法華経は学園ドラマ? Great Teacher Oshakasama  
 
1998/9/21

レルネット主幹 三宅善信


鎌倉時代以来、今日に至るまで、日本仏教の大きな流れの一方が「浄土系」であり、もう一方が「法華系」であることはいうまでもない。私は、当「主幹の主観」において、ウルトラシリーズを題材に、親鸞思想(浄土系)について論述したが、一部、宗教界関係者から「法華経思想についても何か書けないか?」というリクエストがあったので、私なりにチャレンジしてみたい。

『ウルトラマンに観る親鸞思想』の際にも触れたが、私が仏教を学んだのは僅か1年間のことであり、しかも、日本の宗門立の大学(仏教大・龍谷大・駒澤大・立正大等)で専門的に学んだ訳ではなく、アメリカ(英語)で学んだので、わが国の一般的な仏教理解とは少し異なるかも知れない。私が仏教を囓ったのは、当時、ハーバード大学神学大学院の院長であったG・ラップ教授(現コロンビア大学学長)から西谷啓治先生の『Religion and Nothingness(『宗教とは何か』の英訳版)』をテキストに、また、M・ナガトミ教授から「Mahayana Buddhism in the East Asian Context」というクラスであった。他に、チベット密教がD・エッケル教授、ヒンズー教については、D・エック教授とJ・カーマン世界宗教研究所所長から薫陶を受けた。

当時、私が一番、関心を持ったのは、難解な仏教哲学の理解ではなく、釈迦入滅後、数百年してから成立した大乗仏教(日本で一般的に唱えられている「お経」は全て、釈迦が死んでから何百年も経ってから、別人によって創られたもので、本当の意味での「仏説○○経」はひとつもないということはいうまでもない)が、インド→西域→(チベット→)中国→(朝鮮→)日本と伝播するうちに、どのように性質を変えたかということであった。たとえば、インドやチベットでは、Avalokitesvara(旧訳=鳩摩羅什訳『法華経』等では観世音菩薩。新訳=玄奘三蔵訳『般若心経』等では観自在菩薩であるが、一般に観音菩薩で知られているので、ここでは観音菩薩という)は明らかに「男性」なのに、中国を経て日本に来ると「女性的」なイメージで表現されていることが多いのはなぜか? というような問題である。つまり、それぞれの文化が数千年にわたって保持し続けている「集団的自己意識」のようなものと「世界宗教」と呼ばれる宗教の「土着化」の過程で生み出される変容との関係のようなものに関心を持っていたということである。

まず、私にとって「『法華経(英語ではLotus Sutra)』の世界は、今でもよく理解できない」と正直に申し上げておこう。正式の名前からしてSaddharma-pundalika Sutra。そのまま訳すと「正しい教えの白蓮華経」何のことやらさっぱり判らん…。これに『妙法蓮華経』と、何やら有り難そうな題目(漢訳タイトル)をつけた4世紀の仏典翻訳家鳩摩羅什(クマラジーパ)に天才的な文学的才能があることだけは認める。何とか読んでみようと挑戦しても、登場人物も、普通のお経では、主に教えを説くお釈迦様(あるいは阿弥陀如来や大日如来等)と聞法する弟子(あるいは衆生等)が一般的であるが、法華経では、釈尊とお弟子の他に、「自利」を象徴する阿羅漢だとか「他利」を象徴する諸菩薩らが登場するのはまだ解るとしても、八大竜王などの怪獣から夜叉・阿修羅等の妖怪、残虐非道の象徴である阿闍世王や、また、釈尊は出家したはず(俗世と縁を絶ったはず)なのに釈尊の妻子まで登場し、善悪虚実取り混ぜて、有象無象(森羅万象)84,000人もの人(?)が、釈尊の説法を聞くために霊鷲山に集まるという設定からして「怪しい」じゃないか…。

譬えていえば、熱血教師と生徒の学園ドラマに、不良少年・いじめられっ子・無関心派などが登場するのは、ストーリーを構成するのに必要なキャスティングだとしても、そこにキングギドラに大魔人、デビルマン、ゲゲゲの鬼太郎から『北斗の拳』のラオウまで登場させちゃって、しかも、それらの登場人物(?)が、おとなしく小さな教室の席に着いて、お利口さんに先生(釈尊)の話を聞くという感じだ。このドラマの第1回(序品第一)を観た視聴者は、このまま最終回までオンエアされるのだろうか? ひょっとして途中で打ち切りでは…? という不安さえ抱かせる脚本だ。まさに「G.T.O.(グレート・ティーチャー・オシャカサマ)」だ。

さらに、よく解らないのが、これほどごちゃごちゃして解りづらい法華経を「諸依の経典」としている宗派・教団が日本にはたくさんあるということだ。法華経の絶対優位性を説いた日蓮聖人の日蓮宗はわかるとしても、真言宗・天台宗の平安仏教、臨済宗・曹洞宗の禅宗まで法華経(特に『観世音菩薩普門品第二十五』=通称『観音経』)を唱えるではないか。いったいどうなっているんだ。また、これらの伝統仏教だけでなく、霊友会・立正佼成会・創価学会等の巨大新宗教教団も、法華経「諸依の経典」として教義を構築している。新宗教の信者である一般大衆は、あの複雑な法華経の中味が本当に理解できているのだろうか? と、疑問に思ってしまうのは、私だけではあるまい。それとも、功徳(現世利益)のある「有り難いマントラ(呪文)」としての法華経の霊力を期待しているのであろうか? ちょうど、転んで泣いている幼児の膝をさすって「チチンプイプイ、痛いの痛いの飛んでゆけ〜」と言ったら、子供が泣きやむように…。一方、もし、これらの新宗教の教祖たちが、マントラ(呪文)としての効果ではなく、あの複雑な法華経の神学的中味を、本当に一般信者たちに理解させているとしたら、 その教祖たちこそ、まさに「グレート・ティーチャー」である。それでは、具体的に経文の中味の世界に入ってゆこう。

この時(一座のものが釈尊の法話を聴こうと霊鷲山で固唾を呑んでいると)、釈尊の眉間から光が発せられて、その光明が天上から地下まで響きわたり(まるで、ウルトラマンみたい)、そこにいた会衆のひとり文殊菩薩が、「(自分が過去の諸仏のところで出会っためでたい兆しと同じ光景だから)きっと今日こそ、釈尊は『妙法蓮華経』の教えをお説きになるにちがいない」と宣言する。しかし、いくら智恵の象徴である文殊菩薩でも、これから釈尊が説こうとするお経の名前を、説く前から知っているなんておかしくないだろうか? その矛盾を解消するために文殊菩薩は「今ここにおられる釈尊(史的人物としての釈迦)だけでなく、久遠の昔に出現した日月燈明仏も既に法華経を説かれた」というのだ。しかし、もし、そうだとしたら、既に法華経はこの世に存在するので、わざわざ釈尊から頂かずともよいのではなかろうか? このような矛盾を抱えながら、文殊菩薩は有名な「栴檀香風悦可衆心」(よき教えは、栴檀のように香しい風となって、大勢の人のこころを楽しませる)という詩を読む…。

このように法華経の世界は大スペクタクル映画のような演出で始まるのである。続いて、法華経の第2章である『方便品第二』へと入ってゆくのであるが、この調子で、漢訳『妙法蓮華経』は全28章(普賢菩薩勧発品第二十八)まであるのであるが、ページ数にも、また私の許された時間にも制限があるので、本日のところはここまでとする。もし、読者からのリクエストが多数寄せられるようであれば、法華経の他章についても、私なりの解釈を披瀝したい。なお、近日中に、当コーナーで『生命進化と方便』というテーマの一文を上梓することをお約束したい。


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