二月二十五日、神徳館国際会議場において、大阪国際宗教同志会(会長津江孝夫今宮戎神社宮司)の平成十一年度総会が開催され、テレビでもお馴染みの国際関係評論家でチベット文化研究所所長のペマ・ギャルポ氏が『チベット仏教とは何か』と題して記念講演を行った。本誌では、同講演を数回に分けて紹介する。
ただ今は、理事長先生からもったいないお言葉を頂いて少し上っております。かえってああいうふうに誉めていただくと、恥かしいですから、ちょっと今、上っておりますが、このような機会を頂いたことをたいへん嬉しく思います。それからまた、今日はひとりのチベット人として、日頃からお世話になっておる池田先生(世界連邦日本宗教委員長池田瑩輝真言宗中山寺派元管長)はじめ、何名かの旧知の先生方がいらっしゃいますので、この場を借りてお礼申し上げます。
私はお坊さんでもなければ、仏教学者でもありません。したがって私が話すのは、一チベット仏教徒としてチベット仏教の特質について簡単に述べたいと思います。仏教については、それこそ高僧の先生方がたくさんおられますので、「釈迦に説法」かってことで怒られますので、私がことさら言えたことではないのですが、ただひとつだけ申し上げたいのは、やはり「ブッダの教えであって始めて仏教といえる」のだと思います。そういう意味では、日本の仏教徒であっても、チベットの仏教徒であろうと、スリランカであってもタイであっても、根本的には仏法僧に帰依し、そして、少しでも自分自身を見つめていくというところが、たぶん共通していくところだと思います。
それと、ひとりのチベット人の認識だと、仏教徒である以上は、最終的には蟻一匹でも仏になれる(一切衆生悉有仏性)ということ、もうひとつは、「すべての行いにはすべて結果が出る」と......。だから私は、カラーフィルムの宣伝で「美しい人はより美しく、そうでない人もそれなりに」というのがありましたが、人によっては、仏教には業カルマというのがあって―これは諦らめの精神だといいますけれども―そうではなくて、少なくともチベット人の認識の仏教だと「自分自身の行いによって、自分の運命も変えられる」と。そして、「現世および来世において、最終的に仏になれる」と。だから、自分自身の努力によってのみ成仏できるのであって、「じゃ助けてやろうか」といって、他から助けられるものではない。とそういうふうに信じていると思います。ですから、そこまでは、あるいは五戒にしても十の徳を積むにしても、根本的なことは日本の仏教となんら変わりがないということを申し上げたいと思います。
◆ なぜラマ教と呼ばれるようになったのか
だったら、どこがチベット仏教が他の仏教と異なるのかといいますと、チベットに仏教がインドから導入された歴史的背景、さらに中国から入った歴史的背景。それから、それまでのチベットの自然環境、歴史、そういうものが、チベット仏教をして多少、他の仏教と形の上では違うものにしてあると思います。
そのひとつは、おそらく世間でよく言われる「ラマ教」となぜ言われるようになったかということです。ラマ教という言葉を使ったのはディズリーという英国人宣教師でありまして、この方がダライ・ラマ第六世の時(十七世紀)にチベットにみえまして、一生懸命キリスト教を広めようとなさった。ところが、当時のチベット人はなかなかそれを受け入れないんです。そして、彼は最後に第六世に面会できました。その時、彼自身はまだ仏教について勉強されてなかったんです。したがって、チベットではお坊さんたちがあらゆる儀式を司っているもんですから、偉いお坊さんのことをチベットでは、「ラマ」といいます。
ですから彼は「チベット人たちは、間違ったキリスト教を、堕落したキリスト教を信仰している」と思いました。なぜかというと、彼は、仏法僧の三帰依とキリスト教の三位一体(父子霊)のことを同じだと思ったんです。そこで、彼は一生懸命「あなたたちの拝みかたは間違っている。私がこれから正しいことを教えたい」ということを申し上げました。すると第六世は「もしそういうことであれば、どうぞあなたがまず私たちの宗教を勉強して下さい」ということになりました。
そして、最後に、チベットには問答形式という学者同士が議論する方法があります。―その前にも、チベットの仏教を、中国式仏教にするか?インド式仏教にするか?という時にも、もちろん同じ様な問答形式によって決着をつけました。多少、政治的な判断がなかったとは言えませんけれども、最終的には、当時、中国仏教が去ることになって、インド仏教がチベットに定着することになったんです。―それと同じ方法で今回もですね、ダライ・ラマ第六世はディズリーさんに対して「あなたがまずチベット仏教を勉強してください」ということになりました。
その方は一生懸命勉強しました。そして本国にたくさん報告書を送りました。その報告書の中で始めて「Lamaism(ラマ教)」、すなわち「ラマ(お坊さん)」が中心になっているもんですから、彼はまだ概念としてチベットの仏教を認識していなかったんです。したがって、チベットの仏教の特質を生かす意味で「ラマイズム」という訳をしました。それが後に、中国でも「ラマ教」と呼ばれるようになって、しかも日本語になったら、困ったことに「L」の発音がないもんですから、「R」の発音になって「Ramaism(雌山羊)の宗教」になってしまうんです。
チベット語で「ラマ」という言葉の意味は、「ラ」というのは、人間のいのちは二種類あると考えられています。いのちというかその存在、エネルギーの......。チベット人の一般的な考え方としては、心臓が止まったら肉体の死です。そして、意識はたえず転生します。それから、もうひとつは、自分がお母さんのお腹から独立して(誕生して)自分で息をするようになって、最初「あ」と声を出して、最後「ん」と息を引きとる(死ぬ)までの間の自分自身の行いによって、生ずるエネルギーというか存在というか、それを「ラ」というんです。
そして「マ」は、お母さんと同じ、それを司るそれを左右する、あるいはそれを預かる人間という意味です。ですから、ある意味では、チベット人の心理に仏教とボン教(仏教伝来以前のチベットの土着宗教)の部分があるとすれば、そのボン教の部分、つまり精霊とか―日本語的に言えば、もしかしたら、これが魂ということになるかもしれません―エネルギーの部分を司るものとしての「ラマ」。そして、もうひとつ「グル(導師)」という意味もあります。
ですから、「ラマイズム」という言葉がチベット仏教についてのひとつの形容詞として使われるようになったのは、大体、十七世紀から始まったということになると思います。ただ、「ラマ」になると、雌山羊のことをチベットでは「Rama」と言いますので、日本式に「ラマ教」といいますと、チベット人が雌山羊でも拝んでいるのかなと、思いますので、私たちは「チベット仏教」と呼んでいます。
それからもうひとつは、チベット人は、自分たちのことを仏教徒と言う時に「ナンパ」といいます。これも大体ですね、文化というものは、自分の便宜上、少しでも便利になって、少しでも自分の都合の良いように、後から様々な理屈を付けて解釈を付けていると思います。チベットにおいても、最初は「ナンパ」というのは、仏教徒同士「内々の人」、「仲間たち」という意味で「ナンパ」と言いました。それと同時に、チベット人は、仏教以外の宗教に対して「チバ」ということを言いました。仏教徒、ソンチェンガンポ、アチソンベツイン以来、仏教徒が強くなって、そして仏教徒以外の人に対しては「チバ」、仏教徒のことは、「ナンパ」ということになりました。ところが、十九世紀の終わり頃から二十世紀初頭、チベットでは宗教改革が起こりました。そして、沢山のチベット独自の先生たちが、チベット仏教、特に宗派を乗り越えて、チベット仏教についての新しい啓蒙運動が行なわれました。その中の先生たちによっては、「ナンパ」というのは、決して他を差別するものではなくて、自分自身の中を見つめること。自分自身を見つめることが仏教徒だ、ということで、自分のことを「ナンパ」
というんだということになりました。
◆ 中国皇帝とチベットは檀家とお寺の関係
私は、かなりこれは当たっているように思います。なぜかというと、皆さんがチベットの歴史を、チベット人の立場からよく読んでいただくと、チベットは少なくとも九世紀ぐらいまでは、中央アジアにおいて大変な軍事大国でありました。今日のタイあたりまでチベットの影響下に入っておりましたし、中国には何回もチベットが傀かい儡らい政権を作りました。西安までチベットが攻めました。そして、皆さんが今、中国にいらっしゃると、北京に維和宮という黄金の宮殿を見ることができます。これはダライ・ラマ法王をお迎えするために、中国(清朝)の皇帝がわざわざ造営したんです。それをご覧になってもらえば、決して中国の歴代皇帝が、ただ単にチベットを属国としてみたのではなくて、お寺(ダライ・ラマ)と檀家(皇帝)の関係があったということをよく物語っていると思います。わざわざ皇帝が国境まで迎えに行って、そして、特別に宮殿まで造ったということは、これは、上下の関係ということよりも、お寺さんと檀家の関係だったということを物語っていると思います。
チベットの人たちは、九世紀以後、特に十二、十三世紀頃まではかなり戦闘的な民族で、戦争は部隊の動く素早さによって勝敗が着くわけなんですが、あの時代において、私たちは騎馬民族ですから、相手を攻撃してさっと引き揚げる。ですから、決していいことではないのですが、チベット人、特に私の祖先は強盗ですね。ものすごく周辺諸国を略奪しました。今の雲南省とかそういうところに行って、攻撃をして物を奪って、時と場合によっては、物を奪うだけでなく、村そのものを焼き払うというようなこともやっておりました。
しかし、先ほど申し上げましたように、「ナンパ」としてチベットに仏教文化が根づくようになって、チベット人は自分の持っている二十四時間を、もっともっと自分を見つめることに使うようになったと思います。そのひとつの例として、私たちチベット人も、月面に人間を送り込んだアメリカ人も、同じ二十四時間を持っている。その二十四時間をアメリカは核兵器を造ること、月に人間を送ることに使ったとすれば、私たちは、東の果てから西の果てまで五体投地をして、そして一生懸命、毛虫のように自分の体で苦行をして、カイラシとか最終的にはインドのブッダガヤまで目指して、それをやった人間がチベットの社会では、一人前の人間として評価されました。ちょうどそのイスラムの方々が「メッカに行った」というときに、その人間に対する評価が変わるように、チベットでも五体投地をして、自分の故郷からカイラシ経由でインドの聖地まで行ったら「一人前の人だ」とみなされていました。
そして、もうひとつは、―これはもしかして、「口は災いの元」と言いますから、私自身も、これが災いするかもしれませんけれども―チベット人は本来、特に密教の修行をする時は、少なくとも、五十万回の善行を行ないます。これがたぶん、もしかしたら、他の仏教との大きな違いかもしれません。五十万回の善行というのは、五体投地を十万回、金剛薩壇の真言と瞑想を十万回、三帰依のお経を十万回唱えて、更には、自分の先生方、つまりお釈迦様から今日まで自分のところまで、どういう先生がどの先生にこの教えを伝わって、そして、それがどういう形できちんと伝授されているかということを、瞑想することによって、できるだけお釈迦様から今日、自分の世代までにその伝統がきちんと伝承され口伝を受けていることを重視します。そういうことを十万回、曼荼羅を十万回捧げて、自分自身がこの世のすべてのものと、執着心とかそういうものをなくす瞑想をするんです。
さらに「ラマ」といわれる人たちは、本来でしたら、三年三ヶ月の瞑想に入ります。日本でしたら、千日回峰行だと思います。そういうことをやって、初めて一人前の仏教徒、一人前の修行者、一人前の僧侶、一人前の「ラマ」になります。ですから、「ラマ」になるのは簡単なことではないのです。本来は......。
◆他の宗教の悪口を言う人は
それから、もうひとつは、チベット仏教の中でも時代と共に宗派ができました。四つの宗派がありますけれども、トップの段階においてはなんらかのわだかまりもありません。例えば、ダライ・ラマ法王でしたら、すべての宗派の最高の人たちから仏教を習って、そしてその伝統を継承しておりますし、ご自分の修行の中においても、日常の行の中でも取り入れております。同様に他の宗派の人たちもそうです。あんまり判らない人たちに限って、自分で壁をいっぱい作るんです。「あの宗教はこうだ。この宗教はああだ」と......。それも無理ないんです。もともとは、信仰というものが大事ですから、信仰があって初めて、修行者の行が実るわけですから、そのためには、その人に信じてもらえるためには、「あなた方がやっていることは正しいよ」っということは、やっぱり言わざるをえなかっただろうと思います。
ですから、チベットでよく使われる例として、「犬の歯に帰依する物語」というのがあるのです。それは、どういうのかというと、東チベットのある通商人が毎年インドの聖地ベナレスに行って―ベナレスというのは絹とかそういうのがたくさん売っているところです―そこから、絹とかいろんなものを持ってきて、チベットで売るんです。このお母さんが、息子がインドへ行く毎にですね、「私のためにインドから仏舎利(お釈迦様の遺骨)を持ってきて欲しい。それだけが私の願いです」と、息子に頼むんですけれども、しかし、息子はいつもですね、金儲けのために忙しくて、仏舎利を持って来ないんです。
ある時、その商人のお母さんは困ってしまって、「今度あなたが(仏舎利を)持って来なかったら、私は親子と思わない。私は死んでしまう」とおっしゃったんです。その時もまた彼は忘れて帰りました。しかし、遠いところから自分の家を見たときに「しまった。また、お母さんに頼まれていたことを忘れていた」と、どうしようかと思っていたら、隣に死んだ犬の頭があった。そして、その犬の歯を取って、それをきれいな絹の中に包んで、「お母さん、今度こそ私はあたなの願いごとをかなえてあげることができました。これが仏舎利です」と言って犬の歯をお母さんに渡した。お母さんは犬の歯を仏壇に供えて一生懸命祈りました。そして、日本的に言ったら「成仏した」と、言われる話があります。
ですから、当然、すべての宗派が「自分のところが一番いいよ」と言うことは、ある意味で必要だったかもしれません。「私が教えていることは嘘だ」なんて言ったら、信仰を持とうとする人に対して説明しにくいわけですから......。ただ、残念ながら、「私が教えていることは一番正しい」と言うときに、「他の人は間違っている」とか、「他の人が教えていることをああだこうだ」とか言うのは、本当は宗教者としては間違いだと思います。
残念ながら、チベット仏教においても四つの宗派があって、多少人によっては、「あれはああだ」とか「こうだ」とかいいますけれども、やっぱりそうではありません。時代時代において、あるときは行き過ぎがあるんです。そうすると、それを修正する人が必ず出てくるんです。ですから、そういう特色があったり、あるいは在家と学問に一生懸命生きる人と、それぞれの生き方、自分が何を求めるかによって重点の置き方が違うと思うんです。
◆ 二十四時間を何に使うのか
いずれにしても、八万四千部あるといわれるお釈迦様の説法の中において、幸いなことに、四千部ぐらいはチベット語に翻訳されたこと。これがチベット人の誇れるところだと思います。漢文に翻訳されたのは約二千部だと言われています。そして、その中から日本に渡ったのがどのぐらいかということは、私が申し上げるまでもないと思います。
ですから、そういう意味では、同じ地球上に生きて、同じ二十四時間を持って、その二十四時間を何に使おうかと......。私は人間の潜在能力は同じだと思うんです。能力は同じだけれども、何に使うかによって、ある部分は優れてくるでしょう。少なくともチベット人は、二十四時間の中において、先ほど申し上げましたように、自分の内面的な進歩に一生懸命頑張ったと......。チベット人は、飛行機を創れなかった。ロケットを発明できなかった。新幹線も創れなかった。だけど、もしかしたら、二十一世紀の世界の人々にとって貢献できるものがあるとすれば、やっぱりチベット人はインドから頂いた仏教によって貢献できると思います。
幸いにして私たちは国を失いました。国を失うことによって、私たちはたくさんのことを学ぶことができました。ダライ・ラマ法王ご自身も「もし(中国軍によって追われずに)一生ポタラ宮殿にそのままいたら、外のことを何も知らなくて人生を終わったであろう」と、おっしゃってます。チベット人六〇〇万人のうち、一二〇万人が人民解放軍の侵攻の犠牲になりました。間接的、直接的に死にましたが......。
亡命先のインドで私たちが通ったその学校には、オーストラリアとかニュージーランドからの先生たちがみえてて、キリスト教の日曜学校がありました。その日曜学校に行ったある時、新約聖書の中でパウロの『コリント人への手紙』というものがあって、そのなかで「愛について」という言葉がありました。特に、その章の最後に、「愛は耐えることである。愛はなにも報いを求めないものである」という、とっても美しい言葉がありました。私はそれを聞いて、「仏教が言っていることとなんら変わりはないではないか」と思って、それで私は先生のところに行って、「先生、私もそろそろ洗礼を受け(キリスト教徒になる)てもいいと思っている」と申し上げたんです。すると、先生はですね、「あと二週間たったら、何名か一緒にプールで洗礼を受けさせるから、その時まで待ちなさい」と言われた。私は、じゃ、せっかく洗礼を受けるんですから、私の名前はペマですから、なるべくPを残そうと思って、ピーターという洗礼名(クリスチャンネーム)にしようと思って、そこまで考えておりました。
ところがですね、また、次の週の日曜学校で、イエス様の言葉として「私のみが唯一の道であって、私以外に道はない」という言葉があったんです。それで私は、日曜学校が終わってから、また先生のところへ行きました。「先生、僕は来週、洗礼を受けるんだけど、イエス様以外に神様はいないのですか?イエス様だけが唯一絶対の神なのですか?」と聞きますと、先生は「そうだよ。そのとおりだよ」とおっしゃるんです。「それでは僕は困るんです。私たちには神様はいっぱいいるんです」と言ったんですね。「私の国の守護神もいれば、部族の守護神もいるし、家族の守護神もいるし、私自身の生まれた時からの守護神もいる。これ全部放棄しなければならないのですか?」と尋ねると、先生は、「じゃ、この問題について、あなたが疑問を持っているのだったら、自分自身の中でその疑問がちゃんときれいになるまで(洗礼は)待ちましょう」と言うことをおっしゃって下さったんです。
今でも私は、その先生のことをとても感謝しております。もし、あの先生が中途半端に私をキリスト教徒にしたら、私は中途半端なキリスト教徒で、中途半端な仏教徒になったと思います。でも、その先生は「自分が納得するまで考えなさい」と言っていただけました。ですから、私のキリスト教に対する尊敬の気持ちはむしろ増しました。だけど、私はあえてキリスト教徒になる必要はないと思い、私のそれまでの神々をそのまま拝んできました。
◆ チベットの土着宗教の影響
もうひとつ先ほど申し上げるのを忘れたのですが、チベットにおいては、他の仏教と何か違うものがあるとすれば、それは、チベット人自身はあまり言いたがらないんですね。なぜかというと、「チベット人は仏教徒」だからです。「仏教」ということが、ちょうど日本で、古いものはなんでも中国、中国といって、自分の文化の源を中国に求めたり、それからテレビなんかは、「本場アメリカではこうだ」というように、チベット人は何でも「インドから」というと、いいように思っているところがあるんですね。でも、強いてインドの仏教と違うものがあるとすれば、それはやっぱり、チベットは仏教が入る前の神々(ボン教)をチベット仏教の儀式の中に取り入れたことだと思います。
もちろん、チベット人が「自分たちは純粋な仏教徒です」と言う時に、それは嘘じゃないんです。なぜならば、お坊さんたちの哲学はすべて仏教の勉強をしているし、そして、唱えるお経も、仏教のものです。ただチベット人は都合よくできていて、チベットの人たちは、土着(ボン教)の神々に対しては絶対に帰依しないんですね。―今日は、平岡英信(清風学園理事長)先生がいらっしゃいますが―私たちは、土着の神々に対しては、ちょっと先輩だとか兄貴たちに接する接し方のように、お供え物をしたり、「いろいろありがとうございました」と言って敬意を表しますが、帰依する対象は、あくまでも仏陀と菩薩であります。ですから、チベット人の中ではそのあたりは整理がついているんです。特に、チベット人の個人の家にいらっしゃったら、自分の守護神は、掛け軸の前にカバーをかけてあり、他人には見せないんです。
なぜならば、これを政治学的に考えてみると、アジアの宗教はとても面白いんです。非常に民主的なんです。何が民主的であるかというと、火の神様は水の神様に弱いんですね。水の神様は風の神様に弱かったり、つまり、アジアの神々はみんなジャンケンポンであって、唯一絶対のオールマイティー(全能)がいてないんです。ですから、チベットでも「あの神様はこの神様に弱い」とか、「あの神様とこの神様は仲が悪い」とか、まるで人間社会のようです。ですから、普通、私たちは自分の守護神の絵は人に見せない。ですから、チベット人はそういう意味では、仏教の哲学の部分、精神的な部分と、そして、仏教以外―つまりボン教―祖先の霊を祀ったり、あるいは、山の神、水の神、そういうものを祀ったりする。そういうものの区別はちゃんとしております。
ですから、チベットでは、例えば病気になって、できものができた場合、もちろん、まず医学的にそれを調べるわけです。医学的に尽くす手がないとなると、今度は、もしかしたら「過去十カ月か三カ月かの自分の行動をちゃんと細かく考えなさい」と言って、「何かあなたが特別な水を汚したとか、どっかの木の枝を一本折っちゃったとか、そういうことをしてないかよく考えなさい」とか言うんです。そうすると一生懸命考えると、「実は、もしかしたら......」ということがあるんですね。そうすると、そこへ行ってお詫びをしたり、そういうことをすること(習俗)によって、病気を治したりすることも事実です。
これが、もしかしたらチベット仏教の、少しその他の仏教と違うところであるかもしれません。私は、お坊さんではないですから、あくまでも一仏教徒、素人のチベット人として、こういうことを自由に話す立場であるし、自分で見てそう思うんですね。
◆ ダライ・ラマ法王庁の代表として
そうすると、やっぱり「今チベット人にとって何が幸せか?」というと、特に年配の方々は、国内(中国領内チベット自治区)にいる人たちは、自分たちが一日も早く、観音菩薩の化身であるダライ・ラマ法王の顔を拝見したいと......。これは、嘘じゃないと思います。実際私は、一九八〇年に調査団の一員として中国領チベットへ行きました。その時に大きなショックを受けました。私たちは、信仰の自由を求めて外国に亡命して、そして、自由な中で生活をして、チベットへ帰ったんです。朝のチョカン寺院で、私たちは経本を出して読みました。ところが、大衆の人たちはみんな暗記してるんです。なぜかというと、少なくとも一九八〇年代まで、お経を所持することを許されなかったんです。自由のないところの人たちは、お経を暗記して読めるんです。自由を求めて、自由な国で生活している私たちは、経本を出して読まなければ読めないんです。
これは、何か皮肉というか......。ですから、たぶん根本的には、その信仰とか宗教とかそういうものは、それこそ「困った時にあるものだ」と思うんです。だから、困っていない時に多少忘れていても、もしかしたら、それは幸せであることの証拠かもしれません。ただ、もちろん、できれば車の運転だって何だってですね、日頃から運転してたほうが、いざというとき運転できるのですから、「あそこに行くのにこれから運転を勉強して行こう」なんて暇はないんです。そういう意味では、やっぱり日頃からちゃんと宗教についてきちんと勉強をして、それなりの修行をしておいたほうが当然いいでしょうが、もし、していなくても、やっぱり困った時は、人間はすべて神に助けを求めるのだと思っているのです。
それと、私は、特に私の母親の実家がお寺だったこともあって、仏教の社会の中で少年時代を過ごし、そして、キリスト教の先生たちのもとで少年から青年になる時期を過ごし、それから、私が日本という社会における宗教と接したのは、大学を出てダライ・ラマ法王庁の代表になって、一九七八年にWFB(世界仏教徒連盟)の大会が東京で開かれた時、初めて日本の仏教界と接する機会がありました。それまで、私はあんまり日本の社会で、仏教とかあるいは神道とかについて、神社を拝見したり、自分で手を合わせたりはしましたけれども、親しく体験することはなかったんです。
私が日本に来たのは一九六五年です。この時点においては、私の先生(チベット難民の身元保証人になって下さった大学教授)たちは、「私の家は仏教だけど、私は信仰を持っていない」って言うんです。私は不思議に思いました。人間が信仰を持っていないってことはどういうことかって......。本当に不思議に思ったんです。でも、あのころは信仰を持っていることが、何か遅れた人間で、非科学的人間で、非論理的な人間だというような風潮があったような気がします。そういう社会で、私は青年時代を過ごしました。
それから、社会に出て、初めてダライ・ラマ法王が日本に来ることになったのが、WFB大会の一九七八年。あの時、私は正直言って、一番最初は、日本の宗教界の人々に絶望を感じました。それは、なぜかというと、法王が日本に来ることに対して、仏教界の中でもいろいろ意見が分かれました。特に一九七二年、中国と国交を回復したすぐ後ですから、まだ、「日中友好」のムードがありました。中には、「あんな反動的な人を呼んだら困る」という意見もありました。お名前は申し上げません。みなさんお亡くなりになりましたから......。生きていれば私、お名前は言うんですけれどもね。亡くなった方の名前を言ってもしょうがないと思います。
しかもですね、途中でダライ・ラマ法王の招待を取り消しました。その時に、今日、中山寺の池田螢輝先生がいらっしゃいますが、世界連邦仏教徒協議会が、招待状を発行して下さいました。そして、たった四八時間のビザをいただきました。その時私は、仏教界の方々に抗議して丸坊主になりました。それはなぜかというと、責任者の仏教の方はみんな丸坊主で、先生ではあるんですが、約束を守れないことはやっぱり最低だと思いました。「坊主になることだけで、形だけでお坊さんになれるんだったら、私もなってやろう」と言って、丸坊主になりました。「もし、法王様が日本に来てから大会に出席させなかったら、私は座り込みをやる」ということで、一応、モンゴルとかスリランカとかネパールとかそういうところに、ちゃんと根回しをしましてやりました。
それと同時に、私の人生において、初めて日本政府に対して抵抗しました。それはどういうことかというと、午前中に外務省に行ったら、ちゃんと「(ダライ・ラマ法王に)ビザが出る」ということだったんです。ところが、私が外務省の関係者と会って午後に事務所に戻ったら、ニューデリーから電話があって、「ビザ出さないって言ってるよ」ってことで、びっくりしました。そんなはずないよ。なぜかというと、午前中に私は、村井淳先生(総合警備保障の会長)と一緒に外務省に行って、偉い人に会って、ちゃんと「出る」ということで事務所に戻ったら、「出ない」って電話がかかってくるんです。よく調べてみますと、当時の外務大臣の園田直さんの奥さんがちょうどその時期、中国へ行くので都合が悪いということで、取り消されているんです。それで、岸信介先生(元総理)のところにお願いして、岸信介先生から、当時、総理大臣だった福田赴夫さんに頼んで、福田さんから撤回をしてもらったんです。でも、撤回するまでの四十数時間の間、私の体は燃えるような感じだった。
もうひとつの理由は、とにかく一度どこかの国で「ノー」という答え(入国拒否)が出てしまうと、他の国に入る時に悪い影響が出てしまうんです。だから、滞在は数時間でもいいからなんとかしたいと思って、それで、結局、全日仏から招待状のサインを貰えなかったものですから、世連仏に紙を持って行くのに、タイプを打っているところ―あの当時まだワープロがなかった時代ですから、和文タイプを打っているお店がみんな閉まる時間だったのですが―ある店に無理矢理入って、「とにかくお願いします」と、跪ひざまづいてお願いしたら、やって下さいました。それで、なんとかセーフでした。
同時にどういう抵抗をしたかというと、人によっては、「ペマ・ギャルポは右翼だ」と言われるんです。それはなぜかというと、私は日本に来た時、チベットのことを一生懸命、それこそ、社会党にも訴えに行きましたし、民社党にも行きましたし、共産党にはたぶん行かなかったと思いますけれども、それ以外の政党には全部陳情に行きました。ただ、残念ながら、私に耳を貸して下さった方は、いわゆる「反共主義者」とレッテルを張られている先生方でした。あの、千葉三郎先生とか坂田道太先生とかそういう方々でした。あとは、新日本協議会とか大日本青年党。それで僕は、大日本青年党の方と新日本協議会の方々にお願いして、「同じ時間に外務省に電話をかけて下さい」と......。そうすれば、外務省の電話がパンクするから。それで、その時に、北上先生とか、もう亡くなりましたが貝田哲先生とか、そういう方々が電話をかけて下さったんです。幸いにして日本が民主国家であるがために、たくさんの人が電話を入れて―その時、僕はもう一つお願いしました。「けしからん゜ということで、怒らないでください」と......。そうすると役人はかえって抵抗するから―「ダライ・ラマの来日が
なんかだめだといってるけど、そんなことないでしょうね?」、「私は一人の仏教徒としてそんなことは信じられません」ということを「ソフトに(外務省に)電話してください」と言って、みなさん電話してくださいました。
幸いにして、法王には四八時間のビザが出て、それから、その後何度も来日されていますが、一番長い時は、十八日間のビザをいただきまして、大阪でも各教団にお世話になりました。その法王の活動を通して私が学んだことは、やっぱり、すべての宗教に対する尊敬の気持ちであります。
◆ オウム真理教との関係
それから、「オウム」の問題......。オウム真理教の問題に関しても、私はもちろん加担しました。なんていうかな、麻原彰晃さんがある程度、偉くなるのにですね、良い意味でも悪い意味でもそれなりに貢献したのは事実です。というのは、彼をインドに最初に紹介したのは私だったんです。しかし、その時は、私なりの打算がありました。私は今までに二回詐欺に遭ったことがありますけれども、よく考えてみますと、その詐欺師だけが悪いのではなく、自分の中にもちゃんと計算(打算)があるんですね。ですから、不可能なものを可能であろうと信じたりするんです。
それと同じように、麻原さんの時もやっぱり、日本の仏教とチベットの仏教は兄弟みたいなものだけれども、もし麻原さんがチベット仏教の信仰者になれば、これは息子みたいになるから......、と本当に思ったんです。そうしたら、もっともっとこちらが直接、何事もお願いしやすくなると思ったんです。そういう過去がありました。ただ、何カ月もしないうちにいろんなことが判ってきて、最後には、私は「麻原さんとはお付き合いしないほうがいい」ということを、ダライ・ラマ法王庁に申し上げました。
ただ、やっぱり世の中にはいろいろな方がありますから、正直言って麻原さんがメジャーになるのに、私もそれなりに貢献もしたと思います。麻原さんが私のことを「自分の活動を妨害した」ということで、雑誌などにもたくさん悪口を書かれました。「卑劣極まる行為だ」とか、いろいろ言われました。それで助かりました(会場笑い)。なぜかというと、ひとつだけお願いしたんです。「とにかくチベット仏教とは言わないで下さい。麻原教だと言って下さい。チベット仏教とは決して言わないで欲しい」と......。
それから、ダライ・ラマ法王は、決して麻原さんだけを仏陀だとはおっしゃってないということ。法王がおっしゃったのは、「すべての人々は仏陀になれる。仏性を持っている」ということだけをおっしゃった。「決してあなた(麻原彰晃)が仏陀だとは法王はおっしゃってないし、法王はご自分でも、自分が仏陀だとはおっしゃってないんです。『私はただ一人の僧侶にすぎません』と、いつもおっしゃる。その法王があなたのことを仏陀だとおっしゃるはずがない」ということを申し上げましたら、さんざん怒られました。ただ、ありがたいことに、後で麻原さんがああいうこと(オウム事件)になったので、もし、麻原さんが私を怒って、私を批判する本を書いてなかったら、私はとんでもないことになったと思います。幸いにして、麻原さんが怒って、私のことを悪く書いて下さったもんですから、助かりました。本当のことを言って......。
でも、今でもやっぱり私は麻原さんに対しても、多少申し訳ないと思ってるんです。麻原さんが、エゴのトリップというか......。走ってしまったとすれば、火を大きくするのに「ふぅ、ふぅ」といって、火を一生懸命吹いた。その中の一段階なれども、そういうことをやったことに、私ももちろん責任を感じてるし、だから、その後の麻原さんとはテレビで何度も対決しました。
でも、私が思うのは、その時、マスコミは「宗教が持っている何らかの危険性が麻原をああした」ということを言っていたんです。あるいは「チベット仏教のタントラ・バジラヤーナ(秘密金剛乗)の考え方が......」。僕が言いたいのは、ダライ・ラマ法王に謁見する人というのは、毎日百人単位の人たちです。外国人もたくさんいます。もし、チベット仏教があのような凶暴で、過激な要素を持っているのなら、みんなそうなってしまうはずです。麻原さんだけがなるはずないんです。みんながそうなるはずなんです。もし、宗教が麻原さんのような人間を育てるんだったら、宗教の歴史はもっと短いはずです。ですから、私はマスコミの人たちや皆さんに申し上げていることは、「これは宗教でもなければ、チベット仏教でもない。これは麻原さん個人の責任、個人の考え方、そして、彼自身の解釈」である。
それと、ある意味では、私のような人間が周囲にいて、少し彼を呷ったりした人たちがいたからだろうと思います。それと同時に、私は逆に、麻原さんに反論したり、マスコミに反論したりする過程の中で学んだことは、キリスト教の「Love」にしても仏教の「慈悲」にしても、私は、言葉は違っても本当は同じだと思いました。
◆ 宗教が説いていることはみな同じ
それから、ちょうど三年ぐらい前に、サミュエル・ハンティントンという方が『文明の衝突』という本を書かれました。ハンティントンの文章を読んでいる限りには、イスラム教というのが、何かテロ的な文化を持っているようなことが書いてありました。私は実際、インド、バングラデッシュそれから、マレーシアとかインドネシアとかに行って、やっぱり、それ(凶暴性)はイスラム教が持っている性質だとは思わないですね。イスラムの中でも温厚な人たちはたくさんいるのです。私と亜細亜大学で一緒に勉強をしたリットワンというインドネシア人がいるんですが、彼などは、毎日時間になったら、ちゃんとお祈りをするんです。正直言って、仏教徒の私は彼ほど信心熱心じゃないんです。それと、ケント・ギルバートというモルモン教の人がいますが、彼と私がいっしょに食事などをすると、彼のほうが数段立派だと思うんです。酒を飲まない。たばこを吸わない。必ずしも酒を飲まないことが立派だということにはならないのですが、しかし、何か戒律というものを厳格に守って、自分自身の生き方に厳しさを持っている。ですから、私はモルモン教徒にはならないけれども、その立派なモルモン教
をみて、やっぱり感激しました。
そうすると、私は、人類皆が持っている宗教の共通点は、それこそ、リンカーンの言葉で言う、悪いことをした時に「悪いことをした」気持ちを持つ。いいことをした時には「いいことをしたな」という喜びを感じる。それを、持っていることが、すべての宗教に共通しているものではないかと思うんです。ですから、宗教全部が持っているものの中にある「愛」とか「慈悲」とかいうのは、これはまあ、薬で言えば栄養剤のようなもので、どの宗教においても「愛」を教えている限り、「慈悲」を教えている限り、決して毒はないと私は思うんです。
だったら、なぜ、仏教が必要であって、キリスト教が必要であって、イスラム教が必要であるかというと、それはやっぱり、歴史的背景、自然的環境、そういう様々な過去を抜きにしては解からないと思うんです。例えば、イスラムの文化において、なぜ奥さんをたくさん持つか?やっぱり、いろんなその時の歴史的背景を考えなければならないことがあると思うんです。あるいはチベットでですね、仏教徒の人たちがなぜ一夫多妻になっているかというと、チベットには保険会社がなかったんです。ですから、保険を掛けて旦那さんが殺されるようなこともないんですけれども(会場笑い)、もし、たくさんの人たちがお坊さんになっていくと、女の人たちの数がどうしても余ってしまう。だから奥さんを二人貰わざるをえない。あるいは、お兄さんが死んでしまったら、弟がその奥さんを貰って面倒をみると、これは生きていく人たちの知恵の結晶だと思います。
ですから、私たちの宗教の表向きの様々な違いがあるのは、それは多分、自然環境、歴史的背景などを充分に配慮した知恵の結果だと思います。しかし、その中で教えていることは、私は私が遭った宗教の中で、憎しみを教えている宗教に遭ったことはないんです。全部が「愛」を唱えております。
それからもうひとつ、強いて仏教について言えば、輪廻転生の考え方が非常に近代的だと思っているのです。それはなぜかというと、今、リサイクルと言われてますが、人生そのものもリサイクルなんです。私たちは生まれてきた時は、お父さんお母さんにお尻を拭いてもらって、おむつを替えてもらって、やがて自分が齢としをとって、百歳以上生きた場合には、また、子供たちにおむつを替えてもらったりしなければならないのです。ですから、私は、そういう意味では、輪廻転生ということも非常に古い教えであるかもしれませんが、考え方は現代の社会に適しているものだと思います。
時間が五分オーバーしてしまいました。私が三十二年間日本で生活しまして、まだまだ時間がうまく調整できないのはですね。これもチベット人的気質であって、しょうがないのですが......。ちょっとまとまりがないのですが、むしろまとまったらおかしいと思いますので、大体、チベット人が日常生活をどういうことを考えながら生きているのかを、そして現状がどうなっているのかを、短い時間ですが、ご報告させていただきました。何かの参考になればと思います。
最後に、ダラムサラのチベットの難民の支援活動を始め、そういうことに協力して下さった方々、何名かここにいらっしゃいますが、本当にありがとうございました。お蔭様で、私のように教育を受けるチャンスに恵まれて、こうやって生きていることが、決して皆さんの援助が無駄になってないことを証明していると思いますので、これからも引き続きよろしくお願いいたします。どうもありがとうございました。
**質疑応答**
司 会
ご講演の中で、「チベットの仏教というのは、なんらお釈迦様が説かれた仏教と違いがないんだけれども、唯一違いがあるとすれば、それはチベットという風土に適応して、土着のボン教と共存していったというところにチベット仏教の特徴がある」ということでございますけれども、そういう言い方をすれば、日本も同様で、もともと日本に、現在「神道」と呼ばれている土着の宗教があり、後から仏教が合体というか、重なることによって、日本仏教という特殊な、世界の仏教の常識からいうと、変ったものができあがったわけですけれども、今日は、神道関係の方では布ぬの忍せ神社の寺内先生がいらっしゃいますので、先生よろしくお願いします。
寺 内
大阪の松原市にあります布忍神社の宮司をしております寺内成仁でございます。司会の善信先生もおっしゃいましたように、神仏習合について教えていただきたく。実は、私は専門が彫刻でございまして、建築様式に関心があります。いろいろな伽藍形式、要するに神仏混合時代には、神社と寺院が同じ聖域の中にありますね。神社と仏教の関わり方を調べたいということで、いろんなところを廻ってみているわけなんですが、そういう中でいつも思うことなんですが、ペマ先生がおっしゃいましたチベットにおける土着のボン教と外来の宗教である仏教の関わりとよく似てるなと思います。
ところが、明治という時代が来まして、それ以前は、ひとつの枠組みの中で、仏教というものと神道とがうまく関わりながらやってきたわけなんですが、明治政府というなかで、国家神道という名の下におきまして、私の個人的な意見かもしれませんが、大変遺憾な......。日本の近代史の中で一番の汚点だと思うんですが......。廃仏毀釈や神仏分離というものが起こったと思っているんですが......。その時から、日本人の宗教性ということが無くなったような気がしております。それまでは、大変いい関わりであったわけなんですが......。
どういうんでしょうかね、そういう時には、政治的な関わりっていうのが大きかったと思います。本日、お越しになっておられる仏教界のみなさんの中で、私の考え方に近い先生方もおられると思います。そういう中で、今日のお話を伺っておりますと、先ほども言いましたように、土着のボン教に対しては、「チベット人は、仏教に帰依するけれども、神々も崇める」っておっしゃいましたか、そういうことが、やはりきちっと行われているということを聞きまして、羨ましいなっと思ったりします。
そして、一番思うことは、今後チベットがどういう歩み方をしていくのかってことが、大変心配になってきますし、中国政府自身も、ものすごく法律で締め付け、また、現在のダライ・ラマの次のダライ・ラマ選出の方法、その他いろいろな問題があると思うんですけれども、そういう中で、ペマ・ギャルポ先生は、どういうふうな活躍をこれから展開していこうとしているのか?ということをちょっとお伺いしてみたいなと思っております。
ペマ・ギャルポ
今のお話で「チベットの将来」に対するご質問の前に、神仏分離の話がありましたので、まずこれについて自分の考えを述べたいと思います。もちろん、今日ここで私が話をしていることは、個人の考えであるということを前置きをして申し上げます。今、日本が国際化と言われておりますが、日本には歴史上、これまでに三、四回、国際化の時代があっただろうと思うんです。
そのひとつは、聖徳太子が外国から仏教を導入した頃がひとつの国際化であったであろうし、つい最近の国際化は、明治維新であったと思うんです。私の考えでは、国際化というのは、本当は「多様化」であって、決して「同化」ではないんです。今の日本の国際化とは、多様化の代わりに同化しようとしているんです。そこが、僕は大きな間違いだと思っているんです。その多様性というのは、やっぱり個性、あるいはアイデンティティーというものが必要になってきますから、明治維新の方々が「日本ならではのもの」ということで、神道を表に打ち出したことは、歴史的な必然性があったと考えています。
もちろん、仏像の首を切ったり、特に千葉の鋸山辺りに行って、ほんとうに悲しかったんです。たくさんの仏さんが、首をちょん切られていて、ちょうど私たちがチベットへ行った時に見たものと同じようなものがありましたから......。ただ、おそらくそれは、政策を実行する人たちの行動様式の中に原因があるのではないかと思っています。政策としては、日本が日本の独自性を持つためには、日本の固有の宗教を表に出すことは正しい選択だったであろうと私は思います。
それで、今日の日本は、また新しい国際化時代に向けて動きつつあります。今、日本に求められているのは、日本人皆がお辞儀をする代わりに握手をすることではなく、むしろ日本人として正座が出来る。お茶の出し方が判る。そういうことのほうが、国際社会に対する貢献度もあると思うし、今こそまた、第四期の国際化時代に向けて、日本の文化を再生するいい時期だと思います。
二番目のご質問「チベットの将来」に対しては、ダライ・ラマ法王が、一九五〇年代から今日まで一貫して「チベット人大衆が自ら自分の将来を決められることが一番望ましい。チベット人がチベット人の価値観に基づいて、チベット人にとって何が幸せであるかということを、チベット人が選択する自由を持つことが一番大事である」とおっしゃってます。
例えば、「独立」という言葉......。世界中には今、国連に入っている一八五カ国、入っていない国々をあわせますと、二〇〇以上にもなりますが......。を考えた時に、本当の独立国家が果たしてどれだけあるかということを考えたりすると、中身の問題だと思うんです。そういう意味で、法王は「独立」という言葉にはこだわらない。むしろチベット人が自らチベット人の囚人になること、チベット人の将来に対して、自分たちの運命は、自分たちで決められるということを望んでいると。
これに対して、いわゆる先進国(G7)の国々の中で、国家元首あるいは政府の最高責任者がダライ・ラマ法王に会っていないのは日本の総理大臣とイタリアだけなんですね。それ以外のすべての国の代表者が法王と会って、そして中国の政府に対しても、例えば、クリントンさんが北京を訪れた時も、テレビという公開の場でもですね、江沢民さんに対して、「あなた一度、ダライ・ラマと会ったほうがいいですよ。会ったらきっとあなたも何か判るから」というようなことをおっしゃってるわけです。ですから、国際世論も平和的な解決ということに対しては応援をしておりますので、チベット人が望むのは、「チベット人自ら自分たちの将来を決められる」そういう日を待っているということです。
それから、法王は既に一九八七年に、ヨーロッパ議会で意思表示をしております。それは何かというと、「もはやひとつの国だけではやっていけない」例えば、「チベット人が中国人を嫌いだ」と言っても、これは共存するしかないということです。そのために、「チベット全土を非武装化地帯にしよう」と......。そして、「できればチベット及びその周辺地域も含めて、国連をはじめとして、世界のいろんな研究機関を創ってもらおう」ということをおっしゃってるんです。
それはなぜかというと、今日家に帰ってから中華人民共和国という国の地図を開けていただきたいのです。そうすると、本当の中国......。シナ人の領土......。は現在の中華人民共和国のわずか三七%です。残りの六三%は、チベットであり、モンゴルであり、ウイグルであり、あるいは朝鮮系の領土であり、満州なんです。これは、特に日本の方々は覚えがあるはずなんです。モンゴルには、中国人よりも日本人が先に入ったんです。チベットに中国人が入ってきたのは、この一九五〇年代以後でしかないんです。
宗主権というのは、英国とロシアが作った言葉なんです。「チベットの宗主権は中国にある」と。チベット側もある時は宗主権というものを便利に使ったこともあります。チベット人の中でも、自分を少しでも......。現在も世界中の人々はやってます。より大きなところへ行ってですね、そこの偉い人と会って握手をして、帰って来て写真を見せて、「俺はこんなに偉いんだ」とか言って......。それはチベット人もやりました。偉いお坊さんたちが中国へ行って、大タイ師シィですとかそういう肩書きを貰って来ては、偉そうにしました。それを中国は、特にこれは、孫文と蒋介石と周恩来、彼らは本当の伝統的な中国のことを解からないんです。ですから、「スポンサー(檀家)の方がお寺よりも偉い」ということを言い出したに過ぎないんです。
ですから、今の中国が抱えている問題は何かと言いますと、この三七%の領土に、約十二億の人たちが生活しなければならない。この三七%の領土の中で十二億の人々が生活するにはあまりにも狭すぎるんす。ですから、第二次世界大戦前は、中国は政策的に南下してたんです。それが今日のインドシナとか特に東南アジアの華僑の分布図をみてもらえば判るんです。ところが、第二次世界大戦の後、ひとつは、共産主義に対する「封じ込め政策」があります。冷戦構想の結果として「共産主義を封じ込もう」ということで、中国は南下できなくなった。そこで仕方なしに、彼らは、チベットへ行ったり、モンゴルへ行ったり、ウイグルへ行ったりしたんです。
しかし、民衆自身は、このウイグルへ行ったり、モンゴルへ行ったりすることを喜んでないんです。「行け゜」といわれた人たちは、「自分は左遷させられた」という気持ちでいるんです。なぜならば、彼らにとってチベットは空気が薄いんです。決して住みよくはないんです。できれば、住み慣れた故郷にいたいんです。ですから以前は「何処そこに駐在しろ」と言われたら、そこから出るのに許可がいるんです。それで、最近では、中国政府は、刑務所に入っている受刑者たちに対して、政治犯はだめですが、チベットへ行くことを志願すれば、さまざまなインセンティブを与えているのです。例えば、無利子でお金を貸すとかいろんなことをやって、人口問題を解決しようとしているのです。ここで、私たちチベット人も中国人も、ほんとうはアジアの人皆が知恵を出し合ってやらなければならないのは、この中国人がどうやって食べていくかということです。十二億人のあるいは、十三億人の中国人がどうやって食べていくかは大きな問題です。
そういう意味では、私たちがこの二十一世紀に向けて解決しなければならない問題点、環境問題、食糧問題、人口問題......。人口問題といっても、日本の人口問題とは違いますね。日本は子供が少ないという、全く新しい人口問題がありますけれども、中国は人口が多すぎる......。それから、民族問題と宗教の問題もあります。こういうことについて、中国とチベットは、ある意味では見本市なんです。ここの解決ができれば、世界がもっとよくなるんです。ここの問題が解決できなかったら、何らかの形で皆さんの生活にも影響をするんです。ですから、本当は、私がいつも日本の皆様にお願いするのは、チベット人がかわいそうだというだけでなく、自分たちの明日を考えて、人類の明日を考えて、今の問題を解決するように考えれば、すごくいいことが現れると......。
それからもうひとつは、チベットは地下資源が豊かです。これはもう、チベット人の力ではどうにもそれを人類のために活用できないんです。不思議なことに、例えば昔の宗教、仏教にしてもキリスト教にしてもいろんな宗教は非科学的だと言われてきたんです。その非科学的だというものが、最近になって、科学者によって科学的だということが証明されています。特に心の問題です。今までは、科学は手で触って確認できるもの、目で見て見られるもの、そういう実態のないものは、科学的には否定してきたんです。ところが、今二十一世紀を迎えようとして、見えないものを、手で触れられないものを、存在すると......。それと同じように、今チベットにおいてはですね、何があるだろう、これがあるだろうとしか知らなかったんです。
ところが、中国が調べたところによると、世界的にも珍しい七十幾種類の地下資源がチベットにはあるというんです。特にリチウムは世界全体の埋蔵量の半分以上がチベットにあるということなんです。私個人の考えとしては、土地とか資源とかは国家のものあるいは人類全体のものであって、個人のものではないと思ってるんです。特に資源は無限ではないんです。いつか無くなるんです。これをどうやって使うかということを考える時に、やっぱり、お互いに知恵を出し合って、これを大事に使う必要があるんです。先程お茶を頂いた時に、三宅理事長先生から「もったいない」という言葉について伺いました。本当にもうちょっともったいないという気持ちをこの地球の資源に対して持つことが必要なんです。
それを考えると、チベットの将来が、人類に対して大きく貢献できる場があるんです。しかも、ダライ・ラマ法王自身をはじめ、チベット人の悪いところは、昔から国家とか国境という認識があまりなかったんです。これは、本当はある意味では、チベット人の悪いところであります。もうちょっとそういう認識を持っていれば、今のようなことにならなかったかもしれません。僕はある時、チベットの坊さんに聞いたんです。「先生方は、前世にいいことがあれば、必ずいいことがあるとか言うけれど、日本人は、あんなに魚を食べて殺生しているのに、日本人の方が幸せで、なんで逆にチベット人がこんなに不幸なんだ」って、すると、坊さんは「バカ者。今の日本人の前世が全部チベット人だったかもしれないじゃないか」(会場笑い)と、言うんですね。そして、「今のチベット人の前世が全部日本人だったかもしれない」と。それがチベット人の考え方だと思うんです。ですから、チベット人は、中国と共存共栄することとか、そういうことはあまりこだわりがないと思うんです。大事なことは、自分たちの信仰を守って、信仰を許されて、自分のペースで自分の人生を送ることが許されること、多分
そういうことが願いなんです。
ですから、ダライ・ラマ法王ご自身も、自分は最後のダライ・ラマかもしれない、少なくとも、政治的な支配者としては......。なぜ、最後のダライ・ラマかというと、これはチベット的発想ですが、観音菩薩は、わざわざ人間のために、人間が苦しみがある時に救う必要があるけれども、人間が苦しみがなかったら要らないわけです。例えば、チベットが別の制度で、チベット人がより幸せになるということであればですね、法王は、一人の宗教家としては必要であるかもしれませんが......。そういう意味で僕は、チベットの将来についてすごく楽観的です。前向きなんです。しかもですね、私たちは、なんか限定して、ここだけが私たちの目標ということではなくて、私たちが幸せになると同時に、できれば、中国の十二億、十三億の人たちも一緒に幸せになってもらいたいということです。これが、チベット人の願いだと思います。すいません、少し時間をオーバーしてしまいました。
おわり