国際宗教同志会平成27年度第2回例会 記念講演
『戦後70年:遺骨収容の現状』

特定非営利活動法人「空援隊」専務理事・事務局長
倉田 宇山

6月3日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において、国際宗教同志会(西田多戈止会長)の平成27年度第2回例会が、各宗派教団から約50名が参加して開催された。記念講演では、特定非営利活動法人「空援隊」専務理事・事務局長の倉田宇山氏を招き、『戦後七十年:遺骨収容の現状』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する。


倉田宇山先生
倉田宇山先生

▼10年前、フィリピンで受けた衝撃

皆さん、初めまして。本日はよろしくお願い申しあげます。ただ今、三宅善信先生からご紹介いただきました倉田宇山です。ご紹介いただいた経歴にもございましたように、ちょうど10年前に、初めてフィリピンへ参りました。その時はジャーナリストとして取材に行ったのですが、行った所がリゾートアイランドとして知られるセブ島でしたので、もし情報の中身がガセであっても、その時は気持ちを切り替えて遊んで帰れば良いか…。というぐらいの軽いつもりで出かけました。

すると、最初に案内いただいた所がマクタン・セブ空港から車で1時間…。車を降りて15分ほど歩いた所に小さな谷川が流れていました。その脇にバナナ畑があるんですが、バナナ畑の横に大きな岩が突き出ていて、その真下が洞窟だったと言うんです。そこを地元のフィリピン人が、暑いので半裸の状態で掘っています。「何を掘っているんだろう?」と覗きに行くと、土の中から白いものが出てくる訳です。見るからに人骨だったので「誰の骨ですか?」と尋ねると、「あなた日本人でしょう? マスコミの人ですよね。もし、日本で普通の民家の裏山から白骨がゴロゴロ出てきたらニュースになりませんか?」と、逆に聞かれました。私は「確かにニュースになるでしょうね。では何故、フィリピンでは、こんな人骨が出て来てもメディアの人間が1人も来ないのでしょうか?」と…。まだそこでは、私はまともな答えも心の準備もありませんでしたので、答える言葉がなかったんです。

別の人にも話を伺ったところ、「フィリピンという国は、16世紀にスペインに征服され、19世紀末には支配者がアメリカに交替し、太平洋戦争が始まると米軍を放逐した日本軍がやって来て傀儡政権を樹立し、再びマッカーサーがやって来て日本軍を追い払い、最後にアメリカが出て行って、大戦後にやっと独立できた国です。独立するまでに、スペイン、アメリカ、日本、そしてアメリカという国々が、400年間にわたってこの国を支配しました。大航海時代、スペインは征服者としてやってきました。人数はさほど多くありません。ですので、山の中まで入り込むようなスペイン人は居ませんでした。アメリカ軍は、戦闘が終われば米兵の遺体はすべて引き上げて持って帰りました。あなたは引き算ができますか?」この問いに対しても、私は答える言葉がありませんでした。その時の思いを今思い返しても、言葉にすれば本当に「悔しい」としか言えません。

先ほどのバナナ畑では3~4人の方が掘っていましたが、何故掘っているのかというと、バナナ畑を拡張するためでした。じゃあ、フィリピンのバナナは元日本兵の人骨が肥料になっているのか…。帰国してしばらくは、私はフィリピン産のバナナが食べられませんでした。最初のフィリピン訪問は、非常に情けない思いと悔しい思いばかり残りましたが、それが、ちょうど10年前。「戦後60年」と言われた年のことです。その時に目の当たりにしたご遺骨について後で調べてみると、日本陸軍の第一師団で、レイテ島から逃げ帰りセブへ渡った一部の部隊の兵隊さんが最後まで立て籠もって、米軍の総攻撃で全員玉砕した所だそうです。米軍が洞穴の中に日本兵の遺骨をすべて放り込んで埋めた後、現地の人が知らずにバナナ畑にしてしまった。そして、畑を拡張しようと掘ると、再び遺骨が出てきたという訳です。

農作物を入れる60キロぐらい入るズタ袋があるんですが、その袋が3つ、あっという間にご遺骨で一杯になりました。いったい何人分のご遺骨があるのか。全く知識がなかったものですから、その様子を目の当たりにして私は驚愕しました。それまで、一応ジャーナリストの仕事をしていましたから、多少なりとも知識は持ち合わせているつもりでしたが、どういう訳か先の戦争時の遺骨収集に関しては、恥ずかしながら既にその大半が終わっているものだと思い込んでいました。ですので、「日本人もよく訪れるリゾート地のセブ島空港からたった車で1時間、歩いて15分ほどの、苦もなく来れるような場所で、何故これほどまでゴロゴロと遺骨が出てくるのか?」と、疑問が大いに湧き上がったのです。

そんな私にフィリピンの人たちは明確に言いました。「戦後、大きな復興を遂げて経済大国となった日本が、何故フィリピンの民家の裏山に遺骨を放置しているのですか? フィリピンは貧しい国ですが、その多くはクリスチャンです。クリスチャンは遺体を火葬しないので、どんなに貧しくて立派な墓石が建てられなくても、たとえ土饅頭であっても、お墓を造ってそこに遺体を埋葬します。日本人は自分たちの祖国を守ろうとして頑張ったナショナル・ヒーロー(民族的英雄)を放置するのですか?」皆さんだったら、どうお答えになりますか? 私は、答える言葉がありませんでした。

私は平成17年8月に初めてフィリピンを訪れてから、その後は、毎月のようにフィリピンへ通うようになりました。その頃はまだ取材だったので、情景や現地の人たちのインタビューを全て映像に残して記録することをメインに行っていました。そして、それを元日本兵の遺骨収容を所管する国の機関である厚生労働省や、現地の日本大使館や領事館、同じく現地の日本人会や遺族会(註:戦後、英霊の顕彰と慰霊や遺族の相互扶助を行う目的で設立された財団法人)など、とにかくいろんな所へ取材したビデオテープを持ち込んで、取材がてら「何とかなりませんか?」という話をずっとさせていただいたのですが、残念ながら、誰一人として積極的に何とかしようとする人は居ませんでした。「これはもうアカンな」という思いで、自分でやることを決意するのに一番最初に行き当たった出来事が、平成17年の11月27日……。忘れもしません。この時は日本政府がフィリピンに遺骨収集の派遣団を出していました。それを取材するためにフィリピンへ飛んだんです。


▼酷(ひど)すぎる日本政府と戦友会の対応

ただ、日本政府はあまり民間のジャーナリストに現地での活動の実態を見せたくなかったのか、具体的な情報すら出してくれません。「フィリピンのレイテ島に行っている」と言われ「レイテの何処へ行っているのですか?」と尋ねても、「それは答えられない」と言います。因みに、レイテ島は熊本県や宮城県とほぼ同じくらいの面積です。「では、レイテ中を探し回れということですか」と尋ねると、「探していただいて、もし見つかったら取材していただいて構いません」と…。いかにも官僚的な返答です。けれども、お役人さんがそう言われるならば仕方がないと思い、その頃までにフィリピンへ三度足を運んでいましたので、取りあえずフィリピンでできた仲間と一緒にレイテ島へ何の情報もないまま渡りました。そしてレイテ島で―本当にこれは何か僥倖のようなものだと思いますが―たまたま前日まで政府の派遣団のドライバーをしていたという人を雇ったんです。その人に何処に居るか尋ねると「昨日まで一緒だったから知っているよ」と、連れて行ってくれたため、簡単に政府の派遣団に行き着くことができました。

そして、その現場に着いてみると、日本人が全部で15人ぐらい。後はフィリピン側の「スタッフ」と呼ばれる政府派遣団にくっついている方々、そして軍の護衛…。全部合わせると三十数名でしたが、その方々が小さな穴を取り巻いて見ているんです。何をしているのかと覗きに行くと、その穴の中で現地のフィリピン人の方が一生懸命作業しています。派遣団一行の人たちは穴の外に立って眺めているだけ…。「何だかおかしな構図だな…」と思いながら取材を始めましたが、奇妙なことに、それまで私がフィリピンへ3回足を運んで実際に見てきた遺骨があった場所から推定しても、通常の軍事的戦略面から考えても、何故こんな所に遺骨があるのかというような所で、ひたすら穴を掘っておられました。当然ですが、何も出てきません。

思いあまって「こんな何も出てこないようなところで穴を掘って、何をされているんですか?」と尋ねても、「いや、遺骨はここにある!」と頑なに言い張るのが、フィリピン戦友会の会長でした。その方に話を聞くと、その方は当時、海軍の兵曹長だったそうですが、「あなたはレイテ島で戦われたのですか?」と尋ねると、「レイテで戦ったことはない」と答えられました。私が「レイテで戦ったことがないのに、何故ここに遺骨があると判るんですか?」と尋ねると、「わしの経験で判る」と…。正直に申しあげて、素直に納得できかねるお答えでした。たまたま何か破片のようなものが出てくると、皆さん、その戦友会の会長さんの所に持って来られます。「これは何ですか?」「これは…弾やな…」そんなもん誰でも見たら判るやろう(会場笑い)。「何の弾ですか?」、「これはアメリカ軍の銃器の弾や」と言うので、ちょっと見せてもらうと、お尻の部分に漢字が書いてありました(会場笑い)。「こんな銃弾をアメリカ軍は使ってたんですか?」と尋ねると、もう一度見て今度は「それはな、日本軍の銃器の弾や…」と、平気な顔をしておっしゃる訳です。要するに、その程度の知識や経験で、政府の派遣団が出されていたことをそこで知ったんです。「ああ、これは何も出てこないだろうな」と思いました。

実際、3日間付き合いましたが、ただひたすら穴を深く広くしていくだけで、遺骨の類いは何ひとつ出てきませんでした。しかも、作業はすべて現地で雇ったフィリピン人にさせて、当の派遣団の人たちは後ろの方でふんぞり返って見ているだけです。あまりに腹が立ってきたのもあって、一緒に居て彼らの顔を見ていると「お前ら、いったい何をしに来てるんや!」と、ついつい罵声を浴びせそうになるものですから、そのとき周りに居た現地の人たちに「どこか他に遺骨がある所はないの?」と、自分たちで独自の取材を始めました。

すると、探し始めてわずか3時間で、政府の派遣団が一生懸命穴を掘っていた所から車で20分。車を降りて小高い丘の中腹まで歩いて15分。そこで人間1人が寝転がったらちょうどすっぽりと収まるような張り出した岩の下で、本当にお一人分の遺骨がきれいに残っているのを発見しました。地元の人たちは皆、そこに遺骨があることを知っていました。「何故、政府の派遣団に教えてやらないのか?」と尋ねると、一様に「あいつらには教えたくない」との答えが返ってきました。何故、教えたくないのかというと、後で判ったことなのですが、政府の派遣団も、遺族会や戦友会から参加されている方々も皆、フィリピン人のことを「土人」と呼んでいたんです。自分たちとは一緒にご飯を食べさせず、自分たちが食べた後に残ったものを「食べろ」というようなことを、ずっとやっておられたそうです。これでは何も教えてくれないだろうと、素直に納得しました。


▼空援隊の立ち上げ

「こんないい加減なことをやっていて、ご遺骨はどうやって日本へ帰しているんやろう…?」と思った私は、帰国後、遺骨に関する情報収集を本格的に始めました。その時にレイテの派遣団がやった行状の一部が映像でありますので、ご覧下さい。(ご遺骨や日章旗に対して粗末な扱いをしている映像を流しながら)皆さんは、これをご覧になってどう思われますか? 厚生労働省が組織する政府の派遣団が、現地でこのようなことをやっているんです。これを見た時に「こんな人たちに遺骨収集なんかできる訳がない」という私の疑念は、確信に変わりました。そして、先ほどご紹介にあった「空援隊」というNPOを結成することになります。

「空援隊」とは、阪神淡路大震災の時に、被害がほとんどなかった京都から民間機のべ58機で、震災2日後から支援物資のヘリ空輸を行ったんですが、その時に集まった有志が付けていた名前が「空援隊」です。その頃は災害救助ばかりやっていましたが、その後、東日本大震災が発生するまでの間、新潟の中越沖地震もありましたが、民間のヘリが出動するような機会がほとんどなかったため事実上休眠状態になっていたその組織の名前を、そのまま使わせていただくようになりました。そして、「空援隊」を組織して、いよいよフィリピンで本格的に遺骨収集を始めようということになったのですが、何故フィリピンで始めることになったのかを、地図を見ながら説明させていただきます。

フィリピン戦線で亡くなった日本兵の数は、51万8,000人いらっしゃいます。この数は軍人・軍属だけで、民間人は含まれていません。当時、フィリピンには日本人町がありましたから、当然民間人も5万人、10万人という単位で亡くなっているだろうと言われていますが、正確な数字は誰も把握していません。そのうち、日本に帰国したご遺骨の数は約14万です。ですから、今現在に至っても、約37万ものご遺体・ご遺骨がフィリピンの野山にそのまま放置されています。これまで私たちが重点的に遺骨収集活動を行ってきた場所が、フィリピン、グアム、サイパン、テニアン、そして少し南になりますが、先日、天皇皇后両陛下がご訪問されたパラオです。   

主な地域別戦没者概数
主な地域別戦没者概数

これらの地域を全て合わせると、私の知っているだけでも50万を超えます。私は、この地域を重点的に訪れてきましたが、この10年間で遺骨収集のために渡航した回数は、いったいどれぐらいになるかとあらためて数えてみましたら、100回を超えていました。空援隊を結成してちょうど10周年ということもあり、現在データを整理しているのですが、今までにかかった経費が約3億5千万円です。そのうち、政府から補助金として頂いたのは7千万円です。この7千万以外は、民間の方々の寄附と善意によって活動を続けることができた訳です。こちらが数字(地域別戦没者概数および全残存遺骨概数)をまとめたデータですが、われわれもずいぶんご遺骨を本国へ返しましたので、フィリピンの現在の残存遺骨概数が36万9,480となっています。中部太平洋のサイパン、ペリリュー島などには17万3,470残っています。中国大陸の遺骨には手をつけられませんから、これらの数字を合わせますと、現在の全残存遺骨概数が、112万9,000となっています。

この数字を、果たして皆さんはご存知でしょうか。113万人は鳥取県の人口にも相当しますから、いわば鳥取県にお住まいの方全員が海外で遺体になっていると想像してみてください。そのご遺骨を放置したまま、政府が一番に先にやっていることは何かというと、慰霊事業です。では、遺骨収集はどのような取り組みがなされているかと申しますと、実は慰霊事業の端っこに付いている盲腸みたいなものに過ぎません。何故かというと、何処へ行っても法律によって「慰霊事業をやること」と決められているためです。


▼遺骨収容の歴史

この遺骨収容というものを歴史的に紐解いてみますと、日本の遺骨収集は、昭和26年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本が独立国としての地位を回復した年に、戦友たちの強い希望を受けて、閣議決定によって始められます。ですから、遺骨収集に関する法律はなく、それは今も変わっていません。昭和26年当時は、まだ「引き揚げ」が続いていたり、抑留者も一部残っていたりと、敗戦を強く引きずっていた頃で、私も生まれる前の話です。そういう時代に遺骨収集を始めた方は本当に艱難辛苦を舐められたと思います。何故かというと、戦地だった場所のほとんどは、今のように飛行機で簡単に行けるところではなく、そもそも民間航空機がほとんど飛んでいませんでした。ではどうやって行ったかというと、船で行ったのです。戦友、ご遺族の有志、民間の有志で組織された一団が政府の派遣団という名前で―実際、政府の職員は1人か2人が引率者として同行するだけですが―南方の島々へ行った訳です。

ちなみに、中国大陸については未だに掘らせてくれません。その理由を中国政府の人たちに尋ねたところ、「掘ったら何が出てくるか判らない(註:中国共産党による大虐殺の跡が発見される可能性が高い)から掘らせない」という答えが返ってきてひっくり返りそうになりましたが…。中国に限らず、北朝鮮にしても、韓国にしても、実際に掘らせてくれることはほとんどありません。ですから、大陸に関しては、日本の遺骨収集はまったく手付かずだと思っていただいたら良いと思います。ただ、ここにひとつ難儀な問題があります。大陸とは中国、朝鮮半島だけではなく、当然、インドシナ地域が主戦場のひとつとして挙がります。インドシナも基本的に大陸ですから、土壌が酸性土壌なんです。一方、骨はアルカリ性ですから、土中の遺骨は年月が経つにつれて簡単に溶けて無くなってしまうのです。実際にインパール作戦で亡くなった方々の遺骨収集をされている方に聞いたところ、遺骨がどんどん小さくなっていくそうです。実際に映像も拝見しましたが、例えば大腿骨が親指ぐらいのサイズになって出てきています。そんなに溶けることに驚きましたが、「もう1年ぐらい経ったらそれすらも残っていないかもしれない」と言われてました。

フィリピンの島々
フィリピンの島々

では、何故われわれがこれほど多くのご遺骨に遭遇することになったのか? 「ご遺骨はもう無くなったのではないのか」と思われる方も居られるかもしれませんが、われわれがフィリピンで探したご遺骨のほとんどが洞窟でした。ご存知の方も居られると思いますが、ここは日本の南方からの補給線を守るための一番大きな島でしたので、フィリピン戦では51万8,000人もの戦死者を出すほどの大兵力を日本軍は投入していました。フィリピンには約7,000の島々がありますが、そのうちの主要な島々に守備隊をたくさん配置していました。しかし、アメリカ軍がレイテ島に再上陸した時点(1944年10月20日)で制海権と制空権を無くしたことで、日本軍の補給路がほぼ絶たれます。そうすると、各島に残った兵隊さんには、まったく武器・弾薬はおろか食糧にいたるまで補給が行かなくなります。もちろん、援軍も来ません。

レイテ島にマッカーサーが上陸してきて、そこからフィリピンの各島へワッと拡がって、まず真ん中を分断します。ここ(レイテ湾)に戦艦「武蔵」が沈んでいます。先日、「武蔵」が発見された際には「世紀の発見」のように言われていましたが、私たちは10年前から知っていました。ここで武蔵が沈んだことは、現地の人にもよく知られています。フィリピンの領域だけで、輸送艦、戦艦、空母に至るまで、いろんな種類の日本の艦船が約800隻沈んでいますので、この周辺を探せばいくらでも発見できるはずですし、その艦船を引き揚げれば、おそらくその中には遺骨がたくさんあるでしょう。しかし、海軍の場合、戦闘で亡くなった方は「海が墓場だ」という概念を持っておられるので、すべて水葬にされます。ですので、海没遺骨に関しては、われわれの取り組みの外にあります。

(地図を指しながら)ここがマウンテン州で、フィリピンの一番の高地です。棚田で有名なところで、世界遺産にもなっています。写真などでご覧になったことがあるかもしれませんが、棚田がずっと山の上まで続いていて、上の方は雲の中に消えていきます。もの凄く高度な文明社会をそこで形成していたのだろうと思いますが、実際にその風景を目の当たりにすると「よくこれだけのものを造ったな」と思います。ここには米があり、棚田を形成する豊富な水があります。それ故に、山下(泰文)大将率いる日本軍は、この地で立て籠もり、最期の時を迎えることになります。しかし、ここに追い込まれるまでに、他の島々にいた守備隊は、当然何の補給もなく戦わなければなりません。また、日本軍が集まって陣営構築をしていると、そこへ米軍の飛行機が飛んできて爆弾をボンボン落とす。

ですので、戦況も押し迫ってくると、もはや軍隊(正規軍)ですらなくなります。では、どうなるのかと申しますと、日本軍がゲリラになってしまい、3人、5人と分かれて山の中に逃げ込み、逆に、アメリカ軍の支援を受けて当時日本軍と対峙していたフィリピンのゲリラたちが、フィリピン軍になってゆくのです。そういう状況が、フィリピンの各島で起き始めました。


▼今でもゲリラの支配する地域

今でも、フィリピン南部の島々のほとんどの山中は、新人民軍(NPA)と称する共産系のゲリラの支配下にあります。フィリピン政府は否定していますが、実際に山の中に行ってみると、そのことがよく判ります。最大の島であるミンダナオ島には、このNPAの他に、アブ・サヤフとモロ・イスラム解放戦線(MILF)という、2つのイスラム系のゲリラが拠点にしていますので、「危険」なんてレベルではありません。フィリピン人にも「絶対行くな!」と止められたミンダナオ島の西端にあるサンボアンガの空港に降り立ってみると、そこで警備している警察官から「お前、日本人だな。何をしにサンボアンガへ来たんだ? イスラム教徒か?」と尋ねられました。私が「イスラム教徒ではない」と答えた途端、「早く帰れ!」と言われました。

いったい、何がそんなに危ないのかと戸惑った私の表情を見て、警備員は「今、お前が立っているまさにその場所で、先週知事が爆殺されたんだ」と続けました。「けれども、どうしても市役所に行く必要が…」と説明すると、「日本人であるお前が市役所なんかに出向いたら、爆弾を放り込まれるぞ!」と言うのです。私は内心、「これはちょっと辛いなあ…」と思いつつも市役所に出向き、市に寄せられていた旧日本軍の兵隊で亡くなられた人たちの遺骨を全部まとめて慰霊碑にした場所を紹介されました。そんな話を聞くと、行かない訳にはいきません。その際、なるべく自分たちの保険になるようにと地元のテレビ局にも声を掛けて、テレビ局の連中を引き連れて現地へ向かいました。地元の番組でかなり宣伝はしていただけましたが、とにかくあまり嬉しくない場所であることは確かです。

倉田宇山先生の熱弁に耳を傾ける国際宗教同志会会員諸師
倉田宇山先生の熱弁に耳を傾ける国際宗教同志会会員諸師

ゲリラは、どこの山中に行っても居ますし、ゲリラ以外にも非常に危険な野生生物が生息しています。中でも蛇が危ない。実は、あそこには全長が4メートルにもなるキングコブラが棲息してます。この蛇は、普段ジャングルの中では樹上に居ますが、非常に動きが速い。上から狙っていて、獲物が通りかかると飛びかかります。あれを見ると、もう逃げ出さざるを得ないです。これ以外にも、毒蛇が60種。インドネシアのコモド島に「コモドドラゴン」という恐竜の生き残りかと見まごうような体長3メートルのオオトカゲがいますが、これの次に大きいオオトカゲがフィリピンにいます。この四ツ脚のトカゲはとても長くてきれいな尻尾を持っているのですが、これを振って人の脚を折ります。動けなくして死ぬのを待って腐肉を食べるという、非常に質の悪い奴なんです。
こんなのと出くわしたら、私たちは「これは拙いな」と思いますが、現地の人の反応は全く異なり、このトカゲを見つけると「ご馳走や!」と走っていきます(会場笑い)。それを見て「こいつらには勝てへんな」と思いましたね…。この他にもワニやサソリ、それにマラリアやデング熱を媒介する蚊もいます。フィリピンは本当はあまりお勧めしたくないぐらい、危険に充ち満ちています。ですから、「怖いものなどもう何もない」という方は足を運んでいただくと、楽しい人生を全うすることができるかもしれません。そういった諸々の危険を全く知らない日本人がハイキング感覚で山中に迷い込んだ場合、ゲリラに殺されるか、誘拐されて身代金を要求されるか、もしくは野生生物に食われるか…。そういう結末を迎える可能性が、8割以上あると思います。そんな所へ、私は何十回も行ってきましたから、逆にその怖さがよくよく解ります。


▼厚労省とNHKによる妨害

こちらの表は厚生労働省が発表した「過去の世界地域別収集遺骨数」の資料ですが、各地域の数値は毎年各地から持って帰ってきた遺骨の数を示しています。フィリピンの場合、平成16年が54、平成17年が24となっていますが、これが日本国政府が国家事業として取り組んだ結果です。われわれは平成18年からフィリピンでの遺骨収容に関わり、情報をいっぱい集めて厚労省に提供するのですが、全部は取りに行けません。因みに、これまで厚労省に「ここに旧日本軍の兵士の遺骨がありますよ」と提示した情報総数は、約5万件になります。その情報に従って厚労省が初めてやってくれたのが、平成18年で、持ち帰った遺骨の数は54柱です。その次の平成19年は161、平成20年は1,230柱と、急激に桁が上がっていきます。しかし、その他の地域は、さほど変化していません。そして、平成22年度の実績を上げた時、厚労省から「政府の委託事業者としてやってくれないか」と、オファー(申し出)がありました。「何か良いことでもあるのか?」と尋ねると「補助金が出るから」と…。そして補助金を出してもらって始めるなり、いきなり難癖をつけ始めました。補助金と申しましても、先ほど申しました通り、これまでかかった総額3億5,000万円のうちの7,000万円ですから、正直なところ「気持ち程度出していただいた」という感じです。

過去の世界地域別収集遺骨数
過去の世界地域別収集遺骨数

この図表の数値は「平成22年7月30日時点」のものとなっており、1年間で持ち帰った遺骨の数は2,191となっていますが、平成22年に持ち帰った遺骨の数は6,000を超えています。厚労省が作成したもので、実際そう書かれた資料もあります。同じ厚労省が作成した資料であるにもかかわらず、何故かこちらの資料の収集遺骨数は2,191と減っている…。平成21年度および平成22年度は、われわれ空援隊が遺骨収集を委託で受けており、平成22年度はその活動の2年目にあたりますが、われわれが収集活動に取り組んでいるまさにその時に、NHKが大誤報をやってくれたのです。そのせいで、フィリピンにおける遺骨収集事業が止まります。いったいどんな内容だったかと申しますと「われわれ遺骨収容事業を行っている者が、フィリピン人の墓を暴いて掘り出したフィリピン人の遺骨を買い取り、それを日本人の遺骨だと偽り、日本へ返している」というものでした。けれども申し訳ないのですが、ここに出ている数字は、われわれが探した情報に基づいていることには絶対間違いがありませんが、持ち帰ったのは全部、厚労省です。

旧日本兵の「遺骨」というと、どうしても日本人としての心情が入ります。日本人の骨だと思うと、なんとしても持って帰りたくなるのですが、フィリピンの法律はそういう風にできていません。フィリピンで必然的に起こることは、まず遺骨の所有権の問題です。フィリピン海域には約八百隻の日本海軍の艦船が沈んでいますが、元の所有者が誰であろうと、この船はすべてフィリピンのものです。フィリピンに限らない話かもしれませんが、ある土地から出るものはすべてその土地の所有者のものなんです。ご遺骨然り、遺留品然りです。

ですから、これを持ち帰ろうとすると、まず一番にしなければならないことは、土地のオーナーを見つけて了解を得ることです。それがまず第一段階。調査に入るための了解を得てご遺骨を発見した場合、土地の所有者の了解を得た旨を記した書面を携えて役所の関連部署へ申請に回ります。どのような申請が必要かと申しますと、骨ですから、衛生的な問題がないかをまず保健局へ許可を貰いに行きます。その次に、フィリピンの行政単位は地方行政が、市(City)、町(Municipality)、村(Barangay)で構成され、その上が州(Province)です。ですから当然、地方公共団体のエリアから出てくるご遺骨は、その地方行政区の了承なくしてそこから持ち出すことはできません。これを「移動許可」といいます。この移動許可を取り、オーナーの了承―要するに、権利放棄していただき―を得て、衛生局の了承を得て、やっとその市から持ち出すことができます。ここまではすべて、フィリピンの国内法に沿って手続きが進められます。これで手続きは完了かというとそうではなく、検疫所がうんと言ってくれないと飛行機に乗せられないといった問題が発生します。今日は時間が限られていますので、その辺りの話は端折りますが、最終的にそのご遺骨は引き取りに来た日本政府の派遣団に引き渡します。

遺骨収容活動を始めた当初は信用も何もありませんから、必然的に、われわれが見つけた情報に、信憑性があるかどうか、厚労省の職員が現場まで確認に来ます。ですので、その場所までご案内していました。ところが、先ほど申しあげたように、現地フィリピンの山岳地帯は非常に危険な所が多いため、厚労省の職員が嫌がって行こうとしないのです。「われわれが実際に行っている場所だから大丈夫だ」と説得しても、厚労省の職員は「フィリピン軍の護衛がなかったら行かない」と言います。コイツら頭が悪いのかと思いますよ…。ゲリラの支配する地域へフィリピン政府軍の護衛を連れて入っていったらどうなるか…。われわれは日本人のご遺骨を収容するために行くのであって、戦争しに行くんじゃありません。

「何がなんでも護衛なしでは行かない」と言い張る彼らに、「じゃあどうしたら良いのか?」と尋ねると「そんなものは持って帰れない」と言う。それでは話にならないと言うと「それじゃあ、お前らが取りに行ってきてくれ…」。本当に日本政府の役人というものはいい加減な奴らだと思いながらも、われわれが取りに行きます。そして、持ち帰ったご遺骨を確認していただき、厚労省の職員とフィリピンの国立博物館の職員―フィリピンにおける担当の役所です―の両方が確認を行い、「これは日本兵の遺骨である」という証明書をフィリピンの国立博物館が発行して初めて、日本の厚労省に引き渡すことができます。ここでやっと厚労省が先ほどご紹介したビデオにもありました「焼骨」を行います。この焼骨は、いったい何のためにするのか? 日本へ持ち込む際の動植物検疫法に適合させるためです。「土の付いたものを外国から持ち帰ってはいけない」という訳で、そのために現地でご遺骨を野焼きして持って帰るんです。何か違うのではないか…。正直なところ、実際に活動していると、そんな思いばかりが募ります。

フィリピンにおける年度別遺骨収集数
フィリピンにおける年度別遺骨収集数

こちらの表が、フィリピンで5年間空援隊が活動した結果、日本へ帰ったご遺骨の総数です。この表で一番最後の年(平成22年度)は、3,829になっていますが、実際は約6,300です。そして、フィリピンから実際にわれわれが持ち帰った遺骨の総数は約1万7,000柱になりますが、NHKが大誤報をやってくれたおかげで、フィリピンでの事業をすべて止められました。当時、われわれはフィリピンで300人雇用しておりましたが、その300人が毎日山の中に入り、ひとつひとつ洞窟の中を見て回ったり、あるいは、ご近所のお年を召した方々や時にはゲリラに話を聞いて場所を特定します。 

 

1カ所ずつGPSでご遺骨を発見した場所を特定し、その洞窟の写真を撮り、どういう状況かをレポートにまとめて厚労省に報告を上げます。われわれはフィリピンでそれだけ活発に活動していたにもかかわらず、ある日突然、すべての事業を止められてしまうと、それから以後ご遺骨は日本へ帰ることができなくなりました。空援隊が現地で雇用したスタッフの皆さんがフィリピンの各島でいろんなことをやっていますから、その時点で厚労省の依頼を受けて集めていたものが約3,000柱…。これらは既に厚労省への引き渡しが済んでいますが、それから5年が経過した現在も、それらのご遺骨はフィリピンの国立博物館の倉庫の中に突っ込まれたまま、厚労省が何ひとつしようとしないので、現在厚労省を相手取り「われわれわがきちんと現地で葬らせてもらいます。たとえ日本に持って帰ることができなくても、少なくともちゃんと埋葬しましょう。元日本兵のご遺骨を倉庫の中に放置するような真似は止めてください」と返還訴訟を起こしています。その過程で、本当にいろんな事件や事故など、ビックリするようなことが一杯ありました。しかし、本来、元日本兵のご遺骨を回収する義務を負っている当の厚労省によってフィリピンの遺骨の帰国事業を止められてしまった以上、仕様がありません。勝手に「われわれが持って帰る」という訳にはいきません。

仮に持って帰れたとしても、何処へ納めることができますか? 自分の家の墓に入れる訳にはいきませんし、お寺さんに飛び込みで「お願いします」と持って来られても困るでしょう。どうしようもないんです。千鳥ヶ淵は政府機関からでないと受け取ってくれません。千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑というのもいい加減な墓苑で―済みません。「いい加減」などと言ったら怒られますね―地表面は環境省が管理しており、下の仮納骨堂だけが厚労省の管理です。しかも、東京都から墓地認定を受けていませんから、残念ですが、あれはあくまでも千鳥ヶ淵戦没者墓苑であり、「国立墓地」でもなんでもありません。それは単純に日本にあるひとつの法律が邪魔しているだけなんですが…。それは宗教家である皆様のほうがよくご存知だと思いますが、「墓地埋葬法」で集団埋葬を禁じているからです。「集団埋葬がある以上、墓地認定はできない」というのが東京都の見解です。


▼フィリピンからサイパンへ

洞窟には遺骨がゴロゴロ
洞窟には遺骨がゴロゴロ

ここで、ちょっと写真を何枚か見ていただきます。これは海岸のすぐ傍にある洞窟なんですが、この巨岩の割れ目の中に入っていきますと、中にご遺骨がゴロゴロ転がっているような状態です。近所の子どもたちがこういった岩場の中で遊ぶのですが、自分たちの遊びに邪魔だからとご遺骨をどけてしまいます。場合によっては、この頭蓋骨でサッカーをして遊びます。ですので、このまま放っておけば遺骨はどんどん散逸していってしまいます。半分土に埋まっているものもあり、そういった遺骨を掘るとこのような状態です。こちらの写真は遺留品です。先ほど、一燈園の西田先生がお持ちいただいた旧日本軍の水筒を拝見しましたが、あのような水筒もゴロゴロ出てきます。この写真は三八式歩兵銃(註:日本陸軍の歩兵が標準装備していたライフル銃)の銃床部分ですが、鉄製の部分は地元の人たちが屑鉄屋に売ってしまうため、残っているケースは非常に稀です。このような理由で、フィリピンは、総じて遺留品が非常に少ないです。

発掘した遺骨を部位ごとに仕分けているところ
発掘した遺骨を部位ごとに仕分けているところ

ここはトウモロコシ畑で牛が畑を耕すんですが、耕す度に遺骨がゴロゴロ出てきて、農家の人たちが集めてくれています。島々の間を結ぶ海上の交通機関のない所も多いので、小さな島々で収容した遺骨はこのような簡易な舟に遺骨を乗せて、その海域のメインの島へと運び、そこから大きな舟に積み替えて飛行機の発着する場所まで運ぶということを繰り返します。こちらの写真は、こちらの男性が政府の職員、こちらの男性がフィリピン国立博物館の鑑定員ですが、われわれが協力して遺骨の部位ごとに仕分け作業を行っているところです。何故、部位分けをやるのかと申しますと、遺骨がゴチャゴチャとある場合、いったい何体分の遺骨なのかが判らないためです。大腿骨ならば見れば右左が判りますから、仮に右の大腿骨が10本あるけれども、左の大腿骨が12本あった場合、少なくとも12人の遺骨があることになりますが、大腿骨をワンセットで数えるならば、10人となり、2人抜けてしまうことになります。ですので、部位を分けた後、最大数をもってご遺骨の数を確定しています。今のところ、それ以外にカウントする方法がないのです。先ほど海辺の洞窟の写真にもありましたように、何人分ものご遺骨がかたまってゴチャッとあるため、どれが誰の遺骨かなどまったく判りません。

日本から持ち込んだ火葬炉
日本から持ち込んだ火葬炉

こちらの写真は、フィリピンにわれわれ空援隊が建設した火葬炉です。この火葬炉の手前に写っているものは全て、これから焼こうとしているご遺骨です。早いですよ。本来は、身が付いた人間(ご遺体)を焼く機械ですから、骨だけだと3分ぐらいで焼けてしまいます。これまで最大で、2週間かけて5,000体焼いたことがあるのですが、その間うちのスタッフが朝から晩までずっとフル稼働で遺骨を焼き続けたため、いつの間にか遺骨焼き職人のようになってしまいました…。人間1人分の骨は約5キロと言われていますが、1人当たり5キロの骨が5,000体分ですから、単純計算でも全部で25トンになります。釜の中に入れて5分も焼くと「焼きすぎ」で、ほとんど灰になってしまい、お骨上げができなくなります。灰にしてしまうと「灰は埋めて帰れ」と言って厚労省が持って帰りません。それならば骨の形状を残さないといけないのに、中途半端な焼き方だと、それはそれで怒るんです。要するに、動植物検疫法のための対策なんです。

これは、火葬炉から出した後のお骨を扇風機で冷ましているところです。これをせずに箱に詰めてしまうと、余熱で中で発火してしまうんです。冷めたものから順番に詰めて、火葬炉が空いたらまた別のご遺骨を並べ焼き、焼けたご遺骨を扇風機で冷まして箱に詰めて…。そういう作業を1日中繰り返します。これら一連の作業は、本来は厚労省がするべきところを、われわれが代行しているだけです。これをバスに積んで、フィリピン国内の何処で発見されたご遺骨であっても、最終的にマニラの日本大使館へ持ち込みます。そのマニラにある日本大使館は、(地図を指して)ここにあります。そこでこの写真のように日の丸の紙を貼り、上部に「これは日本の兵士のご遺骨です」と大使館で発行された証明証を貼り、封印をして空港へ持っていったら、その空港はフリーパスになります。ただし、運搬は貨物室です…。

先ほど申しあげた、イフガオで夜を徹して行われた4,370柱の焼骨の様子をご覧ください。ここはフィリピンでも1,800メートルの高地になるため、かなり寒いです。この時、実は許可を得て政府の派遣団も一緒に来ていたんですが、その許可証の紙が手に入らなかったという理由で、派遣団は責任回避して逃げてしまいました。われわれが事前にすべての準備を整えていましたが、政府の派遣団が対応しないということは「そこに遺骨を放置して帰れ」ということです。実際、そういった指示が東京の厚労省から電話でかかってきます。

イフガオでの焼骨式の様子
イフガオでの焼骨式の様子

しかし、われわれは政府の補助を頂いてやっている訳でもなんでもなかったので、「何故、われわれがお金を出して、自力でこの地へ来て活動しているのに、厚労省の言うことを聞かなあかんねん」と喧嘩になることもありました。たまたまその時は、政府の派遣団の団長さんと巧く話がつき、「作業はわれわれがするから、貴方方、政府の派遣団が遺骨を持って帰ってほしい」と頼みました。その最中も、東京の厚労省からガンガン電話がかかってきており、「火の手が上がったらフィリピンの官憲が踏み込む」とまで言われました。その状況でしたが、ゲリラの親玉が「もし奴らがやって来たら俺たちが食い止めてやるから、その間に作業しろ」と協力をしてくれました。イフガオで、最大で最後の焼骨式です。

これでフィリピンでにおける遺骨収容事業が止まってしまいましたが、しかし、このままわれわれの調査能力を生かさないのは勿体ないということで、遺骨収容を行う対象地域を中部太平洋にも振り向けました。最初に標的を絞ったのがサイパンでした。サイパン島での戦いをざっと振り返りますと、アメリカ軍がここから上陸します。ガラパン(Garapan)はサイパンで最大の都市であり、観光の中心地で、アスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)は、ここです。ここから上陸した、アメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団が、この地点で北と南に分かれます。これが、1944年(昭和19年)6月15日の話です。第2海兵は北へ、第4海兵は南へ…。飛行場を押さえた第4海兵は、島の反対側を北上します。第2海兵はそのまま島の西側を北上します。その後、陸軍の第27歩兵師団が上がってきて、真ん中のタポーチョ山を経由して北へ上がっていきます。その中で1944年7月7日に、日本軍は最後の総攻撃であるバンザイアタック(万歳突撃)を試みます。それが起こったのがここです。

バンザイ突撃夜間の配置図
バンザイ突撃夜間の配置図

われわれが一番最初にサイパンで洞窟調査を始めたんですが、これは、その中で知り得たバンザイ突撃のすぐ後で撮られた写真です。こちら側にあるのが全部ご遺体です。ここで、アメリカ軍のカウントによれば、たった1日で4,311人の日本兵が亡くなりました。その横をブルドーザーが溝を掘っていますが、何のために掘っているか判りますか? この後ブルドーザーでガサッと埋めるためです。実は、この写真は同じ1944年8月にアメリカの『ライフマガジン』の表紙を飾った写真です。私はこれで、アメリカの資料を当たらないと駄目なんだということがよく解りました。そこで、アメリカの公文書館へ、最終的には延べにして100人ぐらいの人間が行って資料収集を行い、貰った約15万ページに及ぶ米軍の戦闘資料をデータを日本へ持ち帰り分析しました。その資料の中に、先ほどの4,311人という日本兵の死者数も出てきます。


▼サイパンのバンザイ攻撃が米軍の本土上陸作戦を思いとどまらせた

ちなみに、このときの戦闘でアメリカ軍は406人の将兵が亡くなっています。当然、こういった資料には地図が付いていますから、それによってバンザイ突撃が何処で起こったのか。いつ起こったのか。そういうことが全て解明できるようになりました。これが、先ほどの書面に付いていた手書きの地図です。この稜線を今の地図に当て嵌めて場所を探し、三角測量を行って先ほどの写真から現場を特定して、初めてサイパンで集団埋葬地を掘り当てます。日付が「1944年7月6日」になっています。つまり、バンザイアタック前夜の米軍の配置図です。われわれが掘ったのが、ここです。米軍27師団の105連隊、106連隊の野営地です。つまり、米軍が野営していたところに日本軍が大挙してバンザイ突撃で進軍してきた訳です。この「バンザイ突撃」はサイパンだけではありません。この大東亜戦争、太平洋戦争の中で日本軍は非常に勇敢に戦っているにもかかわらず、日本国内では「バンザイ突撃とは日本軍が大した武器も持たずに敵陣にワーッと行って玉砕しただけ」というイメージだけで捉えられることが多いですが、米軍の資料によると、明らかにそれは違います。このサイパンにおけるバンザイ突撃にしても、日本では「7月7日の未明、午前3時に始まったバンザイ突撃は昼までには終わった」と言われています。もし、仮に終わったならば、何故翌日(8日)の昼に、米軍の27師団から海上にいる艦船に対して艦砲射撃の依頼が出るのでしょうか? そのオーダーシートも全部残っています。1日半以上交戦していることをただ無策に突っ込んだだけという観のある「バンザイ突撃」と呼ぶのでしょうか?

一番最初の写真を思い出していただきたいんですが、何故、あの写真を一番最初に持ってきたのかといいますと、実は、1944年7月7日午前3時に始まったと言われているバンザイ突撃…。そのちょうど70年後に当たる去年(2014年)7月7日午前3時にその場所に行って撮ったものなんです。真っ暗です。何も見えません。木立もあり、穴ぼこも一杯あります。電気もありませんし、灯りも持たずに、そんなところを誰が全力でワーッと走れますか? 走れる訳がないじゃないですか。そんなことをしたら、躓(つまづ)いて転けるのが関の山です。それほどあり得ない話なのに、平気で皆さん「日本兵は、ただワーッと行った」などと仰るんです。

私は同じ時間帯に同じ現場に立ってみて、背筋が寒くなりました。ただ「天皇陛下万歳!」と唱えてやみくもに突っ込んで行っただけというよくそんな嘘を信じ込まされていたものだと…。しかも、米軍の資料をもっと探していくと、正直、遺骨収集を超えた部分でもの凄い発見をしました。

米軍による日本兵の集団埋葬の様子
米軍による日本兵の集団埋葬の様子

この日の米軍の死者数はここだけで406名なんですが、実は、この戦闘における米軍の死者の総数は600〜700人を超えています。そして、日本軍のバンザイ突撃の兵士の数は6,000人なんです。つまり、日本兵6,000人が突撃すると、いくら装備に勝る米軍でもその1割以上の兵士が死ぬことになる。その事実をアメリカの参謀本部は非常に重く見て、本土上陸作戦を諦めたんです。当たり前ですよね。当時、日本にはまだ3,500万人以上のバンザイ突撃をできる成人男性が居たのですから、仮に本土上陸作戦を強行した場合、アメリカ軍は400万人の犠牲が出ることになる。どうやって、400万人ものアメリカ軍の兵隊を日本まで連れてきて補給線を確保するんですか? それは作戦とは言えません。そんな不合理なことをアメリカ軍は絶対やりません。ただ、そのおかげで起こった悲劇が、広島と長崎への原爆投下です。どちらが良かったのか判りません。ただ、それによって日本本土上陸作戦を考えていた米軍の方針が変わります。それも、公文書館の資料に全て残されています。そういったことを、果たしてわれわれ日本人は知っていたのだろうか…。それを、ここで亡くなって英霊となられた皆さんに教えてもらった気がします。

発見した遺骨には赤い印を付けて…
発見した遺骨には赤い印を付けて…

ここでもう一度、写真に戻ります。山の稜線を見ながら三角測量をやっている様子です。赤い小さな点がたくさん見えると思いますが、これらの点は全部ご遺骨です。集団埋葬地とはこういうものです。至る所、遺留品と骨の山です。敢えて言いますと、ゴミの山です。一番浅い所は地表から17センチです。金歯が残っているものもありますし、頭蓋骨も普通に出てきますが、埋められているためほとんどが壊れてしまっています。これは非常にきれいな状態で出てきたご遺骨で、鉄兜を被ったままです。これは弾帯で、手には手榴弾を2つ握りしめています。足下は「地下足袋シューズ」と呼ばれる兵隊さんのチョーカーを履いています。この時、正直僕は「この兵隊さんにちゃんと手榴弾を投げさせてやりたかった」と思いました。これは個人名の入った万年筆ですが、去年やっとご遺族のもとへ帰りました。アメリカ軍のオイルタンクの横でオイル漬けになって放置されていた遺骨が出てきた時の写真です。こちらの写真が、厚労省が行う焼骨式用のセレモニー台です。私は是非、先生方からも「厚労省はここで焼骨式を行うにもかかわらず、手を合わせることすら拒否するんですか?」と聞いていただきたいです。彼ら曰く、宗教色が出たらダメなので、彼らは偲び手を打つことも、合掌することも、十字を切ることも、すべてダメらしいです。何故、そんな阿呆らしい話になるんでしょう…。

シンプルすぎる厚労省の焼骨式セレモニー台
シンプルすぎる厚労省の焼骨式セレモニー台

野焼きの場合は、こうやって薪で櫓を組んで行います。一斉に点火し、火が消えて冷めたら箱に詰めます。サイパンでもフィリピンでもやることは一緒ですが、ただ探し方が違います。われわれはサイパンで活動を行っている過程で、日本兵と同様に5体の米兵のご遺骨を結果として見つけてしまったんです。これは「Dog tag」と呼ばれる米兵の認識票ですが、これがこのご遺骨と一緒に出たんです。必然的にアメリカへ連絡をし、アメリカ政府に取りに来てもらいます。


▼日米でこんなに違う戦死者への扱い

こんなご遺骨を、サイパンでわれわれだけで5体見つけています。そのうち4体はご遺族の元に帰っています。この経験を通じて知ったことがあります。それは、アメリカと日本の遺骨に対する、あるいは亡くなった兵士に対する対処の仕方が、あまりにも違うということです。当初、われわれはフィリピン以外の場所で遺骨収集をやったことがなかったので、それまでは厚労省の対応も「こんなものだろう」と思っていたんです。段ボールに入れたご遺骨を飛行機の貨物室に入れて日本へ持ち帰り、それを成田空港の貨物の引き取り所で受け取って、白布をかけて日の丸を貼り付けたら、そのまま空港の外へ出てくるんです。受け取りに来るのは厚労省の職員だけです。

この映像は、たまたま見つけた米兵のご遺骨のうちの1体のご遺族から招待されてアメリカで行われた埋葬式に参列させていただいた時のものですが、たった1人のために、これだけ盛大な追悼式が行われるんですよ。この方はリチャード・ビーンさんという方で、アメリカ陸軍27師団105連隊D中隊に所属されていた一等兵です。この方が甥御さんで、叔父さんと同じ名前を貰われたリチャード・ビーンさんです。ちゃんと軍隊がやって来て、追悼式のセレモニーをすべてを司ります。映画などでご覧になったこともあるかと思いますが、遺族の元に星条旗を渡します。こちらの方は、亡くなった方の弟さんです。追悼式の場所から墓地まで約30キロあるんですが、その間、パトカーが先導し、軍がガードし、「ガードライダーズ」と呼ばれるバイクに乗ったボランティアの方々が何十台も続き、その後ろにご遺骨を乗せた霊柩車、親族の車、友人知人と続くのですが、先導のパトカーから最後尾まで入れると3キロもの行列になります。墓地までの道のりは、その他の交通がすべてストップされ、道路に面した場所にある星条旗は亡き兵士への弔意を示し、すべて半旗です。沿道に暮らす一般の人々がわざわざ外へ出てきて、こうやって見送ってくれます。

それが同じご遺骨の帰還でも、日本だと段ボールに入れられたご遺骨がスーツケースと一緒に貨物室から出てきて成田空港の端っこのほうへ引っ張っていかれます。引き取る厚労省側は、課長すら出てきません。ヒラ職員が引き取りに来て、何か悪いことをしているかのように「ご苦労様でした」、「黙祷」で終わりです。そのまま厚労省の4階にある仮安置室に仮安置されます。その後、年に1回、5月の最終月曜日に千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に仮埋葬されるんです。日米で何故、これほどまでに違うのでしょうか?

これは、われわれの仲間がガダルカナル島で見つけた137柱のご遺骨が、2014年10月に海上自衛隊の練習艦「かしま」によって日本に帰って来た時の戦没者遺骨の引渡し式の映像です。これは、戦後初の出来事ですが、せめて、こうありたいものです。少し、予定の時間を超過してしまいましたが、取りあえず、私の話はこれで終わりとさせていただきます。一柱でも多くご遺骨の帰国を実現するために何ができるのか、皆様にも一度お考えいただければと思います。よろしくお願い申し上げます。有難うございました。


(連載おわり 文責編集部)

 

201563日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において、国際宗教同志会(西田多戈止会長)の平成二十七年度第二回例会が、各宗派教団から約五十名が参加して開催された。記念講演では、特定非営利活動法人「空援隊」専務理事・事務局長の倉田宇山氏を招き、『戦後七十年:遺骨収容の現状』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、講演に引き続いて行われた質疑応答の内容を紹介する。

質問をする読売新聞の井手裕彦編集委員
質問をする読売新聞の井手裕彦編集委員

司 会: 非常に示唆に富んだご講演で、先生方も思うところ、あるいは疑問がたくさんあると思いますので、時間の許す限りご質問ください。お名前と団体名を挙げてからご質問をお願いいたします。最初に私から質問の口火を切らせていただきます。

日本人の死生観とご遺体の処理方法の問題で、先程も映像の中で『海行(ゆ)かば』の曲が流れていましたが、「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君の 辺(へ)にこそ死しなめ かへりみはせじ」という歌は、万葉集に収録された大伴家持の長歌から採られています。千数百年前から、日本人は戦場で散った人の遺体とその人の魂のありかについての無常感があった。これに対し、キリスト教の国では、死者の魂はあくまで遺体と一体でないと最後の審判を受けられない訳ですから、そこに兵士の遺骨収容に対する姿勢の違いがある。もちろん、近代国民国家は、国家の命令によって自国民を戦場へと派遣したのですから、戦死された方は全員、そのご遺骨を回収し、敵の捕虜となった生存者は、全員帰国できるよう尽力することは当然の話なのですが、いわゆる「シベリア抑留」においても、何万人もの日本人捕虜が実質、見捨てられたことを見ても判るように、そのことに対する日本人の意識といいますか、死生観の違いはなかったでしょうか?

倉田宇山: 大いにあったと思います。私もこれまでいろんな方にお会いしましたが、この問題に対する日本人の反応は大きく2つに分かれます。「できることなら自分が遺骨収集に行きたいが、(高齢等の理由で)行くことが叶わない」と思っている人ほど、「戦後60年、70年経って草生す屍になっているのだから、もうそのままそっとしておいてあげて…」と思っておられる方が全体の約1/3いらっしゃいます。それ以外の方は「まだ外地にそんなにたくさんご遺骨があるんやったら、それらをできるだけ速やかに帰らさなあかんやろう」と言われるのですが、おそらくその方々はお身内に戦没者が居らっしゃらないと思います。言葉が悪いですが、ある意味、無責任な発言だろうと思います。では、最初の3割の「そのままそっとしておいてあげてほしい」と言う方に「では、それがあなたのお父さんのご遺骨であっても同じようにされますよね?」と質問すると、「それはあかん」と言います。それでは、ちょっと矛盾していますよね。でも「ご遺骨を日本へ帰すのはやめよう」という日本人は基本的にはいらっしゃいません。じゃあ、積極的に遺骨収容をやろうとなるかというと「そんな予算をかけてまでやることか」とか「われわれの生活の安定を図るほうが先じゃないか」と言われることのほうが多いです。

司 会: 有り難うございます。その辺りの加減が難しいところですね。では、どなたか、ご質問ございますでしょうか?

井手裕彦: 読売新聞で編集員をしております井手と申します。本日は三宅善信事務局長のご厚意でオブザーバーとして参加させていただき、有り難うございます。先程の休憩中にも少しお話ししましたが、今、読売新聞のモスクワ支局長と私のたった2人で、シベリア以外の抑留死亡者の問題をずっと追いかけています。日本人として、その方々のご遺骨をなんとか日本へ戻したいと思っておりますので、今日のお話には大変感銘を受けました。

2点ほどお伺いしたいと思います。1点目は、冒頭で触れておられたように、日本には現在、遺骨収容のための法律がありません。ところが、自民党が中心になって、本国会で『遺骨収集推進法案』が出されました。当初は厚労省の指定法人が10月頃にできて、「今後10年間を遺骨収容の加速期間として取り組もうじゃないか」と、だいぶ予算もつけようという話になっていますが、これは、倉田さんやミャンマーの井本勝幸さんのような遺骨収容に民間レベルで積極的に取り組まれている方々にとって、果たしてプラスになるのでしょうか? あるいは、プラスにするためはどのような課題があるのでしょうか? 実際の遺骨収容現場を見ておられる方からすれば、たくさん課題があると思いますが、それを是非お聞かせください。

もうひとつは、空援隊さんはフィリピンで17,000柱、サイパンでも大変な数のご遺骨を見つけておられるにもかかわらず、千鳥ヶ淵に納骨しても仕方がないというか、アメリカのように30キロの葬列は無理としても、直接ご遺族のところに戻して先祖伝来のお墓に葬ってあげることがやはり一番良いのではないかと思います。この遺骨収容の後に生じる身元を特定する作業で何かヒントになるようなことはありますでしょうか? おそらく遺骨をお探しになる時と同じような考え方かもしれませんが、思われるところがあれば是非伺いたいと思います。

倉田宇山: では、まず2つ目の質問からお答えします。ご遺族の特定ができる可能性がある遺骨は、南方に関して言えばほとんどありません。何故かと申しますと、先程の写真にもありましたように、米軍による集団埋葬は、まずブルドーザーで穴を掘ります。そこへ日本兵の死体をトラックで運んできて、どんどんと積み上げていき、山になった遺体をブルドーザーでゴソッと穴へ入れます。その時から70年経過した後、上へ被せられた土をどけると、どこからどこまでが誰の骨かすら判らない…。ごく稀に、砲撃跡の穴に落ちて1体だけ埋まった状態で見つかる方がいます。そういう方は、個人特定の可能性があります。

ただし、ここで問題になるのはいきなりDNA鑑定にかけるのではなく、まず最初に身元をどうやってざっくりと推定するかです。アメリカ兵でしたら、各兵士のデンタル・レコード(歯の治療痕)が入隊時に残されます。これを照合することによって、ある程度特定することができます。特定できたら、そのご家族のDNA検体を貰ってDNAチェックを行えばドンピシャで当たります。ところが日本の場合は、あまりに戦死者が多過ぎて、ご遺族を特定するのはほとんど不可能です。もしやるとすれば、240万人分のご遺族のDNA検体を先に作らなければなりません。これを国の予算でやる場合いくらになるかを厚労省の役人と試算したことがあるのですが、3,500億円でした。もし、そのデータベースがちゃんとできていれば、どんなにゴッチャになった骨からでもマッチングは可能です。DNAが採れる骨は決まっていて、大腿骨か頭蓋骨、頭蓋骨の中では特に歯から取れます。上腕骨はいけるかいけないか、といった感じです。

現在政府が言っているような「DNA検体のデータベースを増やしていこう」というのは、シベリアの日本人墓地の遺骨だからできるんです。シベリアの場合は捕虜でしたから、捕虜収容所で亡くなった人は、その都度一体一体埋められています。ですから個人特定できて当たり前なんです。ところが部隊からも見放されてフィリピンのジャングルを彷徨(さまよ)った兵士などは、誰が何処に行ったかという記録が日本側に全く残っていません。しかも、アメリカ軍もフィリピン人の兵隊を使ってジャングル掃討作戦をやっていますから、アメリカ軍側にも記録がありません。ですので、個人特定の可能性は、私はゼロに近いと考えています。もし政府が3,500億円の予算をつけて240万人分のDNA検体のデータベースを作成してくれるのであれば、それに合わせた収容のやり方はあると思いますが、それ以外は無理だろうと思われます。

そして、読売新聞井出編集委員の最初の質問の法案に関してですが、2015年6月の終わりから7月初旬に上程されるということですが、もともと高市早苗総務大臣が政調会長の時に、われわれが高市さんの所へ「法案を作ってくれ」と申し入れに行った後にできたのが特命委員会です。遺族会の会長に就かれた水落敏栄参議院議員らを中心にこの委員会は結成されましたが、この遺族会というところは難儀な所です。10年前に私が遺骨収容事業をやり始めた時、九段下の遺族会の事務局へ一番最初に相談に行きました。その時、遺族会の方は「われわれは戦争に身内を持って行かれた団体です。何故、自分たちでそのご遺骨を探さなければいけないのか。国が取り組まれるのをお手伝いするのはやぶさかではありませんが、自分たちではやりません」と明確に仰いました。私は、彼らのそう言う気持ちも解らないでもないけれど、だからといってどうするのかと困った覚えがあります。その時に見た遺族会のウェブサイトには、確かに「遺骨収集は国の事業であり、われわれがやることではありません」と明記されていました。今でこそ「自分たちで遺骨収集をやっています!」と胸を張っておられますが…。ドンドンやっていただければ有難いことなので、何の文句も言う気はありません。

ただ、水落さんを委員長に結成された特命委員会で作られていった法案の内容に、われわれはさまざまな手段を講じて、かなりクレームを入れました。それによって変わった点もあるのですが、最終的に法案が今の原案のまま成立した場合、実際の遺骨収集は止まります。何故止まるのかと申しますと、先程申し上げた厚労省の指定法人はひとつしかなく、しかもその指定法人と呼ばれるものは役所ではなく役所以外の団体を「指定法人」と名付け、その指定法人が厚労省からの委託を受けて、すべての遺骨収集の業務を一手に取り扱うという法律になっているのですが、その「指定法人」には遺族会がなるのかと思っていたら、先日厚労省が「自分たちで指定法人を創る」と言い出しました。

つまり、これまで厚労省がやってきたのですから、今さら指定法人など要らないじゃないですか…? それを何故、わざわざ指定法人の形にするのか? 担当部局である厚労省社会・援護局援護企画課の外事室の職員は約30名。年間予算は硫黄島だけが特別で10億円、それ以外の海外すべてで3億円です。現在この外事室は事業課に格上げされましたが、その外事室がやっておられる主な事業は慰霊巡拝です。年間2,000人のご遺族を戦地各地にお連れして、慰霊していただくという法律に定められた事業を遂行するのが彼らの本業です。遺骨収集はそのついでにやっているに過ぎません。政府は昭和51年に遺骨収集に関しては概了宣言(概ね終了)しました。この時点でまだ半分残っていたのですが、それを承知の上で終了しました。その理由は、情報源であった戦友の皆さんが第一線から退き始めたからでした。それ以外の情報が日本国内にはほとんどありません。

日本で一番戦時中の資料を持っているのは、防衛省の防衛研究所です。その防衛研究所へ行っても、そのほとんどが兵隊さんたちの戦記、手記をベースにした戦史です。ところが軍隊の内容をご存知の方ならお解りいただけると思いますが、一般の兵隊さんは現地で地図を持たされていません。地図は軍事機密ですから、将校以上でないと持てないからです。だとすると、一般の兵隊さんから聞き取った―例えば、「あの山が左手にありました」、「この木が右手にありました」、「海辺の近くです」といったような―話は、地図上に落とせないのです。私は最初、これらの手記を元にフィリピンの山中を歩いて迷いました。漠然と「あの山にあります」と言われても、何の手掛かりもありません。ですので、私は現地の人にネットワークを作ってもらい、岩山を知り尽くしたトレジャー・ハンターのような人たちやその山間地域に住んでおられるご高齢の方で当時をご存知の方に話を聞き、現地で情報収集を始めました。それ以外の方法はまったくありませんでした。アメリカの公文書館へ行って情報を探すようになった後も、フィリピンの情報は出てこないです。サイパンでは出てきました。だから集団埋葬地を見つけて、それが集団埋葬地であるとの確認も取ることもできました。

少し話が逸れましたが、その法案が成立した場合、この事業が厚労省が作った指定法人に丸投げされる訳です。何故、外事室が業務課に格上げされたかといいますと、その指定法人へ天下りするためです。それ以外の理由はどこにもありません。ですので、法案提出を睨(にら)んで、厚労省の外事室は現在、表面上は活発な動きを見せています。例えば、去年か一昨年に、われわれが遺骨収集を続けながらアメリカの国立公文書館に資料を取りに行った話をしたら、厚労省も早速やり始めました。でも、彼ら自身がやるのではありません。外事室には英語を話せる職員がたった1人しかいないからです。また、外事室にはいわゆるキャリアと呼ばれる上級職の公務員は1人もいません。それは事業課に格上げされた後も同じです。ですので、前の外事室長はノンキャリの上がりポストでした。それが社会・援護局援護企画課の一室から外れて事業課に格上げされ、その課長に従前の外事室長が横滑りで就任しました。現在は望月文明さんという方がその任にあたっておられます。今、私たちが裁判をやっている相手がこの方ですが、裁判の中身にご関心のある方は、是非空援隊のホームページにアクセスしてみてください。「国は何の責任もありません。担当した役人が悪いのです」といった、なかなか楽しい内容がご覧いただけます。

少し話が脱線しますが、ご遺骨の返還訴訟に関しては、外事室長から「空援隊からお預かりしたご遺骨をフィリピンの博物館の倉庫に保管し、少しずつ日本に持ち帰ってDNA鑑定を行います」と書かれた預かり証を頂きました。ですので、フィリピンでの活動を一切止められた時に「預かり証があるのだから、預けたもの(遺骨)を返してほしい」と伝えたところ、この新しい事業課長さんから「国際問題になっていますから返却できません」との回答がありました。しかし、実際に預かり証を書かれた元の外事室長さんは「3月までフィリピンの情勢に動きがない場合は、どうしようもないので預かったご遺骨は返します」と仰ってました。その約束を次の外事室長(現在の業務課長)さんは反故にして「ご遺骨は返さないというのが結論です」と仰るので、われわれは返還訴訟に踏み切りました。その返還訴訟の際、当然例の預かり証を出しますと、「書いた奴(前の外事室長)が阿呆で法律を知らないが故にこのような預かり証を発行した」(会場笑い)というのが国の答弁です。そんな馬鹿な話があるでしょうか? 私には答弁の意味がサッパリ解りません。

それから、これは本来国のやるべき仕事ですが、フィリピンで火葬場を造った時の顛末(てんまつ)です。ここでもいろいろ妨害したい方が居られるようで、フィリピンで遺骨の野焼きが禁じられました。「理由は何か?」と尋ねると、大気汚染防止法だそうです(会場笑い)。さすがに私も頭にきたので、フィリピンの外務省に怒鳴り込みに行くと、先方は「貴方の言いたいことはよく解る…。解るけれど、駄目なんだ…」と、非常に歯切れの悪い回答が返ってきました。しかし、野焼きが禁じられたことをフィリピン政府から日本政府に通告されると、野焼きはできないことに変わりはありません。つまり、焼骨ができなくなってしまったんです。焼骨ができなくなったのでどうすれば良いかと思っていたら「火葬場で焼くように」と、フィリピン政府から通達がありました。皆さん、落ち着いて考えてみてほしいのですが、フィリピンはカトリックの国でしょう? 何処に火葬場があるでしょうか。探してみたところ、あったのは現地に在住している中国人や韓国人や日本人が亡くなった時に焼骨する人たちのための火葬場だけで、マニラに1カ所、セブに1カ所、ダバオに1カ所、全国で合計4カ所ありましたが、どこも結構賑わっていました。

焼骨が止められる3年前ぐらいにフィリピンの法律が改正されたのですが、キリスト教徒であっても火葬をすることが許可されるようになりました。それによって、ますますこれらの火葬場が賑わうようになりました。何故かと申しますと、お墓の概念が日本と異なるためです。人が亡くなっても、山中に住む人たちは、穴を掘って埋めて土饅頭を作れば良いですが、都会に住む人々には遺体を埋めるところがありません。ですので、公共墓地に埋めなければならないのですが、この公共墓地が、実は3年契約なんです。3年経過した後に次の3年間のための追加料金を支払わなかった場合、埋めた遺体を引き出されるんです。フィリピンはまだ貧しい人が多い国ですので、当然、継続して料金を支払えない人が出てきます。そういう場合、墓から引き出されたご遺骨は、共同墓地にある大きな共同の骨捨て場へ全部放り込まれます。そして空いた所に別のご遺体が埋められる訳です。今、フィリピンは急速に人口が増えており、去年人口が1億人を超えました。まだまだ増え続けていますので、どんどん墓地も足りなくなる。そこで業を煮やした政府が「火葬も認める」と言い出したのです。そういう背景がありますので火葬場の需要が上がっているにもかかわらず、燃やすところがないので、新たに火葬場をやろうという人はほとんどいません。

そこで、厚労省の人に「このままでは事業が止まってしまいます。どうすれば良いでしょうか?」と尋ねても、「私もどうすれば良いのか…」と言うばかりで埒があきません。焼骨をしないと日本へ持ち帰れませんから、一時は真空パックにして持ち帰ることも検討しましたが、結局厚労省は「できない」という結論に至りました。それでは、われわれとしては困りますので、「ならば、自分たちで火葬場を造るから、それならばなんとかできますか?」とお尋ねしたところ、「あるならば、やります」とのお答えがありました。

けれども、皆様よくご承知の通り、火葬場はそう簡単に造れるものではりません。当然、地元政府(自治体)の許可も要ります。機械だけで1,000万円かかる上に、電気のないところならば、発電機も必要ですし、家屋も必要です。その上、フィリピンはまだ貧しい人が多いので、やたらと物が無くなります。ですので、1年365日24時間常時管理人を置く必要があります。となると、その管理人の住む所も作らなければならない。そういった諸々の費用を合わせますと、火葬場を1カ所造るのに総額で3,700万円かかることが判りました。厚労省は「単独の一事業年度の予算では出せないので、これから継続してご遺骨を収集して、焼骨する度に火葬場を使うので、その使用料に上乗せする形で支払わせてほしい。3年から5年程度かかるかもしれないが、必ず支払うので…」と、当時の外事室長が言ってこられたので、「それならやりましょう」と引き受けました。実際に火葬場を造って焼骨をやり始めました。われわれのような小さな団体で3,700万円払うのは大変でしたが、厚労省からの返済も始まったのでホッとしていたら、その同じ年にNHKの一件でフィリピンにおける活動が止められたんです。機械もまだ3回ぐらいしか使っていませんでした。厚労省は「必ず返すから…」と言うものの、結局5年間返済はありませんでした。その間もわれわれは厚労省と一緒にサイパンから約780のご遺骨を日本へ持ち帰り、米兵も5体のご遺骨をアメリカへ返して、自分たちのやっていることを途切れることなく証明していきました。

この戦没者遺骨収集促進法が成立すれば、遺骨収集活動は前へ進むのか? 私の個人的見解として申し上げれば、絶対進みません。先程のご遺骨の収容数の資料にもありましたが、収集遺骨数で1,000体を超えたことがあるのは、唯一、ビスマーク・ソロモン諸島ですが、これはこの方面の遺骨帰還事業に協力している、全国ソロモン会―厳密には、全国ソロモン会とJYMA(日本青年遺骨収集団)が共同でやっていますが―が遺骨の収容を実際に行っています。1年間で1,000体を超えたことがあるのは、ここだけです。そこが何故、これほどの規模で収集活動を行えるようになったのかというと、これまでは戦友から提供された情報をベースに探して見つかったご遺骨だけを持ち帰っていたのですが、われわれが始めた現地に常に人を置いて情報収集を密にし、現地とのネットワークを強化し、情報を集めるやり方―JYMAはこれを「空援隊方式」と呼んでいますが―を、彼らも採用したんです。一昨年からメンバーの中の1人がガダルカナルのホテルで働き始め、日々現地で働きながら現地の人々とコンタクトを取り、遺骨に関する情報を集めました。空援隊とJYMA以外で、現地に駐在して情報を集めている団体は、日本国中探しても何処にもありません。

司会: 有り難うございます。本当に有意義なお話で、時間があればもっとお聞きしたいところなのですが、残念ながら時間になってまいりました。大変な中でお役所相手に、しかも外国で仕事をされるということは、法律をはじめ全部基準が異なる訳ですし、現地の人々との宗教上の問題もあります。人口1億のフィリピン全土で火葬場が4カ所しかないということですが、大阪市内だけでも5カ所ありますからね…。今日は倉田先生のお話を通じていろいろ勉強させていただきました。また、個人的にご質問等ございましたら、倉田先生に直接ご連絡いただけたらと思います。本日はどうも有り難うございました。

倉田宇山: 有り難うございました。


(連載おわり 文責編集部)