レルネット主幹 三宅善信 先日、京大大学院博士課程の永原順子さんが『「もの」随想』と題する投稿論文をレルネットHPに寄せてくれた。実は、私も以前からこのテーマについて考えていた。というよりも、基本的に「日本文化の深層にはアニミズム的な世界がある」と考えているので、昨年夏に大ヒットしたアニメ映画『もののけ姫』には、少なからず期待をしていたひとりでもある。私も「ものおじ」せずに、見解を述べたい。蛇足ながら、動画を意味するアニメーション(animation)のアニメ(anima)はもちろん、動物を意味するアニマル(animal)も、アニミズム(animism)のanimaと同じ語源(生命的に活動する)という意味であることはいうまでもない。 次に、もののけの「け」についてであるが、こちらも、随分以前から関心を抱いており、ハーバードの世界宗教研究所(Center for the Study of World Religions)にいた時に、『Ke-energy and Matsuri』について発表したことがあるほどだ。口頭での発表であったので、文書では記録が残っていないが、概略は以下のようであったと記憶している。 現在の日本で「気(氣=き)」と呼ばれている概念は、古代には氣(け=ご飯を炊いた時に立ち上る蒸気を表象している)と呼ばれた。神道の基本概念のひとつである「けがれ」とは、人間の外部にある罪が人間に漂着した状態である「汚れ」という意味ではなく、人間の内的活力の元である「氣(エネルギー)が枯渇した状態=気枯れ」のことである。この「けがれ」た状態から、人間を元の活き活きした状態の戻すための行事が「ハレの祭り」であり、その時に着る服が「晴れ着」である。祭りに先立つ「物忌み」期間は、低下した生命エネルギーの充填期間である。「祭り」を通して、新たな生命が人間に与えられる。「氣」の概念は、映画『Star Wars』における「Force」に似ている。というような、主旨であった。 永原さんが指摘したように、「もののけ」を退治するのが「もののふ=武士」であり、「もののけ」について詳しい祈祷師や修験者が「ものしり」であったという推察は、おそらく当を得ているだろう。事実、律令時代から平安時代にかけて盛んに恐れられた「もののけ」は、武士が台頭してきた中世以後は、次々と退治されて(源頼光の「鬼」退治等)ゆき、「気」ということばの発音も「け」から「き」に変化して行き、遂には「数寄(すき)」に代表される洗練されたイメージへと転換されてゆく。まさに、カオスからコスモスへの転換である。 日本文学の独特のスタイルである「ものがたり」もまた、この「モノ」を語ろうとしたものである。パッと思い立つものだけでも、『竹取物語』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『今昔物語』・『平家物語』…実に、日本には素晴らしい「ものがたり」の伝統があるではないか。しかし、よく考えてみると、これらの物語のテーマはいったい何んだろうか?竹取物語はかぐや姫のお伽話。伊勢物語はプレイボーイ在原業平の都落ちの話。源氏物語は稀代の貴公子光源氏の恋愛話。今昔物語は仏教説話。平家物語は諸行無常。と、一応、学校では習ってきた。しかし、これらの「ものがたり」には、学校で教えてくれた表面上のストーリーの奥底にもっと「おどろおどろしい」世界が広がっているような気がする。 例えば、『竹取物語』。怪獣からUFOまで登場するこの物語の舞台設定はいつ、どこの時代の話なのだろうか?「かぐや姫」に振られる登場人物たち(右大臣あべのみむらじ、中納言いそのかみまろたり)から類推して、律令体制成立期の「持統・文武朝」が想定される。帝以下、次々と貴公子たちがかぐや姫から袖にされるストーリーの意味するものは何なのか?また、藤原氏全盛時代に藤原道長を擬して作られたという『源氏物語』の主人公、光源氏の正体はいったい誰なのか?「恋愛小説」と言われながら、源氏の君の容姿についての描写がないのは何故なのか?この物語のキーパーソンともいえる六条御息所の祟りによって、源氏の君縁の女性たちが次々と死んだり、病気になったりするのは何故なのか?このように、見て行けば、日本の物語は、「おどろおどろしい」話でいっぱいだ。文字通り「モノ」がたりなのである。 蘇我氏による仏教導入以前に、大和朝廷において勢力を誇っていた物部(もののべ)氏とは、いったいどいう部族の人たちだったのであろうか?何故、彼らは先進国(中国や朝鮮半島から技術移転に欠かせない)仏教導入を反対したのだろうか?仏教伝来以前に日本人が信じていた宗教とは、どんな宗教だったのであろうか?今日、われわれが「神道」と呼んで、「日本土着の宗教である」と思いこんでいる宗教は、実は、仏教や儒教が伝来したことによって、これらに対抗して(これらを意識して)作られた宗教であり、大陸からの影響を受ける前の「日本土着の宗教」とは、随分と趣が違っていたように思われる。その証拠に、日本全国に広範囲に点在する古墳では、どんな宗教儀礼が行われていたのか?あるいは、もっと昔の縄文時代の巨柱文化遺跡では、どのような儀礼が行われていたのか?想像もつくまい。 天皇家の先祖が大和盆地に侵入してクニ(朝鮮語で「国」を意味する語がナラ=奈良である)を建てる前から大和にいた先住民族たちが崇拝していた三輪山のカミである大物主(オオモノヌシ)とは、いったい誰なのだろうか?大物主を祀った物部氏の宗教儀礼の中心は、「魂振り」と「魂鎮め」であったと伝えられる。魂(タマ)を揺り動かすことによって、気(Ke-energy)を高めようとしたのではないか?大きなモノ=魂を持った主とは…。 儒教研究の第一人者である加地伸行氏によれば、魂魄(こんぱく)の「魂」という漢字は、「云」という偏(へん)と「鬼」という旁(つくり)に分解できる。「云」という字は、雲の下の部分と同じであり、「ふわふわと浮かんげいるもの」の形象を現す。「鬼」という字は、「オニ」ではなく、死(身)を現す「キ」と読む。死ぬことを「鬼籍に入る」という時の「鬼」である。したがって、死んだ後でも、魂は、そこら辺にふわふわと浮いているものである。「魄」の偏の「白」は白骨の白で、骨を現す。つまり、死ぬということは、魂と魄がバラバラになるということである。したがって、これらを元のひとつに合体させることができれば、死者を蘇らせることができる。それを行おうとしたのが「宗教としての儒教」である。と論じているが、そのような魂=モノ=アニマの存在を信じる世界観こそが、東北アジア(満州・朝鮮・日本等)に共通するアニミズム的な世界なのである。 これらの考察から導き出されることは、映画『もののけ姫』で描かれた、単なる環境保護と人間の性(さが)の世界よりも、遥かに広くて奥深い「モノ」の世界が潜んでいることに、当「主幹の主観」の読者の皆様も気付かれたことと思う。日本仏教の特色である「先祖供養」の世界も、実はこうした「モノの気」が充満するこの国土に、全く性質を異にする世界宗教である仏教が受容されたことによって生じた現象である。日本土着(いわゆる「神道」)の信仰であったアニミズム的「先祖崇拝」の概念を仏教的にアレンジし直したものが、日本仏教の「先祖供養」(もちろん「輪廻転生」を信じるインドにはこのような考え方はない)であり、これを堕落した「葬式仏教」として揶揄するのではなく、その鎮魂の精神は、積極的に評価されてしかるべきであると思う。 |
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