生命進化と「方便」
 
 
1998/9/25

レルネット主幹 三宅善信

お彼岸期間中でもあり、また、前回の拙文『法華経は学園ドラマ?:G.T.O.』でも予告したので、今回もまた『法華経』を題材にストーリーを進める。といっても、法華経は大乗(Mahayana=「大きな乗り物」の意で、衆生を救済して彼岸に渡るため、自利よりも他利を特色とする)経典の権化のような世界であるので、法華経のみならず、その時々の都合に応じて、他の大乗経典も引用しながら話を展開したい。

「その時、世尊(釈迦)は前生を思いだし、自覚を持って瞑想から立ち上がり、(弟子の長老格)シャーリ・プトラ(舎利弗)に語った」という出だしで、法華経の第2章である「方便品」が始まる。ここでいう「前生」とは、いまここにいる釈迦を「世尊」たらしめたこれまでの(前世も含めた)全ての経緯・因縁のことである。話は脱線するが、悟りを開かれた釈迦への敬称である「世尊(せそん)」を意味するサンスクリット語のBhagavan(漢訳では「薄伽梵」)が、あの赤塚不二夫の名作漫画『天才バカボン』の語源だということを、私は最近、高名な仏教関係者から聞いて驚いた。思わぬ所に、仏教の影響があるものだ。

「舎利弗よ。私は成仏して(悟りを開いて)以来、人々に解かり易いように、種々の因縁(過去の事実)や比喩による話を用いて、それら無数の方法によって人々を導き、悟りへの道に引き入れ、執着から離れさせてきたのだ」と釈尊は告げる。漢訳仏典では「種々因縁。種々譬喩。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著」とある。この「無数方便」という概念が、今回のテーマである。法華経第2章のタイトルにもなっている「方便」とは一体何なんだろうか? 

釈尊は、真理を体現した如来の智恵について披瀝した後、突然、「舎利弗よ。これ以上説くのは止めよう。説いたところで解るものではないのだから…。成仏した者の境地というものは、仏の境地に至らなければ本当の意味で理解できないものだから…(漢訳では「難解之法。唯仏与仏。乃能究尽」)」と言い出します。これじゃ、大乗(誰でも乗ることができる)じゃないじゃないか。と、心配していたら、「諸法実相」と言って「存在する事実が、すべてそのまま真実の相を現している」と答えを教えてくれる。そこで、あらゆる存在(現象)の外に現れている相(如是相)と、あらゆる存在の持っている性質(如是性)と、それらを体現している本体(如是体)、以下、いわゆる「十如是」と呼ばれる存在の本質について教えてくれるのが、法華経方便品第二のあらましであり、「如是本末究竟等」の句で終わる。

「方便」とは何か? よく諺で「嘘も方便」という時の「方便」と同じものだろうか? もちろん、元来は「嘘も方便」の方便も仏教の方便から来たことには違いないが、現在、一般にわれわれが使っている「方便」は、「目的を遂げるために用いる便宜の手段」という意味であるが、「方便」を現すサンスクリット語のupayaを辞書で引くと「近づくこと。目的に近づく方法」とある。密教の経典である『大日経』では、「三句の法門」において、「一切智々は何を因とし、何を根とし、如何究竟(くきょう)するか?」の問いに「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」と答えている。方便とは、智と悲の具体化であり、恵悲は方便において初めて現実となる。

ここでは、「方便」は、われわれの常識のように「正しい目的」を実行するための「(便宜上の)手段」というものではなくて、「目的よりも、手段こそ本質であり、ともかく前に進むことが大切だ」という発想の転換がなされている。そう、upaya(方便)とは「ともかく進んで(変化して)みる」ということなのだ。

ここまで書いてみて、気がついたことがあった。この「方便」という考え方は、「生命の進化(新化)」のプロセスと似ていないだろうか? かつてダーウィニズム全盛の頃は、「生物の進化に何か予め決められた方向性のようなものがあるのではないか(「適者生存」・「自然淘汰」)」といった考え方が主流であって、それが宗教(キリスト教)や社会学・政治学あるいはナチのような全体主義イデオロギーと結びついて、「万物の霊長である(支配する)人間」という考え方とか、「社会進化論(未開社会→部族国家→帝国主義→民主主義→社会主義)」や「宗教進化論(アニミズム→多神教→一神教)」や「民族の自然淘汰」などという「種々の進化論」を世間に排出したが、これらの根本である自然科学におけるダーウィニズムそのものが、DNA発見以後、急激に発展した分子生物学やR.ドーキンスの「利己的遺伝子」の考え方等によって、完全に払拭されたにもかかわらず、(社会科学の)世界では、未だに大手を振っているのは嘆かわしいかぎりである。

最新の生物学の世界は、「遺伝子というものは、ともかく変化(新化)すること自体を目的としているシステムだ」という考え方に収斂しつつある。30億年前の単細胞生物に始まる地球上の生命の「進化」の歴史は、それこそ、種々の因縁によって、一方で、ヒトのような種を生み出したが、他にも昆虫やアメーバなど無数の種を生み出しただけなのだ。この「新化」という考え方によれば、ヒトも昆虫もアメーバも、最初の単細胞生物から30億年かけて同じだけ変化した種ということになり、価値の上での差はないことになる。たまたま進化の方向が違っただけである。法華経のいう「方便」すなわち、「ともかく進む」という世界を体現しただけのことである。その意味で、「山川草木悉皆成仏」という言葉の持つ生物学的(生命誌)な深みを噛みしめながら今回のエッセイを閉じたい。


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