です。津波が仙台空港を襲った時の小型機がプカプカと流される映像をライブでご覧になった方もおられたと思います。逆に、仙台に居た私たちのほうが停電していましたから、津波があんなに凄いなんて知ったのは電気が通った3日目ぐらいからです。ここでは相当亡くなりました。何しろ、1階の天井高近い3.02メートルの高さまで全部水が来た訳ですから…。東北大学の学生も2人亡くなりましたが、たまたま仙台へ遊びに来た京都大学の学生さんが、空港で地震に遭い津波で亡くなっておられるそうです。正確に何人か知りませんが、2人以上の方が亡くなったと聞きました。
地震があった2011年3月11日から約3年が経とうとするところですが、大きな地震であったということ、大きな津波であったということ、そして原発事故という、天災というよりは人災であったことまで「想定外」として語られてきた訳です。2014年1月10日の警察庁調べでは、死者は15,884人、行方不明者が2,640人となっております。当初発表された2万人まではいかないで済むかもしれませんが、まだまだ正確な数が判らないままです。その内、宮城県内で亡くなった方は9,537人となっております。つまり、15,884人のうち、半数以上にあたる9,537人が宮城県で亡くなったことになります。図1の宮城県の年間死亡者数の推移をご覧いただくと、平成23年が30,047人と、初めて3万人の大台を超えてしまったことがお判りいただけると思いますが、例年宮城県でだいたい2万人の方が亡くなることを考えますと、震災があった年の死亡者数は例年の1.5倍に当たることがお判りいただけると思います。それ故、とりわけ震災直後は、死者と対峙した部分でいろんな問題が起こった訳です。震災による死は、予測も何もできない、まさに「突然の死(sudden death)」になる訳です。それは残された者にとってもそうですが、亡くなったご本人も、まさか自分自身が亡くなるなんて意識もしないうちに亡くなった方も多いのではないかと推測しています。
▼心のケアを必要とする突然死
その点、現在もそうですが、これからますます超高齢多死社会へと日本は突き進んでいく訳ですが、超高齢多死社会というコンテキストにおける死とは、「高齢者の死」のことですから、一般的には、一定の期間病院に入院して亡くなる方が多いという意味です。つまり「死」というものがいつ頃やって来るのか、なんとなく素人目にも判るようなところに「死」があり、死に対する準備が亡くなられる方自身も遺族の方もある程度できる訳です。ところが、今回のような地震や津波による「突然の死」は、何も予測できなかった面もあると思います。災害時でなくとも、仙台の辺りでは、人が亡くなった場合、まず火葬してお骨になってから葬儀をします。そのことだけでも、関西の方が聞かれるとビックリされるかもしれませんが、東北地方では「骨葬」といって、お葬式の時には既に荼毘に付されて骨になっている例がかなり多いです。そういう通常の習俗がなかったとしても、津波による溺死の場合、遺体がだいぶ傷(いた)んだ状態で見つかっている方も多くおられるので、まず焼くしかなかった面もあります。
熱弁を揮われる講師の鈴木岩弓東北大学大学院教授
ところが、遺体がない方もまだ少なからず居られますが、私の友人もお母さんを亡くしたものの遺体が出てこなかったため、お母さんの死を認めることとなる死亡届をいつ出すかという問題がありました。これが凄く苦しいところです。震災の起こった年の8月お盆直前の土日は、もの凄い数のお葬式が執り行われました。つまり、お葬式をしないことには新盆を迎えられないので、遺体が見つからなかったご遺族からの葬儀の依頼がお盆直前に集中したのだろうと思います。お寺によっては1日に50件葬儀をされたところもあったそうです。私も浜のほうへ行ってみましたが、そういった葬儀をたくさん見かけました。宗教者にはさまざまな役割を期待される訳ですが、葬儀に関しては素人が執り行うことはできません。もうひとつは、行方不明者や死者への思いをどう扱ったら良いのか? ある意味では、宗教者の方でないとできない部分であると私は考えています。つまり、死を見つめた形の対峙の仕方は、多分、お医者様でも臨床心理士の方であってもできない。しかし、宗教者の方ならば入り込めるのではないか…。ここが重要な点ではないかと思います。ここでの話の目的は、震災以降宗教による「心のケア」が非常に強く言われるようになったということ、そして、われわれがやっている活動をお話しすることと、最後に震災後3年経ってどうなっているかということに触れたいと思います。
▼阪神淡路と東日本で何が変わったのか
「震災と宗教者」ということで考えますと、今回の東日本大震災以前に、1995年の阪神淡路大震災─おそらく、本日ご来会の先生方のほとんどは、直接ご経験されたと思います─が、実は震災と宗教者を結びつける大きなきっかけになったのではないかと思います。つまり、この時「心のケア」という言葉が社会に定着するきっかけになった訳です。被災者への心理的支援をどうするかということが社会的に問題になった。それから、この震災に対して、一般の人たちが「自分たちもボランティアとして関わらなくちゃいけない」と被災者支援に動いた、いわゆる「ボランティア元年」も1995年だったと言われています。
この時、各教団や宗教者もボランティア活動に取り組みました。ところが、京都の国際日本文化研究センターの所長も務められた山折哲雄先生─僕が大学院時代に東北大の助教授をされていたんですが─は、阪神淡路大震災の後に「宗教者の特徴が見えなかった。宗教者はいったい何をしていたんだ?」と、宗教者への叱咤激励めいた論評を公に出されたことがあり、実際に被災地で活動された宗教者の方が悔しい思いをされたことがありました。しかし、この時は震災と同じ年の3月にオウム真理教事件による地下鉄サリン事件がありました。お手元の資料にもありますが、山折先生の批判がどういうものだったかと申しますと、シンポジウムがあった際に「阪神淡路大震災では宗教者が宗教者として立っていなかった。単なるボランティアと違う何をやっていたか? その辺りが全然見えてこなかった」、「マスコミの眼差しは宗教者としての活動とは必ずしも認めていなかった」といったことをビシッとおっしゃった。
もちろん、宗教者も宗教団体もいろいろ活動されていたんですよ。しかし、当時は一連のオウム真理教事件のこともあり、背中に「○○教」と書いたジャンパーを着て避難所や仮設住宅に入っていける雰囲気じゃなかった。山折先生は「宗教者は単なるボランティアや応援部隊として行っていたのか?」といった、一見宗教者批判とも取れるような言い方をされましたが、他の著書を読んでみますと、実は山折先生が言いたかったことは、それだけ日本が世俗化してしまい、宗教者の言葉を世の中に発しても理解してもらえないような時代になってしまったことに対する憤りをもっての発言だったと思います。
ところが、2011年の東日本大震災では、食料品の配給や仮設住宅の建設といった衣食住の支援だけではなく、とりわけ厚生労働省が、医療による「心のケア」班を作りました。やはり、神戸の震災のことが大きく役立ったと言えます。そして、宗教のことに限って言いますと、各宗教教団、宗教者が非常に活発に動いていたと思います。宗教者であることが顕在していたことは、先程申し上げたようにジャンパーの背中に「○○教」と堂々と打ち出して被災地へ入られた。オウム真理教の事件があった1995年には、被災地の人々から宗教団体というだけで「怪しげだ」と言われ、したいことができなくて悔しい思いをしましたが、今回はそうではなくなったという面があると思います。
因みに、私が住んでいる新興住宅地に、一番早く来られたのが創価学会でした。「創価学会」とはっきり書かれたラベルを付けて食べ物を配っておられました。私は阪神淡路の震災の時のことが記憶にありましたから、教団が名前を全面に出していることにずいぶん驚きました。それは創価学会だけではなく、いろんな教団が名前を出して活動されたことが今回の特徴だと思います。また、宗派教団の横断的活動─この国際宗教同志会もまさにそうだと言えますが─がすごく多く、これを受けてわれわれがやっている臨床宗教師、あるいは東京大学仏教青年会がやっている臨床仏教師の構想が出てきました。この辺りは後ほどお話しいたします。
▼宗教的支援とは何か?
宗教学者の中には、同時に宗教者である方も多いのですが、私自身は○○教といった宗教者の息子として生まれ育った訳ではありませんが、今回の震災では、宗教学者が宗教者を支援する組織ができました。昨年、上智大学に移られましたが、当時、東大におられた島薗進先生が立ち上げられた「宗教者災害支援連絡会(宗援連)」もそうですし、私が事務長をやっている「心の相談室」もそうです。では、どんな支援がなされたかを簡単に振り返りますと、地震発生直後は─宗教者に限らず皆がやったことだと思いますが─水や食糧といった救援物資を持って来たり、避難所を作ったり、被害状況を把握して義援金を出したりする中で、宗教者として読経ボランティアの活動が行われました。これは先程申し上げましたように、たくさんの方が亡くなられたにもかかわらず、お弔いをする宗教者がいないということが、その背景にありました。
49日の経つ頃、今度は瓦礫除去や道路の整備などが進み出す一方で、心のケアが大きく取り上げられるようになってきました。「傾聴」、「行茶」、「足湯」といった活動にいろんな教団がかかわり、被災者のお話を伺い心のケアをする。それに連動して、シンポジウムなど学問的な分野も動き出した。ここまでの話をまとめますと、宗教者による支援活動には「物資提供」、「資金援助」、「住宅提供」、「健康維持」の4つの大きな柱があると共に、今回は本業である宗教的支援が大きく展開されたことが良かった点ではないかと思います。つまり、読経や慰霊のための活動を行うということです。こればかりは他の職業の人にはできないサービスです。これが、阪神淡路の震災の折にはあまり顕著には見られなかった点です。ですので、山折批判に対して、今回の震災における宗教団体や宗教者の関わり方は十分応えたことになるのではないかと思います。
では、宗教的支援とはいったいどんなことが起こるのかと申しますと、「旧知の関係」、つまり檀家と檀那寺の住職、あるいは氏子と氏神の神職との関係というような形ならば、例えば、支援を受ける当該者に家族が何人いてどういう仕事をしているかといったことまで宗教者はよく知っている訳です。お寺と神社を例に挙げましたが、新宗教の教団でも同じことです。宗教者と信者さんが旧知の関係のように巧くいっている組織は、今までやってきたことを生かせば良い訳です。しかし、宮城県を例に挙げますと、ここは曹洞宗が圧倒的に多く、県内に465カ寺あるのですが、ここでは住職が7人、寺族を含めると10人以上の方が亡くなっておられます。壊滅的な被害を受けた名取市閖上(ゆりあげ)の寺院では、ご住職も奥様も亡くなっておられます。
海蔵寺というお寺の入り口に慰霊碑ができているんですが、この右端に「海蔵寺住職 菅野恒夫様 63歳」と書かれています。こういう風にご住職が亡くなってしまうこともある訳です。こうなってしまうと、檀家さんがお葬式を出したくても旧知の関係でない方がやらざるを得なくなってしまう訳です。初対面の場合、同一宗派の方であっても、例えば、大阪の文化と宮城県の葬祭文化はちょっと違います。つまり、同じ宗派であっても異なる宗教文化があるとやりにくい部分があります。ひとつ例を挙げますと、人が亡くなると、宮城県でもお寺に行って法事をすることは同じなのですが、宮城県では、それ以外に人が亡くなって四十九日や百カ日に巫女さんの所へ行って「仏降ろし」をして、死者があの世でどうしているかを尋ねることが当たり前の文化としてあるんです。「仏降ろし」という行為自体が良い悪いとか、そこで巫女の口から語られる話が嘘か本当かといった話ではなく、そういった宮城県独自の葬送文化を理解されないと、たとえ同じ宗派の僧侶の方が来られても話が通じません。いわんや、他宗派・異宗教の被災者に対して何かしようとするならば、大変なことになってくる訳です。
実は、われわれが支援に行った時に、曹洞宗の檀家さんの所に浄土真宗の宗教者の方が行って、仏壇を拝んであげるようなことが出てきました。そういう時に「このような場合、どのような支援の形が良いのだろう?」という素朴な疑問が出てきます。つまり、現状では、たとえ訪問宅が曹洞宗の檀家さん宅であっても、その時支援を申し出た宗教者の方の宗旨が浄土真宗の場合、浄土真宗の教義に基づいて関わるしかない訳です。この段階に至って、公的空間において宗教的支援─自分のよく知っている人を対象に支援を行うのではなく、知らない人を対象とした宗教的支援─を行う場合のスキルなども含めて非常に難しい面が出てきました。こういったところから、実践宗教学寄附講座というものが誕生しました。本日お配りした資料の中にいろいろ入っていますが、これらは実践宗教学寄附講座の案内です。4部あるのは、これまでに刊行されたニューズレターです。他にも実践宗教学寄附講座がどのようなものなのかが書かれた資料も入っていますので、またご参考までに読んでいただけたらと思います。では、これからこの講座の要点をお話しして参ります。
▼実践宗教学寄附講座とは
われわれが取り組んできた「心の相談室」とは、東北大が会議室を提供して、宗派・宗教の異なる宗教者の方が被災者にどう関わるかを話し合ってきた集まりなんですが、話し合っていく中で「やはり専門職が必要」とか「もっと勉強しないと…」ということなってきました。ご存知のように、キリスト教国には「チャプレン」という言葉があります。チャプレンとは、宗派・宗教を超えた形でケアをするのですが、例えば極端な話、アメリカ軍の場合ですと、100人の部隊の中にはいろんな宗教の人が居ます。そこにチャプレンが1人付く訳ですが、それがカトリックの神父さんであっても、部隊の中には仏教徒も居ればイスラム教徒も居ます。彼らが戦争で死にそうな目に遭った時、チャプレンは「私はカトリックですから、イスラム教徒の方は知りません」なんてことは言えない訳です。仮に今死にゆく兵隊がイスラム教徒ならば、イスラムの教えに沿って言葉をかけてあげることが大切なのです。
そのような場合にどう対応すれば良いのか、といったことを、例えばハーバード大学ですと、神学大学院(ディビニティスクール)の修士課程にチャプレンの養成コースを設けて教えている訳です。このコースは、キリスト者に限らず、仏教者でもイスラム教徒でも受講が可能です。しかし、日本にはそのようなコースが現在ありません。そこで、超宗派・超宗教的な「臨床宗教師」というものを作る必要があるのではないかと考えました。この「臨床宗教師」という言葉は造語です。仮にチャプレンやビハーラといった名称を付けてしまうと、キリスト教や仏教といった色が出てしまいます。また、何処かの宗派・宗教の傘下に入っている訳ではなく、宗教界全体を覆うような中でやりたいと思っていたので、これがベストかどうかは判りませんが、いろいろ悩んだ末に「臨床宗教師」という言葉に行き着きました。
そのひとつが「祟り」ですが、怨霊が出てその存在を示すことは、すなわち神的な存在が人に直接交渉していると言えます。神仏の顕現は日本だけでなく外国でもよく見られる話です。例えば、フランスの「ルルドの泉」も有名ですね。
私がずっと昔から研究している広島県の府中市にある「首無地蔵」は、夢のお告げによって土中から掘り出された首のないお地蔵様なんですが、これがものすごく流行っているんです。その施設は一応、宗教法人になってはいますが、特定の宗派ではないんです。ここに行くといろいろな奇跡が起こると言われていて、中には「観音様のようなお地蔵様を見た」という方も居られました。そして、人と神の間を行き来しながら直接交渉できるのが巫女(イタコ)さん的な方でないとなかなかできない。人は神に関わろうとはするのですが、神がそのことに気付いてくれたのか、解ってくれたのかが判らなくて、一般の人はとても不安になる訳です。そこで、人と神の間に立ち、それぞれのやり方で間を取り持っていただく役目を果たすのが宗教者になります。この間を取り持つ役割を考える際、シャーマニスティックな問題も出てくると思います。
▼メーカーとユーザーを取り持つディーラー
そういうことを考えた時に、千里の万博跡地にできた国立民族学博物館の初代館長を務められた梅棹忠夫先生が言われた言葉が凄く参考になります。梅棹先生は、宗教の問題を自動車の販売システムに準(なぞら)えて、「メーカー」や「ユーザー」といった言葉を使って説明されたのですが、「メーカー」は仏教や神道やキリスト教やイスラム教といった教えが完結したものを指し、それを信じる人たちを「ユーザー」と呼んでいます。つまり、トヨタの車を造るのはメーカーですが、車を運転しているのはユーザーということです。僕がこの話を聞いた時に、とりわけ重要だと思ったのは、メーカーとユーザーの間に立つディーラーの存在です。例えば、宮城県でトヨタの車に乗っている人は、わざわざ愛知県のトヨタ自動車まで出かけて車を買うことはせず、宮城トヨペットといったディーラーから車を購入します。このディーラーこそが宗教者であり、信者さんと直接顔を合わせてお話ししてくださる方だと思います。
ディーラーがしっかりしているメーカーは凄く力があると思うんですが、宗教も同じことが言えると思います。例えば、メーカーを教団、ユーザーを信者さんに例えると、ディーラーに相当する「現場の宗教者」が、メーカーとユーザー間の調整役を担う訳ですが、それはつまり、ユーザーのニーズをメーカーに伝え、また、メーカーの教えをユーザーに解りやすく伝える役割とも言えます。梅棹先生は「この三者の内でも、とりわけディーラーがしっかりしないといけない」と仰っていましたけれども、臨床宗教師もまさに「ディーラー」の一翼を担う訳です。メーカーは、ある教義を熱心に教えようとしますが、それが必ずしも実際に使っているユーザーの希望と一致しない面があります。
例えば、各地にお地蔵さんに対する民間信仰がありますが、それは必ずしも『地蔵菩薩本願経』に書かれているような信仰という訳ではありません。例えば、イボ取り地蔵と呼ばれているお地蔵さんのための『イボ取り地蔵経』などという経典は存在しませんよね(会場笑い)。ユーザーにとっては「イボ取り地蔵」ですが、図像学的には『地蔵菩薩本願経』といったような、何らかの経典に則って作られている訳ですから、二者間にズレが生じていると言えます。このズレをどのように調整するのかが、まさにディーラーに求められる役割です。
メーカーの論理が「神学」だとすれば、ユーザーの論理は「民間信仰」みたいなものです。教義的には間違っているといえば間違っているのですが、その信じ方が間違いかというと、「一生懸命信じている」という事実がそこにあります。イボ取り地蔵だと思って拝んでいる人の祈りは偽ものかというと、決して偽ものではなく、これも本物だと言えます。ただ、地蔵経典に書かれている教えとは全く異なるというだけです。そこをどう調整するのかが重要です。
先程「世界宗教は実在するか?」と申し上げましたが、それぞれの宗派や教団の教えが絶対的なものかという話になると、宗教学の勉強になってしまいますが、宗教の歴史を思い返してみますと、実は、宗教とは絶対的なものがずっと繋がっているのではなく、むしろ変化しながら広まってきた訳です。例えば、カトリック教徒が胸の前で十字を切る時は、左、右、上、下の順ですが、東方正教会は、その逆で、右、左、上、下と十字を切ります。私自身は、先に右から切るか、左から切るかは非常に重要だと思うので、「十字の切り方が違う宗教は、果たして同じキリスト教と呼んで良いのだろうか?」と考えることもできます。
仏教の場合、大乗仏教だけでも、日本仏教、朝鮮仏教、中国仏教、チベット仏教と様々な形がありますが、では、「(普遍的な)仏教」というものがあるのかというと、私は多分ないと思います。同様に、キリスト教の場合も、カトリック、プロテスタント、東方正教会などいろいろありますが、それらは「キリスト教」というひとつのものに集約できるかというと違いますよね? つまり「仏教」や「キリスト教」というものは、ある意味、教義的には存在するのですが、現実の信仰の世界ではひとつのものではないんです。皆、少しずつズレているんですが、ボヤッと集まっている。
九州大学の宗教学の初代教授である古野清人先生は「純粋または正統な世界的宗教は、その信奉する教理教義はしばらく別にして、現実には存在しない」と書いておられます。この辺りをもう少し考えていくと、臨床宗教師の位置も判りやすくなるのではないかと思います。信仰の現場を見た時に、同じ1人の人を見ても、ある時は教義に思い切り近くなるが、ある時は教義から非常に離れたものになる。おそらく、宗教者の皆様の中でもあるのではないでしょうか。人の気持ちが時に応じて揺れ動くのが、信仰している現場だと思います。そして、このせめぎ合いの中に信仰生活がある。そう思うと、臨床宗教師の立ち位置ももう少し気楽に考えることができるのではないかと思います。
▼他者の信仰に寄り添う弾力性
では、この振り幅が限界点を過ぎるとどうなるのか? 世界の宗教史から判ることは「分派が起きる」ということです。実際に宗派は時が経つにつれて枝分かれしてきていますが、その理由は「我慢の限界」を超えてしまい、もともと居た側へ戻れなくなったから「新しい教えを創らなきゃ駄目だ」となったのではないかと思います。しかし、臨床宗教師というものが、超宗派的、超宗教的に動くことを考えますと、自己の信仰を持つということと、他者の信仰への寄り添いを、先程の揺れ動きの幅の中に組み入れていくことができると思います。つまり、臨床宗教師になる人に「自分の信仰を捨てなさい」と言っているのではなく、一方の極に自分の信仰をしっかりと持ったまま、他者の信仰に寄り添う弾力性を身に付けてもらうことが大切なのではないかと考えています。
教団の教えが一方にあり、信者さんたちは、人によって教義と違うことを信仰している方も大勢居られる。従来の宗教の立ち位置は、あまり離れたところまで行ってなかったけれども、今回の震災を契機に臨床宗教師を目指そうと思われた方は、より他者の信仰に寄り添うことができる。もしくは寄り添うことができる人が必要になってきたように思います。宗教者による心のケアを考える時に、とりわけ私が問題だと感じているのは、死後の世界を語ることができるのは宗教者しかいないので、ここへなんとか臨床宗教師として入っていくことが大切です。現場のニーズは多様ですが、その多様性の中で超宗派超宗教的ケアを行っていくスキルを高める方法を今考えているところです。
2010年に全国から2,000ばかりの家庭を抽出して、現在の日本の宗教事情を調査したことがあるんですが、仏壇がある家が40%ギリギリ、神棚がある家は30%ぐらい。つまり、仏壇や神棚といった宗教との接点の場が、家庭の中から消えつつあるんです。キリスト教はと申しますと、キリスト教系の大学は日本にたくさんありますが、では、その結果「キリスト者が増えたか?」と申しますと、明治以降100年経ってもキリスト教徒の数は全人口の1%を超えたことがないんです。こういう社会が「世俗化」とか「宗教離れ」という言葉で呼ばれる訳ですが、教団宗教としてではなく、もっと根元的な霊魂に対する信仰は、多くの人が持っていることが、震災をきっかけに判ってまいりました。
こういった公共的な活動を行うことが求められる非常時こそ、被災者自身が持っている文化を理解し、寄り添う必要が出てきます。臨床宗教師は、たまたま東日本大震災を契機に取り組みが始まった訳ですが、超高齢多死社会がすぐ目前に迫ってきていることを考えると、この取り組みは、震災の被災者のためだけではないと思います。例えば、緩和ケア病棟や介護施設といった場に1カ所につき1人でも良いので、死が目前に迫ってきている人々が居る場に臨床宗教師が入っていく…。もちろん、無神論者の方も居られるので、誰彼構わず無理に押しつける必要はありませんが、「話を聞きたい」という方がいれば、臨床宗教師が寄り添って話を聞いてくれるだけでも凄く良いことなのではないかと思います。
私事になりますが、今、私の義父がとても危ない状態なのですが、面会に行くととても悲しそうな顔をするんです。おそらく、死を具体的に想起してとても不安なんだろうと思います。その気持ちがよく分かるので、「大丈夫だよ」と声をかけてみるのですが、私自身は宗教者ではありませんので、何か決定的なことを言えずにいます。まさにそういう人たちに向けて、宗教的な側面からのケアができれば、人はもっと安心して死ねるんじゃないかと思います。決して無理に押しつける気もありませんし、何らかの特定の教えを広めるという意味でもありません。しかし、これから先、こういう職業が必要な世の中になってくるだろうという気がいたします。
ある仏教系の宗門大学の先生とお話ししていた時に「そんな仕組みがウチの大学にも欲しい」と言われたことがあります。大学で僧籍を取って卒業する学生たちの中で、住職である父親が元気な間は寺での仕事がないという人は、会社員になったり役場に勤めたりして、お寺を継ぐまで宗教と全く関係のない仕事をしている。そういう子たちこそ、緩和ケア病棟や介護施設へ臨床宗教師として働きに行かせてはどうか…。そこで、本当に死を見つめる人々の間に立ち入って仕事をすることで、臨床宗教師としてのレベルもアップするし、お父さんに代わってお寺を継ぐことになるまで一貫して宗教に関わる仕事に就くことが可能になる。また、そういった様々な経験を通じて切磋琢磨した能力を、今度はお寺の中で生かすことができるのではないか…。
▼被災地の死者の依代(よりしろ)として
最後に、これまでのお話も含めて、被災地の現況について考えてみたいと思います。津波で壊滅的な被害を受けた被災地のお婆さんが、去年の秋頃に「この浜は、皆が身近な人を亡くしているので、震災直後は逆に、誰も泣くことができなかった。泣くという行為そのものが出てこなかった。けれども、2年半経った頃から少しずつ泣けるようになってきた」という話を聞きました。しかし、なにしろ、何もかも津波にさらわれた地域ですから、家といっても残っているのは土台だけで、お寺は位牌はおろか墓石も遺骨もない。亡くなったご先祖様の依代(よりしろ)が何もない訳です。そこで、死者との間を繋ぐものとして思いついたのが、慰霊碑だったそうです。慰霊碑を造ってもらえば、亡くなった身近な方々と繋がる場ができる。その方の意見に共感する方が大勢居られたこともあり、そのお婆さんを中心に慰霊碑を造る計画が去年から動いています。
実は、震災の被害に遭った地域では、多くの慰霊碑ができています。昨年の夏に南相馬市から仙台市まで調べたところ、32の慰霊碑や慰霊関係の施設が完成しました。そしてその後もどんどん慰霊碑ができつつあります。福島県の沿岸部に相馬市釣師浜という場所があるのですが、そこは壊滅的被害を受けたため、かろうじて津波の被害を免れたお寺に観音さんを持ってきて祀っておられます。宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)は相当やられた場所で、この中学校も廃校になりました。ここには慰霊の石塔もできていますが、子供たちが、亡くなった人たちやここを訪れる人に対して、机にメッセージを残しています。「あの日、大勢の人たちが津波から逃れるためにこの場所を目指してきました。町の復興はとても大切なことです。でも、沢山の人たちの命が、今もここにあることを忘れないでほしい。死んだら終わりですか? 生き残った私たちにできることを考えます」これは慰霊碑でもなんでもありませんが、こういうものを作る行動も捉えています。
こちらの写真は、先程申し上げたように、波にさらわれたお墓の骨がそこらじゅうに散らばっている状態です。集めても、それが誰の骨なのか判らない。その処置のひとつとして、これは瓦礫と骨を共に塚にして、その上に観音さんを祀っておられます。こちらの写真は、皆さんもよくご存知だと思いますが、70人以上亡くなった宮城県石巻市の大川小学校の校門の一部です。それがいつの間にか、祭祀対象となりつつあります。相馬市の磯部小学校では、このような像を慰霊のために作りました。結局12人亡くなられたんですが、園児1名と児童11名の名前の間に空白がありますでしょう。これは、親御さんが「亡くなった子供の名前を書かないでほしい」と言っておられるんです。書くと死んだことを認めることになるので、この1名だけ書かれていない。
しかし、作った側からすれば、いずれ書くようになるだろうと考え、その児童のための空欄を残している訳です。この学校では、生き残った子供のうち、最年少だった幼稚園児1名が小学校を卒業するまでは、毎年必ず慰霊の行事をすると校長先生が言っておられました。被災の問題とは、ひとつのやり方で割り切れるものではなく、いろんな思い、いろんな価値観がその背後にあり、それをどう調整するかが大変なのだと思います。
やはり、死後霊魂の存在について皆、考えている訳です。どういう風に考え、どう導けば良いのか。これは、精神科医でも臨床心理士でもできない。まさに、宗教者でなければできない仕事だと思います。私の講演はこれで終わりですが、ひとつだけお知らせがございます。この5月に、臨床宗教師の研修がありますので、どなたか希望される方が居られましたら是非、ご参加いただけたら有り難いです。希望者も多いため、お早めにお申し込みいただければと思います。本日は、ご清聴有難うございました。
(連載おわり 文責編集部)