国際宗教同志会平成28年度第3回例会 記念講演
『封印された日本近現代史』

軍事ジャーナリスト
井上 和彦

昨年10月11日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において、国際宗教同志会(西田多戈止会長)の平成28年度第3回例会が、各宗派教団から約50名が参加して開催された。記念講演では、軍事ジャーナリストの井上和彦氏を招き、『封印された日本近現代史』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する


井上和彦先生
井上 和彦先生

▼「マレーの虎」 山下奉文将軍

ただ今ご紹介に与りました、井上和彦でございます。普段、こちら(関西)のほうでは『そこまで言って委員会NP』という番組で、いろいろと物議を醸すような話をしておりますけれども、今、国際宗教同志会様と空援隊様が今夏にサイパンで行われた遺骨収容調査のビデオを拝見いたしましたが、私も皆さまと同じ思いを抱いております。私も何度か南方へ遺骨収集に赴き、日本政府、特に厚生労働省の怠慢、そして外務省の無気力、無能さに対して徹底的に批判しております。そういう連中がわれわれの税金でノウノウとやっていることに対して怒りが込み上げてきます。

そういう中で、問題の根本は何処にあるのかと申しますと、先程、会長の西田先生からお話がありましたが、アメリカ合衆国が日本に対して行ったことは、広島、長崎、東京、大阪、北九州(八幡)、名古屋等への非戦闘員を対象とした都市爆撃といった戦争法違反に関わる物理的破壊に留まらず、実は日本人の精神破壊がもたらされたことが極めて大きいです。この事実をどう伝えるか…? 戦後70年も経ちますと、「大東亜戦争」という言葉さえ忘れ去られ、さらに映像で紹介された激戦地サイパンは、今やリゾート地としてしか認識されていません。何故、天皇皇后両陛下がパラオへ行幸あそばされたのか…? 実は、サイパンやパラオが、かつて日本領であったこともあまり知られていません。歴史の中にある真実に対して、片目を瞑れと言われていることは多くありました。

国際宗教同志会会員各師を前に熱弁を揮う講師の井上和彦氏
国際宗教同志会会員各師を前に熱弁を揮う講師の井上和彦氏

このことを知らしめようと思うと、実際に世界中を歩き回って現地の方々とお話しし、戦場で戦われた方々など諸先輩方の話を徴集し、これらを全国に流していく形になります。遺骨収集ができなかったひとつの大きな原因は、アメリカを相手にした太平洋方面の戦いと、タイ、ベトナム辺りから大陸側に張り付いた戦いは、実は毛色が違います。今日はこの2つの戦いを分けて、すべて映像でご覧いただこうと思います。

大陸側に張り付いた戦いとは、タイ、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、インドのことですが、中にはこれらの国名を聞いただけでピンと来られた方も居らっしゃると思います。実は、これらの国々はすべて、日本のおかげで独立を果たしていった国々なんですが、今やその事実も忘れ去られております。実際にマレー半島の攻略戦が行われたのは昭和16(1941)年12月8日のことで、実は真珠湾攻撃よりも1時間程早く行われました。日本軍の「攻撃開始!」の暗号電文といえば、真珠湾攻撃の際の「ニイタカヤマノボレ」が有名ですが、この時の電文は「ヒノデハヤマガタ」でした。

中国南部の海南島から山下奉文将軍率いる第25軍がマレー半島北端に上陸してきました。「マレー電撃作戦」というのは、当然ながら、イギリス領マレー解放のための戦いであったと言われておりますが、現実に当時の国境線を引いてみますと、実は3カ所の上陸地点のうち、本隊はタイ領から上がっています。何故、タイから上がったのか…? イギリス領マレーに上がったのは、第18師団の佗美支隊の一部で、マレー半島北端のコタ・バルから上陸し、東海岸をずっと南下して行きますが、本隊ではありません。本隊はタイ領シンゴラおよびパタニから上がり、イギリス軍を潰していきます。

マレー半島における日本軍の進撃路
マレー半島における日本軍の進撃路

この状況の背景には「日泰攻守同盟条約」がありました。戦後、この条約がGHQそして今の教育の現場から完全に消え去った大きな事象のひとつであります。日泰攻守同盟条約は、昭和16年12月21日に締結されましたが、もちろんその2〜3カ月前から準備段階がございます。当時は今のような電信システムがございませんから、相当前から日本とタイが軍事同盟を結ぶ話があったのです。昭和20年の8月15日を迎えますと、日本だけがどうしてこういう悪者にされるのかと…? 日本の戦前を極めて口汚く罵る中国や韓国は、日本とタイが軍事同盟を結んでいたことを知っているはずです。昭和17年1月には既に、タイ王国は英米に対して宣戦布告をしていますから、日本同様「敗戦国」のはずですが、こういう状況は教育の現場から完全に消し去られています。そして、そのことが誤解を生む大きな原因になっています。


▼日本とタイは共に戦った

昭和16年の条約の第20号(「日泰攻守同盟条約」)にも書かれていますが、ここを読みますと、今の安保法制よりもずっと現実に即した内容が書かれています。タイ軍と日本軍は共に大東亜戦争を戦った同盟国であったという事実が表に出ますと、「日本だけが…」ということにしておきたい朝日新聞や毎日新聞といったような、とにかく日本の近現代史を罵ろうとするメディアの連中にしてみれば都合が悪い訳です。中村明人中将という方がタイ方面の駐屯軍司令官として、同盟国であるタイに戦時中駐在されていたのですが、これが戦後10年が経過した昭和30年に中村元中将がタイを訪れた際、タイのドンムアン空港にて首相が出迎えに出られて大歓迎を受けた時の写真です。日本の敗戦後10年経った時に、タイ方面軍の元司令官がタイを訪れた際、多くの市民の拍手喝采の中、首相直々の出迎えを受けられた…。これのどこが侵略だったのでしょうか? 客観的事実として、日本がタイ王国を侵略したという事実はないということです。同じ仏教国である日本とタイが、このような形で結び付いていたという事実は、歴史の中から完全に消去されています。

こちらは、タイの『クーカム』というドラマがあるのですが、邦題は『メナムの残照』です。「メナム」とはチャオプラヤ川のことです。このドラマは、日本海軍の小堀大尉とタイ人女性の恋愛物語なんですが、これが度々映画やドラマになり、これまでに14回リメイクされています。俳優もドンドン入れ替わり、このようなイケメンの俳優も出てきますが、物語の結末は、いつもタイ人女性を守るために日本軍人が死んでいくというストーリーです。面白いことに、あまりにリメイクされたためか、この映画のポスターでは、本来海軍大尉であるはずの主人公の軍服が、いつの間にか陸軍のものになってしまっています。

タイ国内で人気の『メナムの残照』のDVD
タイ国内で人気の『メナムの残照』のDVD

しかし、とにかく日本の軍人さんというものは、極めて素晴らしいことをおやりになって、実際、戦争が終わりました昭和20年8月15日の当日から、タイの人々が負けた日本の兵隊さんたち、あるいは現地に残留していた日本人に対して、「元気を出せ。あなた方は負けた訳じゃない」と温かい言葉をかけてくれたという逸話が残っています。
これがタイの現状であり、現代文化を見ても多くの発見があります。例えば、われわれが子供の頃に視た『ウルトラマン』が、タイとブラジルで大ヒットします。私も仲良くさせていただいていますフジ・アキコ隊員を演じられた桜井浩子さん、それから『ウルトラセブン』で友里アンヌ隊員を演じられましたしひし美ゆり子さん。ひし美さんはしょっちゅうバンコクへ行かれるので、ある時「どうしてひし美さんはバンコクへ行かれるんですか?」とお尋ねしたところ、「日タイ共同製作されたウルトラマン(註:『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』)にタイではよく知られたお猿のような神獣ハヌマーンがウルトラマンと同じように巨大化して怪獣と戦うというストーリーが大ヒットしたのだ」と教えてくれました。これはまさに、日タイ同盟そのものの物語です。

タイのククリット・プラモートという、戦後30年(1975年)当時の首相が、このようにお話しされています。「日本のお陰で、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれてきた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか? それは、わが身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない」。この日とは、いったいいつのことかと申しますと、昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦の日です。今、申し上げていることは、私が言っているのではなく、タイ王国の首相が戦後、昭和30年の節目にお話になったことです。にもかかわらず、何故、日本のメディアや教育界がこの事実を意図的に無視するのか…。「今の日本をどうやって貶めてやるか」という政治的な意図ばかり考えた結果が、このような状況に繋がっているのです。


▼シンガポールと日本

これは、シンガポールの博物館にある昭和17年、実際にマレー半島に上陸して、長年これを植民地化していたイギリス軍を撃破した山下奉文将軍が、シンガポール駐留のイギリス軍の司令官アーサー・パーシバル将軍に向かい、降伏文書にイエスかノーかと調印を迫るシーンを再現した等身大の蝋人形です。近寄って見てみましても極めてよく作られたものです。また、昭和20年に日本軍が降伏した時のものも、この裏のほうにあります。シンガポールでは、歴史的事実として、極めて客観的に「日本が植民地支配をしているイギリスを駆逐したが、その3年後にまた日本が負けた」という事実関係を、蝋人形を通して描いています。

降伏文書調印で「イエスかノーか」と迫る山下将軍とパーシバル将軍の蝋人形
降伏文書調印で「イエスかノーか」と迫る山下将軍とパーシバル将軍の蝋人形

少し前になりますが、あの「イエスかノーか」の降伏文書調印が行われたフォードの工場がリニューアルされ、新たにシンガポールの歴史博物館になりました。こちらに「Syonan years」と書かれていますが、昭南島とは、シンガポール島の和名です。こちらには「3年8カ月、日本統治下のシンガポール」と書かれていますが、実は日本は一度も植民地という言葉を使ったことがありません。この「植民地」という言葉は、戦後、左翼勢力による「日本が東南アジア諸国を占領し、植民地にした」という表現に端を発しますが、これはまったく馬鹿げたこととしか言いようがなく、無知極まりないことです。統治と植民地という言葉ではまったく意味合いが異なります。こちらは後で出てくる国でご説明いたします。

「日本が統治をしている時代」これが一番正確な用語になります。この博物館には、山下将軍が「イエスか、ノーか」と迫ったテーブルが再現されており、パーシバル将軍と山下将軍の銅像がありますが、両者の銅像を見ることができるのは世界中でここシンガポールだけです。こういった銅像が最近になってまた作られているんですね…。これはシンガポール中西部のブキ・バトックという所にある忠霊塔跡ですが、山下将軍はシンガポールを占領した時に、一番最初に忠霊塔を丘の上に作ったんです。皆さんもシンガポールに行かれたらご覧になれますが、こういう本型のモニュメントがあります。これはすべて戦跡を示すものです。全て日本語で書かれているんですが、日本のガイドブックには何処にどんなものがあるか、全く紹介されていません。そのため、私が作ってやろうと思い全部歩いたのですが、山下将軍は、亡くなった敵兵のために13メートルの十字架を立て、しっかりと霊を弔うこともやっておらました。

まるでわれわれ日本人が無差別に殺戮したかのように言われていますが、それは全然違います。確かに多くの華僑の人間が日本軍によって殺されていますが、ゲリラ(註:1899年に制定された『ハーグ陸戦条約』において、保護されるのは、司令官の命令下で軍服を着た将兵のみ)は、国際法上、捕まった場合処刑になります。ですので、ドイツのヨーロッパ戦線でもパルチザンと言われる平服で、一般市民に紛れて正規軍に立ち向かった場合は殺されても仕方がない。それだけの覚悟が要るということです。国際法上は、戦う人は軍人に限られ、したがって、軍人は民間人を殺してはいけない。これが、国際法上認められた戦争のルールです。それを逸脱したら犠牲になるのは致し方ありません。

その問題はさておき、シンガポールの博物館には「アメリカの経済的圧力によって日本は戦争をせざるを得なかった」ということが明記されております。戦後日本の教育をご覧になればお判りいただけるように、「日本がすべてのアジアの国々を植民地にするため」という話は、全くあり得ない話です。植民地にするということは、搾取し、地元の人たちを奴隷のように扱うことです。インドネシアは350年間オランダの植民地でした。そして、インド、マレーシア、シンガポールといった国々は、イギリスの植民地でありました。先程の映像にも出てきましたサイパン島も、実は最初はスペイン、それからドイツの植民地でしたが、それを第1次世界大戦が終わった時に、日本が国際連盟から信託委任統治領として委託された場所なんです。ですから、「サイパンを日本が侵略した」などという人は無知極まりない、ちょっと恥ずかしい方になります。

マレーシアの元上院議員であるラジャー・ダト・ノンチック氏は、こう言っています。「私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は長い間、アジア各国を植民地として支配していた西洋の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に驚異の感動と自信を与えてくれました。長い間眠っていた自分たちの祖国を自分たちの国にしようという心を目覚めさせてくれたのです」。これは、マレーシアの上院議員が言っておられるのであって、私が述べているのではありません。当該国の方々が仰っていることを素直に聞けば良いのに、こういう都合の悪いことは、メディアも教育関係者もちょっと傍らに置いて隠している訳です。

中国や韓国は、正確に申し上げると、日本とは戦争をしたことがない国です。1949年に建国した中華人民共和国と日本は、これまで一度も戦争をしたことがありません。日本と朝鮮が戦争をしたのは、豊臣秀吉の時代に遡ります。大東亜戦争において、日本は韓国と戦争しておりません。たしかに戦場にはなりましたが、しかし、戦争はしておりません。こういう歴史的な事実をキチッと解釈をしていくと、如何に日本が歪められた歴史の中に埋没させられてしまっているかが判ります。日本のメディアや教育機関が口封じをするものだから、中国韓国がしつこくしつこく毎年8月15日にああいう発言を繰り返すのは、彼らが嘘を言っているからです。間違いございません。


▼インド独立の父はガンジーではなくチャンドラ・ボース

「F機関」というのがございますが、このF機関を知りますと、日本の近現代史がすべて判るようになります。このF機関を率いたのが、兵庫県西脇市出身の藤原岩市少佐です。この藤原さんがインド独立運動において大活躍されるのですが、戦前の日本人が如何に立派であったかということを知っていただくためにも、是非とも皆様に藤原少佐のことをご存知いただきたいと思います。「フジワラ、フレンドシップ、フリーダム」を合わせて作られたのが、いわゆる「F機関」です。

イギリスは汚い国で、戦場の一番危ない最前線にインド兵、すわなち植民地軍を置いて、その次に自分たちからすれば流刑の地であるオーストラリアやニュージーランドの兵隊を置いて、その後ろのマレー半島最南端のシンガポール辺りにようやくイギリス軍が僅かに居る状態です。もともとヨーロッパ戦線で兵力を割かれていましたので、自国の兵隊をはるか太平洋のこんなところまで送れないという事情もありますが、しかしながら、強靱な日本軍と戦う羽目になるオーストラリア兵やインド兵にしてみればたまったもんじゃありません。藤原氏は、インド兵たちが孤立している部分があると知り、軍刀もピストルも全く持たずにジャングルの中を分け入って行き、インド国民軍のモハン・シン指揮官と会談しました。藤原氏の「あなた方は、イギリスの植民地支配下にある。このままで良いのでしょうか? 一緒にアジアによるアジアを創りませんか?」という話に対し、モハン・シン大尉は「確かにそうだ。われわれと同じ有色人種であるアジアの兵隊さんたちがやってきて呼びかけてくれている。やろうじゃないか!」と応じました。「日本軍と一緒になってイギリス軍の支配を脱しよう!」との呼びかけに応じて、ドミノ現象のようにインド兵がドンドンとやってきました。

この写真に写っている方がスバス・チャンドラ・ボースという方ですが、戦後伝えられるインドの独立というものは、いったい誰が牽引したのか…? 学校の教科書には「マハトマ・ガンジーがインド独立を成し遂げた」と書かれていますが、それは違います。チャンドラ・ボースの通訳官を務めていた国塚一乗中尉は通訳将校だったんですが、私も何度か取材で伺ったことがございます。インターネットで「井上和彦、国塚一乗中尉、チャンドラ・ボース」を検索していただくと、You tubeで公開されている3時間程のインタビュー番組がご覧いただけます。国塚中尉によると、まったく違う人のようです。他国の独立についてとやかく言うのはさておいて、インド独立の父は、実はチャンドラ・ボースであったということです。

シンガポールへ行かれますと、シティホールと呼ばれる大きな国会議事堂のような建物があります。その手前に大きなサッカー場がございますが、そこにインド人兵たちが集められ、彼らを前に藤原岩市少佐が演説をぶちます。その横に立っている通訳将校が国塚中尉で、腕にF機関の「F」の文字が書かれた腕章を付けておられますね。その両端がインド人兵です。こういう写真は、世界中いろんな国に残っているんですが、日本国内においては今や何処にも見ることができません。

「日本の戦争目的は、一に東亜民族の解放にあり、日本はインドの独立達成を願望し、誠意ある援助を行う。ただし、日本は一切の野心がないことを誓う。インド国民のインド独立連盟の活動に敬意を表し、日本はインド兵を友愛の念を持って遇する。もし、国民軍に参加したい者があれば、日本軍は捕虜の取り扱いを停止し、運動の自由を認め、一切の援助を行う」。藤原少佐は、このような演説を行いました。そうしますと、会場を埋め尽くした5万人のインド兵たちがウワーッと立ち上がり、「よし、一緒にやろう!」ということになりました。インド人兵にしてみれば、これまで苦しめられてきたイギリスの植民地では人間扱いされていなかった…。カースト制度を巧く利用したイギリスの統治…。これに対してあらゆる階層のインド兵たちが立ち上がります。そんな時に行われたのが、大東亜会議です。


▼最初のG7大東亜会議

大東亜会議は昭和18年11月5日、6日に東京で行われましたが、この会議は一番最初にGHQに目を付けられました。この大東亜会議の存在が、連合軍にとって最も都合の悪い会議でございました。この大東亜会議とは、有色人種が自存自衛の自立のために開かれた世界最初の国際会議なんです。この会議には、東条英機首相以下、満州国、中華民国、タイ王国、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースといった方々がすべて参加し、いわゆる博愛の精神で、神道、仏教から、キリスト教、ヒンズー教に至るまで、あらゆる宗教が集まっておりました。西洋人の国際会議とは、常にキリスト教がたったひとつだけでやろうとします。したがって、「イスラム教は受け入れない」となるため、有史以来ずっと争いごとが起こってきた訳です。ですので、日本がやろうと試みた最初の国際会議とは、あらゆる人種、あらゆる宗教の方々が一堂に会して共存共栄を図ろうというもの(西洋とはまったく逆の発想からのアプローチ)でした。これが、連合軍の欧米列強、とりわけアメリカ、イギリス、フランス、オランダ―つまり、キリスト教社会―にとって、許せないものでした。

大東亜会議に出席した7カ国の首脳たち
大東亜会議に出席した7カ国の首脳たち

しかも、キリスト教がこの集まりに加わっていることが非常に嫌でした。この写真が、国会議事堂前で撮った写真です。欧米列強にすれば「おのれ、東条め…」といったところです。実は、東条英機首相は、終戦時には総辞職されていて既に総理大臣ではなかったのですが、そういった背景から「いの一番」でマッカーサー元帥の命令で捕まり処刑されました。われわれ日本人にしてみれば、東京裁判という名の復讐裁判は、人種差別そのものだったのです。

『大東亜宣言』の中で言われている「共存共栄の秩序の建設」、相互の「自主独立」と「伝統の尊重」、「経済発展」そして「人種差別の撤廃」と書かれています。この5つ目の「人種差別の撤廃」という条項が、欧米諸国にとって極めて都合が悪かった。もし、この大東亜会議のことが戦後教育の一環として教えることになったら大変なことになる訳です。そこで、大東亜会議そのもの、『大東亜宣言』そのものを完全に抹殺するということが、戦後行われたのです。

しかし、この文言それ自体を否定することは、右も左も誰にもできません。この大東亜会議は、1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議(AA会議)の原型になっています。あらゆる人種や宗教の人たちが集まり、共存共栄を図り、お互いの伝統を尊重する。そして、何人も人種差別をしてはいけない。この理念のいったいどこが問題なんでしょうか? しかし、アメリカによって「大東亜会議は軍国主義的だ」と、事実と180度異なる嘘を教えられることで、われわれ日本人が、そう信じ込んでしまうという大変拙いことになっています。


▼ビルマの独立に貢献した日本

先ほどF機関が出てきましたが、こちらは南機関の「ボーモージョー大将(鈴木敬司大佐)」ですが、この鈴木大佐がビルマの独立に大きく寄与されました。すべて日本の特務機関が活躍し、1941年に「ビルマ独立義勇軍(BIA)」を編成します。当時、ビルマはイギリスの植民地でしたから、ビルマ独立運動の志士たちは、日本の同盟国でもあったタイへ逃げていましたが、そういった人たちに日本人74名が加わり、ビルマの独立に加担していきます。この時、鈴木敬司大佐が軍司令官となり、アウンサン将軍(アウンサン・スーチー女史の父親)が参謀として、日本軍と共に戦いました。

パワポ画面を見せながら熱弁する井上和彦氏
パワポ画面を見せながら熱弁する井上和彦氏

去年、私はミャンマー国軍の博物館に行ってまいりました。一番奥の上座にアウンサン将軍の肖像画がかかっていますが、近付いてみて驚いたのですが、日本軍の軍服姿でした。そして、その胸元には昭和天皇から頂いた旭日章が飾られていました。肖像画の下へ目をやりますと、勲三等の勲章が飾られていて、「日本国天皇陛下より受賞した勲三等の勲章」と説明書きが書かれていました。アウンサン将軍は旭日章と勲三等の2つを受けられていますが、アウンサン将軍は、その後、姿形がまったく違う方になります。

1943(昭和18)年8月、日本軍はバー・モウ―先ほどの大東亜会議の写真では、一番端に写っていた方です―という方を救出し、ビルマ国をイギリスからすぐに独立させます。ビルマ人は教育に対する意識が高かったため、独立できたんですね。大東亜戦争の最中、日本軍は欧米諸国の植民地になった国を次から次へと独立させていく運動をやっていきます。この時にアウンサン将軍は、国防相兼国民軍司令官となります。自著『ビルマの夜明け : バー・モウ独立運動回想録』の中で、バー・モウ氏(元国家元首)はこう書かれています。「それは言葉では言い表せないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸を膨らませて、いたる所で歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。来る日も来る日も群衆がパゴダを訪れて灯明を挙げ、花を捧げた。僧たちは町中で振舞いを受け、催物は果てしなく続いた。人々は集い、日本語で“万歳”を叫んで、日本に対する深い感謝を表す決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージが東条首相と日本政府に送られた」。これは、バー・モウ氏が実際に戦後お書きになった自著の中で述べられた言葉であって、日本人が代筆したものでもなんでもありません。こういう事実をそのまま事実として伝えて、歴史は評価されるべきです。

(写真を見せながら)ミャンマーの首都ネピドーからメイクテラーに向かう道中の道路脇に、ちょっとした物を売っている道の駅のようなものがあるのですが、そこで見つけたものです。『About Japan』というタイトルが書かれていますが、要するに日本のことがいろいろ書かれています。これがもし、日本旅行のためのガイドブックとして売られているならば、中国や韓国といった他所の国のものも一緒に売られていて良いはずですが、置いてあるのは日本のものだけです。「何だろう?」と思い購入してみますと、「日本では玄関でどうやって靴を揃えるか」とか、「人がたくさん居るところでは、日本人は列を作って並んでいる」とか、「ランドセルを背負った子供たちがキチッと道路の白線の内側を歩いている」といったような、日本が世界に誇る道徳規範が、すべて写真入りで紹介されていました。私はミャンマー語がまったく読めませんが、写真を見れば、日本がいかに素晴らしい国かということが書かれていると察しが付きます。

これは海上自衛官の高田昌樹さんが「井上さん、こんなものもあるんですよ」と教えてくださったものですが、ビルマ軍の政府と戦っていたカレン族の軍艦旗を模したものです。今も歌われているビルマ国軍のマーチ(『ミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ』)があるのですが、ちょっとお聴きください。皆様お判りのように、これって、日本の『軍艦マーチ』ですよね…。日本の『軍艦マーチ』がそのままビルマ国軍の軍歌として使われていることからも、いかに日本が尊敬されているかが伝わってくると思います。今でもミャンマーのカレン軍の中には肩に旭日旗を着けている方も居られます。英国の植民地から独立するために日本軍が共に戦ってくれたことが、相当彼らの中の日本に対するイメージを良くしたのだろうと思います。

日本が負けた後に「俺たちの植民地を勝手に独立させやがって」と、自国の植民地を独立させたことに腹を据えかねていたイギリスは、直ちに鈴木敬司大佐(当時は少将)を捕まえて、昭和20年12月に、とうに戦争は終わっているにもかかわらず、BC級戦犯としてビルマに連行し処刑しようとしました。その罪は何かといいますと、「自分たちの国からビルマを独立させた罪」だというのですから、とんでもない話です。しかし、これに対しアウンサン将軍が「何を言っているんだ!」と猛然と抗議しました。すぐに鈴木大佐を釈放するよう求め、イギリスは折れたのです。

実は、終戦間際に日本軍の敗戦の気配が濃厚になった時にミャンマー軍が目配せをし、日本軍に戦闘を挑みました。日本軍も判っていますから、あうんの呼吸です。もし、自分たちが日本軍と一緒に負けてしまったら、独立のチャンスはない。そして、いわゆる出来レースの戦いをやる訳です。それを見たイギリスは訳が分かりません。「やはり、寝返って俺たちの所に戻ってきたか、よしよし」と思っている時に、このアウンサン将軍の抗議の話が出たので「アレッ?」と思ったでしょうね。時を隔てて1981(昭和56)年4月に、ミャンマー独立に貢献した鈴木敬司大佐ら日本人の軍人7名に国家最高の栄誉であるアウンサン・タゴン勲章が授与されました。日本でこの事実を報じたメディアは産経新聞だけです。大東亜共栄圏で一番に独立を果たしたのがビルマですが、安倍首相もこのことをよくご存知なので、数年前(2012年)の12月26日に第2次安倍内閣が発足した翌月の1月に麻生副総理を最初に外遊させた先がミャンマーでした。記者団に「何故ミャンマーなのか?」と尋ねられた麻生氏は一言「解るだろう?」とおっしゃったのですが、あれは格好良かったですね。

ところが、記者の中には、戦後教育にどっぷり浸かりすぎて麻生副総理の言わんとしていることがまったく解らず、「昔、日本軍が侵略した所じゃないですか。何故、そんな所へ行かれるんですか?」と真顔で尋ねる奴が居るんです。そういう無知な奴が記事を書くので、当然、記事も無茶苦茶な内容になります。現在、産経と読売以外の日本のメディアはだいたいそんな感じです。近現代史をしっかりと勉強しておらず、とにかく「日本が悪いことをした」と思い込んで書いているので、今お話しした鈴木大佐らの逸話などは理屈が合わないから、ここは端折って良いかとスッと抜いてしまっている。同じメディアの世界に居ますが、私の目にはそういう記事にしか見えません。


▼インドの独立を助けたのも日本

(地図を指して)この先にずっと行きますと、インドがあります。インパール…。「さあ、行こう!」とインド国民軍が日本軍と共にインパールへ戦いに行くぞという話になりました。これも、戦後日本の教育界、メディアから意図的に削除されています。ですから、先ほど紹介した写真も、日本ではなくシンガポールの博物館にあるのです。もっと凄い写真があります。シンガポールのINA(国民軍)の創設記念碑というものがあります。何処にあるのかと申しますと、シンガポールでよく観光客が記念写真を撮っている―後で何故あんな所で写真を撮ったのか、不思議な気持ちになりますが―マーライオンの観光スポットがありますよね。コペンハーゲンの人魚像やブリュッセルの小便小僧と共に「世界三大がっかり観光地」と揶揄されることもありますが、何が言いたいかといいますと、あのマーライオンから歩いて100メートルぐらいの所に、これがあります。

インパール作戦経過要図
インパール作戦経過要図

この記念碑は日本のどのガイドブックにも紹介されていません。何が書いてあるかと言いますと、日本語で「INAインド国民軍の無名兵士に捧げる記念碑が、1945年ここに建立された。INAインド国民軍は、1942(昭和17)年にイギリスからインドを解放するため、日本軍の支援を受けてシンガポールで創設された。この記念碑はシンガポールに関しては英軍によって取り壊された。」これはどういうことかといいますと、もう少し下がって見てみましょう。この小さな記念碑が元々あったのではなく、横にもっと大きなINAのインド独立の記念碑が建っていたんですが、日本の敗戦後にイギリスによって取り壊されたのです。けれども戦後、シンガポール政府はこの意味を永遠に残すために「解放するため」と書いた。「侵略」や「植民地」といった言葉は何処にも書かれていません。S・S・ヤダヴ全インドINA事務局長は「インドの独立には国民軍の国への忠誠心が大きな影響を与えました。しかしわれわれ国民軍を助けてくれたのは日本軍でした。インパールの戦争で6万の日本兵士がわれわれのために犠牲となってくれたのです。われわれインド人は子々孫々までこの日本軍の献身的行為を決して忘れてはいけないし、感謝しなければならないのです」と言っておられます。私ではなく、まさにインドの方がこのようにお話しになっているのです。


(連載つづく 文責編集部)